2008/2/22

穴あき?  
瑠璃堂氏のブログは欠かさず拝見しているが、このところは漫画チックなノリと言うか、人物描写が巧みなのだろう、それぞれのキャラクターが活き活きと描かれていて、その姿かたちがあたかも立体的に映じるほどである。白鳥区長など、その名前からして、あこがれの的のようなイメージが喚起される。また、瑠璃堂氏が旧区長宅を訪ね、布団を並べて会話をしているシーンなどは、まるでテレビドラマのようである。

それはさておき、拙ブログへのコメントはけっこう難解だった。

全体として、何を言わんとしているのか、その大意がよくわからなかった。ことにわたくしはカタカナ語に弱いので、アナーキーというのが俄かには、わからなかった。
そういうわけで、これから書くことは見当違いも甚だしいことになるかもしれないが、それは独白ブログということで、お許し願いたい。

御書を開くとき、ドキドキしませんか。

ぜんぜんドキドキしない。そんな記憶はまったくない。もしかしたら、ずっと昔にそういう時があったのかもしれないが、今はまったくドキドキしない。
これは、いい意味でも悪い意味でも、感覚が麻痺しているからだと思う。例えば、勤行がそうである。わたくしは今でも朝晩の勤行だけは欠かさない。けれども勤行の時に、ドキドキ感もなければ、ワクワク感もない。いわゆる惰性に流された勤行なのである。
いい意味に捉えるならば、勤行の習慣が身についていることになる。ただし、ご存知のごとく、浅井先生は惰性の勤行を戒めているわけで、歓喜充満の勤行でなければいけないと言っている。

御書の拝読においても、同様のことが言えるのだろう。朝晩の勤行ほどではないにしても、毎日のように御書を拝読していれば、やがては惰性的にならざるを得ない面があると思う。それでわたくしの場合は、すでにドキドキ感を卒業してしまって、残っているのは多少のワクワク感だけである。あるいはこれも、いずれは消滅してしまうかもしれない。
わたくしの記憶が確かならば、瑠璃堂氏は昨年になって初めて御書を購入したのだと思う。顕正会を離れてからのブランクもあるし、その意味ではドキドキ感があって当然かもしれない。もしこのドキドキ感を、五年後とか十年後においても持続しているとしたら、それはたいへん素晴らしいことであり、ある意味ではひじょうに機根がすぐれていることになるだろう。

ここ最近、足枷という言葉を何度か使った。
瑠璃堂氏においては、すでに足枷はないはずである。いや、もちろん、精神的な意味で引きずっているものがあるのかもしれないが、いちおう今は顕正会の組織から足を洗って、普通の社会生活を営んでいるわけである。
それにもかかわらず、自ら御書を購入した。これはタダゴトではない。機根がすぐれている。上根上機なのだ。あるいは宿縁とも言えるだろう。
問題は五年後十年後である。なぜならば、人の心は移ろいやすいからだ。もし今後、御書の拝読を継続していって、ドキドキ感・ワクワク感を失わずにいたならば、あるいはもっとも成仏の最短距離に立っているのが瑠璃堂氏なのかもしれないと思う。逆に言うと、歓喜を持続することは、それほどに困難なのである。

しかし、顕正会員におけるドキドキ感は、あるいは罪悪感によるものなのかもしれない。

ようするに、昨今はいわゆる一念信解路線であって、御書を自ら学ぶことはかえってオコガマシイことだとされているのだ。あくまで御書は浅井先生を通さなければ正しく拝せないのだと・・・

ゆえに、昨今の顕正会員は御書を買うことすらない。あるいはマレに、こっそり購入して密かに勉強している会員もいるかもしれない。しかし、そういう人は、やはり後ろめたい気持ちを持たざるを得ないのではないかと思う。換言すれば、罪悪感ということである。

瑠璃堂氏のドキドキ感はこれであろうか?

しかし、自らアナーキーを云々するほどであるから、もはや瑠璃堂氏には足枷はないのではないか、少なくとも現役の顕正会員に比べたならば、遥かに自由度が大きいはずである。

顕正会員は不自由きわまる・・・

そうそう、今日は顕正新聞の第1093号から話題を拾おうと思っていた。正直な感想を言えば、いつもながら、どれもこれも似たり寄ったりの記事ばかりで、ウンザリである。自由度がなさ過ぎるのだ。瑠璃堂氏の言葉を借りれば、心の自由と解放に繋げなければいけない。そういう紙面づくりを考えてほしいものだ。

2016/4/11  0:54

>しかし、そういう人は、やはり後ろめたい気持ちを持たざるを得ないのではないかと
思う。換言すれば、罪悪感ということである。

全然ありませんな、罪悪感は。但し、やはり最初は御書なんて難しすぎて拝しても意味
がないのではないかと思ったりはしていました。然るに、罪になるとは一切・・・。ま
あ、「それはオマエが、模範的な顕正会員じゃないくて特殊だからだ」と叱られるかも
知れませんが。
しかし、そうであれば、私は幾らでも受けて立ちましょう。大聖人門下である筈なの
に、大聖人が弟子、檀那に書かれた書を読んで何の悪い事があるのか?現役でもその他
でも、反論ある方はいつでもどうぞ。

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