この頃はまだまだ非冷房の低運転台の6000系も活躍していました。この当時のネガは保存状態が悪く丹念にクリーニングした後にスキャナーをしてもゴミや傷の修正に手間がかかります。この写真も小さな傷を丹念にコピペして何とか見れる状態までに復元しました。 73,06,03 相鉄鶴ヶ峰−西谷 スキャナー : Nikon COOLSCAN WED
30年前の6月は梅雨の晴れ間に相模鉄道鶴ヶ峰−西谷間で相鉄旧塗装電車を撮影しています。この頃、相鉄は旅客輸送と共に西横浜−相模大塚間で米軍燃料輸送とセメント輸送も行っていました。セメント輸送は複数の取扱駅があった模様で、その一つが西横浜駅構内にあったセメントプラントだったようです。またそれ以外にもセメント輸送の取扱駅があったらしく相鉄本線のED型電機がセキを牽引して下っていく姿を横須賀線の車内から見た記憶があります。
この時、なぜ相鉄を訪れたかと言うと鶴ヶ峰のSカーブの木柱がまもなくコンクリートポールになると言う話を聞いて(確か浜川崎駅でED16を撮影していたときだと記憶しています。)出かけたのですが、実際には既にコンクリートポールになっていてガッカリした事を憶えています。
あれから40年。相模川のジャリ採取鉄道から発展して、横浜にとってなくてはならない通勤鉄道へと発展して行きました。私鉄総連の労働組合活動全盛期には相鉄は中小私鉄の統一ストライキではなく大手私鉄と同一日に決行され、労働組合もほとんど大手私鉄扱になっていたのを思い出します。そして未だ強固な団結力を誇る相鉄労組には、弱体化した労組組合に身を置くものとして憧れの存在です。
その相鉄現在、西谷駅の横浜よりから横浜羽沢への連絡線が建設中で、この連絡線が完成されれば連絡線を経由してJRへ直通運転が計画されています。この界隈をあと数年もすると品川行とか、大宮行の電車が走るのでしょうが、そんな状況をその当時、誰が想像したでしょうか?