2008/8/28

素直な読み方  
以前の拙ブログは毎日更新していた。それが日課だった。けれども、今は更新頻度を下げて、のんびりと取り組んでいる。ゆえに、昨日などは時間的にかなり余裕があって、更新する気になれば更新できたのであるが、それほど執筆意欲もなかったので書かなかった。こうして徐々にフェイドアウトして行って、やがては完全に断筆するというのも、一つの選択肢かもしれないと思っている。

まあ、ともかく、今は必要に応じて、のんびり書いて行こう、ということである。

黄河は千年に一度すむといへり。聖人は千年に一度出づるなり。仏は無量劫に一度出世し給ふ。彼には値ふといへども法華経には値ひがたし。設ひ法華経に値ひ奉るとも、末代の凡夫法華経の行者には値ひがたし。

最近では三度目の引用である。少し引用範囲が違っているけれども、聖人は千年に一度出づ、というところに注目したいと思った。

わたくしはカタカナ語というか外来語が苦手である。意味がよくわからないからだ。で、ある人物がよく使う言葉に「バイアスがかかる」というのがある。何となく話の流れで意味はわかっていたが、改めて辞書で調べてみると、ようは偏重があるというような意味なのだ。
おそらく前田氏には、そのような傾向があるのではないか、などと書けば、必ず誰かが言うだろう、オマエだって同じじゃないかと・・・
まったく、そのとおりである。実はお互いさまなのだ。お互いに偏重がある。だから噛み合わない。
ゆえに、相手ばかりの偏重を責めるのではなく、己れの偏重を大いに反省しないといけないのだ。もっとも、理屈はわかっていても現実には、なかなか簡単には改まらないものなのだが・・・

わたくしは上掲の御書を、まったくの無信仰者が読んだらどう感じるか、それがいちばん核心に近いのではないか、と思った。

いちおう、ある程度は言葉の意味を教えてあげないといけないだろう。その上で、どのように感じるものか、ぜひとも聞いてみたいものである。
この場合の「法華経の行者」は日蓮大聖人の御事である。ここでの「仏」は釈尊というよりは、もっと広義の意味で考えるべきだろうが、まあ、一般人にはお釈迦さまのことだと説明しても差し障りがないのではないかと思う。
さて、一般人はどのように感じるだろうか?

わたくしの予想では、まるで日蓮という人はお釈迦さまよりも自分のほうが偉いのだと言っているみたいだ、というのが素直な感想ではないかと思う。

失礼ながら前田氏の持ち出してきた三国四師はまったく役に立たないことである。もちろん、一般人に対しては、である。そんなことは彼らのまったく知らないことであるし、ましてや当該御文においては文脈上、三国四師の入り込む余地はないと思われるので、やはりどうしても無理があるように感じられるのである。

つまり、何も知らない人が虚心坦懐に読めば、法華経の行者のほうが偉く感じられる、それがこの御文だと思う。

御書に詳しい人から反論があるといけないので、もう少し話を続けよう。上掲、日女御前御返事に基づけば、聖人というのは一千年に一度くらい出現するものらしいが、これには類文がある。報恩抄にあるのだ。引用は省略するけれども、その部分を読むといわゆる三国四師を彷彿させるくだりがあることに気がつく。三国四師は顕仏未来記の末文にそのものズバリの言葉がある。まあ、これも引用は見送ろう。

わたくしは顕仏未来記の次の一文に注目したい。

当に知るべし、仏の如き聖人生れたまはんか、滅したまはんか。

この前後もきわめて重要なのであるが、あまり長いと読んでもらえない可能性があるので、これまた省略することにした。

結論を書こう。一般的な賢人・聖人と言われる人たち、これをまとめて賢聖と表記する場合もあるが、ともかくこの人たちは五百年・千年単位で出現することになっている。この定理に当てはめて考えた場合、仏教史における正統の系譜は詮ずるところ三国四師に尽きるわけである。
ところが弘安元年に至って、大幅なバージョンアップが行なわれたのだ。冒頭に掲げた日女御前御返事を拝する限り、そのように考えるしか他に選択肢はないはずである。
大聖人は御自身を聖人であるとされている。当該御文のすぐ後ろにも聖人の表記があって、それは明らかに大聖人の御事を指しているのである。よく考えるがいい、聖人は千年に一度出現すると仰せになられた後に、仏は無量劫に一度出現すると仰せられ、さらにその仏よりも法華経に値遇することは難く、さらにその法華経よりも法華経の行者に値遇することはもっと難しいことだと仰せられるのである。もちろん、法華経の行者とは大聖人の御事である。
すでに当時、日蓮大聖人が弟子檀那たちから「聖人」と呼ばれていたことは、ほぼ確実であろうと思う。つまり、当該御文は少なく見積もっても、自分はそんじょそこらの聖人・賢人とはわけが違うのだ、ということの御宣言に他ならないのである。

もちろん、わたくし自身はそれ以上の意味があると強く確信している。

2008/8/30  11:53

投稿者:れん
巌虎さんの挙げた御文の根拠は、法師品の滅後の行者を供養ないし誹謗する功罪についてのべられた経文によるでしょうね。法華経においては仏を供養する功徳よりも仏滅後に行者を供養する功徳の莫大なるを説きますから、その筋で蓮祖は自負を述べられたしょう。話はかわりますが、南部書に見える「法華経のために杖木を蒙り忽に妙覚の極位にのぼった」文底の久遠実成の釈尊とでもいうべき釈尊を造立すると、蓮祖と同形ですね。ですので、私の帰依している興門本山では、継承されてきている御影様のお姿を“本仏形”と申し上げております。蓮祖のお姿と御内証を通してご本仏を拝する次第です。 

2008/8/28  11:58

投稿者:hage
私が素直な読み方をするならば、末法の世に私たち自身が人として生まれ、法華経に出会い、さらに法華経の行者と成らせて頂いたのは、千年に一度、万年に一度どころではない、無量劫という時間に一度ということよりもさらに、まれである。だから今生を無駄にしないよう仏道修行に励みなさいと、私たちの為に日蓮聖人がお示しになったのでしょう。とてもとても有り難いことです。

法華経の行者とは、日蓮聖人をはじめとした法華経の行者、つまり私たち日蓮聖人のお弟子檀那のことですよね。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ