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2015/3/2

“県立金沢文庫建設の経緯”や、金沢の一帯“金沢八景の今後 ”  

さまざまな仏教絵画あるが、わたしがいちばん興味深く調べているのが、密教の曼荼羅の絵画で、曼荼羅には様々な表現形態があるが、前衛芸術の分野では、この曼荼羅の世界観に魅力されて、その構図を用いた絵画を制作する芸術家もいる。県立金沢文庫で開催される資料展、展覧会では、この不思議な宇宙観の世界を表す曼荼羅の絵画を見たことが何度もある。県立金沢文庫が所蔵する国宝や文化財では、古い時代の絵画が多く存在し関東地方でも、最も多くの中世期の絵画が集まる。国宝に指定された北条(北條)実時、顕時、貞顕、貞将に至る四代と、その一族、また僧の顕弁の肖像画があり、金沢文庫に大切に保管されている。これら絵画はいずれも、絹の下地に彩色してあり、とても立派な肖像画であり、鎌倉時代に金沢山称名寺が最盛期だったころに描かれた代表的な作品群だ。注目を受けているのが肖像画であり、十七点に及ぶ作例は、日本の絵画史上ではとても貴重である。称名寺の境内は、時代が下るとともに荒廃していったが、明治期に伊藤博文が再興に取りかかった。明治30年・1897年伊藤博文の斡旋により、大宝院に〔金沢文庫〕が設立された。また
、明治20年・1887年に大橋佐平が出版社[博文館]を創設し、息子の大橋新太郎が発案した雑誌「日本大家論集」がヒットして大人気となり、その後も「太陽」など様々な雑誌で出版業界に新風を巻き起こした。博文館の経営が順風満帆に進んでゆき、新太郎は出版界から財政界へ活動の幅を広げてゆくと、渋沢栄一の信頼を得て、東京瓦斯(ガス)の取締役となった。それ以後、日本鋼管、日本郵船、第一生命など、五十以上の大企業経営に乗り出して、明治期からの財閥、軍閥企業の中心人物となり、東京市会議員、衆議院議員、貴族院議員の政治家としても財政界を盛り上げた。伊藤博文が、金沢の夏島や野島に別邸を建てて住み、そこで明治憲法の草案が考案された話は有名だ。新太郎もまた、風光明媚で名勝だった、金沢の海の街を気に入り、明治38年・1905年ごろ、称名寺の東側に位置した海岸尼寺(にじ)の跡地に別邸を建て、その後はこの別荘地に牡丹園をつくり、泥亀新田の開拓者一族の永島邸に植えられていた牡丹を移植した。牡丹園は、春の開花期には訪問者が増えて、大勢の観光客で賑わっていた。また新太郎は、東京と地域経済を結び付ける政治的活動も積極的にして、日本製鋼所が金沢に進出する際、金沢の景観保護をし、地元の人々を高い賃金で積極的に雇用するようにした。
ちなみに伊藤博文は、明治憲法(大日本帝国憲法)を金沢八景の東屋旅亭や夏島で作り上げ、夏島、野島に別邸を持っていたほど、金沢の地を気に入っており、そして政治活動や軍事体制の重要拠点としていた。説明するまでもなく、伊藤博文は、明治政府の中心人物となり初代総理大臣の地位について、横浜の開港以降の日本の近代化を推し進め、明治憲法を制定して、天皇大権の立憲君主制を築いて、国内に西洋式軍制を整えた人だ。
幕末の横浜の開港で、横浜港が外国人の来航する文明開化中心港として発展すると、横浜付近の山手、本牧地域には山手公園などの洋式公園や、外国人専用の遊歩道のルートが本牧海岸に沿って造られ、沿道には休憩所や洋風娼家も建てられた。とくに港町は、昔から全国的に船乗りを対象にした娼家が建つ地域となっており、遊女が多くいたため、近代まで小港にはチャブ屋が存在した。豚屋火事の後に防災目的で造られた横浜公園は、開港当初は港崎遊郭が建てられた。こうして山手、本牧地域が外国人居留地として発展すると、その波紋は金沢地域まで伝わり、それまで海岸の漁村だった金沢の富岡には、明治政府の首脳陣や文芸家や、日本に聘招された外国人たちが別荘を次々に建て、政治的な会議も開かれた。富岡には、昔から社寺も多く、津波の波除け祈願の〔波除八幡〕では、源頼朝が民屋鎮護のため、また鎌倉幕府鎮護や、鬼門封じのために〔富岡八幡宮〕として創立された。徳川家康が江戸城に入って、天下普請の、江戸の街づくりを天海とともに開始すると、江戸城のたつ本丸台地の周りは七つの台地(上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金)があり、周辺が入り海が多く、何度となく高波に浚われ、埋め立て工事が難行したが、このときに富岡の波除八幡(現金沢区の富岡八幡宮)の分霊を江戸の埋め立て地に祀ると埋め立て工事が成功し、現在の江東区の、深川八幡宮のはじまりとなった。国道号16線沿いに持明院、宝珠院、悟心寺があり、鳥見塚のバス停を富岡総合公園側にゆくと、坂橋には旧横浜海軍航空隊の正門のあった、“元横浜海軍航空隊”と書かれた隊門がある。この辺りに昔は芋神様の石の鳥居が立ち、芋明神への信仰があり、疱瘡(ほうそう)除けの神として有名となり、東海道保土ヶ谷宿には‘富岡山芋大明神えの道’という道標も立てられたが、昭和11年頃横浜航空隊の開設により社地が接収され、芋明神本尊の、楊柳観音は長昌寺に安置されることとなった。
こうして伊藤博文の活動地、金沢の地は大正期、昭和期の軍事体制拠点となり、北側の横須賀には横須賀鎮守府が設置されて、明治期から横須賀製鉄所・造船所が幕府海軍、後に日本海軍基地として発展し、戦時体制で多くの軍艦を建造し、金沢地域も影響を受けて軍の統制下に置かれ、軍需工場、海軍工廠、海軍飛行場などが立ち並ぶ広大な軍事基地となった。大川を中心部にして海軍航空技術廠支廠が建てられ、また富岡には、現在の富岡総合公園一帯に横浜海軍航空隊が結成されて基地となった。金沢の隣接、横須賀市追浜の夏島は周りが削り取られて、周辺部、つまり平潟湾の入り口一帯が広大に埋め立てられて滑走路となり、追浜航空隊が基地として使い、軍用飛行機の飛び交う軍港と化した。
金沢の地は、中世期には鎌倉幕府の都市の一部分として六浦湊(六浦津)が、鎌倉の海の玄関口として発展して、瀬戸内海と呼ばれる入り海が広がる地形も名勝として人気だった。金沢から鎌倉に続いた鎌倉道は、白山道と六浦道であり、どちらも金沢の海の塩田でとれた‘塩の道’となり鎌倉に塩が年貢として納められた。また中国大陸の宋、元からは、文化や仏教が‘海の道’のルート{中国の寧波市や朝鮮半島の木浦市から、九州の博多、関門海峡、瀬戸内海、大坂の淀川の河口、伊勢市の大湊、浦賀水道}で江戸湾、浦賀水道に運ばれ、六浦湊から六浦道、朝比奈(朝夷奈)切通し、十二所を通って鎌倉に物資が運ばれたり、仏教が伝来した。金沢流北条氏により瀬戸橋が架けられ、金沢と六浦湊の行き来がスムーズとなることで、武家文庫の金沢文庫・称名寺に、たくさんの中国文化、仏教が伝えられた。瀬戸橋が造成される以前は、称名寺周辺、金沢郷の村の人々は白山道を通って朝比奈峠を越えて鎌倉にいった。しかし、金沢北条氏が鎌倉初期に朝比奈切り通しを開削してつくることで、また、瀬戸橋をつくることで、金沢村や六浦湊の人々は、六浦道を通って、朝比奈切通しを通り、十二所、鎌倉方面へと、近道で歩いていけるようになった。六浦道は、現在の環状4号線・原宿六ツ浦線の道路上であり、国道16号線の途上の六浦橋を西側に入った道である。原宿六浦線は戸塚の原宿方面へ続いており、朝比奈インターが途中に接続する。鎌倉時代から重要な交通路として活用された六浦道(金沢道、鎌倉道)は、この環状4号線・原宿六浦線の六浦橋から朝比奈インター辺りまで現在もあり、大道を通って朝比奈インター手前の山道をゆくと朝比奈切通しがあり、さらに山道をゆき十二所を通って現在も鎌倉に至ることができる。
鎌倉幕府が幕を閉じると、しばらくは穏やかな港町となったが、江戸時代に、金沢の海は、〈金沢八景〉の名勝地として浮世絵、漢詩、和歌などの芸術の題材となり、近江八景とともに、〈金沢八景〉の知名度は高まりを見せて、鎌倉や江ノ島と同地域の観光地、[三勝巡り]の参詣ルートとなり、東海道から多くの江戸庶民などが集っていた。現在の、海の公園の一帯は〔乙艫海岸〕といわれ、〈金沢八景〉の“乙艫帰帆”として詩や浮世絵が描かれた。東海道は江戸時代に五街道として整備されたが、東海道沿いの観光地や寺社参拝としても鎌倉が栄え、鎌倉から金沢へは、白山道や六浦道という鎌倉道(鎌倉に続く道)を通って観光客がやってきた。景勝地〈金沢八景〉を楽しんだ人々は、金沢の点在する寺社参拝をして過ごしたのち、谷津から山の上に登ってゆき途中の能見堂に立ち寄り、茶屋で休憩したり、能見堂から金沢の二つの入江、つまり‘ひょうたん型’の入り海や、周辺島々の絶景を眺めたのだ。〈金沢八景〉のうちのひとつ、“洲崎晴嵐”は、元々は鎌倉時代には、中国流のまま“山市晴嵐”として詠われ、「鎌倉物語」には{山市晴嵐、峠をいふ}という詩が書かれている。つまり江戸時代はじめごろまでは、中国の《瀟湘八景》の八つの名称をそのまま使って、それらを詩、歌に詠み、また景色を楽しんでいた。「鎌倉物語」には、こうして“山市晴嵐”の歌として{山市晴嵐、峠をいふ}という題を載せて、『松高き里より上の峰はれて嵐にしづむ山もとのくも』という歌が書かれた。この峠村は、現在の朝比奈町の古名だ。つまり、鎌倉の山々から朝比奈峠を通って山道を下ってくると、目の下には金沢の入り海が見下ろせて、辺りの長閑なこの村落の様子が、“山市晴嵐”として当初は詠われた。しかし金沢八景が、能見堂からの眺めを中心とする時代になると、場所が変わり、洲崎付近の辺りを示す歌となった。〈金沢八景〉の発案者ともなった、中国からきた心越禅師は、能見堂から見た金沢の入り海の景色を、故郷の中国の名勝地《瀟湘八景》になぞらえて、八つの名勝地〈金沢八景〉として漢詩を詠み、その中で“洲崎晴嵐”も詠った。観光客や旅人、あるいは参詣講が能見堂で金沢の景勝を鑑賞すると、そこから続く保土ヶ谷道・金沢道という山道を通って、氷取沢、栗木、笹下、弘明寺、南太田、保土ヶ谷宿、東海道のルートで旅人、ひとびとは江戸に帰った。
大正12年・1923年関東大震災で金沢は甚大な被害となり、金沢文庫も倒壊してしまった。金沢文庫の再建計画が持ち上がり、昭和3年・1928年に神奈川県知事の池田宏は、新太郎に五万円の寄付の依頼をした。現在の金額で約五億円相当だった。新太郎は、神奈川県が永久に維持し大切に保存することを条件に快諾し、昭和5年・1930年に県主催の御大典記念事業の一環として近代的な金沢文庫が県の経営する建物として建ち、昭和30年・1955年図書館の金沢文庫として開設され、平成2年・1990年新築されて再出発した。金沢文庫が建った、昭和5年の4月には京浜急行電鉄(前身は湘南鉄道)が開通して、金沢文庫駅が称名寺の最寄り駅ともなった。
新太郎は須磨子夫人と仏教の信仰が厚く、関東大震災などで荒廃していた称名寺・金沢文庫の本堂や鐘楼を復興する事業にも取り組んで、寄進、尽力した。昭和10年・1935年に称名寺創立者の、北条実時の六百六十年忌を記念し、称名寺の境内の金沢山などの、三山に世観音菩薩を百体配置して参詣コースをつくり、金沢山山頂には八角堂を設置した。この北条実時公六百六十年忌供養百観音開眼式には、大勢の市民が集まり、八角堂の落慶式が執り行われ以降、百体の観音すべてを巡拝すると御利益があるとされ、当時は観光地として知られたが、現在のハイキングコースは、土地の人々の散歩道として日常に溶け込んだ。
しかし振り返ると山あり谷ありの歴史があった。金沢文庫は鎌倉時代に最盛期を迎え、後醍醐天皇は称名寺を勅願寺とし、また足利氏や小田原北条氏も寺領を安堵し、江戸時代の徳川氏も百石の寺領を寄進していたが、以後は寺運が回復せず、大正11年・1922年境内の地が国の史跡に指定されるが、翌大正12・1923年関東大震災による被災で荒廃が加速してゆき、わずかに昔の面影が忍ばれるのみとなった。現在の〔金沢文庫〕は、こうして大橋新太郎の貢献、腕力で建てられた。昭和47年・1972年に境内背後の金沢山の山岳地域も含めて国の史跡として、追加指定を受けた。そして昭和54年・1979年から境内の復元工事が開始された。また浄土式庭園は、横浜市による発掘調査が昭和53年・1978年から昭和59年・1984年におこなわれて、庭園築造の技術が明らかとなり、昭和59年・1984年から庭園築造工事が開始され昭和62年・1987年完成した。
現在の金沢文庫周辺は静かな住宅街となったが、開発地域は今は金沢八景駅周辺に集中されており、駅の西側には権現山の緑が豊かだが、将来的に一部分が(仮称)金沢八景西公園となる計画が進んでおり、上行寺の東やぐらの遺跡はレプリカ保存されている。外交の港町と栄え、入り海が名勝となっていた〈金沢八景〉の自然や歴史の景観を損ないたくない。






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