2008/8/23

法門談義の日々  
最初に、携帯で閲覧されている人に申し上げたい。

携帯電話で拙ブログを最初からすべて閲覧することはひじょうに困難であるし、そもそもがそれほど価値のある文章ではないので、やめたほうがよろしいのではないかと思う。
もし、最近になって携帯を通して拙ブログの存在を知ったのだとしたら、まあ、興味をお持ちになってぜんぶ読んでみたいと思われたのならば、それはわたくしにしても嬉しいことではあるけれども、ちょっと気の遠くなるような意味もあるので、早めに断念されたほうが賢明である。なぜならば、拙ブログの投稿数は一千を上回るからだ。
おそらく携帯ではそれが把握できないだろうから、最新投稿から順番にさかのぼって行くと、いったいどこまで続くのかと思うことになる。しかもコメントまですべてチェックするとなると、時間がいくらあっても足りないことになるだろう。これはパソコンで閲覧しても同様である。

まあ、しかし、さしあたっては全体像をつかむためにもパソコンでの閲覧をお薦めしたい。まとまった時間の取れる時に、ネットカフェなどを利用して、ざっと眺めてみればいいだろう。そうすればパソコンで閲覧するにしても、ぜんぶを読破するのは困難であることに気づくはずだ。

あとは今後の更新を楽しみにしていただくしかないだろう。これなら携帯でじゅうぶんである。

さて、前田氏からはいくつかコメントが寄せられているけれども、いよいよ議論が面倒になってきた。わたくしが独白に徹しているのは、こうした煩わしさを避けるためである。
しかし、八月十六日分に寄せられたコメントには御書がふんだんに引用してあって、ひじょうに面白いところなので、ちょっと触れてみたいと思う。

譲与は(成仏は)日蓮聖人お一人を対象としているものではありません。

これはおっしゃるとおりであって、それは十六日分のタイトルを読んでもらえれば、わかるはずのことである。すなわち、わたくしは総別の二義を唱えているわけであって、まさに総じては皆成仏道という意味に他ならないのだ。その上で別してを唱えているわけである。
つまり、大聖人の御用いになられた譬えに、国位の譲与がある。とりわけ本尊抄ではこれが強調されており、何度も繰り返し説かれていることが注目されるところなのだ。これに敢えてツッコミを入れるとしたら、しょせん譲位は一人に限ることである、ゆえに譬えとしては不適切なのではないか、ということになると思う。
大聖人ほどの智者がこれに気がつかないはずはない。ゆえにわたくしは、ここに別の意図を拝するわけである。すなわち国位の譲与は釈尊から大聖人への譲位を暗示しているのではないかと・・・

「いわゆる其中衆生悉是吾子という釈尊の言葉はそのとおりだとしても、全員が一切合財を受け取れるというのは、きわめて非合理な話なのである。」
とお考えですが、「我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり、釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり・・・」(下山御消息・真・学会版359頁)とあるように水面が六十億面あれば六十億の同体(月影)が可能です。その反対に「能変の教主涅槃に入りぬれば所変の諸仏随って滅尽す土も又以って是くのごとし。」(本尊抄・学会版247頁)、天月が隠れたならば、すべてが「滅尽す」と言う関係です。


前田氏は代替案のつもりであろうか、下山御消息を引用されている。ひじょうにうまい譬えであるが、しかし、一つだけ注意を要する点がある。すなわち天月と池月の関係は通常、本仏と迹仏の関係において使われていることなのだ。
法華取要抄には次のごとくある。

大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ是なり。

明確であろう。実は下山御消息もほぼ同様であって、その意味で前田氏の引用はやや不適切と言わねばならないだろう。つまり、下山御消息における「我等」というのは諸仏のことであり、有名な本尊抄における「我等此の五字を受持すれば・・・」とは意味が違っていることに注意しておかねばならないのだ。

むしろ、一切衆生への譲位を意味する御指南は、日妙聖人御書にこそ厳然と存する。煩瑣になるので省略するが、こちらのほうが本筋であろう。

今日はもう一つだけ、書いておく。

大曼荼羅御本尊の座配においては、日蓮聖人の本地本化上行菩薩は他の三菩薩と共に釈尊の脇士の位置にあります

どうも前田氏だけでなく、多くの人が理解していないようなので繰り返し書いておくが、本尊抄においては大聖人と上行菩薩を同一視することはできない。これがわたくしの主張である。ここに誤解がある以上、話は空転せざるを得ない。

ゆえに、もし異論があるならば、まずは大聖人を上行菩薩であるとする文証を本尊抄の中から提示すべきだと思う。

2008/8/24  20:00

投稿者:前田
>どうも前田氏だけでなく、多くの人が理解していないようなので繰り返し書いておくが、本尊抄においては大聖人と上行菩薩を同一視することはできない。これがわたくしの主張である。ここに誤解がある以上、話は空転せざるを得ない。

ゆえに、もし異論があるならば、まずは大聖人を上行菩薩であるとする文証を本尊抄の中から提示すべきだと思う。



以下は私論です。



「観心本尊抄」に、

「末法の初は謗法の国にして悪機なる故に之を止めて地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、」(学会版250頁)



「地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(学会版251頁)



と有ります。



この二文は、「末法の初めに、地涌千界の大菩薩が使いとして(遣使還告)応生し、寿量品の肝要の妙法蓮華経を弘宣する」

旨を語っています。



末法の初めに、寿量品の肝要の妙法蓮華経弘宣の先陣を切ったのは日蓮聖人以外にいません。



故に、日蓮聖人は本化上行菩薩の応生身であると仰ぐのです。



「立正安国会」の「御本尊集」に第十六番に収録されている文永十一年十二月の御本尊の讃文に



「大覚世尊御入滅の後、二千二百二十余年を経歴す。爾りと雖も、月・漢・日、三カ国の間に、未だ此の大本尊有さず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず。我が慈父、仏智を以て之を隠し留め、末代の為めに之を残したまう。

後五百歳の時、上行菩薩、世に出現して始めて之を弘宣す」

(原漢文)



とあるとも聞いています。



観心本尊抄御執筆の時には、日蓮聖人が内心において、ご自分が上行菩薩の応生身であることは間違いないだろうと思われていたことは否定できないでしょう。

以上、日蓮宗系一信徒でした。

2008/8/24  15:59

投稿者:のび太
hage 様コメントありがとうございます。

八品正意の資料が興門系に少なかったので提供しました。何が誤解かよくわかりませんが、議論がちらばらないようにコメントは控えます。
 

2008/8/24  8:47

投稿者:hage
「八品の仏」や「八品の本尊」というのは、のび太さんの誤解です。

一念三千は文底秘沈也。これをさとるには智解なり。
末法の幼稚の為に智解の観門は不相応也。
されば仏大慈悲を起して妙法五字に文底の三千を納めて、
神力品にして上行所伝して末代の凡夫に信行せしめ給えりと
云ふ事を本尊抄の結文に定め給へり。
以信代慧これ也

されば末代名字の凡夫が本尊は塔中の妙法蓮華経也。
如是本尊但限八品これ也。
塔中の五字は地湧の菩薩へ御付嘱也。
所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也とは法華取要抄にあそばされたり。

これ本門の肝心也。寿量品は肝心に非ず。
本門八品は滅後末法へ妙法五字を上行所伝し流通し給ふ教相也。
故に流通の一段末法の明鏡也と四五抄に遊ばしたり。

2008/8/24  5:23

投稿者:のび太
<つづき>
また、日耕などは、その著、本迹境智論の中で「八品所顕即題目の五字、題目の五字即八品所顕なり、これ故末法下種の教相は八品をもって最要とす」などとしている。これらの邪義は、大石寺第二十六世日寛の観心本尊抄文段等においてことごとく破折されている。法華宗本門流、本門法華宗をはじめ、仏立宗なども、これらの邪義をもとに教義を立てているが、八品の意味は法華経において本門涌出品に至って地涌の菩薩が出現し、寿量品で本尊が顕され、神力品、嘱累品において付嘱が終わり、地涌の菩薩が去って多宝の塔が閉じるのである。この間における付嘱の儀式のことが八品に明かされている。大聖人が「但八品に限る」と仰せになったのは、その付嘱流通の段を示されたのである。したがって、八品に顕された特別の仏や本尊があるわけではなく、「八品の本尊」「八品の仏」などと立てるのは邪義である。仏と本尊が説かれたのは寿量品に限る。故に、新尼御前御返事に「今此の御本尊は…宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いし」と述べられ、また御義口伝に「惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起こり・寿量品の時事顕れ・神力属累の時事竟(オワ)るなり」と説かれ、更に「宝塔品に事起り…涌出寿量に事顕れ神力・属累に事竟るなり」と述べられているのである。

2008/8/24  5:16

投稿者:のび太
八品正意について <仏教哲学大辞典より>
日蓮大聖人の内証の御正意は、法華経本門の八品(涌出品第十五から嘱累品第二十二にいたる八品)にあるとすること。八品門流の立てる邪義。八品門流では八品正意と立て、八品所顕の本尊などととなえている。八品正意の依文は観心本尊抄の「是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る」の御文であるが、八品門家は日蓮大聖人の御正意に背く、大きな過誤をおかしている。八品派の祖といわれる日隆は四帖抄を著して八品所顕の義を立て、門流の独立を図り、三千余帖に及ぶ多くの著作において八品正意の邪説を流した。たとえば、私新抄に「観心本尊抄には末法の本尊の立処は本門の八品という事を釈して…末法の本尊の為体は八品に限ると書き給いて」と述べ、八品所顕の本尊という邪義をとなえた。同じく八品派の日忠も、八品所顕の邪義によって観心本尊抄を解釈し、観心本尊抄見聞を著したが、その中で「この題目の五字とは八品の事なり。この時は、彼は一品二半・これは八品と意得べきなり。よって、この題目の五字を八品と口伝するなり」などと、観心本尊抄に説かれた五重三段を全く曲解した解釈をくだしている。

2008/8/23  22:26

投稿者:忠義
真蹟・法華取要抄も読むべし。

日蓮は広略を捨てて肝要を好む。いわゆる上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。

国土乱れて後、上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか。

2008/8/23  22:20

投稿者:忠義
しっかり本尊抄を読むべし。

本朝沙門日蓮撰す

我等が己心の釈尊、五百塵点、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり。

地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の眷属なり。

この本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字においては、〜ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付属したもう。

地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て、閻浮の衆生に授与せしめたもうなり。

我弟子、これを惟え。地涌千界は、教主釈尊の初発心の弟子なり。

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