2008/8/17

久成釈尊には二意がある?  
すでに堂々巡りが始まったようにも感じられるところだが、わたくしは従来どおり、常に新味のある文章を書いていこうと思っているので、コメント投稿者におかれてもその点を心掛けていただくよう、お願いしたい。

hage氏の疑問については、なかなか応えづらいものがあると思う。そもそも本尊抄は超難解の御書であるから、ウカツなことを書くと大恥をかくことになる。ゆえに、積極的に意見を述べる人はいないに違いない。

色心二法抄という初期の御書に、類文と思われる部分がある。

彼の法は万法能生の体にして、過去にも生ぜず、未来にも生ぜず、故に三世常住なり。

ここでは過去も未来も「生ぜず」になっている。わたくしにはこれ以上のことはわからないが、いちおう、参考までに紹介させていただいた。

れん氏のコメントはひじょうに緊密である。少々長い文章ではあるが、どこにも無駄がない。こういうのを簡潔にして要を得たと言うのだろう。
譲位がテーマとなっているわけだが、わたくしとはまったくアプローチの仕方が異なるところが注目される。というよりは、わたくしのアプローチのほうが型破りなのであって、おそらくは、れん氏のほうが正統派の論述なのだろう。
ただし、本尊抄一巻においては、大聖人を久成の人すなわち上行菩薩であるとする直接の根拠が見出せないので、わたくしの捉え方もあながち捨てたものではないと思う。

さて、順序が逆になったが、前田氏に申し上げたい。

昨日の拙稿では譲位をテーマに据えた。それは申すまでもなく、れん氏のコメントを受けてのことである。それ以前には何を書いていたかというと、大聖人は久成釈尊である、ということだった。
つまり、法門というのは万華鏡のごときもので、捉え方がいろいろある。角度によって違った見え方をするのである。これはわたくしが勝手に言っていることではなく、大聖人の仰せに基づくものである。
そういうわけで、譲位がお気に召さないのであれば、その前の話に戻ればいいのだ。大聖人は久成釈尊である。これに何か不都合があるのだろうか?

ひょっとして前田氏は大聖人を嫌いだとか?

この場合、難しい理論はまったく必要ないのであって、本仏釈尊と大聖人が実は同体だったということになれば、これほど嬉しいことはないはずなのである。それとも嬉しくないのだろうか?

この点をお聞きしたいものである。

それにしても、のび太氏までが参戦(?)してくるとは、驚きである。それほどに重要なテーマなのだろう。

大聖人の御出現は、南無妙法蓮華経を旗印に立正安国と民衆救済に立ち上がられたこのお姿でしょう。
世界で初めて南無妙法蓮華経と発する、これは仏以外に成せる業でありません。
このことは、釈迦仏法→天台学の延長線上に位置するものでは決してありえない。


釈迦仏法の延長線上に位置するものではないと・・・

これはまた思い切ったことを書くものであるが、ようするに文上においては延長線上にあるけれども文底の眼を開いて見るならばさにあらず、という意味なのだろう。

わたくしは文上・文底の捌きをこの一連の議論では使わないつもりである。おそらく前田氏には通用しない、というよりも、ある意味では最初から議論を放棄しているようなものだからである。もちろん、のび太氏もそれは百も承知であって、ゆえに百六箇抄の引用を見送ったわけだろう。

さて、先日も触れたことだが、一代五時鶏図には天台宗の御本尊として、

久遠実成実修実証の仏

とある。

これを平成新編では建治元年に入れている。そして建治二年には宝軽法重事がある。

一閻浮提の内に法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔いまだ候はず。いかでかあらわれさせ給はざるべき。

二つの御指南の整合性を考えるならば、久成釈尊には二意があることにならざるを得ないと思うのだが、いかがであろうか?

2008/8/23  11:45

投稿者:れん
巌虎さんがご紹介の一代五時図西山本は、日興授与のもので、宝軽法重事も日興の親族に与えたものですから、“久成釈尊”に対する日興門下の日蓮在世における信解が進んでいたことを示しているといえましょうか?二意の立て分けをするならば、一には通日蓮門下で言われる本果妙の釈尊であり、二には南部書に因位において「法華経の故に杖木を蒙りて忽に妙覚の極位に登らせたまいぬ」る本因妙即極の釈尊とでもいうべき存在の釈尊でしょうね。おそらく宝軽法重事の方は二の方に力点があるのではと思います。
この“法華経の故に”の法華経を要法である上行所伝の題目とし、それを本尊とし、要の修行として題目計りを唱え、唱る人即ち宗祖(滅後は御影)を護持する信仰と化儀を興門は伝えましたか、この本尊と化儀が、後の日興門流の教義の体系化に大きな影響を与えたことは間違いないと思います。

2008/8/23  5:46

投稿者:前田
巌虎氏より「天台宗の御本尊・久遠実成実修実証の仏について」のお尋ねがあったがその主旨が読み取れない。

日蓮大聖人が「久遠実成・釈(迦牟尼世)尊」を語るとき、必ず上行等四菩薩を熱く語られる。

対して天台では同じ言葉を使うが上行等四菩薩を脇士とした本尊を祀ることなどない。

言葉だけを聴いて日蓮宗の本尊と天台宗の本尊は同じだと言う人がいて驚かされるが「従因向果の菩薩道」と「従果向因の菩薩道」などその概念が違いすぎる。

私には「整合性」を見出すことは出来そうに無い。

2008/8/20  21:16

投稿者:れん
私は、日隆師の教学について深く学んだ訳ではないので、残念ながらご質問にお答え出来かねますが、日隆師の教学については、私も概要は大体そのように理解しております。

2008/8/19  22:01

投稿者:hage
れんさん、詳しく教えて下さいましてありがとうございます。
巌虎さん、この場をお借りします。

学問の上では、日蓮本佛観は室町時代に起きてきたという事ですね。
もう一つお聞きしたいのですが、末法においては本門の中でも流通分が肝要で、寿量品に沈秘してあった御題目を本門八品で浮かび上がらせ神力品にて上行菩薩に付属し本地娑婆世界の末法の幼稚な凡夫に良薬である御題目を口唱させんが為に日蓮聖人が御弘通(流通)されたというのが、八品派門祖日隆聖人の教えということでよいでしょうか?

2008/8/19  20:40

投稿者:れん
おっと、誤植です。

誤)本門弘通
正)本門下種 

興門では、弘安初期の本尊問答抄(古写本としては弘安五年月日の興師の書き入れのある筆者不明写本ならびに実相寺日源師の正応年間の写本・興師写本が現存)の意によって法華経の(要法である)題目を本尊とし、法華経題目抄の「題目計りを唱え、となうる者を護持するは要なり」の御文により、要の修行として宗祖御影も安置し護持しておりました。

この位置付けに加え、興門が胚胎していた法躰の種脱勝劣論と、天台宗や日隆師等の他の勝劣派との交流で得たものをソースとし、室町時代の思潮の中で、今日の日蓮本仏観の原型が醸成されていったのだと思います。

2008/8/19  20:11

投稿者:れん
学問の世界では、両巻血脈抄(本因妙抄・百六箇抄)は慶林日隆師の教学の影響下のもと、日尊門流で纏められたとするのが主流ですが、両巻の成立はその通りながら、日尊師の弟子の日大師の著“日大直兼問答”に日大師の義として「(天台宗の)一心三観一念三千は熟脱の法門と云ふべし云々、題目弘通は本門弘通と之を云ふべし」とあり、法躰の種脱勝劣論は、日隆師以前の興師の流れを汲む尊門にすでにあった様ですね。そうなると、いわゆる両巻血脈とそれに付随する相伝書類は、尊門において、興門が胚胎していた法躰の種脱勝劣論を隆師が使用した概念と語彙を用いて説明した文書と思われますね。

2008/8/19  10:30

投稿者:hage
八品派門祖日隆聖人の「法華天台両宗勝劣抄」(四帖抄)が、在京都の諸門流に届けられたのが1429(永享元)年。
日興門流にも影響を与えたそうなんですが、なにかご存知でしょうか?

2008/8/18  22:48

投稿者:hage
コメント本文:
のび太様 はじめまして。

URL大変な間違いしていました。
のび太さんが貼ってくれたものを含む、
第一部 『三重秘伝抄』講座
第二部 『文底秘沈抄』講座
第三部 『依義判文抄』講座
第四部―1 『末法相応抄(上)』講座
第四部―2 『末法相応抄(下)』講座
を拝見させていただいています。

2008/8/18  22:17

投稿者:のび太
釈迦仏法の延長線上に位置するものではないと・・

これはまた思い切ったことを書くものであるが、ようするに文上においては延長線上にあるけれども文底の眼を開いて見るならばさにあらず、という意味なのだろう。

上記は、あっしの見解に対する厳虎氏のツッコミ(フォロー)である。
実は、日蓮宗の方がツッコミを入れてくることを想定していたのです。
大聖人滅後、五老僧は自ら天台沙門と称した。
先の書き込みであっしが示した天台学の延長線上に五老僧は腰をお降ろしたのである。
ここで撰時抄を拝したい。
「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」
蓮祖の魂魄を吐露された御文と拝したい。
法華経の本迹勝劣は明らかであり、その奥底には大聖人の無作の振舞いを感じるものである。如何なものか。

2008/8/18  21:10

投稿者:のび太

hage様 初めまして。

「日寛上人と興学」で良いと思います。
URLだけ訂正しておきます。
http://www.geocities.jp/sarariwoman/hokkeko/nichikan_3.htm

早速ですがこの中に、第十に天台の「遠霑妙道」の文という項目があります。さらに宗教の五箇という項目があります。あっしが前に述べた究極的には「衆生の機根」ということです。
きっと、貴殿の理性的な大聖人観も一変することでしょう。

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