2018/11/10

ワカミヤ  
ゲラゲラ氏によれば、平成十七年の段階では次のような文証が残っているそうである。

大聖人が「聖人御難事」を認められ、出世の本懐を遂げられることを宣言されたのが、十月一日です。法戦の全魂の指揮を執られながら、一方で大御本尊御建立の準備をしていかれたと拝せられる。

池田大作氏の発言とのことだ。

一方、沖浦氏は次のように書いている。

 タンカーは方向転換に時間がかかります。
 モーターボートは一瞬です。


譬えとしてはわかりやすいものの、現実的にはどうかと思うところだ。ようはタンカーにしたって方向転換するのに何十年も掛かるわけではない。鶴の一声ということもあり得る。池田先生がそうおっしゃるならば従いますと。つまり、沖浦氏の言っていることは体のいい言い訳に過ぎないのだ。そもそもが方向転換とは変節なのだから、それを自ら白状しているようなものなのである。

ところで、後日取り上げることになるが、実は顕正会でも池田氏が長い年月を掛けて方向転換を図ってきたと言っているのである。しかし、前掲の平成十七年の池田発言からすると、どうも違うのではないかと思えてくるのだ。ようは顕正会では結果だけをつなぎ合わせて自分たちに都合のよいように解釈している、というふうに思えてくるのである。これは後日また書くことになるだろう。

さて、顕正新聞第1453号に参ろう。

 「本、願を立つ」との仰せ、――ついでに言っておきますが、発刊されている多くの御書集には「大願を立てん」と読んでいるのが多いが、「大願」ではない、「本、願を立つ」が正しい。

これは以前にも取り上げたことのある教学上のテーマである。ようはどちらの読みが正しいのかという問題だ。御書全集も平成新編も「大願を立てん」としている。わたくしの知るところでは日蓮宗系が「本、願を立つ」と読んでいるごとくである。

この場合、日蓮宗だから間違っているという短絡はいけない。いわゆる是々非々で論じるべきところであり、彼らの読みが正しいのであればそれを採用すべきだろう。

ただし、浅井先生の場合はもう一つの足枷がある。

一、大願を立てん句、日本国の位をゆづらむ句、法華経をすてて観経等について後生をごせよ句、父母の頚を刎ん念仏申さずば云云。(同n)

  一たびこの文を拝せば涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべきなり云云。


http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/kaimokusyougukige.html

リンク先は正信会系の人物が運営しているサイトであるが、わたくしの所持していない史資料がたくさんあり、かつまた他には同様のサイトが存在しないこともあるので、大いに利用させていただいている次第である。

それはともかく、上掲は日寛上人の御筆記である。ご覧のように、ここでは「大願を立てん」となっている。さて、どうしたものだろうか?

何しろ浅井先生は言うのだ。日寛上人の仰せは絶対であると。

単なるアゲアシ取りのような話に思えるかもしれないが、そうではないだろう。前述のごとく、教学上の一つのテーマである。それを日寛上人の教学は絶対だと言う浅井先生が、日寛上人とは違う説を採用しているのである。これが許されるのであれば、何でもアリになってしまう。ようは自分の都合に合わせてどのようにでも解釈できてしまうのだ。

ぜひとも浅井先生の弁明を聞きたいものである。

鎌倉若宮八幡宮

今度はアゲアシ取りに近いものの、ちょっとしたマメ知識のような意味で貴重かもしれない。たった今、ネットで調べてみたら上掲のような言い方は存在しないようである。通常、鶴岡八幡宮と呼ぶ。そして当然ながら地元の人は鎌倉を冠する必要がないので、鎌倉鶴岡八幡宮などと呼ぶこともない。逆に他所の人たちは鎌倉八幡宮と通称するようである。

わかみやこうぢにうち出で四方に兵うちつゝみてありしかども・・・

これは顕正新聞からの引用ではなく、平成新編から種々御振舞御書の一節を引用したわけだが、「わかみやこうぢ」が興味深い。ここには漢字ルビが振ってあって、若宮小路となっている。しかし、今現在の鎌倉ではあの中央の大通りを若宮大路と称している。

だから何なのだと問われると困る。一つ言えることは、わかっていないことがまだたくさんある、ということだろう。ゆえに上述のような視点からもっと深く探求すれば、あるいは今まで気がつかなかった発見があるかもしれないということである。

 「汝、伏して之を信ずべし。当に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖、名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われ給う明文なり」と。

これは顕正新聞の引用である。日寛上人の仰せであることは誰もがすぐにわかるだろう。そしてこれがなんと前掲のリンク先にも出てくるのである。浅井先生のご都合主義がよくわかる事例と言うべきだろうか?

 やがてこの日本国に、立正安国論に仰せの天変地夭が相次いで起きてくる。すでにそのはしりは始まっているが・・・

ハシリもまた浅井先生の好んで使う言葉かもしれない。詳しくは調べていないが、ずいぶん昔から使っていると思う。いつまでハシリが続くのだろうか?

2018/11/3

ダイシシク  
引き続き沖浦氏からコメントが寄せられているが、今日は顕正新聞の話題に戻りたいと思う。

女子部は御大会式までの誓願達成を見つめ・・・

総合女子部長である。目標を立てることは悪いことではないものの、いかにも成果至上主義の顕正会らしい発言である。

ところがである。

全組織、九月達成を事実と成し・・・

女子部総務の一人はご覧のように発言している。凄まじいものだ。

石垣・西表島で広告文片手の熱烈な戦い
 学会員が求めるように相次ぎ入会


これは第八女子部幹事の記事に付けられた見出しである。離島での活動はさまざまの意味で大変である。ある意味、本気度が問われていると言えるだろう。

 また第百二十四区におきましては、一総班副長の三十代の娘が、火事に巻き込まれて臨終を迎えるという出来事がありました。

文字通り不幸な話である。

上野殿の弟・五郎殿が若くして不慮の水死をされたとき・・・

他人の不幸をとやかく言うつもりはない。ただ以前にも取り上げたように、五郎殿の水死は何を根拠に言っているのだろうか?

「西日本豪雨」でもご守護、胡瓜が高値で
 舅が良き臨終、大慈大悲にひれ伏す


今度は婦人部中予支区班長の記事である。今の顕正新聞には臨終の話が高頻度で出てくる。前掲の話題は若くして気の毒だったが、こちらのほうは具体的な年齢はわからないものの、それ相応の年齢だろうから納得できなくはない。

けれどもわたくしが注目したのは臨終の話ではなく、次のくだりである。

 また父が作る胡瓜も、数十本に傷が付いただけで済み、消毒も肥料も手抜きしていたことで、かえって丈夫な根を張り、豪雨にも倒されず、これまで以上に立派な胡瓜が大量に採れました。

顕正新聞はこういうフザケタ話が多い。手抜きしていたことが幸いするならば、誰も苦労しないだろう。そもそもキュウリはつる性の植物なので、自立しているわけではない。ところが上掲の言い様だと、あたかも根が強くて倒れなかったみたいに思えてしまうのだ。

 さらにこの豪雨による野菜不足から胡瓜の値段が上がり、一日平均七万円の収入があり・・・

前掲はいかにもデタラメっぽい話だったが、この部分は羨ましい限りの話である。もっとも農家の人たちは収穫までにたくさんの苦労をする、言い方を換えれば無収入の期間もある、ゆえに普通の勤め人の感覚で考えても仕方がないわけだが・・・

さて、次の第六男子部長の発言はいかがなものか?

迎える広布最終段階・・・

何度も指摘していることだが、広布最終段階という表現はかなり昔から使われている。それにもかかわらず、今新たに迎えるがごとく言っている。本人はおかしいと思わないのだろうか?

第二婦人部長もヘンな人である。

 同時に、かかる先生の大忠誠心に、第六天の魔王もどれだけ肝を潰したであろうと思うと、胸のすく大感動をおぼえました。

事情のわからない人には申し訳ないが、ともかくヘンである。漫画チックに想像すると、第六天の魔王が肝を潰している様子が浮かばなくもない。しかし、その場合は浅井先生すらも漫画チックに描かないといけない。だったらいっそのこと顕正会でアニメーションでも制作したらどうかと思う。

大師子吼

またしても登場である。前掲の大忠誠心はまだしも、さすがに大師子吼はダメだろう。わからんのだろうか?

義祖母

男子部第七十隊総支隊長の記事に出てくる言葉である。人生経験が拙いためか、わたくしはこの表現に馴染みがなかった。顕正新聞もよく読めば勉強になるものである。

競馬の予想屋に
 1千200万円


最後は創価学会一筋五十年の男性が顕正会に入会した話である。男子部第七十八隊の組長さんは創価学会に騙されていたと言っているわけだが、わたくしはそれよりも競馬の予想屋に騙されていたことのほうが深刻だと思う。当然ながら、いっぺんに一千二百万円を騙し取られたわけではなく、気がつけばそれだけのカネをつぎ込んでいたということなのである。

これまた人生経験が拙いためか、わたくしにはまったく考えられない話である。世の中にはいろいろな人がいる。ただそれだけの話なのかもしれないが・・・

2018/11/2

タタリガミ  
沖浦氏はわたくしに対しては少し寛容なところがあるものの、法華講の諸氏に対しては容赦がない。その理由がよくわからない。あるいはわたくしの場合はブログの主宰者なので、それで手加減してくれているのかもしれない。

ところで今朝になって、ヤメケン氏からコメントが寄せられた。

祟り神日蓮という独自解釈はどう思いますか?

貴殿は昭衛教学に一目置いていたようだけど、戸田とも異なるこの狂学。

戸田はんに憧れて息子に城と克の字を充てがう御仁。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。


まず、息子に城と克の字を云々について書くと、城衛は城聖を想起させるが克衛のほうは何を意味するのか、わたくしにはわからない。この点、ご教示願いたいと思う。

それから昭衛教学に一目置いていたのは事実であって、それは今もそれほど変わらないつもりである。ただし、独学で研鑽するようになってからは浅井教学の問題点も見えてきた。拙ブログではそうした観点からも顕正会批判を展開してきたつもりであるが、まさに徒然なるままに書いているので、まとまりがない。その意味ではいずれ本格的に書かないといけないとは思うものの、ズボラな性格が災いしてなかなか実行できない。今はそんな感じである。

祟り神日蓮という独自解釈・・・

さて、本題である。ヤメケン氏はご覧のように独自解釈と書いていらっしゃる。ようするに氏の認識としては浅井先生独自の解釈ということなのだろう。

わたくし自身はそれが独自の解釈なのか否かよくわかっていないのだが、前々回の拙稿で示したように、たくさんある日蓮系の教団の中でもこのような解釈をするのは顕正会だけではないか、というふうには書いた。あるいはヤメケン氏もこの文脈を受けて上掲のように書いたのかもしれない。

そこで煩瑣になるのを承知しつつも説明したい。浅井先生のロジックは次の二つの御書に基づくと考えられる。

・・・教主釈尊よりも大事なる行者を、法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち、十巻共に引き散らして散々に踏みたりし大禍は、現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ。

まず一つ目が下山御消息であり、浅井先生はいわゆる現当二世の解釈において独自性と思しきものを打ち出している。ようするに大聖人御在世当時と広宣流布前夜の今現在を意味するのだと。

 仏、法華経をとかせ給ひて年数二千二百余年なり。人間こそ寿も短き故に、仏をも見奉り候人も侍らね。天上は日数は永く寿も長ければ、併ら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。

そして祈禱抄の当該御文は前掲を補強する意味がある。諸天善神の寿命は人間のそれとは異なる。ゆえに時間感覚が異なる。具体的に示すと、日月天や毘沙門天などは釈尊入滅後二ヶ月足らず、さらに帝釈や梵天の感覚からするともっと短い日数になる、ということなのだ。

当然、顕正会では大聖人を御本仏と仰ぐ。大聖人滅後すでに七百有余年。人間の時間感覚からすれば遥か昔であるが、諸天善神の時間感覚は上述のごとくである。つまり、昨日のことのように憶えている。

ゆえに今、諸天善神が励みをなして天変地夭を起こし、日本の人々を罰している・・・

これでおおむね説明できたと思うのだが、はたしてこれが正解なのかどうかが問題である。すでに前々回、疑問を呈したごとく、わたくし自身はこの説を支持することに相当の躊躇がある。また、一般人の感覚からしても相当に受け入れ難いものがあるだろう。

自分は関係ない!

個人主義が幅を利かせる現代においては、誰もがそのように思うはずである。実際、まったく記憶がないことであって、それにもかかわらず罪を着せられるとすれば、いわゆる冤罪にも相当することだろう。この点、顕正会側がどのように反論するのか、聞いてみたいものである。

くだんの二つの御文をゴリ押しするのかもしれない。大聖人がこのようにおっしゃっているのだ。オマエはそれを信じられないのかと。

実に困ったものである。

いちおう御書の拝し方で意見を言っておくと、別々の御書を持ち出してきて合わせて一本みたいなロジックは得てして誤謬を生むものである。ようは正解の場合もあるが不正解の場合もある。まずはこの点を理解しておく必要があるだろう。

そこでわたくしの結論を書くと、この場合は不正解の蓋然性が高いと思う。

 然れば大悪人を用ゆる大科、正法の大善人を恥辱する大罪、二悪鼻を並べて此の国に出現せり。・・・現世には国を亡ぼし身を失ひ、後生には悪道に堕ちぬ。

前掲の下山御消息は長文の御書であり、大事なことがたくさん認められている。実は上掲も同御書の一節なのである。前掲の現当二世云々と、上掲の現世には国を亡ぼし云々が、見事に対応していることに気づくべきである。

するとどうだろう。当時、大聖人にアダをなした人々は皆悉く悪道に堕ちている。その時間たるや転々無数劫である。七百年後の今日も地獄の業火に苦しんでいるはずなのだ。

いわゆる輪廻転生の考え方からすると、もしかしたら自分は七百年前に大聖人にアダをなした一人なのかもしれないと思う人もいるわけで、あるいは顕正会ではその説を採っているとも考えられる。ただし、無間地獄の長さはベラボウであって、そう簡単には出所できないはずなのだ。そのことは顕正会員がいちばんよく知っているはずではないか?

つまり、現代人の感覚として自分は関係ないと考えることは決して間違いではなく、その無関係の人間までもが罰せられるとしたら、まるで八つ当たりみたいな話になってしまう。

なるほど、これを祟り神云々と評するわけなのだろう。

こうして見ると、浅井先生の独自解釈は間違いであり、かえって大聖人のイメージダウンにもなりかねない、そういう危険性を孕んでいるとも考えられるところである。だとすれば、これから開始されるであろう本格的な一国諫暁など無意味であり、それどころかハタメイワクなだけの話になってしまう。

日蓮系は狂ってる人が多いが昭チャンも多分に漏れず狂。

改めて掲げてみると、なるほど、そうかもしれない、と思わせるコメントである。

2018/11/1

ノサバル  
法華講の諸氏が撤退してしまった。そして今現在、コメント欄は沖浦氏の独壇場のようになっている。氏の一人天下と書けば聞こえはいい。ただ別の見方を書けば、沖浦氏は誰からも相手にされていない、ということになるだろう。

このように書けば、沖浦氏から反論が寄せられるのは必至である。その言い分はあえて書くまでもなかろう。

そこで今度は日蓮正宗信徒の立場から言わせてもらうと、早い話が沖浦氏は大謗法者なのである。この大謗法者に対しては積極的に破折する。これが一つの選択肢である。そしてもう一つの選択肢は座を同じうしないことである。法華講の諸氏は後者を選択したわけなのだろう。

だったらオマエはどうなのか?

当然、わたくしに対する批判もあるはずで、沖浦氏のような大謗法者を駆逐しないでノサバラセテいることは与同罪に当たる、というコメントが寄せられてもおかしくはないだろう。

これについてはその通りなのであえて弁解するつもりはないが、ただ明確に言えることは沖浦氏に対する破折は要所要所でやっていることなので、その点は拙ブログを隈なく読めばわかるはずだし、今後もそれは継続的に行なっていくつもりである。何しろ氏の主張はあまりにもデタラメ過ぎるためか、他の創価学会員からも破折されてしまうくらいなのである。わたくしはいちいち他所のサイトまで確認していないので詳しくは知らないが、大沢氏から寄せられる断片的な情報だけでもその様子はおおよそ窺えるところなのである。

つまり、わたくしとしてはその場の勢いだけで反論めいたことを書く必要はなく、どっしりと構えていればいいわけで、相手がデタラメなことを言っている時にはキッチリと破折する、というような姿勢で今後もやっていくつもりである。

さて、話は変わる。顕正新聞第1452号を見ていこう。

安倍首相の自衛隊高級幹部会同における「訓示」は
 「憲法尊重擁護義務」に違反している


顕正会法務部長である藤村弁護士の記事である。一言で感想を述べると、これは一見するとイチャモンのような話にも聞こえるところなのだが、かなり重要なことなのだろうと思えた。

話はわりと簡単である。安倍首相は自衛隊の会合で憲法改正を訴えた。この場合、どのような立場での発言か、それが問題となるのだ。一政治家として主義主張を述べることは問題ない。しかし、行政府の長として憲法改正を述べることは大問題なのである。この点を藤村氏は弁護士らしい緻密な文章で詳しく説明している。ともかく権力者を縛るものは法である。もし権力者が法を犯しても罰せられないとすれば、それは独裁である。もはや誰も権力の横暴を止められない。その意味で今回の問題はけっこう重要な意味を持っていると考えられるのだ。

ところで当該号は八月度班長会の記事を中心に組まれている。今頃になって取り上げるのもどうかしているが、いちおう順番通りということでご了承願いたい。

公権力とマスコミを使って顕正会を危険な団体と世間に誤信させようと・・・

総男子部長の発言である。誤信が気になった。語義的に適切かどうかが悩ましい。わたくしならば誤解と書きたいところである。

ちなみに上掲は創価学会がさまざまの謀略を仕掛けて顕正会のイメージダウンを図ったという話である。確かにそうなのかもしれないが、ぜんぶがぜんぶではないだろう。創価学会とは無縁の動きも存在するはずなのだ。
例えば『迷走する顕正会を斬る』という本がある。まさかこの本も創価学会のシワザだと考えているのだろうか?
おそらく今となっては創価学会の謀略の有る無しにかかわらず、顕正会を危険視する論調が生まれて当然であるし、政府の調査機関においても注目していると考えて間違いないだろう。

つまり、何でもかんでも創価学会と絡めて考えるのが顕正会の悪いクセであり、今もそんなところを行ったり来たりしているようでは、まるで進歩がないということになるだろう。

広布最終局面・・・

副総男子部長の記事に出てくる言葉である。最終段階を言い続けて二十年。さすがに己を客観視できる人間ならば言えなくなって当然である。彼がそうなのかもしれない。だとしても、最終段階も最終局面も似たり寄ったりだろう。

大師子吼

総合婦人部長である。困った人だ。

釈尊在世の比ではない・・・

今度は副総合婦人部長だ。通常、大聖人と釈尊とを比較する、いわゆる種脱相対が日蓮正宗の教学である。ところが彼女の言っていることはそれとは異なる。なんと浅井先生のことを云々するくだりにおいて、釈尊在世の比ではないなどと言っているわけである。まったくわけのわからない話だ。

いま諸天と浅井先生しかおられぬ・・・

もはや面倒なので説明を端折る。ともかく諸天と浅井先生が並んじゃっているのが凄いわけで、彼女は先生を普通の人間ではないと言いたいわけなのだろう。

2018/10/23

クドクガナイ  
以下、八月度総幹部会における会長講演を抜粋する。

 日本国の犯した仏法上の最大の罪は、七百年前に、大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人の御頸を刎ね奉ったことであります。

・・・当時の日本国は、法華経第五の巻で頭を打つ等の狼藉ののち、恐れ多くも竜の口で御頸を刎ね奉った。この大禍(大いなる禍)は、現当二世にのがれがたし――と仰せ下されている。


ここまでは御文に沿った解釈である。問題はこの続きの文章である。

 この「現当二世」には、二つの意味がある。
 一つには、個人に約す。すなわち御頸を刎ね奉った平左衛門が、現世には謀叛の罪を疑われ自邸において誅殺され、御生には無間地獄に堕ちたこと。これが個人に約した現当二世であります。
 もう一つは、国家に約す。すなわち、御在世の日本は「現」であり、未来広宣流布前夜の日本は「当」にあたる。


はたしてこの解釈は正当なのだろうか?

 しかるに日本国は一分の改悔もなく・・・

わたくしの思うに、ここがもっとも受け入れ難いところである。何しろ我々には自覚がない。もし仮に自分の先祖が大聖人に敵対する側だったとしても、自分自身がその責任を負う必要があるのかどうか、そこが甚だ疑問なのである。

おそらく日蓮系の教団は星の数ほど存在するだろうが、このような主張をしているのは顕正会だけなのではないかと思う。

これを顕正会の独自性・オリジナリティと言えば聞こえはいい。ただ、これでは世間の支持はまったく得られないはずで、今のように熱心に折伏を続けていればいちおう数的には伸びるものの、いつまで経っても実数は増えないのではないか、ようはメジャーにはなり得ないのではないか、というのがわたくしの観察である。

むしろ報恩抄の次の御文をよく拝するべきである。わたくしの記憶が正しければ、平成九年の一国諫暁の頃は浅井先生もよくこれを引用していたはずである。

謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。

ところがである。浅井先生が予言めいたことを言うと悉く外れるのだ。つまりは浅井先生のシナリオ通りには事が運ばない。

これを言い換えると、現証が伴なわない、ということになる。

これをどのように説明するのかが難しいところで、一つには顕正会そのものが邪教だからということになるだろう。顕正会が謗法なのだ。謗法が謗法をあらわす? わらわすなよ、という話である。ゆえに顕正会が自らの非を認めて仕切り直しをするならば、そこでようやく現証が伴なってくるのかもしれない。まさに本気度が問われている。今のままダラダラとやっているようでは何も変わらないということだ。

話を戻して、現代人に対して七百年前の大罪がどうのこうのと言ったところで、どうにもならない。むしろ現時点における問題を直視するべきであって、創価学会の極限の大謗法が国を危うくすると思うのならば、それをとことん追求すればいいのである。神の国云々もしかりである。

ただし、たぶん浅井先生も承知はしていると思うのだが、国家レベルの話ではなく個人レベルの話のほうが実は強いのである。ようは人々にとっては自分の幸福が最大の関心事であるからして、そうした方向性の功徳の体験などが弘通のカギを握っているわけである。

実際、創価学会の折伏大行進時代はそうした個人の幸福にスポットが強く当たっていたわけであり、下世話な話のようだがきわめて俗的な御利益を求めて多くの人が入信してきたという現実がある。

結論めいたことを書こう。

いちおう当時の創価学会は日蓮正宗の信仰を真面目に実践していたわけであり、それゆえに多くの人が功徳をいただいていたわけである。翻って顕正会はどうかであるが、今の顕正会は正しい信仰をしているとは言えない、よって功徳がない、だから伸び悩んでいる、となるだろう。

話が脱線してしまったような感じだが、思いつくままに書いたのでご容赦願いたい。

2018/10/22

ハナハダ  
会長講演からもう一つだけ引用しておこう。

 バカな経済学者は「孫・子の代にそれを見せてはいけない」などと言っているが、「孫・子の代」ではない、それはもう直前に迫っているのです。日銀が持ちこたえられなくなったら、そのとき国家破産が起こるのです。

凄いことを言っている。経済学者もさまざまで、楽観論を唱える人もいれば悲観論の人もいる。そうした中で、上掲の孫・子の代の心配をしている学者は、大枠で見れば浅井先生と同じ立場を取っているはずなのである。それを先生はバカな経済学者と言っている。すると楽観論者に対してはどのように表現するつもりだろうか?

期を画する大人事

四面下段には隊長・区長・支区部長たちの顔写真がたくさん載っている。上掲のごとく、文字通りの大人事である。その中でわたくしは男子部第三十八隊長に注目した。彼は少し前まで総副男子部長だった。その意味ではずいぶんと降格したものだと思うが、あるいは何か病気を患っていたのかもしれない。写真の様子からして、何となくそんな感じがするのだ。

さて、次は第十八男子部長の登壇である。

思うに細井日達に敬称を用いないことは、池田大作・阿部日顕とは次元が違うご決断と拝するものであり・・・

最近の顕正会では、あたかも解散処分直後から細井日達と呼び捨てにしていたごとくに語られているが、それは完全なる捏造である。この登壇者だってそんなことは百も承知のはずなのだ。まずはこの点から正さなければならない。

それにしても上掲は何を意味するのだろうか?

思うところは多々あるが、ここでは語らないことにしたい。妙信講に同情すべき点があるのも事実であり、やはり宗門側に非があったことは否めない。ただ、それとこれとは別である。すなわち近年に至って、御法主上人を呼び捨てにする挙に出た。これはこれで顕正会側の非なのである。

次は第十三隊総支隊長の発言である。

御遺命守護の御奉公を完結され・・・

この若き俊秀は御遺命守護完結をリアルタイムでは知らない。しかし、彼の思考力をもってすれば、容易に理解できる話のはずである。ようするに御遺命守護は完結していない。ゆえに今もなお宗門への復帰が叶わないのである。この点をもっと真剣に考えるべきだろう。

極道の妻「三度の飯より喧嘩」の40年
前科12犯@慕渇仰で心法が穏やかに


顕正会も人材が豊富である。ご覧のような経歴の人もいる。それにしても入信勤行の帰りに宝くじを買って十万円が当たったなどと総幹部会の場で発表させてよいものか、甚だ疑問である。

2018/10/21

アシバヤ  
顕正新聞第1451号には次のようなタイトルが付いている。

「三百万前進開始」特集号

当該号は八月度総幹部会の模様を伝えているわけだが、さっそく会長講演を見ていくことにしよう。

御遺命成就の戦いは、いよいよこれから始まるのであります。

前法戦で二百万を達成した。そして当該号のタイトルにもあるごとく、いよいよ三百万に向けた戦いが開始された。その三百万と御遺命成就の戦いがイコールであると言わんばかりであるが、はたしてそうだろうか?

それ以前に、いよいよこれから始まる、などと言われても本音ではウンザリしている会員が少なくないのではないかと思う。もう十年、いや二十年になるだろうか、この間ずっと最終段階の戦いがどうのこうのと言い続けてきたわけである。それでいながら、これからが本番なのだ、というようなニュアンスのことを言われても、だったら今までは何だったのか、と思わざるを得ないところである。

 顧みれば、顕正会発足より最初の百万は四六年もかかった。しかし百万から二百万まではわずか一五年です。

わたくしは数字に弱いので直接的な反証が思い浮かばない。ただ直感的に、これは数字のマジックのようなものであり、必ずどこかに欺瞞があるはずだ、と思っている。

 さあ、いよいよ本日より、三百万への前進開始であります。

前にも触れたと思うが、ここに馬脚があらわれていると思う。会長講演ではここで九・十・十一月法戦の誓願を打ち出している。三万人だそうである。それはもちろん短期的目標なので問題はない。では中長期目標はどうなのかである。

結局、三百万をいつまでに達成するか、まったく明言していないのである。

 郡山新本館御入仏式において、原発の安全システムの点検及び管理に携わっている男子部の・・・

折しも前回の拙稿で取り上げた話題である。なんと浅井先生は例のズサンな内容をそのまま鵜呑みにして発表してしまっているのだ。何をやっておるものかと思う。

だからいま、日本列島の全原発は停止したままになっている。

もはや終わっているとしか言い様がない。

わたくし自身、原発問題に精通しているわけではないし、四六時中、情報収集しているわけでもない。それでも安倍政権になって徐々に原発利権が巻き返しつつあることは感じており、すでに数基の原発が運転を再開していることはニュースなどで見知っていた。つまり、上掲は完全なる事実誤認である。

 昨年2月、安倍首相はトランプ大統領と初の首脳会談を行なったが、その日の朝食会に、カジノ企業のトップ三人が出席していた。

不勉強のわたくしはこれをまったく知らなかった。ようするに先般可決されたカジノ法案はアメリカ側の言いなりで作られた法案だという話なのだ。これが事実ならばとんでもないことだろう。まさに悪政である。

「現当二世」の二意

これは純粋に教学上の問題である。浅井先生のこの二意には先例があるのかどうか、そこが気になるところである。ようは先師上人の中でこのような解釈をあそばしている方がいらっしゃるのかどうかである。

普通の人間の感覚からすると、今さらそれを言われてもなあ、という感じなのではないかと思う。

2018/10/17

ムベナルカナ  
S@法華講氏はわたくしの想像を間違いであると言っている。しかし、たとえ施錠云々がその通りだとしても謗法者を近づけたくないという心理が働いて当然とも思えるのだが、いかがだろうか?

一般的な寺院はたいてい境内への出入りが自由にできる。かつてのわたくしは決して他宗の神社仏閣には近づかなかったが、今では散歩がてら通り抜けることがある。大きな寺社になると四方八方に出入り口があって、それがわりと近道だったりすることがあるのだ。しかし、当然ながら堂宇の中には勝手に入れない。ご自由にどうぞというところもあるだろうが、基本的には建物の中には入れないはずである。

大石寺も基本的には同じではないかと思う。ただし、一般的な寺院の場合は防犯上の理由からと考えられるが、大石寺の場合は特殊な事情がある。それが謗法者云々なのである。もちろん最終的には謗法者も救っていかなければいけない。しかし、戒壇の大御本尊の近くには謗法者を近づけたくない。前回の拙稿はそうした背景を踏まえて書いたわけである。

さて、顕正新聞の続きである。

第三男子部長の肩書きが気になった。この人は副総男子部長だったはずだが、降格になったのだろうか?

 解散処分より四四年目の本日・・・

なかなか斬新な視点である。郡山会館に新しい本館が完成して入仏式が行なわれた。その日が解散処分から数えて四十四年目なのだそうである。

大師子吼・・・

あらまあ、まだ言っているの? 第二十二婦人部長も同じことを言っている。困った人たちだ。

大聖人様が、全人類成仏のための大法を守り奉る義務と大任を果される先生を、七百年の時を越えて召し出だされ・・・

第二十二婦人部長の記事にはご覧のようなくだりがある。その上で大師子吼が登場するのだ。話が複雑でわかり難いが、かなり危ない表現のように思える。ようは会長本仏論的な発言なのである。

創価学会歴四十八年の男性が本年六月に顕正会へ入会した。その記事から引用しよう。

始めて拝聴した浅井先生のご講演は・・・

初めて本部会館に参詣いたしましたが・・・

いつも指摘していることである。始めてと初めての使い分けにどれほどの意味があるのだろうか?

これは浅井先生に公開質問状を出したいくらいである。

次の男子部第六十四隊長の記事もよくない。彼は平成十八年に顕正会に入会したわけだが、それまでの二十年間を創価学会員として過ごしたそうである。男子部の隊長ということは顕正会歴十年ちょっとでそこまで上ってきたわけなのだろう。

学会の任用試験に合格すると、知らないうちに班長になっておりました。

創価学会の役職には不案内であるが、班長の呼称は違うのではあるまいか?

また、顕正会に入会後の話として、山形県鶴岡市の宗門末寺「宝樹院」の住職と法論したことが書かれている。

 この末寺は、私が学会時代に「御授戒」を受けた寺で、当時は五千円の料金を支払ったことを記憶しております。

料金はおかしいだろう。世間一般の表現としてはあり得るものの、日蓮正宗の中ではそのような言い方をする人はいないのではあるまいか? それともわりと普通に使われているのだろうか?

基本、顕正会では無料を謳っている。彼はすでに隊長という役職をいただいているほどの熱心な顕正会員である。その上で想像するならば、彼は悪意を込めて料金などと書いたのかもしれない。

 導師席には僧侶がいましたが、勤行の声は明らかに録音した音声を流しており・・・

再び創価学会時代の話に戻る。今はかなり事情が異なるものの、彼はギリギリで大石寺への参詣を経験している。上掲は丑寅勤行の話のようだが、はたして本当だろうか?

 その翌日、正本堂を見学しましたが・・・

見学? 見学ができるのだろうか?

もはや悪意の塊のような登壇記事である。冒頭の話にも通ずるごとく、謗法者を近づけないのが日蓮正宗のシキタリである。こう書くと正本堂の完工式のことをあげつらうかもしれないが、それは例外と考えるべきだろう。正本堂は一般の観光寺院が行なっているような拝観が許される道理もなく、あくまで篤信者への御内拝が行なわれているわけである。

その意味では当時の彼の置かれていた状況からして、創価学会の教育が悪かったと考えるのが自然である。その数年後に宗門との関係が壊れることからしても、すでにその萌芽をここに見るべきなのだろう。

彼は平成十八年に顕正会に入会した。これもまた象徴的な話であって、ようは創価学会の中で宗門の悪口をたくさん聞かされてきたわけである。そして顕正会に入会後もしかりである。創価学会とは切り口が異なるものの、顕正会のそれも宗門に対する悪口に他ならないわけだ。すると都合三十年近くも宗門の悪口を聞いてきて、すっかりそれに馴染んでしまっているわけなのだろう。

以上、悪意の塊みたいな記事が書けるのもムベナルカナである。

危機一髪だった
 「水蒸気爆発」!!


男子部第三十六隊班長の記事はやや疑問である。福島第一原発の事故について書いているわけだが、事実と相違するのはないかと思う。

 溶けた核燃料が圧力容器の底の水と接触することで発生する「水蒸気爆発」が起これば・・・

日本は壊滅していたという。

 実際、溶けた燃料棒は原子炉を突き破り、溜まっていた水まで、鉄板一枚を挟んだギリギリのところまで到達しており・・・

ようはギリギリセーフだったと言っているわけだ。

わたくしも専門家ではないので間違っているかもしれないが、しょせん浅井先生以下顕正会の幹部たちも付け焼刃の知識しかないわけなのだろう。

わたくしのいわく、圧力容器=原子炉ではないのか、と。だとすれば上掲は矛盾した話である。登壇者は原発関連の仕事に就いているそうだが、それにしてもどうかと思う。

簡単に説明すると、まず圧力容器は水で満たされている、その中に燃料棒がある、もし万一にも水がなくなると空焚き状態になる、すると燃料棒が制御できなくなって高熱を発する、それがやがて溶け落ちて下部に残っている水と接触すると大爆発を起こす、というシナリオである。しかし、水蒸気爆発は起きなかった。

ちなみに今も動画サイトで確認できるはずだが、水素爆発が一号機と三号機で起きている。そして二号機も含めて三つの原子炉でメルトダウンが起こった。さらに四号機も崩壊してしまった。

すでにこの時点で人類史上最悪の原発事故と考えるべきなのである。

やはり人間とは愚かなものなのだろう。あれほどの大事故を経験しておきながら時間と共に忘れ去られようとしている。今回の登壇記事は方向性こそ原発批判になっているものの、かなりズサンな内容のように感じられる。つまり、顕正会の中でも風化が起こっているのだ。

 登用試験を受験した翌週より・・・

高校受験においても・・・


最後は男子部第八十九隊組長の記事である。これは難病を克服した体験であり、そのこと自体をとやかく言うつもりはない。ただ上掲を見れば誰もが容易に想像できることがある。ようは中学生が登用試験を受けたのだ。

まあ、大した問題ではないのは事実だろう。だが、しかし、すると本人が希望すれば小学生でも受験できるのか、幼稚園児はどうか、というような線引きの問題が生じてくる。その意味ではやはり問題なのだろう。

2018/10/14

カケアシ  
沖浦氏は早起きである。今朝は五時前に投稿している。かく言うわたくしも今朝は七時前から書き始めている。九時前には公開することになるだろう。

顕正新聞第1450号は郡山新本館の入仏式を報じている。その時の会長講演が二面から四面にかけて掲載されているので、今日はそれを取り上げたい。

羅什三蔵は、釈尊が霊鷲山において法華経を説法したときに聴聞していた諸菩薩の中の一人であった。ゆえに間違いがないのです。

この前後のくだりはひじょうに興味深いところだが、そもそも上掲は何を根拠に言っているのだろうか? 諸菩薩の一人であるとすると、具体的には何菩薩だったのだろうか?

不勉強ゆえか、わたくしには思い当たらない。

 「御扉が開かないので、きょうの御開扉はやめます。御開扉料は返します」などと、芝居小屋のオヤジみたいなことを言った(笑)。

これは平成十七年十一月七日の出来事だそうである。

顕正会ではこの前年の秋ごろから宗門攻撃を激化させ、挙句の果てには日顕上人へ対決を申し入れる挙に出た。そして上掲の出来事があって、その翌月十五日、日顕上人は退座されるのである。確か創価学会あたりが言っていて顕正会もマネをしたのだと思うが、上人の御退座について、当時、逃座などと揶揄していた。

御開扉の件は、遠路はるばる参詣された人たちにとっては残念な結果であるものの、それで永遠に御開扉ができなくなったわけではないのだから、レアな体験という意味では良き思い出だろう。これを顕正会では因縁めいた話に仕立て上げているが、しょせん機械は壊れるものである。ゆえに何の不思議もない。その意味では日常の保守点検に問題があったのだろうと想像される。

想像を逞しくすれば、戒壇の大御本尊は秘仏にてましますゆえに外部の業者に保守点検を委託することをしなかった、おそらくは機械オンチであろう僧侶たちが保守点検を行なっていた、というような背景があったのかもしれない。

 貫首の権威は絶対ですよ。なぜ絶対か。御相承を頂いているからです。私たちには口出しもできないことになっている。

自爆発言である。ならばなぜに御相承の断絶を言ったのかである。この自己矛盾をどのように説明するつもりだろうか?

 顕正会は何百万になっても、世俗の名利は求めない、権力は求めない。右翼でもなければ左翼でもない。

あえてイヤミを言えば、その何百万とやらがマヤカシの数字だから求めようにも求められないわけなのだろう。ようするに名目数ではなく実数であれば大変な実力組織と見なされるわけであり、文字通りの不求自得となるはずなのだ。

また、右翼左翼云々は顕正会ウォッチャーたちの目を気にしてのことかもしれない。

何度も書いているような気がするが、かつての浅井先生は右寄りの印象が強かった。ところがである。原発問題に傾注するようになってからは左寄りの印象が強くなったと見られているのだ。

ただ、これもどこかで書いたことのように思うのだが、浅井先生は常に反権力であり、今の安倍政権に対してもかなり激烈な批判を展開している。一般的にも安倍政権は極右政権だと見られているわけで、そうするとその反対の立場を取れば必然的に左翼と見られてしまうことになるだろう。

いずれにしても、右だろうが左だろうが本人はドマンナカだと思っている場合が多く、これを中道と呼ぶわけなのだろう。

ついでにご存知の人がいればご教示願いたいのだが、この中道は公明党が盛んに言っていていつの間にか他の政党などでも使うようになったものなのか、それとも以前から政治用語として存在していたものなのか、はたしてどちらなのだろうか?

 遥拝勤行においては、三具足すなわち、お水・燭台・お樒は省略していいです。

これは間違いである。すでに法華講員のブログなどで指摘されているのだが、その後、顕正会では訂正を行なったのだろうか?

ちなみに「南無日蓮大聖人」の九十三ページには厳かな写真が掲載されており、次のような説明が付けられている。

大聖人が祈雨に用いられた三具足(大石寺蔵)

一般的な呼称を用いれば左から順に、花立・香炉・燭台、となるだろうか?

話を戻して、会長講演では経机のことを云々するくだりで三具足の話が出てきた。ようは経机の推進である。

 経机は仏具屋で買うとたいへん高い。顕正会で作らせた経机がある。一つ八千円だそうです。

これも法華講員のブログなどで批判が上がっていたと思う。八千円は高いと。

わたくしはまったく別の角度から言いたいと思う。高いとか安いとか言っていること自体がナンセンスであると。むしろ謗法に厳格な顕正会ならば、一般の仏具屋さんで購入するのはイヤでしょう、だから顕正会専用のを作りました、それを使いましょう、というような説明が相応しいのではと思う。一般人の感覚でも縁起物にはカネを惜しまない。こういう考え方があるわけだから、高い安いを言っているのがどうかしているのである。

 やがて三百万、五百万、一千万、六千万の人々が、直接、戒壇の大御本尊様に向かい、南無妙法蓮華経と唱え奉るようになる。

実にイミシンだ。直接の語が何を意味するのか、そこが問題である。

真面目な経済学者はみな、オリンピック前後と言っております。

例の国家破産の話だ。経済学者の意見を借りてはいるものの、これは浅井先生の予言と見なしていいだろう。

 もう、入信勤行が間に合わない、そのような儀式をしている暇がない。

いよいよ広宣流布に加速度が付いてきて入信勤行が間に合わなくなるとの予言である。

ここにはじゃっかんの欺瞞が隠されている。近年、会館建設構想が鈍化している。未だに無会館県も存在する。もし自分の予言が正しいと確信しているのならば、どんどん会館を建てるべきだろう。

いやいや、建ててはいけない。活動会員たちが苦しむだけだからだ。わたくしは浅井先生の欺瞞を指摘しているのである。

2018/10/13

ムリクリ  
前回のコメント欄は沖浦氏の独壇場と化した。良く言えば、誰も太刀打ちできない、悪く言えば、誰からも相手にされない、そんな感じだろうか?

そんな沖浦氏の自宅に顕正会の婦人部員が訪れたそうである。たぶん沖浦氏がどのような人物か知っていて訪問したわけではなく、おそらくは片っ端から戸別訪問を行なっているのだろうと思う。今の活動会員たちは下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる的な考え方で、ともかく片っ端から折伏するのが当たり前になっているのだ。

さて、今後であるが、それは何とも言えないところである。

成果至上主義の上から考えると、とてもじゃないが脈がない、もしくは、とてもじゃないが手に負える人物ではない、このように判断すればそこでアプローチが終わるのかもしれない。あるいは特集号が出来するたびに、お届けに上がるという地道な作戦を取るかもしれない。

さて、顕正新聞の続きを見ていこう。

浸水した地域は三嶋神社の信仰者が多く・・・

婦人部愛南支区部長の記事である。七月度の班長会では「西日本大水害を乗り越えて」と題する登壇がたくさんあった。彼女の登壇もその中の一つである。

ひじょうに悩ましいところだ。

立正安国論の考え方からすれば決して間違っているわけではないのだろうけれども、必ずしもそこには客観的な尺度があるわけではない。次の第二十九女子部長の記事もしかりである。

 まして本特集号が出来するや、忽ちに他国侵逼の前相たる異常気象が盛んになり、「大水の難」も現われたことに、諸天の働きを如実に感じたものであります。

「二悪並現の日本」特集号と名付けられた顕正新聞がある。彼女によればそれが出来したことで異常気象が盛んになってくだんの大水害などが起こったということなのだが、はたして本当だろうか?

だったら事前に予言しておけばいいのだ。

しかし、ご存知のごとく、浅井先生が予言めいたことを言うと、ことごとく外れるのだ。その的中率の低さはギネスものだろう。逆に言うと、だからこそ幹部たちが上掲のようにムリクリに当たったかのごとく演出するのかもしれない。いわば後出しジャンケン的にである。

話をくだんの支区部長の記事に戻そう。

・・・自宅の裏山が崩れそうになり、恐怖を感じる雨音の中にも必死にお題目を唱えると、不思議と山は崩れず・・・

八十一歳の組長さんの話だそうである。

他の記事にも共通することを書くと、真面目に信心をしている人たちは守られた、信心に反対する人たちは災害に見舞われた、という方程式になっている。

この事実関係はさておき、裏山が崩れるか崩れないかの話で言えば、まずは避難するのが基本だろう、題目を唱えさえすれば避難しなくてもいいのか、というツッコミを入れたいところである。上述の信心している人は守られ反対者は守られないということと考え合わせると、顕正会が天下を取った暁には災害に対して無防備な国家が現出することになりそうである。すべて大聖人の御守護で賄われるのだから、余計な予算を費やす必要はない。国防もしかりである。なるほど、税金も安くなりそうだし、なかなか優れた国家かもしれない。

イヤミはこのくらいにしておいて、次は法務部次長による世相閻魔帳である。

ウソ≠ナ原発を推進する櫻井よしこの
           悪質コラムを糾弾する


顕正会の場合、敵味方の分別が明確である。それは呼び方を見れば一目瞭然である。当然、櫻井よしこ氏は敵なのだろう。呼び捨て表記がそれを物語る。ところが今回の記事では編集部が付けたと思しき導入の文章で、次のように表記しているのが印象的である。

 「日本会議の広告塔」とか「保守の女神」などと言われている櫻井よしこさんだが・・・

本文中はぜんぶ呼び捨てになっているものの、この冒頭のところだけがご覧のように「さん」付けになっている。

それはさておきである。いわゆる識者と呼ばれる人たちは実際に頭脳明晰のはずである。ならば相手の言い分もよく理解しているはずなのだが、こと原発問題に関してはどうも事情が違うようなのである。結論を急げば次の小見出しが答えのようだ。

 「核武装」という
    隠された目的


ようするに原発推進派の真の目的は核武装にある。その真の目的を達成するためには原発が必要不可欠であり、そうした理由から原発反対派の意見にはまったく耳を貸さないわけなのだ。

それにしてもこれが本当ならば愚かなものだと思う。

ちなみに竹田恒泰氏は若手の保守論客であるが、多くの保守が原発推進を唱えている中で原発反対を唱えている異色の存在である。彼は核武装と原発は切り離して考えるべきという意見のようであり、上掲のような隠された目的のために原発推進を唱えている人間とは一線を画す意味で、なかなか立派だとは思う。

しかし、そうすると櫻井氏に代表される保守の論客たちは姑息な人間ばかりということになりそうだが、実際のところはどうなのか、わたくしにはわからない。

ヘルニア悪化で激痛

最後に婦人部三橋支区総班長の記事を紹介しよう。

 同時に、あまりの痛みで、離れの仏間にすら行けないときも・・・

這うようにして必死で離れの仏間に行き・・・


彼女は創価学会三世として生まれ育ったそうで、平成十七年に顕正会に移籍したごとくである。わたくしが注目したのは上掲の離れ云々である。ずいぶん大きな家に住んでいるものだと思ったのと同時に、彼女もそれを自慢したいのかもしれないというふうに感じたものだが、考え過ぎだろうか?

問題はそこに安置されている御本尊だろう。いわゆる顕正会版の本尊なのだろうか?

それからもう一つ注目すべきは、文中に出てくる婦人部総務の発言である。

「二百万以降も大事な御奉公はある。少しでも治る見込みがあるなら、いまは入院をして治した方が良い」

大事な御奉公のために治しておけ、という話である。顕正会の活動にウンザリしている人たちにとっては、そのこと自体が地獄のような話だろう。

一般人の感覚ならば、例えば五十歳くらいの年齢だとすればまだこれから三四十年は生きるのだからしっかりと治しておいたほうがいい、ということになるだろう。

いずれにせよ、治るものは治したほうがいい、当たり前の話ではあるが、それにしても顕正会員の感覚と世間一般の感覚はかなり違うようである。


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