2008/8/13

前田氏への返事を兼ねて  
巌虎さん、皆さん、お邪魔します。久成釈尊を本尊と拝しています。さて、時間の空いたときで結構ですが「無仏の時(本仏が)」って、あったとお考えでしょうか?自分は「仏滅は方便」と考えています。巌虎氏の発想の基本には「無仏の時間」がおありの様に思えてならなくて・・・お尋ねしてみました。

一昨日の夜遅くに前田氏よりコメントを頂戴した。八月四日分の拙稿に対するものである。

久成釈尊を本尊としていることを最初に表明されている点、ひじょうに紳士的であり、好感の持てるコメントである。質問は、無仏の時があったのか、それともなかったのか、というものであるが、ここでも好感度を高める書き方をしておられる。この点、他の読者は気がつかれただろうか?
ようするに、ご自分の考えを示しておられることだ。
ありがちなのは、自分の立場を隠し、さらには自分の主張も示さず、やおら難解な質問をしてくることである。こういうのは失礼千万であり、その失礼さもさることながら質問の意図がまったくつかめないので、こちらとしても回答のしようがない場合が多いのである。

それはともかく話を進めよう。

http://diary.jp.aol.com/ganko/361.html

もう二年以上も前になるが、リンク先のごとく書いた。その中から、一部を書き出してみよう。

無仏というのは実に単純な話であって、仏が化導を垂れる期間には限りがある、すなわち釈尊五十年であり大聖人においては三十年とされているわけであるから、その期間を除けばすべて無仏の時代なのである。

これはわたくしが勝手に言っているのではなく、大聖人の御指南に基づいてのことである。たとえばリンク先の翌日に顕謗法抄を引用してあるが、そこにはっきりと「今の世には仏ましまさず」との仰せを拝することができる。
前田氏はこれを方便であると、おっしゃった。ということは、大聖人の仰せは便宜的なものであって、その底流には仏の常住此説法が厳然と存するわけなのだろう。わたくしもこれにほぼ同意である。

だが、完全に一致しているわけではない。何が違うかは一目瞭然である。前田氏は久成釈尊の常住此説法を主張しているのだが、わたくしは日蓮大聖人の常住此説法を主張するのである。ここが違うのだ。

建治元年の一代五時鶏図に、天台宗の御本尊についての説明がある。久遠実成実修実証の仏云々と。さらに久成の三身について、無始無終と書かれている。つまり、久成釈尊は無始無終である。換言すれば永遠ということだろう。これが天台宗の御本尊である。

この一代五時鶏図に基づくならば、大聖人の常住此説法は否定されることになる。なぜならば、釈尊が常住此説法をしているわけだから、そこに大聖人が出てきたらバッティングしてしまうことになる。
だが、わたくし自身はすでに解決している問題であって、少しも困らない。簡潔に言えば、久成釈尊とは大聖人の御事である、ということなのだ。別々の存在だとすれば、二仏並出の失ともなりかねないが、同じ存在であれば、まったく問題は生じないはずである。
問題は同一存在であることの根拠であろう。これがけっこう面倒な点であるが、今日はちょっとだけ触れておこう。

これは富士川一郎氏が諸宗法論館というところに書いておられるのを拝見するまで、わたくしはまったく気がつかなかったことなのであるが、鶏図における天台宗の御本尊は像法時代の本尊であって末法のそれではないのである。しかし、おそらく日蓮宗系統の人たちは言うだろう、大聖人の御書を拝する限り、久成釈尊以上の存在は見出せないと・・・
日蓮正宗では御相伝書などを用いて、それ以上の存在を導き出すわけだが、これはどうも議論が平行線になるケースが多いようなので、わたくしは別の道筋から論じたいと思っている。

ようするに大聖人は久成釈尊である。これはまさしく、習い損ないの天台宗の連中には思いも及ばないことであり、彼らの立場においては断じて肯んずることのない点で、まさに像法と末法との画然たる違いがあることなのだ。

2008/8/14  12:48

投稿者:わだっち
前田様

日蓮正宗は「文底下種仏法」です。
文上の意だけではなく、文底を拝しないと
いけないため、議論を行ったとしても平行線
となります。ご質問の件は、共に「六巻抄」に
まとめられておりますので、機会があれば、
ご参照くだされば幸いです。

2008/8/14  9:07

投稿者:前田
(追補)
「如来以是方便。教化衆生。所以者何。」の後に

(如来、この方便をもって、衆生を教化す、ゆえんはいかに・・・・・)如来寿量品より

を追補いたします。スミマセン

2008/8/14  0:14

投稿者:前田
巌虎さん、「如来以是方便。教化衆生。所以者何」だと思います。
ありがとうございました。
さて
>ようするに大聖人は久成釈尊である。とございます。
私は「天台宗の連中」ではないがやはり理解しがたい。
先ほど、れん氏から「旅の宿」と重大なヒントをいただいたのであろうが、これでも浅学の私には理解できそうに無い。

失笑覚悟でお聞きする。

私の言う「久成釈尊」とは「久遠実成、釈迦牟尼世尊」の略であり、「久遠実成、釈迦如来」のことである。「この久成仏は「日蓮大聖人様」のことではなく、日蓮の師であり、日蓮大聖人様はこの久遠実成釈迦牟尼仏の使いである」と認識していますが・
ま、ここいらが「平行線」行きなのでありましょうね。
次には、「本尊」について質問させてください。
今回は皆様ありがとうございました。

2008/8/13  22:26

投稿者:わだっち
「無仏の時」とは、文上のみでの評価だと思います。
大乗とは、信仰者個人が仏性を開き、信行学に励み日々研鑚する事で「常楽我常」の涅槃の境涯を得られると言う事であり、即身成仏の基本となる事であります。その意味において「無仏の時」は存在しないはずです。

2008/8/13  12:58

投稿者:hage
法華経の教えや、日蓮聖人の教え、先師の教えを『昔話』としてしまえば、「無仏の時間」となり、
法華経の教えや、日蓮聖人の教え、先師の教えを今現在の自分に当てはめて心に留めて信行に励めば「常住浄土」となると、私は思います。

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