2022/1/26

ギケイ  
世相閻魔帳の第二十四回は宗門ネタである。

図らずも露見した
  宗門「八十万体勢」の嘘八百


これについては前にも取り上げたことがある。結論的には顕正会にとってブーメランのような話なのだ。

「八十万体勢」の偽計

大見出しのウソハッピャクは庶民的に馴染みのある言葉だろう。しかし、小見出しのギケイはやや専門的であり、わたくしは使ったことがないと思う。

涙ぐましいまでの無駄な努力・・・

筆者のイヤミな性格がよく出ている。涙ぐましい努力ならばマシというか、それほどイヤミには聞こえないかもしれない。そこにムダを加えるところがイヤらしいのだ。

日本国内寺院所属の法華講員の総計が八十万人を超え・・・

これは日如上人の御言葉らしい。筆者としては八十万の欺瞞を立証するつもりで載せたわけなのだろう。しかし、まさしくここがブーメランである。

当該号(新年号)の巻末には例年のごとく、全国会員数および会館 列島分布図(令和3年11月末現在)が載っている。

会員総数 2,296,673名

    海外(119ヶ国)
     67,469名


これがよくわからないのだ。会員総数とは国内の総数なのか全世界の総数なのか、これを眺めていても判然としない。下段の海外は文字通りに受け取っていいのだろう。すると会員総数から海外会員の数を引いたものが国内会員総数となるはずだが、面倒臭いのでこれ以上の検証はしないことにする。とは言え、おそらくは列島分布図に書き込まれた都道府県ごとの数字を足していけば、わたくしの疑問は氷解するはずなので、気が向いたらやるかもしれない。

話を戻す。宗門は明確に国内を謳っているのだ。ところが顕正会はそこをアイマイにしている。事実、顕正新聞に載る数々の活動報告では、折伏法戦での海外成果をゴッチャにしており、そのことは拙ブログで何度も指摘してきたことである。ましてや顕正会は二百三十万を標榜する仏弟子の大集団なのだ。たかが八十万の組織に目くじらを立てるのもおかしな話である。

ご存知のように顕正会の数字は累計であり、今現在、二百三十万人が所属しているわけではない。一方の宗門はキッチリと八十万人いるのかどうかは知らないが、累計ではなく現在の信者数として公表しているわけである。

「八十万体勢」の
  大ウソ♀m定


文化庁が出している宗教統計調査には、七十八万二千三百人と書かれているそうである。ゆえにウソが確定したと言っているわけだが、わたくし的にはすでに述べた通りであり、オマエが言えるのかよ、というのが結論だと思う。むしろ七十八万数千が物凄くリアルに感じられて好感が持てるし、統計には多少のタイムラグがあって当然でもあるだろう。文化庁に報告した時点では八十万に届かなかったものの、最後の最後で到達したと考えてもさほど不自然ではあるまい。

もしかしたら一分の心ある宗門の担当者が、宗門の余りのデタラメぶりに義憤を感じてコッソリ時限爆弾を仕掛けたのかもしれない。

筆者の言いたいことはわからなくもない。くだんの統計調査は令和二年末現在と明記されている。ゆえに翌日、すなわち令和三年の元旦に日如上人が八十万達成を宣言したとしても、まさか一晩で一万数千人も入信することは考えられないので、それをウソだと言えばそれはその通りなのだろうと思う。しかし、その場合は繰り返しになるが逆に七十八万云々が物凄くリアルに感じられて悪い気がしないのだ。

そこで筆者としてはさらなるダメ押しを考えたのだろう。次のくだりがそれである。

 さらに言えば、宗門が文化庁に報告した「78万2300(人)」という信者数すら大ウソである可能性が極めて高い。

だからオマエが言うなである。この後の論証が正しいのか否か、わたくしには俄かに判断できないが、顕正会の二百三十万のほうが遥かにアヤシイではないかと言いたい。それこそ文化庁にどのように報告しているのか書くべきだろう。

ちなみに記事には宗教統計調査の画像が載せられていて、それが興味深い。

そこには日蓮系が六つほど並んでいるが、わたくしが承知しているのは日蓮正宗と顕本法華宗くらいである。番号から推測されるのは、正宗の上にはいわゆる身延派が載っているだろうことである。顕正新聞ではそこをあえて隠しているのだ。どんな理由だろうか?

なお、顕本法華宗は約十万人で、掲載されている範囲では法華宗(本門流)が正宗の次に多くて、約四十五万人となっている。これが真水の数字だとすると、けっこうな勢力と言えるだろう。

顕正会発足より今日までの弘通の足跡

最後に取り上げたいのはこれである。ここ数年、盛んに言っているのは三百万であるが、どうやらその達成時期はかなり先のことになりそうである。グラフには百万達成と二百万達成が赤字で書き込まれている。月を省略すると、百万が平成十五年で二百万が平成三十年なのだ。その間、約十五年。三百万も推して知るべしである。

それとグラフの形が今のコロナの上昇カーブを彷彿とさせる。ならばいずれはピークアウトして下降することになりそうだが、このグラフは累積数なのでそうはならない。その時には横ばい状態になるのだろう。それでも載せ続けるとしたら大したものだと思う。

2022/1/25

セイシキ  
相変わらずロクでもないコメントばかりである。例えば次がわかりやすい。

 来シーズンは億を超える商売に致します。

アゲアシ取りを承知で書けば、億を超えると兆になる。

もし事実ならば日本有数の企業と言えるかもしれない。今までの投稿から推測しても従業員がそれほどいるとは思えない。少人数で兆単位を稼ぐとすればベラボウな利益率である。

ゆえに意味的にはこれまで数千万レベルだったものを一億の大台に乗せるつもりなのだろう。それでも凄いことだ。

さて、顕正新聞の続きである。

婦人部宇都宮支区総班長(栃木県)は自分が折伏して入信させた班長の臨終について語っている。

 最後は四人の子どもたちに囲まれ・・・

記事にはどこにも葬儀のことが書かれていない。雰囲気的には四人の子供たちも未入信か未活動のようである。

顕正会の一つの課題がここにある。

近年は後期高齢者の入信が多い。必然的に臨終を迎えるケースが多くなる。その中には家族が誰も入信していない人が少なからずいる。顕正新聞にはそうした状況にもかかわらず幹部が顕正会での葬儀を勧める事例も書かれている。それは立派なことだが、おそらくは実現しないケースのほうが圧倒的に多いのだろう。これをどうするかである。

やや消極的な印象ながらも、それが日蓮正宗の信徒であれば、家族が誰も入信していなくても、わりとすんなり正宗の御僧侶を呼ぶことができそうである。それが顕正会儀礼室となると一般人には抵抗があるはずなのだ。ケンショウカイ? ギレイシツ? 何それ?

隣の男子部第百四十五隊班長(首都圏)の場合は父親の葬儀を顕正会で行なうことができたようである。

葬儀関係者の間に顕正会員の遺体が軽くなる不思議が浸透しつつある・・・

これについては厳密な意味においてどのように検証するのか、そこが問題だろうと思う。

わたくしの拙い人生経験で恐縮だが、伯父の納棺を手伝ったことがある。この時は遺体の両側に三人ずつ付いて、合計六人で棺に納めた。重いのか軽いのか、まったく感じなかった。感じないという意味では軽かったことになるのかもしれないが、それがすでに十数年も前のことなのだ。それ以降、遺体を持ち上げる機会は一度もない。

あるいは出棺の時に持ち上げたこともある。これまた六人とか八人くらいで持つので、重いのか軽いのか判断がつかなかった。また、一種のバリアフリーみたいな感じで、葬儀場と霊柩車と火葬場とが同じ高さで揃えられていたりする。そうなるとあえて持ち上げる必要もなく、キャスターでゴロゴロと転がすだけのところもあったと思う。ますます重いのか軽いのかわからない。

 すると入信以前はヘビースモーカーで、五十年以上も喫煙してきた父が、突然「ぜんぜん吸いたくなくなった」と言って大好きだったタバコを不思議とやめることができました。

これは余談である。わたくしのイメージでは顕正会の幹部は喫煙者が多かったように思う。特に男子部の中核幹部がそうだった。上掲の記事からすると、顕正会員の喫煙率は低いはずなのだが、少なくとも昔のイメージは違っていた。今はどうなのだろうか?

さて、次は女子部第百七十九区総班長(岡山県)の記事である。

ワクチン接種後に
   息子が倒れる


いわゆる副反応の問題である。話を大幅に端折って、登壇者のご子息はかなり重篤な副反応だったものの、奇跡的に回復した。

 実際、コロナワクチン接種後に死亡した人は、日本国内で約一四〇〇人と報告されており・・・

今はこの数字がもう少し増えているかもしれない。しかもである。岸田政権では三回目の接種を推し進めており、範囲を若年者にも拡げている。この先、副反応の死者がさらに増えるかもしれないし、コロナ後遺症ではなくワクチン後遺症に苦しむ人たちもたくさん出てくるかもしれない。一種の薬害問題である。

また新型コロナの変異株にも有効といわれる「イベルメクチン」の使用が、大手製薬会社の利権で抑圧されている状況にも全く対応しない日本の政府の無能・無責任には強い憤り・・・

前掲のワクチン問題に比べると、こちらの問題はそれほど騒がれていないように思う。わたくしのアンテナの張り方がいけないのか、現状では顕正会だけがご執心のようである。

女子部第四十七区支区長補(福島県)は父親の臨終について語っている。先ほどは家族に入信者がいない時の話だった。今度は娘さんが立派な顕正会幹部である。しかし、記事には葬儀のことが書かれていない。すると顕正会での葬儀は叶わなかったのかもしれない。支区長補クラスでも家族間のパワーバランスによっては思うように行かないこともあるのだろう。

 納棺の際、手足を清拭するため足を見ると、たいへん瑞々しい肌に変じており・・・

不勉強のわたくしは清拭を知らなかった。調べてみると主には医療介護関係の用語らしく、必ずしも遺体に限定した話ではないようである。ようは病院や介護の現場で使われる頻度が高い言葉なのだ。遺体に対しては総称としてエンゼルケアという言葉があって、エンゼルケアの中に清拭が含まれるようである。

また遺体を持ち上げた際には、余りの軽さに皆が驚いておりました。

これまた客観的な検証は不可能だ。先ほども書いたように両側から複数人で持ち上げるわけである。成仏したから軽いとか、成仏していないから重いとか、そう簡単には判断できないだろう。

2022/1/24

ユクスエ  
拙ブログに集う人たちの共通項として「類友」というキーワードが取り沙汰されることがある。しかし、一見すると矛盾するようだが、それと同時に別の特徴を見出すこともできると思う。ズバリ言えば、単なる仲良しグループではない、ということである。

かつてキリスト教の人が来た。一ヶ月くらい居たかもしれない。あるいは日蓮宗の在家信徒が熱心に投稿していたことがある。半年近く議論しただろうか?

その頃は各種の掲示板も盛んだったし、個人ブログに精を出す人も多かった。くだんの日蓮宗信徒も法華講員が運営する掲示板ないしブログなどに投稿していた。ところがである。法華講員たちはその人との議論を疎ましく思ったものか、なんと早々にアク禁にしてしまったのである。

その人物が拙ブログを訪れるようになったのは、その後のことだった。

当時のわたくしは今以上に不勉強であり未熟だったので、あまり上等な議論ではなかった。それでも相手を一方的に排除することはしなかった。ゆえに相手にその気があれば議論は続いただろう。どうやら最後は議論に疲れてしまったらしく、去って行った。

ある意味、似たような境遇(?)なのが沖浦氏だろう。

わたくしの記憶が確かであれば、沖浦氏も一時期は盛んに法華講員の掲示板やブログに投稿していた。ところがほとんどすぐにアク禁になっていた。何しろ創価学会系の掲示板でもアク禁になってしまうような人であるから、本人にも問題があるのだろうとは思う。しかし、わたくしの観察ではアク禁する側にも問題があった。

拙ブログでは最初からアク禁をしない方針を貫いている。これについては何か崇高な理念があるわけではなく、面倒臭いから放置しているというのが正解に近いかもしれない。その上であえて気取ったことを言えば、不殺生戒を守っていることになるだろう。アク禁=死刑と考えれば、そう易々とは執行できまい。いや、もしかしたらアク禁は追放くらいの意味かもしれない。削除が死刑に相当するのかもしれない。

何度も書いているが、拙ブログはアク禁もしなければ削除もしないのだ。これが最強のルールだと思っている。

以前、コメント欄に個人情報が書き込まれたことがあって、その人物はわたくしのメールアドレスを知る数少ない人物だったこともあり、削除してほしいとメールを送ってきた。しかし、わたくしは削除しなかった。この場合、何がどのように問題になるのか、わたくしは知らない。世間知らずゆえに怖いもの知らずということである。結果、どうなったかであるが、幸か不幸か拙ブログのコメント欄は投稿者ないし投稿数が多くて、すぐに埋没してしまうのである。ゆえに過去の膨大なコメントの中に今もそのコメントが残っているはずであるが、何の問題も生じていない。個人情報をさらされた人物もその後は削除を要求してくることはなかった。

では、万一にも責任問題が生じたらどうするのか?

これも過去に書いたことがあると思う。望むところであると。

先ほどの個人情報の問題で考えると、それを書き込んだ人物は悪意があってそのような行為に及んだわけである。ならば第一義的にはその人物が罪に問われるはずだろう。わたくしが問われるのは放置した責任であるが、それは甘んじて受ける覚悟なのだ。つまり、どのようなケースであってもコメント欄に投稿した人物に責任があるわけで、その覚悟で投稿するのであればそれは大いに結構なことだと思う。逆にこのような方針を謳っていると、生半可なことでは投稿できなくなる。事実、拙ブログには低レベルのイタズラ投稿は存在しない。

冒頭に、仲良しグループではない、と書いた。

それはそうだろう。法華講員と創価学会員が仲良しのわけがないし、現在は無所属との自覚が強いものの今も落ちぶれ顕正会員の看板を掲げているのが拙ブログである。ここに正信会系の人物が加わったとしても仲良しにはならないだろう。

逆に仲良しグループだったとしたら長続きはしなかったと思う。法華講員の掲示板ないしブログにしても、創価学会員のそれにしても、今はほとんど動きが見られない。あるいはわたくしが知らないだけなのかもしれないが、少なくとも過去にそれなりに賑わっていたところは悉く不活発になっている。仲良しグループなんてそんなものである。

もちろんブログ主のモチベーションに影響するところが大きい。

わたくしは何だかんだ言ってもコンスタントに投稿しているほうなのだろう。掲示板の場合はどうか知らないが、ブログは主宰者がやる気をなくせば終わりなのである。大沢氏が指摘するように、拙ブログは顕正会の行く末を見守る目的がある。少なくとも決戦場と呼ばれる二十年代は最後まで観察し続けたいし、わたくしの余命からしても可能である。

今日はどうでもいいことをダラダラと書いてしまった。

2022/1/21

シモジモ  
大沢氏のコメントを拝見して思った。いわゆる秘仏には絶対の秘仏とされるものがあって、それは永久に公開されることのない秘仏のようである。日蓮正宗における相伝にも同様のものがあって、永遠に非公開のものがあるらしい。その理由は何だろうか? もし仮に公開してしまったら何が起きるのだろうか?

さて、今日は顕正新聞の続きを読んでいくが、たまたま最初に紹介する教学部長の記事に興味深いくだりがあった。

 御相伝に基づく重大指導に全身が震える大感動をおぼえ、いま宗門には御相伝の文はあっても信心は腐り、魂は消え失せ、浅井先生のみがその命を継がれ、それを一国に顕わされたのだと、ひれ伏す思いになりました。

顕正会のタイムテーブルとしては、今が決戦場であり数年後には御馬前の戦いが待っているわけだろう。そこで勝負が決せられる。上掲の直前には、日興上人の再誕が皇室に誕生され、前生受持の戒壇の大御本尊を尋ねる云々、とある。この話はこれから始まるのではなく、すでに現在進行形の話のはずである。ようするに日興上人の再誕はすでに誕生しており、皇室において確たる立場を築かれているはずなのだ。当然、今上天皇がその第一候補というか、ズバリ、日興上人の再誕と考える以外に選択肢はないと思うのだが、いかがだろうか?

その意味で教学部長の言っていることは現実性に乏しいと思う。早い話が言っていることと現実が整合しないのだ。具体的には、日興上人の再誕がすでに御生まれになっているはずなのに、これから生まれるかのような話にも思えてしまう。そこが甚だ不整合なのである。顕正会の幹部たちはそこに気がついていないのか、あるいは気がついているもののどうすることもできないのだろう。後者の場合、もはや無理だとわかっていながら先生のファンタジーに付き合っていることになる。

元皇族(久邇宮家)の母も秋篠宮家を憂慮

婦人部港北支区部長(首都圏)の母親は高貴の御出身であられる。久邇宮家の第一王女であり、香淳皇后の叔母に当たる。なるほど、タダモノではない。

 以前、元華族の藤原家嫡流の四条氏を折伏するため、鹿鳴館の流れを継ぐ霞会館に母と出向いた際・・・

シモジモのものには理解の及ばない話題である。

また時来たらば、前生受持の「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」を深く敬重し奉り、身命を賭して護持し給う、日興上人の後身たる「本化国主」が出現し・・・

ここは前述の教学部長と同じであるが、別の問題を指摘しておこう。すなわち前生受持ではなく、前生所持ではないのか、ということである。再誕としての御立場はいわゆる受持になるが、前生においては日興上人御自身が所持されていた。これが正しい理解ではないだろうか?

日本会議会長・田久保忠衛氏を電話で糺す

男子部第百六十二隊長(三重県)の記事にツッコミを入れるとすると、ここだろう。本文は次のごとくである。

「日本会議」の会長・田久保忠衛を電話で折伏しました。

つまり、本文は呼び捨てになっているわけだが、編集部は見出しを付ける時に敬称を加筆しているのだ。ビビッているのだろうか?

ちなみに、わたくしは編集部が正しいと思う。顕正会員はそれを見習うべきなのだが、現実は難しそうである。何しろ今回は例外中の例外であって、いつもは池田大作だの細井日達だの阿部日顕だのと、編集部ですら呼び捨て表記を常用しているからである。

婦人部弘前支区総班長(青森県)の記事が興味深い。

当日特集号を持参すると、平舘の販売店が「上からの指示」として、四〇〇部の折込を断わってきたのです。

東奥日報の販売店だそうである。二つほど可能性があると思う。
一つは新聞に新聞を折込むことのムチャぶりである。顕正新聞の特集号は八ページないし十ページもある。東奥日報がどのくらいのボリュームの新聞か知らないが、仮にそれが全国紙だったとしても相当の無理があるだろう。
もう一つの可能性は、宗教関連の広告は載せない、折込もそれに準ずる、という社の方針なのかもしれない。実際、一年分くらいのバックナンバーを調べて、その手の広告がまったく存在しなかったとすれば、いちおう筋は通っていることになるだろう。

わたくしは一般紙を定期購読していないので、かなり当てずっぽうな話になることをお断わりしておくが、以前は宗教関連の広告がけっこう載っていた記憶がある。ところが一時期、宗教団体による社会的事件が頻発したことがあって、それ以降はその手の広告を見なくなった。その意味からすると、顕正会だけが弾圧を受けているとか、あるいは某団体からの妨害工作だとか、そういう話ではないと思う。

2022/1/20

ヒオウ  
つい先日、南太平洋で海底火山の大噴火があった。直後、日本でも津波警報が発令され、わたくしの居住地域では何かしらのバグが発生したものか、一晩中、おそらくは数十回にわたってアラームが鳴り響いた。幸い日本では、津波の到達は観測されたものの、大きな被害には至らなかった。もしこれが日本近海だったらどうだったか、あるいは富士山において同規模の噴火が起きたらどうなるか、決して荒唐無稽な話ではあるまい。

また新型コロナについては、昨年末より危惧されていたオミクロン株の拡大が止まらず、すでに感染者数においては第五波を上回ってしまった。今のところ死亡者はそれほど出ていないが、今後も感染拡大が続けば大変なことになるだろう。素人ながら思うことは、いわゆる津波は第一波が大きく、その後は徐々に小さくなっていくイメージがある。ところがコロナはそうではないらしい。もっとも致死率の上では徐々に弱毒化が進んでいて、いずれは普通のカゼと同じになると言われている。この点は現在進行形の第六波が終わった段階で何らかの結論が出るのかもしれない。

さて、十二月度総幹部会の会長講演を見てみよう。

「愛媛会館」を建立いたします。

「山口会館」を建設いたします。


以前に比べると、会館の建設計画が鈍化している。それでも頑張って今年は愛媛の松山に、来年は山口の宇部に建てるという。それにしても上掲、建立と建設の違いが気になる。

ところで松山にはすでに会館がある。その扱いがどうなるのか、説明がない。

御相伝の秘奥

何となくインフレを起こしている印象がある。現状では古文献の多くが活字化されており、さらにはデータ化も進んでいる。ゆえに日寛上人の御指南にしても勉強家であれば容易に得られる情報なのである。それをヒオウなどと大仰に言ったところで、逆にシラケてしまうのではないかと思う。

テーパリング

経済オンチのわたくしはこうした専門用語を目にしただけで拒否反応が起きてしまう。ゆえに正確には理解できていないが、ようするにインフレ抑制のための手段のようである。

かくて円は大暴落し、制御不能のハイパーインフレが一国を襲うのであります。

前掲はアメリカの話であって、上掲は日本のことである。途中の説明がややこしくて省略してしまったが、わたくしなりの理解を示せば、アメリカないし世界各国がインフレ抑制に転じているのに日本は長年のデフレ傾向が一種の平和ボケ状態を醸成し、世界のトレンドに敏感に反応できておらす、結果として気がついた時には制御不能のインフレ状態に陥ってしまうであろう、という感じになるだろうか?

日本株

浅井先生の説明でとりわけ理解不能だったのがこれである。日本株とは何かがわからない。日本国の株? 日本が株式を発行している? それとも日本の株式市場で取引されている株全般の意味なのか?

生活実感として言えることは、普通に買い物していて何だかわからないが少しずつ値上がりしているような気がすることである。消費増税の時期ならばそれが原因とわかるが、今は何がどうなっているのかまったくわからない。これがインフレということなのだろうか?

 すでに世界は、アメリカを中心とする自由主義陣営と、中国・ロシア・北朝鮮を中核とする全体主義陣営に二分され、覇権を賭した深刻な睨み合いが続いている。

わりと最近になって言い出した構図だと思う。以前から似たようなことは言っていたものの、自由主義と全体主義の二分類は新見解かもしれない。

アメリカは日本を「弾よけ」に利用しようとしている。
中国は日本を脅して自陣営に引きずり込もうとしている。


この具体的な説明がどこにもない。例えば中国が日本を脅しているとは、どのような事案を示すのだろうか?

すなわち孤立した日本に「極超音速ミサイル」が飛び交うようになる。

常識的には考え難いことである。絶対にあり得ないとは言わない。とは言え、今の状況では起き難いことである。

アメリカ基地がたくさんある。その状況でミサイルが飛び交うとすれば「弾よけ」云々が有名無実化する。あるいは現時点で在日中国人が無数に存在する。そこにミサイルを撃ち込むとは思えない。逆に言うと、米軍が完全撤退したり、在日中国人が一斉帰国するようなことが起きれば、その時には現実味を帯びてくるだろう。

御断案

難しい表現である。

話を少し戻して、日本が国家破産すると、それが世界に波及して大恐慌を起こす、大恐慌が大闘諍を招く、というのが浅井先生のシナリオである。わたくしも長らく日本発の世界恐慌をあり得ることだと考えていたが、今は少しずつ考えが変わりつつある。浅井先生も認めるように日本は衰退国家となりつつあるのだ。もしそれが事実ならばいずれはあらゆる意味で影響力をもたらさないショボい国になってしまうかもしれない。つまり、日本だけが潰れて、他にはまったく波及しない可能性も考えられるのである。日本が亡ぶ意味では先生のシナリオ通りであるが、日本だけが亡んでそれで終わるとすれば、先生のシナリオは外れたことになるだろう。

2022/1/16

カシン  
本自名人下氏に感謝したい。正直に言うと、わたくしは二十二年間の部分をうっかり読み飛ばしていた。まずこれがポイントで、いわゆる町医者レベルであればそうした長い付き合いもあるだろうが、難病の場合はむしろ医師が移動になってしまうことが多いのではないかと思う。わたくしの拙い経験で恐縮だが、かつてある手術を受けたことがあって、それから五年間は予後を診てもらうために半年に一回ほど通っていた。しかし、執刀医は別の病院に移ってしまい、新たに赴任してきた先生が引き継いだ。ところがその先生も移動になってしまい、三人目の先生が引き継いで、そこで五年が経過して病院通いを終えたのだった。ゆえに二十二年は相当である。その上で顕正会員のことだから医師だろうが看護師だろうが折伏する。顕正会ではことさら臨終のことを強調して話す。あるいは自分が死んだら臨終の相をよく見てほしい・・・みたいなことを医師に向かって言う人もいるのかもしれない。確かそんな登壇記事もあったような気がする。なるほど、興味本位と言ったら語弊があるものの、医師が顕正会員の臨終に関心を寄せても不思議はないのかもしれない。

大沢氏にも感謝申し上げねばなるまい。

いえいえ、巌虎さん。過信ですぞ。
気付いた時には、影響を受けてしまっているのが怖いところです。


ちなみに沖浦氏はこういうことを書かれると即座に反発する。コメント欄を眺めていれば誰もが目撃できる事実である。わたくしはわりと素直なタチで、上掲を目にして確かにそうかもしれないと反省する。

巌虎さんが「影響を受け難いタイプ」と言うのなら、巌虎さんは元々、他者への尊敬、敬意、信頼の念が薄い人(=高慢な人)なのかもしれませんよ?

この辺も鋭い観察だと思う。これについても沖浦氏の場合は、議論で勝てないから人格攻撃に出た・・・などと反発する。わたくしの場合はむしろ感謝したいとの思いが強い。

よくあるのが罪障消滅になるから喜んで悪口を言われるべきという説明だが、もちろん折伏の時であればその通りなのだろう。しかし、拙ブログは折伏でも何でもないわけで、もともとは独白なのだから誰からも相手にされないのが普通なのである。それにもかかわらず言ってくれる人がいるのはありがたいことだと思う。

しかし、ここまで書いて思うことは、これに対して沖浦氏がまた何か言ってくるのは当然であり、それを承知であえて上述のような書き方をしているわけなのだが、それと同時に他の読者がわたくしに対して反発心を覚えるかもしれない、ということである。俗な表現を使えば、ムカツク、みたいな感じになるかもしれない。テメエ、コノヤロウ、という感情を懐く人がいても不思議はないと思う。問題はそれをどうやってぶつけるかだろう。結局、言論の世界ではテメエ・コノヤロウは通用しないのである。その意味で拙ブログのコメント欄に書き込んでいる人たちは、タイプはそれぞれ違うにしても誰もが紳士淑女だと思う。

さて、顕正新聞第1566号である。

御入滅七四一年の新春を迎う

記憶がアイマイだが、以前は御入滅ではなく聖滅だったような気がする。いずれにしても顕正新聞新春号の大見出しはこれが定型となっており、浅井先生もいつだったか変えるつもりはないと言っていたと思う。

広布決戦場の第三年を迎えて

年頭の辞である。先ほどの御入滅〇〇〇年は永久不滅であるが、こちらの年数は時限的なものである。ほんの数年前までは別のことを言っていた。国難〇年である。同様に今の決戦場〇年もいずれは言わなくなるだろう。

ちなみに年頭の辞の中身については特に書くことはない。ここ数ヶ月間の総幹部会での会長講演を要約したような内容だからである。

次に各部代表の年頭決意を見てみよう。

御在世以来のスケール

総男子部長は広告文が七千万部を超えたことを、御在世以来のスケールと言っている。創価学会の大躍進時代を無視している点が気になる。もし今の段階で創価学会を超えているのであれば言っていることは正しいだろう。現実には超えていない。もっとも御在世以来と言っている点が顕正会らしい奥ゆかしさであり、かつての創価学会は御在世を超えたかのような言い方をしていた。この辺が話をややこしくしている原因である。

「皇室の一大使命」特集号が五十万部増刷された・・・

総合女子部長の記事である。普段の発行部数だとか特集号の平均的な増刷部数を知らないので何とも言えないところだが、それでも五十万部は凄い数だと思う。しかし、あれは決して出来のいい記事ではなかった。

先生によって御相伝の秘奥が一つひとつ明かされる時の凄さ・・・

総合女子部長は今の大幹部の中では若い部類なのだろう。多くの古参幹部たちにとっては、先生の指導はどれもこれも過去の焼き直しであり、新鮮さはない。強いて言えば説明の仕方に工夫を加えることで新鮮味を出しているような感じだと思う。その努力は評価してもいいかもしれないが、しかし、さすがに上掲は誇張が過ぎるだろう。

総合婦人部長の記事は特に取り上げる必要はなさそうだ。

新春号の構成はやや特殊で、この後に十二月総幹部会の報道がある。次のくだりは編集部が書いたものなのだろう。わたくしにとっては意味不明だった。

一段と早まった広布の時の到来に・・・

思えば、顕正会の首脳部も拙ブログにはムカついているかもしれない。

2022/1/15

カラン  
直近の大沢氏のコメントはなかなか示唆に富んでいる。その中でもわたくしが注目したのは次のくだりである。

正当な批判とはいえ、沖浦氏の事を余り構っていると段々「頭が沖浦」になってしまい、最後には類友で、似たもの同士になります。

自画自賛ながらわたくしは影響を受け難いタイプなのだろう。頭が沖浦氏になる様子はない。類友云々は上掲の意味ではなく、原義的な意味でもともと似た者同士なのだと思っている。もっとも実際は氏とわたくしとでは生き方から何からすべて異なるわけだが、どこか本質的な部分で共通するところがあるのだろう。それを最初に発見(?)したのは大沢氏だった。

さて、そこで話を沖浦氏のほうに向けよう。

此の由を知らざる智者共・・・

もしよろしければ見解をお聞かせ願いたい。後年の日興上人がこれに当てはまるとの主張はしばらく置くとして、ここで大聖人が仰せられる智者共とは誰のことなのだろうか? 複数形である点も見逃せない。

これまた自画自賛ながら無所属のわたくしは教学的にも誰の影響も受け難い。おおむねは日蓮正宗の教義とプラス顕正会の主張を部分的に支持しているわけだが、最終的には誰が聞いても、なるほど、そうだな、と思えるような合理的な結論を探っているつもりである。その意味で沖浦氏の問題提起は有益であって、御書を学ぶ上での良き刺激剤なのである。失礼ながら教科書通りの教学で終わっている人には理解できない境地だろう。

さて、今日も顕正新聞の続きである。

主治医が弔問に訪れました・・・

男子部第八十九隊支隊長(茨城県)は数々の難病を患う同志のことを語っている。結局、亡くなってしまうわけだが、わたくしが注目したのは上掲である。人生経験が未熟ゆえか、わたくしは医師が弔問に来るケースをまったくと言っていいほど知らない。例えば終末医療を専門にしている病院がある。まさか患者が亡くなるたびに弔問に行くのだろうか? あるいは救命救急の場合、現実には手遅れで助けられないケースもたくさんあるだろう。その手の医師たちも弔問するのだろうか?

9ミリの尿管結石
 「カラン」と出る


上掲は男子部第百隊組長(神奈川県)の体験発表である。カランの意味がわからないだろう。少し本文を読んでみたい。

 通常、尿管結石は四ミリ以下であれば自然に排出されるのですが・・・

結石が大きいので入院手術が必要だった。ところがトイレで用を足していたら、カランと音がした。一センチ近くもある結石がおしっこと一緒に出てきた。つまり、結石が便器に当たった時の音がカランの正体だったわけである。

犠牲も悲壮もない・・・

女子部第十総部長(九州)の記事にはご覧のフレーズが出てくる。裏を返すと、犠牲も悲壮もある、それが顕正会の実態だろう。

先生の師子吼に感応する諸天の働きに驚きを禁じ得ませんでした。

第二十九男子部長(中国地方)は何を言っておるか、と思う。先般の衆院選で安倍氏が落選していればまだしもであるが、得票数を減らしたくらいで諸天の働きを云々するのはかなりの無理筋だろう。なぜならば自民党の有力議員で現実に落選してしまった人がいるし、小選挙区で落選し辛うじて比例復活したという人もいるからである。それに比べれば相当にマシである。

公明党を何とかしたい。・・・維新と国民民主を自民党に引っつければ公明党に譲歩する必要がなくなる

これは日本会議に所属する山口県議の発言だそうである。これに対して登壇者は戯言と言っている。しかし、どうだろう。部分的ながらも自家撞着の気味が感じられなくもない。なぜならば公明党を何とかしたいのは顕正会も同じだからである。

 そしてこのたび、たまたま学会の谷川主任副会長が学会機関紙に大謗法の発言をしているのを目にしました。

これは珍しい。基本、こうした教義の根幹に関わる話題は、会長講演が初出となるはずだからである。

 「もとより御書には弘安2年の御本尊が根本とは記されていない。それどころか阿仏房に与えられた御本尊を『出世の本懐とはこれなり』と示されている御文もある。弘安2年の御本尊だけが唯一絶対のものではないことは明白である」

主任副会長がどれほどの立場なのか知らないが、けっこう大胆なことを言っているのは事実だろう。

 さっそくその真意を広島県内の現職公明党市議に問い糺しましたが・・・

これは興味深い。そもそもなぜに市議に聞いたのか不明だが、ともかく続きを読んでみたい。

市議は、案に相違して
 「大聖人直筆の御本尊は別箇。根本は戒壇の大御本尊だ」
 と出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の大事を認めておりました。


市議の個人名まで書いてあればよかったのにと思う。なぜ伏せたのだろうか、そこが気になるところである。

年齢が重要だろう。今は世代交代が進んで三十代の市議もザラにいるはずなのだ。もし上掲の人物がそうした若い世代ならば創価学会も捨てたもんではないのだが、おそらくは逆だろう。老齢の市議だと思われる。この点、残念ながら沖浦氏の予想する未来が待っているのかもしれない。

2022/1/12

ホウマツ  
沖浦氏は月水御書がお好きなようである。しかし、委細に見ればその引用はきわめて恣意的であり、日興上人を否定するには不適切の引用と言わざるを得ない。なぜならばこの当時、日興上人はすでに大聖人の御弟子になられてはいたものの、相当の若年者だった。俗な言い方をすればコゾウだった。つまり、月水御書は日興上人を念頭に置かれて認められたものではないのである。例えば、能登房とか少輔房はかなり早い時期に退転してしまったわけだが、御書の各所にその旨の記述がある。当然、良くは書かれていない。同様に、日興上人にも何かしらの問題が存するのであれば、大聖人がその旨を記されたとして不思議はないだろう。とは言え、月水御書がそれに該当するとは思えない。まさかこの時期、日興上人が大聖人に逆らうような言動をしていたとは考えられないからだ。後年の問題はさておき、まずは月水御書の例の御指南について、具体的には誰を想定して認められたものなのか、その辺の考察が必要になるはずである。御書の背景をまったく考慮せず、表面上の文言だけを引用するのは切り文の一種であり、意図してやっているとすれば悪質である。沖浦氏がそんな人物だとは思わないが、まずはその意味でも当該御書についてはその背景から考える必要があるだろう。

さて、顕正新聞の続きである。

東京都知事選では、大阪から何度も東京に駆けつけるほど票集めに奔走・・・

女子部第二百二十一区組長(大阪府)の記事は意味不明である。ようするに彼女は選挙活動に没頭していたことを上掲のように説明しているわけである。しかし、誰の票を集めたのか、まったく不明である。これが都議会選挙であれば公明党の候補者を応援しているとわかるが、都知事選挙では誰を応援したのだろうか?

その意味では隣の男子部第百五十四隊組長(大阪府)のほうがわかりやすい。

 その後、私は大阪の八一部隊長だった元公明党書記長の矢野絢也のもとで・・・

後年、公明党の書記長として名前を馳せる人物のもとで活動していたらしい。創価学会の部隊長なるものがどのくらいの役職なのか知らないが、今の顕正会では男子部長だとか総部長がザラにいる。いわばそのくらいの人たちが政界進出の時に立候補し、次々に国会議員になっていったわけなのだろう。顕正会の場合、いくら頑張ってもそのような見返りは期待できそうにない。不純なことを書いているようだが、現実問題として離脱者が後を絶たない理由の一端がここに垣間見えているのだと思う。

「過去の人」になりつつある安倍晋三

世相閻魔帳第二十三回も面白かった。有名政治家のアングラ情報みたいなものを知りたい人はこれを読むべきだろう。週刊誌などを買わなくてもこれだけ読んでいれば済みそうである。

 年端もいかない若者ならまだしも、一国の宰相だった者の所為にしては軽すぎる。頭の中が軽いからだろう。

安倍さんも顕正新聞の存在は知っているはずである。何しろ全国の演説会場に顕正新聞を掲げる人たちが相当の頻度で出没していたからだ。しかし、本人が中身まで読んだかどうかはわからない。世相閻魔帳の筆者によれば安倍さんは頭の中が軽い人なので、そういうものにはまったく目もくれないのかもしれない。それにしても会長講演における政権批判と世相閻魔帳では内容が違い過ぎる。イマドキの言い方をすれば、後者はいかにもエグイ、エグ過ぎるのだ。

「NHKをぶっ壊す」と主張する泡沫政党を率いる立花孝志(NHK党党首)や安倍をヨイショしていた御用言論人たちよりも少ないとはお笑いだ。

動画サイトのチャンネル登録者数のことである。

しかし、かく言う顕正会はどうなんだろうかと思う。どうやら顕正会でもいわゆるビデオ放映を動画サイトに投稿しているらしく、今はコロナ禍でもあって会館でのビデオ放映ではなく動画サイトで視聴することがビデオ放映の代替となっているごとくである。ところが顕正会ではそれを限定公開みたいな形にして、広く一般には視聴させないようにしているらしいのだ。機械オンチのわたくしにはよくわからないが、そのような細かい設定が可能のようである。結局、これは自分たちのショボさが世間にバレないようにしているだけにしか思えない。それでいて安倍さんをボロクソに言っているのである。そのうち大ブーメランを食らうことにならなければいいのだが・・・

仲睦まじい安倍と藪本容疑者(左)。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったものだ

週刊誌類を読まないためか、わたくしは当該人物をまったく知らなかった。いわゆるアベ友の一人なのだそうである。

ちなみに拙ブログのコメント投稿者にしても、類は友を呼ぶ、そのものだと思う。何しろわたくしが相当の変人である。こうして自分で言ってしまうほどなのだ。そして普通はありがたい存在であるコメント投稿者に対しても、わたくしはあまり気を遣わない。同類と思われたくない人は去るべきだろう。

2022/1/8

カミクズ  
本自名人下氏はかなり危険なことを書いている。顕正会の集金力について云々できるのは、相当の幹部だからだろう。あるいは糖尿病完治について、ウソの登壇だと断じている。書いている内容からして、医療に詳しい人物であることがわかる。つまり、氏が誰なのか、特定されてしまう可能性があるのだ。あるいは拙ブログにコメントを書き始めた時点で、すでにその覚悟ができているのかもしれない。

さて、顕正新聞の続きである。まず、第九男子部幹事(大阪府)の記事を読む。

財政・国庫管理の責任者・・・

財務省事務次官のことらしい。財務大臣はお飾りに過ぎないと言っているに等しいだろう。するとどうなのだろう。しょせんは総理大臣もお飾りであって、官僚に動かされているのだろうか?

二〇二四年の新紙幣発行が不気味・・・

ここがやや不審である。なぜならば一定以上の年齢の人は新紙幣発行を経験しているからである。すなわち聖徳太子から福沢諭吉への切り替えである。わたくしの記憶が確かならば、さしたる混乱はなかった。

ちなみに浅井先生はこれに関して何度か言及している。しかし、それは経済問題としてではなく、お札の顔としての言及だった。聖徳太子の右に出る者はいない。ゆえにいずれ十万円札が発行される時には再び聖徳太子がお札の顔になると。

紙幣は紙くずとなって・・・

もちろん登壇者も新紙幣発行そのものが日本円の価値を毀損するとは言っていないのだが、いわばその頃が時期的にも国家破産のターニングポイントになると予想しているわけなのだろう。

婦人部第六総部幹事(首都圏)は今となっては相当の古参幹部であるが、次の意味においては最近の顕正会員とさして変わらないようである。

 愚鈍の私たちが、未だお値いしたことのない「秘仏」であられる戒壇の大御本尊様に恋慕の思いを懐き・・・

秘仏についてのそれぞれの認識が気になる。今や創価学会員にそれを問うのは愚問だろう。問題は法華講員である。どのような認識なのか、もしくはどのようなイメージなのか、気になるところである。

それはともかくとして、上掲へツッコミを入れておくと、顕正会員の場合、秘仏なるがゆえに御目通りが叶わないのではなく、解散処分になっちゃったから御開扉を受けられないのである。この点を誤解してはならない。

「秘宝」たる御生骨が光を放つ広宣流布に胸をときめかせ・・・

この認識もそれぞれ違うのだろう。ここで言えることは顕正会員は純粋、少なくとも真面目な活動会員たちは純粋である。

婦人部銀座支区総班長(首都圏)の記事が興味深い。

自分は正本堂の骨組の重量鉄骨部分を作った職人で・・・

何の職人なのか、やや不明である。

作業現場では、大勢の人が目の前で亡くなり・・・

鉄骨の組み立てをするのは鳶職人である。すると転落死だろうか?

ちなみに前掲の意味するところは鉄工所の工員であり、古い言い方をすれば鍛冶屋である。小規模であれば自分のところで鉄骨を製作し、自分たちで組み立てることはあるだろう。しかし、大規模な建造物ではあり得ない。

その正本堂が壊わされたと聞いたときは、日本中の人が池田大作に騙された、許せないと思った・・・

チグハグ感が半端ない。例えば創価学会員であれば、日顕は許せない、と言うだろう。なぜにヤブカラボウに池田氏の名前が出てくるのか、そこが不自然である。また、この人物にとって正本堂は忌まわしい建物のはずである。なぜならば目の前で大勢の人が亡くなったからである。その意味からしても上掲は整合しないし、そもそも日本中の人が騙されたという認識もどこから導き出されたものか不明である。

よって当該記事は創作の疑いが濃厚である。まさか人物そのものが架空ということはあるまい。とは言え、いかにも顕正会目線で脚色されたことがバレバレの記事である。

その仕事に入るときに全員入信させられ、御本尊をもらった。

正本堂の建設に携わった人たちも高齢化しており、こうした証言も貴重になってきた。一方でどこまで信憑性があるのか、そこが問題でもある。現実的には顕正会の会館だって工事業者の全員が入信しているわけではないだろう。まさか入信を条件に工事を委託するわけではあるまい。こうした常識的な視点からしても上掲には疑問を懐かざるを得ないところである。

2022/1/6

ビコウ  
前々回のコメント欄に蝸牛氏の貴重な投稿がある。埋もれさせてはいけないので紹介しておこう。

わたくしなりに要約すれば、日蓮宗の宗憲や本門佛立宗のホームページを見れば彼らも大聖人を上行菩薩の再誕と認識しており、本尊抄と救護本尊の讃文を拝すれば大聖人が上行菩薩の再誕との御自覚に立たれていたことは確実である、となるだろうか?

また、前回のコメント欄では本自名人下氏が壊れたテレビを叩く話を紹介しているが、まったく苦笑を禁じ得ないところである。まさに前時代的であり、おそらくは浅井先生の頭の古さを指摘しているわけなのだろう。

ところで沖浦氏からは質問のようなコメントが発せられている。

しかし、知っていてワザと聞いているフシがある。その意味ではむしろ法華講諸氏が指摘するように、創価学会の公式見解とも違う沖浦氏こそ問題であり、どこがどう間違っているか自分でチェックしてみる必要があるだろう。

上から目線で御宗門に要求を突きつけたところで、ダメでしょう(浅井会長が工作しようとすれば、そういう姿勢になるはず)。

ここは重要なので少し書いておきたい。現状、具体的な折衝があったのかどうか、それすらも不明である。しょせんは勝手に推測しているだけなのだが、もし折衝があったとすれば平成十年だろう。顕正会的には御遺命守護が完結した年であり、そこで同時に宗門復帰が実現すれば正真正銘の完結と言えただろう。ところが決裂してしまった。いわばその憤懣が翌年の御相承断絶発言につながるわけである。ゆえにこれ以降は復帰のために顕正会側からアプローチすることはなかった。平成十年ないし十一年初頭で宗門との関係は完全に切れてしまった。

これにはもう一つの視点があって、顕正会は平成八年に宗教法人を取得している。つまり、この時点ですでに独立教団路線を開始していた。宗門復帰など、さらさら考えていなかった。ところが平成十年に思わぬ出来事が起きた。いわゆる不思議の還御である。不思議を冠するのは、予想外だったからだろう。すでに宗教法人を取得して独立教団路線を歩み始めていた顕正会としては、本気で復帰するつもりはなかったのかもしれない。ゆえに上から目線で自分たちに有利な条件を突きつけた。交渉は決裂した。独立教団のほうがオイシイと思えば、それが必然だったかもしれない。

もちろん推測に過ぎない。おそらく浅井先生は何も語らずに生涯を終わるのだろう。誰かが真相を語る時が来るのだろうか?

さて、顕正新聞の続きであるが、まずは沖浦氏への提案を兼ねて男子部第十一総部長(中部)の記事を紹介しよう。

 十月三十日の夕方、薄汚い「寄生虫」が浜松会館に隣接する公園に出没したとの報告を受けたので、・・・駆除するために現場に向かいました。

ここでの寄生虫とは妙観講員のことである。顕正会では妙観講員が近づいてきたら、すぐに幹部に報告するように徹底している。報告を受けた幹部は直ちに現場に急行する。教学に自信のない幹部はさらに上長に相談して、しかるべき人材を派遣してもらうのだ。そこで妙観講員と顕正会員の丁々発止の法論が始まる。そんなことが日本全国で行なわれているのだ。

ゆえに沖浦氏がそれほどまでに顕正会員と法論をしたいのであれば、顕正会の会館を尋ねるべきだろう。もちろん会館に直接アプローチする必要はない。近くの公園に行けばいい。そこには顕正会員と思しき人物がいるはずである。そこで声を掛ければいい。どういう結果になるか、興味深いところだ。

 その中、顕正会本部と甲府会館に、身延派の末寺を騙って「目を覚まさせてやるから法論に来い」との挑発的な手紙が送付されてきました。

話が変わって恐縮である。上掲の背景として、いわゆる身延派日蓮宗に対して、山梨の男子部組織が顕正新聞特集号の送付を行なったという。それがぜんぶで四百十五ヶ寺だそうである。するとある寺院から返信があった。それが上掲の話である。ところが当該寺院の住職はまったく身に覚えがないという。

 「顕正会とは法論をしてはならない」

身延派の宗務院では上掲のような通達を出しているそうである。ようは誰かのイタズラだったわけであるが、その返信に記されている携帯番号は身延派の住職にしか教えていないという。すると別の寺院の住職が犯人になりそうである。

 身延派僧侶のえげつなさを思うとともに・・・

しかし、これは早計だろう。身延派僧侶が自分の仲間に迷惑を掛けてまで、このような謀略を企む必然性がどこにあるのか、それを考えれば別の可能性も見えてくるはずである。極論すれば、創価学会の謀略かもしれないし、日蓮正宗の謀略かもしれない。携帯番号云々がポイントで、たまたま何かの折に携帯番号を知る機会があったとすれば、まさにチャンスと思うかもしれない。それこそ自分たちの犯行とは気づかれずに済むからである。謀略とはそういうものであって、身延派僧侶を犯人と思うのは謀略そのものが幼稚すぎるし、そこに気がつかない登壇者も幼稚ということになるだろう。

先生を尾行した学会謀略部隊の末路
 死亡・左遷・消息不明、現罰に慄然


男子部百五十五隊支隊長(岐阜県)の記事に驚いた。死亡だとか左遷、あるいは消息不明、これらが別々の事象であれば普通である。世の中でザラに起こっていることであり、驚くに値しない。ところが浅井先生を尾行した人たちが揃いも揃って不幸になっているとすれば、ちょっと怖い話である。

彼らは顕正会本部から来ていた衛護隊に問い詰められて警察に連行され、一連の謀略行為を認めて謝罪文を提出したのでした。

そういえば、そんな記事があった。その記事に載っている名前と、今回の記事に出ている名前が一致すれば、これは相当なものである。

天生原の四キロの道のり・・・

第五十三女子部長(岩手県)の記事だが、このフレーズもそろそろ使えなくなるかもしれない。


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