2020/8/15

シセ  
まず前回分のコメント欄には、晃氏の短文がある。これが短すぎて伝わらない。もう少し丁寧な説明が必要だろう。

すると前々回分に、大沢氏からコメントが寄せられた。これは逆に懇切丁寧であり、頭が下がる。

いくら浅井会長でも、誰も何も言わない表現を創造しないでしょうから・・・

わたくしも大沢氏同様、以前は浅井先生の口から、月のごとくなる光り物、というフレーズをよく耳にしていた記憶がある。それがいつの間にか、ツキノゴトクヒカリタルモノ、と変化した。イヤらしい見方をすれば、あるいはずっと勘違いしていたものをこっそり修正した、というのが真相かもしれない。

前々回分には元顕正会員の方からのコメントも寄せられている。

そもそも誓願とは自ら誓いを立てて祈願するものだから誓願を低くするのは懈怠である。こう言うと会員は「先生は我々の事を思って...」とか言ってきそうだが、それはある意味そうだろうと思う。顕正会は浅井家の収入源だから会員離れによる衰退は絶対に避けたいところだから。
又、浅井会長にとっては道楽のようなものでもあるから誓願未達なんて格好悪い事は望んでなく、誓願達成して総幹部会で良い顔しながら喋りたいのだろう。


現在のお立場がどうなっているか知らないが、当然ながら遠慮会釈のない厳しい指摘である。

さて、ここからはいつもの作業である。今日は顕正新聞第1513号を取り上げる。

末期症状の安倍政権 観察

法務部長・藤村雄大氏の記事である。当該号はこれが第一面を飾っている。浅井先生ではなく、浅井総男子部長でもない人が、こうしてトップ記事を任されるのは異例のことだが、わたくしの個人的な感想としては悪くないと思う。いつまでも浅井家の個人商店ではいけない。

記事の内容には特に触れない。まさかいつまでも安倍政権が続くわけでもあるまいし、問題は次の政権である。直近では立民と国民との合流が話題となっているが、さすがに政権奪取の機運が高まるまでには至っていない。

六月度総幹部会において・・・

二面には四人の幹部が記事を書いているわけだが、いずれにも上掲のような文言が入っている。実におかしな話である。

なぜならば六月度総幹部会の報道は翌号だからである。

新聞報道は時系列が大事である。倒置法を用いる必要はまったくない。それなりの事情があるにせよ、いかがなものかと思うところである。

まるで解散処分の直前に、大聖人様が諸天に申し付けられるその御声すら聞こえてくるようで・・・

女子部第二総部長の発言は意味不明である。

これら浅智にして無道心の畜生が「止施」の御意を現身に味わう時も遠からず・・・

これも同一人物の発言であるが、言っている意味はよくわかるものの、現実的なシナリオとしてはどのような状況を想定しているのか、そこが気になるところである。

例えば法華講員が挙って顕正会へ移籍する。これが事実となれば相当だろう。しかし、現実はどうだろうか? 逆に顕正会から法華講へ移籍する人たちもいるわけで、その差し引きがどうなっているのか知らないが、公平に見ればドッコイドッコイのはずだろうから、なかなか難しい話だと思う。

また、イヤミながらもこの人は職業幹部なので、僧侶たちが干上がれば相対的に自分たちが潤う、という手前ミソの話をしているだけのことなのかもしれない。

久遠元初以来の国家的大変動が起こるこの時に・・・

これも問題かもしれない。

文証として残っているかどうかはご容赦いただくとして、浅井先生はかつて池田大作氏の発言を痛烈に批判していた。こんな感じだ。久遠元初以来の壮挙? これでは大聖人の御在世をすっ飛ばしてしまって、まるで大聖人よりも自分のほうが偉いみたいじゃないか?

第二総部長ばかりを目の敵にするつもりはないのだが、もう一つだけ紹介しておこう。

大聖人様から諸天以上の御叱りをも蒙る・・・

もちろん前後の文章を踏まえて読めば言いたいことはわかるのだが、それにしてもどうかと思うところである。

寄生虫 破折論文

三面から四面の四分の一ほどを法務部次長・教学委員の肩書きで、菅原克仁氏が健筆をふるっている。

宗門僧俗の中には、大草が「代人」として対決に応じることを期待していた者も少なからずいたことであろう。

細かい話は抜きにして、わたくしが興味を持った部分を拾わせてもらうと、まずは上掲が気になるところである。

平成十七年、浅井先生は日顕上人に対決を申し入れた。先生はこの時、日顕上人でなくてもいい、誰でもいいから決着をつけよう、と迫った。ところが宗門側は対面法論ではなく、邪義破折班が書面で応じた。

改めて上掲を読むと、ずいぶん大草氏も出世したものだなあ、と思う。いや、正確には違うのだろう。顕正会側が勝手に祀り上げているのだ。そして大草氏が出てこなかったことを敵前逃亡だと言いたいのである。

わたくしの感覚では、日顕上人の代理を大草氏が務めるのはおかしな話である。筋から言えば、僧侶の中から然るべき人物を選んで代理に立てることになるのだと思う。実際、対面法論ではなかったものの、邪義破折班が書面で応じている。実質的に彼らが日顕上人の代理を務めたわけである。

そこで問題は次である。

 ちなみに、大草は、昨年十二月末、浅井先生との法論を要求する書面を顕正会本部に送りつけるというパフォーマンスを臆面もなく行った。そこで、本年一月、顕正会教学部は、分を弁えない大草の愚行を窘めつつ、教学部が法論の相手をする旨を回答したところ、大草は黙り込んでしまった。とんだ「お笑い草」である。

事実関係が気になるところである。

 往々にして害虫というのは、殺虫剤を浴びてから命終するまでの僅かな間、断末魔の苦しみゆえに人間が想像し得ない動きをするものである。

キョウレツな文章である。

 大草一党には人間らしく、また、早瀬管長の手によって直々に追放されるのを待つのではなく、自らの判断で速やかに宗門から出て行くことを促したい。

大きなお世話だろう。

イヤミを言えば、遥か昔に細井管長の手によって直々に追放されたグループの末裔が何をぬかすか、ということになりそうだ。

2020/8/6

コウジュンカン  
ヅラ系氏からコメントをたまわった。おそらくは同一人物と思われるが、氏は拙ブログの初期によくコメントを下さっていた人である。その後、まったくコメントは残されなくなったものの、どうやら覗きには来られていたようである。

関快道の敗北を誤魔化す「慧妙」の
悪足掻きを粉砕す


今日もいつものごとく顕正新聞から話題を拾って行く。法務部次長・教学委員の肩書きを持つ菅原克仁氏による破折論文である。はっきり言って、面倒臭くて読む気がしない。そこで結論部分だけを紹介して簡単に済ませてしまおう。

 ここに「慧妙」令和二年二月一日号に掲載された関の痴文に端を発する今般の法論が、「顕正会の勝利・宗門僧俗の敗北」という形で完全決着したことを宣言する。

・・・だそうである。

次は第二十婦人部長(中国)の記事である。

大石寺にはツアーで一度行ったが・・・

宗門に二十年、いた人の話らしい。これが事実ならば登山の強要はウソとなる。

第二十二婦人部長(福島)の記事には次のようなくだりがある。

・・・先生の諫暁に、直ちに感応した諸天の働きとひれ伏し、

安倍政権についてである。しかし、何度も言っているように、これはかなりインチキな話である。何しろ浅井先生はずっと前から安倍政権の崩壊を云々していたのである。ぜんぜんタダチニではない。

大石寺の御開扉が六月三十日まで休止となっていると法華講員から聞き・・・

第十七婦人部長(静岡・山梨)の記事である。しかし、ご存知のように、むしろ七月以降のほうが感染が拡大している。この休止は延長されたのだろうか?

「どうせおカネがかかるんでしょう?」と聞くと、店長から「うちは高いよ!!」(笑)と言われた・・・

これは男子部第十八隊班長(首都圏)の記事であるが、引用範囲が不適切であることをお断わりしておきたい。店長云々は忘れてもらって、法華講員が信心を勧めているシーンを思い浮かべればいい。するとどうだろう、いかにも顕正会が安いみたいなイメージを懐かせる話に思えてくるはずなのである。しかし、それにしてもである。うちは高いよ、などと言うものなのかどうか、そこが気になるところではある。

ただ逆に言うと、顕正会よりも遥かに良心的なのかもしれない。

最初にハードルを高くしておくことが、である。顕正会の場合はハードルを低くする。お金は掛からないと。しかし、現実には単なる金銭的な負担では済まないほどの過酷な活動が待っている。また、今はどうだか知らないが、かつては顕正新聞の多重購読の問題があった。つまり、金銭的にも相当に負担があるのだ。だったら最初にそれを言うべきだろう。それを言わないのは一種の詐欺に等しい。このように考えると、上掲のやり取りがいかに良心的であるかが、わかるのではないかと思う。

ともかくお金の話は難しい。

高級品であれば高くて当然である。安いとすれば何かしらの欠陥があるのだろう。これが直ちに宗教に結びつく話なのかどうかは微妙であるが、いわゆるサービス産業の範疇で考えても同じことが言えるだろう。高い店はそれだけの自信があるから高いのだ。安くするのは自信がないからである。

しかし、まったく同じ商品ないし同じサービスであれば、安いほうを選ぶのが消費者としては自然な心理である。ましてや暴利を貪っていると思えるようなところは敬遠するのが普通だろう。ゆえに僧侶には少欲知足が求められるわけだ。

いずれにしても顕正会にも職業幹部がいる。いわば僧侶と同じような立場の人たちが一定数はいるわけである。当然、彼らの生活を維持する必要がある。ぶっちゃけ、それなりの報酬がないと誰もやらないだろう。しかし、それが驚くほどの高給取りだとすればマズイことになる。いや、逆に誰もがそれを目指して頑張るという好循環を生むのだろうか?

まとまりのない話になってしまったようである。

2020/7/29

キュウシ  
今日は顕正新聞第1512号を見て行くつもりだが、その前にちょっと触れておきたいことがある。

暫くの間休止させて頂きます。

幻の総支隊長氏のブログである。二十三日付の記事にはご覧のタイトルがあって、本文が書きこまれる部分にはナゾの画像が貼り付けてある。しかもコメント欄には次のような文言がある。

コメント一覧 (1)
2. 幻 2020年07月23日 20:12
すみません・・

コメントもです。


つまり、コメント欄への投稿も休止らしいのである。

ブログそのものは残されているのでいずれは再開するのかもしれないが、しかし、なぜに休止したのかが不明である。もっとも今までにも休止ないし事実上の終了に等しいようなブログがたくさんあったし、それがどのような事情にせよ、しょせんは個人ブログなので不思議なことではないのかもしれない。むしろいつまでもダラダラと続いている拙ブログが異常なのだろう。

さて、本題である。

三百万を急がれる浅井先生にお応えしてまいろうではありませんか。

総男子部長の五月度班長会での発言である。

このフレーズは今や定番となっていて、全記事中の出現率がベラボウに高い。多少の表現の違いがあっても、言っていることはほぼ同じなのである。ともかく三百万をキーワードにして調べれば、五十パーセントは軽く超えるだろう。

ところが周知のように、具体的な期限は示されていない。

いや、もう無理なのだ。今さら期限を切っても真面目な会員たちを苦しめるだけだし、ましてや達成できなければ絶望感しか残らない。何しろこれまでにも未達成の黒歴史を重ねてきたわけで、もうこれ以上は繰り返せない。そうした過去の実績がバレバレだからだ。活動会員たちだって、知らないわけではないのである。

いずれにしてもである。この三百万というフレーズも、おそらくは賞味期限があるはずなのだ。

結局のところ、しょせんは顕正会もウソにウソを塗り重ねてきたようなものである。まさかこのまま誤魔化し切れることはないはずなので、どこかで破綻することになるだろう。そこで問われるのは、正直にそれを言えるのかどうかである。浅井先生は言えない。たぶん言えないだろう。ゆえに誰かが尻拭いをしないといけない。必然的に総男子部長がそれをしなければならないはずだが、はたしての彼にその覚悟があるのか心配である。

「月のごとくなる光り物」

男子部第六総部長(首都圏・沖縄)の記事にはご覧のように書かれている。カギカッコは引用文を意味するはずだが、これは何の引用だろうか?

「芙蓉農園」で今年も田植え!!

これは気持ちのいい記事である。最近の顕正新聞はこの手の記事が少なくていけない。

今年も地元婦人部有志の協力を得て・・・

余計なお世話とは承知しつつも、無償の奉仕なのか否か、そこが気になるところである。顕正会の活動は基本的には無償の奉仕である。大幹部になるとちょっと事情が異なるらしいのだが、何しろわたくしにはその経験がないのでよくは知らないのだ。ともかく農作業は重労働であるからして、それ相応の対価が支払われてもおかしくない。いや、そうじゃなきゃ誰もやらないだろう。

さて三面に目を転ずると、女子部の記事が載っている。班長会特集の時は二面が男子部で、三面四面が女子部婦人部である。男子部が最初であることは不動のようだが、女子部と婦人部は順番が逆の時もある。この辺の法則性がよくわからない。

阿部日顕の滅亡等・・・

総合女子部長の発言である。しかし、これは何度も言っているように、年齢的な意味からしてどうかと思うところである。おそらく現代感覚としては、八十歳以上がいちおうの目安のような気がする。事故死の場合はかなり印象が異なるものの、病死の場合はそれが何の病気であったとしてもそれほど違和感はないはずである。

次は第二十二女子部幹事(首都圏)の発言である。

先生がただお一人知り得る重大御法門・・・

このフレーズにあえて前置きをつけるとすれば、(顕正会の中では)ということになるのかもしれない。いや、もちろん、彼女の言わんとしていることはそうではないのだが、逆に宗門の人たちからすれば、何を言ってんの? ということになるだろう。

まあ、しかし、引用が前後するものの、この直前には次のような文言もあって、そこが悩ましいところではある。

いま正系門家がこの大事を忘れ・・・

重大御法門とは単なる知識的な意味ではなく、いわば信心の情熱みたいなものだと考えると、なんだかんだ顕正会員たちには凄まじい情熱がある。当然、その源泉は指導者に由来するのだろう。

さて、四面は婦人部である。

怖いなあと思って眺めていると、なんと今回は大師子吼が出てこない。これには驚いた。

新型コロナは毒性を増し・・・

総合婦人部長の発言であるが、五月末時点での見解として注目しておきたい。何しろ今は第二波に突入したとの見方がもっぱらであり、感染者数だけを見れば四月のピークを上回ってしまっている。ところが緊急事態宣言が出される様子はない。どうも現段階では感染者数に比して重症化する人が少ないので楽観的になっているフシがある。ようはコロナが弱毒化しているという見方なのである。まあ、しかし、予断を許さない状況であることに変わりはないだろう。ちなみに第二波云々は国内に限った話であり、世界的には第一波の真っ最中というのが現実である。ともかく深刻な状況なのだ。

 されば先生の「誓願は低く戦いは明るく雄大に」との深きご慈愛に・・・

これは副総合婦人部長だが、アゲアシ取りながらもダメだなあと思った。

なぜならば誓願=ノルマと言っているに等しいからである。仏弟子の誓願は崇高なのである。ゆえに誓願は低くという表現は仏弟子のそれではない。つまり、ノルマを低くしたので頑張ってね、みたいなヘンな話を世間にさらしていることに、彼女は気がついていないのである。

2020/7/27

トウミンチュウ  
このところの騒動については特に書くこともないだろう。こうしてブログを長くやっていると、少しくらいのことでは動じなくなる。そこで今日は顕正新聞の続きを取り上げるわけだが、ざっくばらんにやっていきたい。

 実際、宮崎県においてすら、宮崎市の繁華街の飲食店は四月時点で約一二〇店が廃業・・・

第二十七女子部長(九州)の記事である。あれから三ヶ月経つわけだが、では今現在の状況はどうなのか気になるところである。ご存知のごとく、一度は減少傾向だった感染状況もここ数週間で激変してしまい、単純な感染者数だけを見れば四月のピーク時を超えてしまっているのだ。今は重症化する人が少ない分、救われているものの、このまま拡大傾向が続けば自ずと重症患者も増えるし死亡者も増えるだろう。

 〇〇班長は、コロナに感染した俳優の石田純一が、沖縄を訪れてプレーしていたゴルフ場に、キャディとして勤務しておりましたが、石田純一がプレーしたその日、不思議にも班長は別のゴルフ場の担当になり、濃厚接触を免れたのです。

女子部第五十七区総班長(沖縄)の記事には、ご覧のような話が出てくる。顕正会は案外にこういうミーハーな話題が好きである。

この記事にはもう一つ注目すべき話が載っている。かなり長いので引用は控えるが、創価学会員が変死した、総班長は班長と共に通夜ないしその翌日にも訪問して家族を折伏した、すると決定し沖縄会館で入会勤行が行なわれた、というような話の流れである。ちょっと信じられない話に思えるのだが、いかがだろうか?

沖縄の風習がどうなっているか知らないが、普通に考えると通夜の翌日が告別式であり、火葬が行なわれる。創価学会員であれば所属の組織の人たちが親身になって面倒見てくれる。まさかその間隙を縫って入会勤行に連れ出したとはとうてい思えない。ところが本文には次のようなくだりがあるのだ。

学会員の弔問客もいる中に父子そろって決定し・・・

前後するが、次のくだりが不審である。

 班長は大衝撃の中、たまたま通夜に遭遇したことに不思議を感じ、その日の夜、私と共に弔問しました。

班長は最初、一人だった。その後、総班長と連絡を取ったのだろう。そして総班長を伴って再び訪れたことになる。

確かにあり得ることではある。

ようは亡くなっているとは知らずに普段着で訪問してしまったので、一度帰って礼服に着替えて再度弔問に訪れたと。

しかし、もしそれが事実だとすると先ほどの疑問に逆戻りするわけである。すなわち翌日にも訪問して家族を入会せしめたことである。翌日は告別式が行なわれているはずなのだ。いわゆる創価学会葬だとすれば大混乱を招きかねない。わたくしのほうに何か重大な錯誤があるのだろうか?

 班員が冬眠中の熊と遭遇、守られる

女子部第二十四区総班副長(新潟)の記事には、ご覧の見出しがある。この班員が凄いのだ。なんと九十六歳の男性なのである。記事には他にも八十代が二人、あるいは五十代など、いずれも男性と思しき人たちが出てくる。それをなんと、見たところ二十代の前半、ひょっとしたらまだ未成年かもしれないくらいの若い女性が、束ねているわけである。

ざっと眺めたところ、本文中には班員とは書かれていないようである。すると見出しは編集部が書いているはずなので、ようは本部公認なのだろう。女子部に九十六歳の男性が所属するという特殊な状況をである。

『絶対に香典を全部持っていかれるから気をつけないと』

婦人部浦和支区総班長(首都圏)は、組長の臨終について報告している。葬儀は儀礼室で執り行なわれたそうであるが、組長の家族は未活動ないし未入信の人たちばかりだったので、上掲のような悪口もあったようである。

わたくしはこれを読んで、創価学会においても同様のことが言われているなあ、と思った。これはネット上の情報ではなく、実際に今までの人生経験の中で何度も耳にしてきた話である。もちろん事の真相は創価学会員がいちばん詳しいわけだが、わたくしの想像では創価学会員は面倒見がいいのでそのような誤解が生まれるのだろうと睨んでいる。何しろ今は導師を創価学会の幹部が務めるのである。しかも近所の創価学会員があらゆる場面で手伝ってくれる。受付も創価学会員が取り仕切っていたりする。つまりはここから誤解が生ずるのだ。

とりわけ核家族化の進んだ今現在は、葬儀の手伝いをしてくれるようなご近所さんは少ない。もっともそれに伴って葬儀も形態が変わってきてはいるわけだが、ともかく今の平均的な人たちの感覚からすれば創価学会員の面倒見のよさは信じ難いことなのだろう。つまりはカネで動いていると。

同様の意味で顕正会の葬儀もそれに近づいているのだと思われる。次の女子部第三百十九区組長(千葉)の記事がそれを裏付けていると言えるだろう。

 支区長補の唱導で葬儀を執り行なう中・・・

儀礼室のメンバーではなく、通常の幹部が導師をやっている。もはや今のままだと、創価学会のそれと変わりがなくなってしまうだろう。

2020/7/22

バンカイフノウ  
今朝もダイアリー氏から質問が寄せられている。ウゾウムゾウ発言についてである。しかし、前回分のコメント欄にはそのような発言の痕跡が見当たらない。よく読んでみると、どうやら沖浦氏がどこか別のところで発言したものを、大沢氏が引っ張り出してきたようである。

結論を言おう。

今現在、拙ブログにコメントしている人たちは、そのほとんどが大馬鹿野郎である。つまり、沖浦氏がアホウであることは前々からわかっていたことだが、それ以外の人たちもアホウということである。

https://mao.5ch.net/test/read.cgi/muscle/1587826816/l50

ここにその話題が書かれている。

https://www.facebook.com/groups/822164341259374/

そしてどうやらこれが沖浦氏のフェイスブックらしい。

以前から大沢氏が沖浦氏のフェイスブックや関連のサイトなどをチェックしていることは承知していたし、その話題が拙ブログのコメント欄にも反映されていることは明らかだった。しかし、それはいわば大沢氏対沖浦氏の議論なので静観していた。ところがここに来て、ダイアリー氏がその話題をわたくしに振ってきたわけである。

いや、もちろん、わたくしなりの見解を述べることは可能である。

しかし、おかしな話である。文句があるのならばここで言うのではなく、向こうに出掛けて行って言えばいい。その結果を持ち帰ってわたくしに意見を求めるのならばまだしもと思う。

よく考えていただきたい。

拙ブログのコメント欄だけでも膨大な文章量である。ゆえに精密な議論をしたいのであればまずは拙ブログで論じられている問題をとことん突き詰めるべきだろう。なぜに別のところで話題になっていることを持ってくるのかである。それは勝ち目がないからと思われても仕方がないだろう。

沖浦氏はアホウである。今日もこれから教義上の話題を取り上げるが、その前にもう少し言っておこう。わたくしは沖浦氏との議論において、氏がかつて起こした不祥事について一度も触れたことがない。そう、これが直前に書いたことの結論である。勝ち目がないから相手の弱みに付け込む。本人にそのつもりがなくても、客観的にはそのように映っている。そこを自覚すべきなのである。ゆえにわたくしが沖浦氏をアホウと言う時は、そうした弱みに付け込むのではなく、誰が読んでもなるほどそうだと思えるような、しっかりとしたロジックに基づいて書いているつもりなのである。

さて、そこで本題である。

2020/7/19 19:26
投稿者:沖浦克治
>一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶
う可からざる事。

 ここもダメですね、学問未練で名聞名利が在家で
す。
 出家はそれでは困りますが、在家は社会で生活する
事が第一義。
 それを、そういう人は自分の末流にはいらない。
 選民主義と言って、仏法の基本から逸脱した思想で
す。
 在家のために仏法はあります。
 出家の務めは在家に使える事です。
 それがこのお方はひっくりかえっています。


いわゆる「>」は何かの返信の時に相手の文章をそのまま引用している意味で使われているのだと思われるが、まずはそこがナゾである。いったいどこから引っ張ってきたのだろうか?

それはともかくである。上掲を一読すると沖浦氏が大きな勘違いをしているであろうことがわかるのだ。少なくとも一定以上の教学力があればわかるし、他宗他門であってもあるいは一般人であっても多少の教養があればわかるはずである。

大衆はタイシュウではなくダイシュと読む。

現代国語における大衆は、一般大衆という表現に見られるごとく、いわずもがなである。ゆえに現代国語的には、在家の人々くらいの意味に相当するのかもしれない。しかし、日興上人の仰せはそれではなく、ダイシュのほうである。つまり、出家者のことを言っているのだ。

もはや話は終わっている。沖浦氏は日興上人を習い損ないのごとく言っているわけだが、むしろ沖浦氏のほうこそ習い損ないだろう。今後は慎むべきである。

 選民主義と言って、仏法の基本から逸脱した思想です。

終わっている話ではあるが、大事なところは重ねて書く必要がある。

いわゆる爾前経が不完全であることの理由は、一つには二乗作仏が説かれていないことである。ようするに二乗界の衆生は絶対に成仏できないというのが諸経の説くところである。ところが法華経では二乗も成仏できるとした。ようするにこれは沖浦氏が日頃から言っている、全員が一人残らず南無妙法蓮華経如来であるという意味に他ならない。つまり、法華経以前は選民思想的な要素を持っているがゆえに不完全なのであるが、法華経はしからず、ということになる。まさか日興上人がそんな基本中の基本をご存知ないはずがないのだ。

早い話が上掲は単なるイチャモンに過ぎない。

日興上人の仰せについて、あえて言葉を当てはめるならば、選民ではなく選抜だろう。優れた人材を抜擢登用するのは当たり前の話で、創価学会だってそうして発展してきたはずなのだ。逆に言うと、創価学会はいわば日興上人の教育システムを踏襲したとも言い換えられるわけで、おそらく創価学会員の中にもその通りであると答える人がたくさんいるに違いない。

以上、この件は沖浦氏が何をどのように言い訳しようとも、最初から間違ってしまっているのだから、もはや挽回不能である。素直に認めるべきと思う。

2020/7/18

ハヂシメ  
ダイアリー氏から質問が寄せられている。ようするに組織を離脱する時に誰かに相談したかどうかであるが、最終的には誰にも相談しなかった。これが答えである。途中で疑問に思うことが種々あって、先輩などに質問しては見たものの、満足できる答えは出てこなかった。例えば今ならば本尊の複製疑惑がある。おそらくそれを質問しても誰も答えられないだろう。これが顕正会のテイタラクなのである。ゆえにわたくしの場合は平成十六年の幹部大会を最後に、ダメだこりゃ、と思ってそのまま黙って去っていったわけである。当然、幹部に相談すれば何かしら言ってくるはずで、優しく引き留めるタイプもいれば、脅しに掛かるタイプもいるだろう。後者の場合、退転すれば無間地獄は免れない・・・みたいな感じである。そうした彼らの論法がわかっていたので、時間のムダでもあるし、丸め込まれてしまってもいけないので、黙って消えたわけである。

まあ、しかし、顕正会を離脱した人はそれこそ無数にいるわけで、別にわたくしだけが特殊な例ではない。ただし、こうして無所属の状態で研鑽を続けている人は、そう多くはいないのかもしれない。

さて、そこで今回は少しばかり研鑽の成果をご覧に入れたい。

沖浦氏が変調である。前回のコメント欄を眺めていてそう感じた。漠然とした印象ながら今まで書いてきたことと違うような気がするのである。もしかしたら改めて学び直しているのかもしれないし、あるいは大沢氏に追及されてやむを得ずネット上の情報をあちこちから拾い集めて文章を綴っているのかもしれない。まさに後者の場合、統一感がなくなる。それが変調の理由かもしれない。

 法華本門では直達正観の自行化他の南無妙法蓮華経は説かれません。

これが典型的な例で、この一文だけではまったくの意味不明である。

ゆえに大沢氏も次のように書いている。

何をおっしゃっているんですか?

さらに次のようにも書いている。

(そもそも、あなたのいう法華本門とは、文上を指しているのですか?)

大沢氏は紳士であり、真摯な対応を心掛けている。ようするに沖浦氏の言っているデタラメな言説を理解しようと努力している。

わたくしはそこまで親切ではないので、ここでは思いっきり辛辣に書くことになる。すでに書いたように、沖浦氏の言っていることはデタラメである。

なぜならば法華本門とは大聖人の仏法の意味に他ならない。よってそれを踏まえて書き直すと次のようになってしまうのだ。

 大聖人の仏法では直達正観の自行化他の南無妙法蓮華経は説かれません。

悪意丸出しに思えるかもしれない。しかし、これは沖浦氏の文章がデタラメだから、沖浦氏に責任があるのだ。

大聖人の仏法は三大秘法である。今日的にはわりと共通認識になっているが、大聖人の時代にはそのような呼び方はされていなかった。また、文底独一本門という言葉がある。これも大聖人の時代には、広くは使われていなかった言葉のはずである。

つまり、当時は単に法華本門だけで、それが大聖人の仏法を意味していたのである。

 愚かですね。
 権実相対の次が種脱相対です。
 ここが釈迦と大聖人の相対です。
 直達正観は種脱相対です。


大沢氏に対して、愚かであると決め付けている。もっともお互いさまであり、今となっては両者ともに少しくらい乱暴な言葉を使っても、まるで痛痒を感じないだろう。

それはともかく、権実相対の次が種脱相対とは驚きである。これまたデタラメの極みである。ようは本迹相対を抜かしてしまっているのだ。これでは教学試験で落第するだろう。

しかもわたくしが感じるのは、身延の題目にも功徳がある、というような主張を繰り返している人が種脱相対を持ち出すことのチグハグさである。この点、本人は気がついていないのかもしれない。

 法華本門では直達正観の自行化他の南無妙法蓮華経は説かれません。

再掲であるが、どれだけ読んでも意味不明である。後に種脱相対の話が出てくるので、やはり大沢氏の指摘通りここでの法華本門は文上なのかもしれないが、それにしても意味不明である。

おそらくはこの直前に佐前佐後の話をしているので、難しい言い回しをせずに説明すればそれで済んだのではないかと思う。すなわち、佐前の御書である一生成仏抄ですら甚深の御法門が説かれているのだ、と。

何しろ本迹相対をすっ飛ばしてしまう御仁である。ゆえに佐前を権実相対・佐後を種脱相対とするのが日蓮正宗の教義だと勝手に勘違いして、そのための反証をいろいろと思案した結果が上掲のようなデタラメな文章となったわけなのだろう。

いわゆる佐前佐後は御法門の大きな区切りとして認識されているが、細かい意味ではすべてが当てはまるわけではない。単純な話、佐後であっても権実相対は説かれているし、釈尊像の造立を肯定する御書すら存在するのだ。逆に沖浦氏の言わんとしていることもそれはその通りなのであって、佐前の御書であっても佐後に通ずる御書がたくさんある。その代表が安国論だろう。

其の書にくはしく申したれども愚人は知りがたし。

本尊問答抄において真言批判を展開あそばすくだりにおいて、立正安国論に詳しく書いたが愚者にはわからない、と仰せられている。まさに佐前の御書が佐後にも通ずる代表例と言えるだろう。

ともかくである。沖浦氏の底意には、題目を一大秘法にしようとの魂胆がある。一生成仏抄の引用はまさにそこにあるわけで、大沢氏はそれを看破して権実相対を云々したに過ぎないのである。ところがそこから議論が泥沼化していくのだからウンザリするばかりである。

結論は上掲のごとく、愚人は知りがたし、なのである。

つまり、一生成仏抄には御本尊のことが説かれていないように見るが、それは愚者ゆえに御文の上っ面しか見えていないだけの話なのである。まさに沖浦氏がそれに当たるだろう。

最後に個人的な収穫を書いておきたい。

故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり。

恥しめ、にはルビが振ってあって、はずかしめ、と読ませている。平成新編も全集も同じだった。

ところがこれは、はぢしめ、と読むらしいのである。

唱法華題目抄には次の一文が存する。

自身をはぢしめてあるべき処に敢へて其の義なし。

平成新編には漢字ルビがあって、当該部分を書き直せば、自身を恥しめて云々、となる。

つまり、一生成仏抄のルビは間違っているのだ。

もっともこれは単に読み方の問題であって、教義上の大きな問題を孕んでいるわけではない。ゆえに大した発見でもないわけだが、それでもいちおうは御書を真面目に拝読していることが垣間見えるのではないかと思う。イヤミながらも横着してコピペだけで済ませている人は、なかなか気がつかないはずである。

2020/7/14

ヨイヨイ  
このところダイアリー氏の活躍が目覚ましい。そもそもダイアリー氏がどのような経緯で拙ブログに常駐(?)するようになったのか、わたくしはまったく記憶していないわけだが、それはともかく改めて基本的なことを書いておこう。

わたくしはかつて顕正会員だった。今も正式な脱会には至っていないが、すでに離脱してから相当の年月が経過している。具体的には平成十六年の秋以降、一度たりとも会館には行っていない。この年、顕正会は百万を達成し、一国諫暁を開始した。ところがである。これがあまりにも手応えのないことに、おそらくは浅井先生自身が落胆したのだろう。また同時に、今まで頑張ってきた活動会員たちも疑問を感じ始めたのだと思う。あれ? 今まで思い描いていたものとは違うのではあるまいか? 百万を契機に一気に加速度がついてくると、そのように信じていた人たちには、それが拍子抜けするくらいの反響のなさだった。これが浅井先生にとっては脅威だった。活動会員たちがやる気をなくしてしまえば顕正会は一気に崩壊する。そこで目先を変えたのだ。一国諫暁は文字通り、一国が相手である。それがこの年の八月に、突如として方針転換となる。なんと一国諫暁から宗門諫暁へ逆戻りしたのだ。

浅井先生の心中についてはわたくしの勝手な推測に過ぎないが、一国諫暁から宗門諫暁への逆戻りという客観的な事実は誰も否定できない。この必然性ないし必要性については何の説明もなかった。ゆえにわたくしは一国諫暁が失敗に終わったことを誤魔化すための手段だったのではないかと、そのように思わざるを得なかったのである。しかも日顕上人に対して阿部日顕という呼び捨てが始まったのもこの時からである。それ以前は阿部管長という節度のある表現で統一されていた。失礼ながら創価学会よりも遥かにマシだった。

ダイアリー氏の質問に答える意味では、わたくしは平成十一年四月まで時間を巻き戻すべきだと思っている。この時、いわゆる御相承の断絶が発表された。これが取り返しのつかない大失言で、おそらくは顕正会が迷走し出したのも、この時からなのだろう。

つまり、わたくし自身は平成十一年四月の段階で相当にヤバイと感じていて、それから数年の間にも疑問に感ずることがいくつかあり、最終的には平成十六年八月の幹部大会での会長講演をキッカケに離脱したということになる。

拙ブログの開始時期もおおむねその頃である。

そういうわけで主には顕正新聞の情報を拾っては、浅井先生の言っていることやっていることを批判したり、活動会員たちの非常識をあげつらったりと、気がつけば十五年ほど同じことを続けているわけである。

「立正安国」特集号

そこで今日も顕正新聞から話題を拾って行こう。第1511号は五月度総幹部会の記事で構成されているわけだが、ご覧のような名称が付されている。今回、浅井先生は六月と七月の二ヶ月で二万人の折伏をやろうと号令を掛けた。特に七月は立正安国論の月ということで、会長講演では安国論に相当に紙数を割き、結果として上掲のごとく謳ったわけなのだろう。

会長講演の前に一面に載る人事について書こう。相変わらず兼任が多い。

一例を挙げれば、男子部第七総部長は今回の人事で第四十男子部長兼第二隊長に任命されたそうである。もはやわけがわからない。

 このときの大疫病は、恐らく今の新型コロナウィルスのようなものと思われる・・・

さて、会長講演である。ヤブカラボウの引用で恐縮であるが、なぜそのように言えるのかが問題である。

 二〇年代に突入するや、突如、新型コロナウィルスが発生したのも、まさに諸天の働きですね。諸天の中でも「大日天子」すなわち太陽の働きによるものと、私は思っております。

根拠は何だろうか?

 まもなく新型コロナの第二波・第三波が引き金となって、世界大恐慌がこれから始まる。

当該講演は五月二十二日に行なわれたものである。ちょうど緊急事態宣言が解除になる直前であり、その意味では第二波・第三波の記述は先見の明があることになるだろう。この後、感染者数は減少傾向を続け、このまま終息に向かうと思われたが、ご存知のごとく、今月に入ってからは再び増加傾向に転じているのだ。

 この感染力の強大なることただ驚異です。

確かに通常のカゼやインフルエンザは冬場にピークを迎え、逆に夏場は減少するものである。これは誰もが経験的に知っていることであるが、コロナの場合はそれがまったく当てはまらない。ともかく現状の拡大傾向が第二波だとすると、これがいつまで続くか、そしてどれくらい拡大するか、予断を許さない状況と言えるだろう。

ただ、細かいことを言うと、世界大恐慌の引き金を云々する意味では、第二波・第三波はじゃっかん事実誤認の気味が感じられなくもないところである。

定義がいろいろあって、日本の場合は今が第二波かもしれないという話なのであって、世界的にはぜんぜん違うのである。ようするに世界全体で見ればまさに今が第一波の途上なのであって、その終息すらまったく見えていない状況なのだ。つまり、この状態が続けば間違いなく大恐慌に突入すると見るべきであり、すでに今現在だけでも相当のダメージであり、もはや第二波を待つ必要すらないとも言えるだろう。

失礼ながら浅井先生も凡夫である。

先ほども書いたように当該講演は五月二十二日である。国内においては自粛が功を奏したものか、当時はかなり落ち着いた状況だったので、浅井先生はその雰囲気のまま発言してしまったわけなのだろう。

 もし五年・六年と流罪が長引いたら、大聖人様の御化導に差し障りが生ずる。

これは何を根拠に言っているのだろうか?

わたくしが知りたいのは、これが浅井先生独自の見解なのか、それとも他に同様のことを言っている人がいるのか、である。

 いよいよ二〇年代こそ、広宣流布の決戦場であります。

これはもう、浅井先生独自の見解であり、他に誰も言っていないことである。

しかし、今すぐにダメというわけではないにしても、かなりアヤシイ発言になりつつあるのは事実だろう。

ご存知のごとく、今年はまさに二十年代の第一年目に相当する。浅井先生は上掲の発言を数年前から続けてきた。昨年まではまったく問題なかった。文章としては、である。ところが今年は二十年代に突入してしまったわけである。ごく単純に、昨年までと同じことを言っていたらおかしいだろう。

ただ先ほども書いたように、今すぐにダメというわけではない。

いよいよ二十年代こそ・・・

言語感覚として、これがいつまで通用するかである。例えば、いよいよ本年こそ、というフレーズがいつまで使えるかが問題である。わたくしの感覚では三月末くらいだろうか、あるいは年度初めの四月いっぱいをギリギリセーフとするべきか、という感じになる。それが九月だとか十月あたりになっても同じことを言っていたら相当におかしいだろう。

すでに過去の発言との整合性からすると、浅井先生の言っていることはおかしなことばかりなのだが、ここで問題にしているのは別の話である。つまり、単独で読んでもおかしな感じのする文章だとすると、もはやオシマイだとわたくしは言いたいのである。日本語能力が著しく欠如していることになるからだ。それではごく普通の常識人には通用しない。誰も入信しない。

いわゆる浅井先生のご見識を持ち上げたいのであれば、こうした文章の基本的なところから見直さないとダメだろう。

2020/7/11

シュイ  
類は友を呼ぶ、とはよく言ったものだと思う。まさに拙ブログに集っている面々がそれなのだ。わたくしは面倒臭い時は受け流すようにしているわけだが、今朝のコメントを拝見していると、なかなかそれでは気が済まない人もいるようである。しかもわたくしのそうした態度にも問題があるかのごとく書いているので、仕方がないから今日はこの話題をとことん書くことにする。

まず、面白いものをご覧に入れたい。

https://blog.goo.ne.jp/localfor/e/2a85101d68caeca34063548b26a824bc

たぶん拙ブログの愛読者ならばご存知だろう。問題はリンク先のコメント欄である。普通は本文に対する感想などを述べるものだと思う。ところが先方のコメント欄は本文とはまったく別の話題で盛り上がっている。事情を知らない人が読むと意味不明であるが、実は拙ブログのことを云々しているのである。

しかもである。

https://9207.teacup.com/wakataka/bbs/9307

これが驚きだった。今現在、リンク先の掲示板は閑古鳥が鳴いている。そんなところでコソコソと書いていても誰も読まないだろう。

わたくしは独白を看板にしていることもあって、他のブログや掲示板などはほとんどチェックしていない。しかし、ごく少数ながらもチェックしているところがある。ここで一つだけ紹介しておくと、旧名ユタ氏のブログである。実は失礼ながら彼の小説はほとんど読んでいない。主に読んでいるのはコメント欄である。つい先日書いたように、拙ブログのコメント欄はごく限られた少数の人しかコメントしない。実はユタ氏のブログも似たり寄ったりであり、投稿者はほとんど決まった人たちである。しかもコメントの内容は本文とは関係がない場合がほとんどで、そのうちの何割かは拙ブログの話題なのだ。変わった人たちである。

以上、拙ブログには変わった人たちが集まっているわけだが、拙ブログの周辺にも変わった人たちが集まっているようである。

さて、話を進めよう。

類は友を呼ぶの言葉通り、変わり者が集まっている。これは誰も否定できない事実だろう。では、その中心者は誰なのか、そこが問題である。当然、拙ブログに集まっているわけだから、拙者すなわちわたくしが中心なのだと考えられる。いや、そうではなく、沖浦氏が中心である。これも有力な説だと思う。

しかし、わたくしはどちらも違うと思っている。

例えば浅井先生のところには数千人ないし数万人の人たちが集まっている。しかし、類は友を呼ぶとは言わないだろう。カリスマ的な存在のところに集まってくる場合、そのカリスマは文字通り別格であり、類ではないのだ。もちろん友でもない。

話を戻して、拙ブログに集まっている人たちの中心は誰かと問われれば、わたくしは誰でもないと思っている。中心者など存在しないのだ。逆に言うと、全員が中心者なのである。

友だち関係を想像すればいい。

もちろん友だち関係であってもそこにリーダー的な存在がいる場合もある。ただ多くは全員がフィフティーフィフティーの関係にあって、あまり窮屈な思いをしない、緩い結びつきなのではないかと思う。

ここからは実生活の一端をさらけ出すことになるわけだが、わたくしにはそうしたコミュニティがない。言葉を換えれば友人がほとんどいない。これはウソイツワリのない事実なのである。そしてご存知のごとく、顕正会というコミュニティからも離脱してしまった。普通の人の場合、顕正会があまりにも特殊なコミュニティゆえに馴染めなかったというケースが多いのだろうけれども、わたくしの場合はまったく異なる。何しろ顕正会を離脱してからどこにも所属していないからである。無所属を標榜しているのもそのためである。

いわば社会不適応者なのだ。

大沢氏はこれを早くから見抜いていたわけなのだろう。氏は沖浦氏に対しても社会的不適応を指摘しているわけだが、実はわたくしの見立てでは沖浦氏は遥かにマシなのである。その比較対象はわたくしである。つまり、わたくしのほうが遥かに重症なのだ。これがわたくし自身の自己診断である。

話が脱線したかもしれない。

実生活では友だちがいない。どこにも所属するコミュニティがない。コメント投稿者の皆さんがそうだとは思わないが、少なくとも現時点でそこそこ居心地の良いウェブ上のコミュニティ、それが巌虎独白のコメント欄なのだろう。だから一日に数本、場合によっては十本以上もコメントを投稿するのだと考えられる。こういうことを書くと、だったらもう投稿しねえよ、というふうに離れていく人もいるかもしれない。わたくしはそれを承知しつつも、そうなったらそれで構わないと思っているし、事実としてそのような意味のことを何度も書いてきたわけである。つまり、今も投稿し続けている人は、すべてそれらのことを納得した上で投稿しているわけなのだ。

さて、そこで具体的な議論に入ると、沖浦氏のシュイ問題は氏の限界を示しているのだと思う。

簡単な話だ。御書はキッチリと引用するクセに、なぜに歴代会長の言葉はシュイなのか、ということを考えればいいのである。負け嫌いの沖浦氏はそれなりに御書を勉強してきたのだろう。ゆえに御書の引用頻度が高い。ただし、本人も認めているように、それはネット御書からのコピペなのだ。もちろんそれをダメだとは言わない。しかし、じゃっかんは手抜きの気味がある。
なぜならばわたくし自身はほぼすべて自分で打ち込んでいるからである。これはかなり前に下野正信氏が言っていたことを踏襲したのである。氏はなるべくコピペを使わず自分で打ち込むようにしていると語っていたのだ。ゆえに沖浦氏のそれは手抜きに思えるのである。
さて問題は歴代会長の言葉である。おそらくはデータ化されたものが存在しないのだろう。なぜ存在しないのか、一つには膨大過ぎてデータ化できないからであり、しょせん会長の言葉などは価値がないと創価学会首脳は思っているのが二つ目の理由であり、それに付随して宗門から矛盾を突かれるのがイヤだから、というようなことだと思われる。
確か池田会長全集というものがあって、通巻で百巻以上あった。今調べたら百五十巻あるらしい。もし沖浦氏が本気を出せば全巻通読することも可能なのだろうが、たぶんやらないだろう。あるいはやれないのかもしれない。

つまり、これが沖浦氏の限界なのだ。

理由は上述の中にある。御書で手抜きが身に付いてしまっているので、やりたくても無理なのだ。また、首脳部の本音と同様であって、しょせんは大して価値のあるものではないと沖浦氏も思っているのかもしれない。なおさらモチベーションが上がらないわけだ。

ともかく沖浦氏に対してはツッコミどころが満載なので、キリがないのである。ゆえにわたくしはある程度のところで終わりにして、次の話題に取り組むようにしているわけである。

以上、これで今現在のコメント投稿者たちが一斉にいなくなれば、それはそれでキレイサッパリして気持ちいいのだが、なかなか現実にはそうはならないようである。

2020/7/9

ケツジョウ  
ダイアリー氏に申し上げます。沖浦氏の件は決して容認ないし放置してきたわけではなく、再三再四にわたって注意勧告をしてきたという事実があります。

https://white.ap.teacup.com/ganko/2747.html

これが一例でして、ようするに言っても聞かないのです。早い話が沖浦氏はどうしようもないクソジジイなのですね。

ただ前回の拙稿で指摘した純円と順縁の例を見ればわかるように、沖浦氏は多少なりとも己の間違いを自覚しているわけですから、まったく理解力がないわけではないのです。その意味ではこちらが粘り強く説き伏せていくしかないのだと思います。もしそれが面倒臭いと思われるのであれば、議論に加わらなければいいだけの話です。実際、拙ブログのコメント欄はほぼ特定の決まった人たちしかおりませんので、ヘンなことを言うようですが、現時点で投稿している人たちはよほどの変わり者なのですね。

かく言うわたくし自身がいちばんの変人でして、だからこそ十年以上にわたってこのようなブログを継続することができたのだと思っております。個人ブログは続かない人が多いですからね。まあ、こんなところでご納得いただければ幸いです。

さて、顕正新聞の続きである。

 今や全世界を的とする総罰により・・・

婦人部第一総部長(東北)はご覧のごとく言うわけだが、ずいぶん迷惑な話である。大聖人に背き続けた結果としての総罰ならば、まずは日本がその中心とならなければおかしいだろう。この点を顕正会員たちはわかっているのだろうか?

女子部第十一区長(首都圏)は偉い。簡単に言うと、大聖人は大師子吼、浅井先生は師子吼、と区別している。最近は女子部がいちばんマトモである。

一天四海の広宣流布

男子部第百五十四隊長(近畿)の記事に驚いた。なぜならば一天四海は日蓮系全般で昔から使われてきた用語と思われるが、わたくしの記憶が正しければ顕正会の中ではまったく聞いたことがなかったからである。意味的には一閻浮提とほぼ同義なのだろうか? いずれにしても一般人には馴染みのない言葉であり、創価学会が好む世界広布みたいな表現のほうがわかりやすいのかもしれない。

「これこそウィルスによる中国の侵略ではないか!」

婦人部第十総部長(首都圏)の発言である。詳細に調べたわけではないが、ネット上には武漢風邪だとか武漢肺炎みたいな表現があって、わたくしの漠然とした印象では右翼系の人たちが好んで使っているような気がしてならない。しかし、前にも書いたはずだが、世界的に見るとアジア圏は感染者ないし死亡者が極端に少ないのである。ゆえにもし仮に発生源が中国武漢だとしても、日本はさほど侵略されなかったことになるわけで、むしろ欧米諸国のほうがベラボウにダメージが大きいのである。この点、顕正会員たちは認識が甘いようであるが、いかがだろうか?

ゴルフ場勤務で池田大作の傲慢見た!

婦人部高崎支区組長(群馬)の記事である。実はこれ、三月十六日の拙稿に出てくる話なのだ。あの時は支区部長の登壇記事だった。今回は本人が登壇している。

 私は東京のゴルフ場でキャディをしていたときに池田大作に付いたことがありましたが、何をしている人か知りませんでした。

ようするにずっと後になって顕正会に入って、そこで池田大作氏のことを知ったわけである。あの時のあの人物だと。しかし、ゴルフ場ではそれこそたくさんのお客さんを相手にしているわけだから、そんな昔の客のことを記憶しているのはおかしな話である。いや、逆に記憶に残るくらい物凄くイヤな客だったということなのだろうか?

それはともかく、わたくしは次のくだりがわからなかった。

 また、一人でプレーするお客さんはおカネになりません。

意味不明である。この部分はむしろ消してしまったほうがよかったのではないかと思う。

それからこれは誰に求めるわけでもないが、池田氏がそのゴルフ場に通っていた頻度がどれくらいか、ご存知の人がいれば教えていただきたいと思う。なぜならば浅井先生は人嫌いなのかどうか知らないが、ほとんど外部との交流がない。ところが池田氏は世界中の有名人と交流がある。実際に世界中を旅して、世界の識者たちと会っているし、当然ながら世界中の創価学会員と会ったりもしている。国内はいわずもがなである。つまり、池田氏がそう頻繁にゴルフ場に通っていたとは思えないのである。

 すると班員から突然電話があり、対象者がすでに決定しているとのことで、すぐさま入信勤行の運びとなりました。

最後は婦人部君津支区班長(千葉)の記事である。メインは夫の臨終についてなのだが、それは省略させていただく。たぶん上掲は顕正会関係者しか意味のわからない文章だと思う。

対象者がすでに決定・・・

対象者はタイショウシャだろう。決定はケツジョウと読むのだと思う。

ようするに班員が誰かを折伏したわけである。その相手を対象者と呼ぶのだ。そして決定だが、ようは折伏を受けた対象者が入信の意思を固めることをケツジョウと表現するのである。

顕正会特有の表現をどのように考えるべきなのか、ひじょうに難しいところである。もはや内部の人たちは感覚がマヒしてしまってわからないわけだが、わたくしはわりと敏感である。つまり、これら顕正会用語は、一般の人たちには単に意味不明なだけではなく、顕正会という宗教団体が物凄く異常に思えてしまう可能性を秘めているのだ。この点の自覚も必要だろう。

2020/7/8

アクウン  
今日は顕正新聞第1510号を読んでいくが、その前に沖浦氏のコメントで気になった点があるので触れておこう。

 少し御書を引用します。

 『在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。』
 (如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

 末法の始めとは現代の事です。
 純縁(順縁)なのです。


純円と順縁を混同しているのではあるまいか?

ましてや純縁などという世間でも使わない言葉を間に挟んで、いったい何を考えているのだろうかと思う。言いたいことは他にもあるが、ともかく純円=順縁の根拠を明示すべきだろう。それができなければ沖浦氏の所論はデタラメであることが確定する。

顕正会本部 東側道路沿いに正門開設
 第三青年会館も本部棟の東に建つ


さて、これが顕正新聞当該号のトップ記事である。完成予想図がデカデカと掲げられているが、実に壮観である。

 今回、産業道路側に東正門が新設されるが、その広々としたスペースには「富士大石寺顕正会本部」と大書された大標識タワーが聳え立ち・・・

とは言え、ご覧の文章を読むと思い半ばに過ぎるものがある。

たぶん過去の拙稿にもいろいろと書かれているはずであるが、今は記憶のままに書くことにする。もともと顕正会の本部は都内にあった。最初は文京区の音羽である。残念ながらわたくしはその時代を知らない。次に板橋区のときわ台に移った。たぶん音羽時代は単に本部と呼んでいたはずで、ようは浅井先生の自宅が拠点になっていた。ときわ台に移転した時、初めて本部会館が建った。しかし、その建物はもう存在しない。
最初の本部会館は今となっては驚くほど小さな建物だった。もしかしたら全国に建っている地方会館よりも小規模だったかもしれない。当然、顕正会が大きくなるにつれて新たな本部会館が求められた。そこで建てられたのが現在の東京会館である。
問題はここからである。今でこそ東京会館と呼称しているが、そこが顕正会の本部だったわけであり、もちろん組織が大きくなるにつれて手狭になってきたのは事実ではあるものの、そこからなぜに現在地に移転したのかがナゾなのである。これについては諸説があるようだが、わたくし自身はまったくわからない。
ともかくである。現在の本部会館は幹線道路から引っ込んだところにあって、決して好立地とは思えなかった。そして当時、幹線道路沿いには空きの物件があった。それを顕正会が借り受けた。いわゆる最初の青年会館である。しばらくして顕正会は大標識タワーを建てた。
ところがオーナーと何らかのトラブルがあったのだろう。賃貸契約が途中で破棄されることになった。賃貸の場合、契約終了の時には原状回復が必要となる。必然的に大標識タワーも撤去することとなった。

じゃっかん補足したい。

青年会館開設と同時に大標識タワーが建てられたわけではない。数年後、顕正会は百万を達成した。その記念として建てられたわけである。それが先ほども書いたように契約終了と同時に撤去を余儀なくされたわけである。

この間、足掛け二十年の歳月が流れている。

当然、例の空き物件は老朽化が著しかったのだろう。他に借り手もいなかったものか、上物は取り壊された。そして土地が売りに出されたのだと思われる。
わたくしはもう何年も現地に行っていないので様子はわからないが、おそらく周辺は顕正会村の様相を呈しているものと想像される。すると買い手はなかなか見つからないだろう。そんな土地を買う物好きはなかなかいない。必然的に顕正会が買い取ることになった。
いや、もちろん最初のオーナーと顕正会の関係は険悪だったはずなので、直接の取り引きではないのかもしれない。ようは別の誰かが買って顕正会へ転売するという形だったのかもしれない。すべて推測である。

いかにも黒歴史の雰囲気が濃厚な話ではある。

黒川検事長失脚と検察庁法改正断念に見る政権の末期症状

一面下段には法務部長が細かい字でびっしりと記事を書いている。具体的なフォントサイズはわからないが、顕正新聞掲載の通常の記事よりも小さいのは間違いない。この狙いは何だろうか?

ただでさえ活字が多い。それが顕正新聞である。読書好きの人には苦ではないにしても、それ以外の人たちには苦痛である。わたくしの実感では活動会員たちにしてもぜんぶの記事を隈なく読んでいる人は少ないと思う。ましてや似たり寄ったりの文章が並んでいるものだから、普通の感覚であれば読んでいてウンザリするはずなのである。

 予想を超えた世論の反発と支持率急落に怯えた結果であろう・・・

それはともかく本題に入ると、なぜに法案の成立を断念したのかについて、法務部長はご覧のように書いている。たぶん彼も承知しているはずであるが、断念にはもう一つの理由があるのだ。

賭けマージャン問題発覚
      突然の失脚


厳密には、断念が五月十八日、問題発覚が五月二十日、ということで時系列的にはツジツマが合わない。弁護士ゆえにそこを気にしたのか、あるいは文脈的に煩瑣になるので省略したのか、その辺は本人に聞いてみないとわからないが、週刊誌の発売日以前に記事の内容をつかむことくらい、政権中枢の人たちならば容易だろうと想像されるのだ。現政権は世論の反発などどこ吹く風であって、今までどれだけゴリ押しを行なってきたかを考えれば、今回だって例外ではないはずである。ゆえになぜに断念したかを考えれば、単なる世論の反発や支持率低下だけでなく、そこに文春砲が加わることによるトリプルパンチが強烈であると悟って、先手を打ったのだろうと思われるのだ。

いざという時に難を逃れる悪運の強さがあった・・・

法務部長は安倍政権がなかなか倒れない理由について、ご覧のように書いている。なるほど、そうなのかもしれない。ある意味、前述はその片鱗をあらわしているのだろうとも思われるわけだ。

 何より、ここに来て、これまで数々の難を逃れてきた安倍政権の悪運が尽きてきた感がある。

問題はここである。常識的には来年の秋には総裁の任期が終わって、そこで禅譲なり何なりして役目を終わるのだろう。いろいろあったものの、超長期政権として歴史に刻まれるのは間違いない。

ところがである。このところ今秋の解散総選挙がささやかれていて、もしそうなると話が複雑になる。

安倍政権がかなり弱体化しているのも事実であるが、同時に野党勢力も相当にアヤシゲな状態なのである。それが今回の都知事選に如実にあらわれている。何しろ野党が一致結束できず、現職が圧倒的な票数で再選してしまったからである。はたしてこれがそのまま国政に反映されるのかどうかはわからないが、ともかく今の状態で総選挙をやったらまたも自公政権が勝ってしまう可能性が少なくないのである。すると安倍首相の不敗神話がよりいっそう強固なものとなり、ヘタすると今後もずっと安倍政権が続くかもしれないのだ。もはや独裁である。

さらに言うと、小池都知事も実は国政復帰を画策している、なぜならば女性初の総理大臣を狙っているからだ、という話がある。わたくし自身は懐疑的だが、そういう話も現実に取り沙汰されているのである。

政界はまさに一寸先は闇の世界である。

今日は筆が滑ったかもしれない。


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