2008/8/16

本尊抄に拝する総別の二義  
れん氏は釈尊と大聖人の関係を、帝の譲位になぞらえて説明されている。これは御義口伝の次のような御指南と、大いに関連があるに違いない。

此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ず。既に此の品の時上行菩薩に付嘱し玉ふ故なり。

所有権移転みたいなものだ。もはや釈尊には権利がない。しばしば言うところの、役に立たない仏、というのは、こうした御文が根拠となるのだろうか?

しかし、前田氏はこれを認めないだろう。おそらくは御義口伝を信用していないだろうし、仮に真書と見なしたとしても別の会通をするに違いない。たとえば、法は付嘱したけれども、仏の位を譲ったわけではない、ゆえに、あくまで釈尊が仏であって、大聖人はその使いであると・・・

わたくしは観心本尊抄にこそ、譲位の概念が濃厚にあらわれていると思っている。

以前、為五郎氏がコメントを寄せて下さっていたが、その時にわたくしは、本尊抄における大聖人の御立場は末代幼稚である、と書いた。さすがの為五郎氏も、これには意表を突かれたものか、それ以降、姿を見せなくなった。
わたくしは何も奇抜なことを言って、相手を煙に巻いたわけではない。事実を述べたまでである。大聖人は上行菩薩の再誕、すなわち仏の使いである、というのがもっとも平均的な評価であるが、しかし、本尊抄を拝する限りは違うのである。結論としては、末代幼稚と申し上げる以外にないのだ。

ところで、本尊抄には種々の経論釈が引用されているが、おそらくは次の引用が最長ではないかと思う。

無量義経に云はく「譬えば国王と夫人と新たに王子を生ぜん。若しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復国事を領理すること能はずと雖も、已に臣民に宗敬せられ諸の大王の子を以て伴侶と為ん。王及び夫人の愛心偏に重くして常に共に語らん。所以は何、稚小なるを以ての故にといはんが如く、善男子是の持経者も亦復是くの如し、諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ず、若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句若しは一偈、若しは一転若しは二転、若しは十若しは百、若しは千若しは万、若しは億万恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体すること能はずと雖も、乃至已に一切の四衆八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属と為ん、乃至常に諸仏に護念せられ慈愛偏に覆はれん、新学なるを以ての故に」等云云。

ご存知のように本尊抄はひじょうに緊密な御書である。そこにおいて、かくも長い引用をあそばすには、それなりの理由があるはずなのである。
また、御書の分類として、わたくしは文系の御書と理系の御書があると思っている。申すまでもなく本尊抄は理系である。
理系の御書は、現代的な視点から拝して矛盾がなく、合理的であることが要求されると思う。もし大聖人の仏法が矛盾だらけの非合理のものであったならば、信ずるに値しないであろう。

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ。

有名な御文である。大聖人はこれを、国王が太子に一切合財を譲り与えることと同じである、という具合に御説明あそばしておられるわけであるが、ここに一つの疑問がある。
基本的に譲位を受けるのは、たった一人であることだ。国王に子供が何人いても、基本的には一人に譲位するわけだろう。
つまり、いわゆる其中衆生悉是吾子という釈尊の言葉はそのとおりだとしても、全員が一切合財を受け取れるというのは、きわめて非合理な話なのである。

そこは信仰の世界だから・・・などと言って、ごまかしてはいけない。

わたくしの結論は次のごとくである。いわゆる総じては一切衆生、別しては日蓮大聖人御一人への譲位を示唆しているのだ。大聖人は本尊抄において、御自身を末代幼稚と規定あそばしておられるが、かくも重大なる御書においてそのように御規定あそばすには、それなりの理由があると考えねばなるまい。

よって、一切衆生救済の原理として御説明あそばしておられる御文の紙背には、大聖人こそが釈尊からの譲位を受けた末法の御本仏たることが示されていると、わたくしは拝するものである。

このことは御本尊の相貌を拝するならば、よりいっそう明確となるだろう。本尊抄を御執筆の段階では、まだ大聖人の御署名と御判形の位置が不確定であったが、やがて中央直下に固定化されるわけである。一方の釈尊は上段の中央付近ではあるが、中心ではない。これもまた、譲位を示唆するものである。

2008/8/22  14:56

投稿者:前田
(つづき)厳虎氏の
「いわゆる其中衆生悉是吾子という釈尊の言葉はそのとおりだとしても、全員が一切合財を受け取れるというのは、きわめて非合理な話なのである。」
とお考えですが、「我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり、釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり・・・」(下山御消息・真・学会版359頁)とあるように水面が六十億面あれば六十億の同体(月影)が可能です。その反対に「能変の教主涅槃に入りぬれば所変の諸仏随って滅尽す土も又以って是くのごとし。」(本尊抄・学会版247頁)、天月が隠れたならば、すべてが「滅尽す」と言う関係です。
したがって、
「妙法五字を信唱受持する者がすべて釈尊の功徳を譲与してもらえると云う日蓮聖人の教示はきわめて当然だ」と巌虎氏とは真反対の解釈をいたしております。

当然のことですが「この文は、日蓮大聖人御一人への譲位を示唆しているのだ。」ではなく、「我等が二法を譲与(所化もって同体の世界の顕現・成仏)される。」
と本門法華経の功徳を説かれていると認識しています。

厳虎氏は「お題目の直下の花押は日蓮聖人が本仏であることを表している」と解釈しているようですが、弘安元年以降の大曼荼羅にも、花押と題目の間が離れているものや、題目とずれているものが幾幅もありませんか?

日蓮花押が題目直下に有っても無くても、日蓮聖人が本仏釈尊に取って代わって本仏の座に着いた事などを表しいるものとは考えていません。

花押は、神力別付の付属を受け末法弘通の勅命を受けた上行菩薩が、本仏釈尊の使いとして応生した日蓮聖人が確かに図顕したことを証する印判であると理解しています。

大曼荼羅御本尊の座配においては、日蓮聖人の本地本化上行菩薩は他の三菩薩と共に釈尊の脇士の位置にありますし。
ま、以上のごとく、考えています。

2008/8/22  14:53

投稿者:前田
巌虎氏も言われているが、いろいろな解釈があるものだと勉強になります。ロムするだけでなく日蓮宗系信徒の一人として、自分の意見をどしどし投稿したいと思っていますが、なかなか皆さんの話題のテンポについていけていません。さて、
「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ。」
の文意は、
「妙法五字受持唱題の信行によって、釈尊の功徳を譲り受けて仏位を成ずる事が出来る」 という意味だと思います。

「我等」と有るように、妙法五字受持唱題の信行によって、誰でも成仏出来ると云う教示です。

類文としては、
「此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり、」(太田左衛門尉御返事・真無・学会版1016頁)が有ります。

「太田左衛門尉御返事」にも、「末代貧窮の我等衆生の為に」
と有るように、譲与は(成仏は)日蓮聖人お一人を対象としているものではありません。
譲与を受ける者(=成仏する者)が日蓮聖人お一人だけに限られると仮定すると、皆成仏せしめる妙法五字で無いことになってしまいます。

「今此の妙経は十界皆成仏道なること分明なり」(爾前二乗菩薩不作仏事・曽存・426頁)
真蹟ではありませんが上記曾存と同文意なので参考として引用しましょう。
「夫れ一切衆生皆成仏道の法華経」(念仏無間地獄抄・真無・学会版99頁)
「夫れ法華経の意は一切衆生皆成仏道の御経なり」(阿仏房尼御前御返事・真無・学会版1307頁)
等の御遺文でも、法華経が皆成仏道の教えであると明示しています。
(つづく)

2008/8/20  1:01

投稿者:前田
(つづき)
「所化以て同体なり」とは、上行菩薩が果位久遠本仏であると云う意味でなく、上行菩薩等の本化菩薩は「久遠本仏所具の不生不滅本有常住の浄化せる本有菩薩界」である」と云う意味です。

「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」(観心本尊抄・学会版247頁)と有るように、釈尊の眷属として、因位の役目・姿を採っている菩薩です。
「本尊抄」に
「輔正記に云く「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す』等云云。」との文の直ぐ前に「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、又迹化の大衆は釈尊初発心の弟子等に非ざる故なり、天台大師云く『是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし』妙楽云く『子父の法を弘む世界の益有り』、」(観心本尊抄・学会版250頁)
と有ります。
地涌千界の大菩薩は釈尊が最初に教導した菩薩であり、本仏釈尊の弟子であり、子であるから、末法弘通の付属を受けたのである、と云う文意です。
「輔正記」にある「久成の人」の意味は
「法はこれ久遠実成の法であるから、(これを)久(遠実)成(の法に練れた所の)人に付(属)せられるのである」とか、「久遠実成所証の法であるから、久遠已来の弟子に付属するのである」と解釈すべきです。

ご意見では「久遠本仏釈尊が果位の地位から消えて、その代わりに上行菩薩が果位の地位に座った」事を教示する文証とお考えのようですが、私は以上のごとく認識いたしております。ひとまず以上です。ありがとうございました。

2008/8/20  0:57

投稿者:前田
残暑お見舞い申し上げます。
我が家でも「嵐のようなお盆」も一段落、渋滞を避けたい家族も家路に着いた。
いよいよ、後半戦ですね。

想定外に多くのコメントを戴いていた。のび太さん、ありがとうございました。さっそく調べて、昨夜「六巻抄」をダウンロードさせていただいた。やく百ページになりましたが便利な時代になったものだと感謝しています。

しかし、今回、巌虎氏から私にイエローカードが出されてしまった。真に面目ない。「三日前の古新聞」の感もあるが、大帝には「譲位」がゆるされない「終身位」であると言う意見を述べて、この件から離れたい。れんさん貴重なるご意見ありがとうございました、今後ともよろしくお願いいたします。

「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同躰なり、これ即ち己心の三千具足三種の世間なり」の文意は
「仏は既に(無始の実在として)過去にも滅せられたこともなく、未来にも生ぜらるることもなく(不生不滅本有常住の仏である。随って其の)所化の(の九界の衆生も)、この時空を超えた本時の娑婆寂光浄土に住する衆生だから、仏と以て同体(の不生不滅本有常住の浄化せる九界)である。
此れが即ち(本仏の)己心に三千具足せる(五陰・衆生・国土の)三種の世間なのである」(山川智応訳・観心本尊抄講話420頁)との意味です。
(つづく)

2008/8/16  23:59

投稿者:のび太
ですから、前述のとおり、なぜ、「譲位」しなくてはならないのか?と言う理由がわかりません。

何故なのでしょうか?

前田様、初めまして。

上記の疑問について、究極的には「民衆の機根」ということでしょう。
あなたの仰るとおり、文上限定で解釈をするならば久成釈尊は譲位されていません。
大聖人在世の時代様相は、末法思想と相まって形骸化した仏教(釈迦仏法)では衆生のだれもが救われないと肌で感じていたのではないでしょうか。
大聖人の御出現は、南無妙法蓮華経を旗印に立正安国と民衆救済に立ち上がられたこのお姿でしょう。
世界で初めて南無妙法蓮華経と発する、これは仏以外に成せる業でありません。
このことは、釈迦仏法→天台学の延長線上に位置するものでは決してありえない。
今風にいえば、構造改革ではなく「革命」である。
そう、政権が変わったということです。

最初に、百六箇抄『下種の法華経教主の本迹 自受用身は本上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。』でいこうと考えたが、大崎学派と富士門で飽きるほど論争されている。
そして、衆生の機根ほど重要な要素はない。と考える次第です。

2008/8/16  22:22

投稿者:hage
「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず」
私はこの御文に以前から疑問がありました。
もし永遠を表わすのであれば、
「仏過去にも生ぜず未来にも滅せず」とするのが自然と思うのですが・・・・

釈尊も日蓮聖人もそして私たちも宇宙の初めより以前から宇宙の終わりより以後までの全ての時間を含んだ大宇宙の中の永遠に存在する一瞬の中に、皆同時に存在していて、皆同時に法華経の教えを聴聞し、大慈大悲が脈々と流れていると思っているのですが、いかがでしょうか??

「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同躰なり」
この御文をいかがお考えでしょうか?

過去は夢幻ではないと思うのです。

2008/8/16  18:32

投稿者:れん
本尊抄の四十五字法躰段に「今本時の裟婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり、仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同躰なり、これ即ち己心の三千具足三種の世間なり」とありますが、この御文に「所化以て同体なり」と明かされる通り、所化たる蓮祖もその己心内証において久成仏と同躰であり過去不滅未来不生の久遠常住であることは明らかでしょう。ですから単なる遣使還告に納まるものではありませんね。ゆえに久成仏のみの常住のみを強調するのは、木を見て森を見ずの感があります。久成仏の常住のみで事足れりとするならば、わざわざ神力品で結要付属を説かなくともよいわけです。結要付属は単なる遣使還告ではなく、道暹律師が「法是れ久成の法なるによるがゆえに久成の人に付す」と述べたとおり、久成仏と同体の久成の所化(久成の人)への久成仏の法そのものの譲与・付属であって、それはそのまま、迹仏の弥勒補処に相対して、本仏の本化への譲位を示したものと愚考するものです。

2008/8/16  16:35

投稿者:前田
巌虎さん、あの「れん氏」がわざわざ「久成仏の常住は寿量品にある通りですが」と戴いたにもかかわらず、寿量品を長々と書き込んだのは、
「前にも増して元気いっぱいの本仏が何故身を隠して、初発心の弟子(上行等)に弘教を命じたのか」、その理由を確認する為に書いたものでした。

ですから、前述のとおり、なぜ、「譲位」しなくてはならないのか?と言う理由がわかりません。

何故なのでしょうか?

文上の誹(そし)りを受けるのでしょうが、「法華経」では始成を破して開迹顕本たる久遠実成釈迦如来は「譲位」しません永遠にです。

hage師の御教示のごとくでありましょう。

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