2008/12/17

顕正会なめり  
コメント投稿者の顔ぶれが激変した。こんなブログもめずらしいことだろう。

正直に言うと、顕正会ネタを書くのはけっこうプレッシャーがある。
なぜならば、わたくしは顕正会から離れてすでに相当の年月が経過しているので、現役会員とは感覚的にずれてきている。それでも顕正会ネタを書けば現役会員の注視を受けることになる。ゆえに、ヘタなことを書けば、すかさずツッコミが入ることにもなりかねない。
だからシンドイのである。

別の理由としては、およそ三年有余にわたって、たいていのことは書いてしまった。だから、もうネタがない、という意味もあるのだ。

いずれにしても書くからには、それなりの創意工夫が必要だ。今日はサイトウ氏のコメントをヒントに書かせていただく。

仏教用語というのは意味が難解であることはもちろんだが、それ以前に読み方が難しい。同じ言葉であっても、宗派によって読み方が違う場合がある。たいていは極端に異なるのではなく、微妙に発音が違っている程度なのだと思うが、今は具体例が思い浮かばない。
さて、顕正会の場合であるが、本来、顕正会は日蓮正宗の信徒団体なのだから、同じ読み方をしていないとおかしい。ところが、いろいろと違っている部分がある。これについては、近年、顕正会から宗門へ移籍する人が多くいて、それらの人たちの証言を読めばよくわかることだ。
その代表例は無間地獄かもしれない。宗門では「ムケン」と発音しているようだが、顕正会では「ムゲン」である。

しかし、これはそれほどの大問題ではないような気がする。なぜならば、宗門の内部においても、読み方が一定していない、もしくはどちらでも構わない、というような用語があると思われるからである。

法華講員として著名な樋田昌志氏は、不軽菩薩を「フギョウ」と発音しているようである。これはどうかと思うのだが、なんと平成新編の日妙聖人御書には、そのようにルビが振ってあるのだ。では、正宗の人は全員がそのように発音しているかといえば、それは違うだろう。ようするに、どちらでもいいということなのだ。

日本語の難しさの例として、一匹二匹三匹というのがある。これは、ピキ・ヒキ・ビキと変化するわけで、われわれ日本人は感覚的に身についてしまっているけれども、外国人が日本語を覚えるとなると、これがけっこうシンドイはずである。
同様の意味において、仏教用語は印度由来の言葉もあれば、中国でのいわゆる漢訳の段階で生じた言葉もあるだろうし、あるいは日本に来てから派生した用語もあるだろうし、それらが複雑に絡み合っているのだから、読み方一つ取っても簡単なわけがないのだ。
そういうわけで、ムケンとムゲンくらいの違いは大した問題ではないと思う。

それにしても、顕正会から正宗へ帰伏した人たちが共通して言っていることは、御題目の唱え方の違いである。これは今までの話と同じというわけには行かないだろう。かなり重要な問題である。

法門申さるべき様の事に、「京なめり」という言葉が出てくる。これが今日の表題に結びつくわけだが、ご存知のようにこの御書は三位房に与えられた御指南であり、内容的には常になく厳しいものである。大聖人が三位房を思い切り叱りつけている様子がよくわかる御文だと思う。
誰もが承知していることだろうが、これは何も大聖人が京風の言葉を嫌いだから、それで三位房を叱責しているわけではなく、弟子の慢心を戒める意味がある。この件に関しては背景を含めて、わたくしは次のような説明の仕方がわかりやすいのではないかと思う。

三位房は秀才だった。大聖人から教わることなど何もないくらいに思っていたかもしれない。こういうタイプの人は、大聖人の御内証など知る由もないし、感じ取ることができないのだ。ゆえに三位房は、大聖人を法華経信奉者の先輩格くらいに思っていたかもしれない。だとすれば、いつかは追い抜いてやろうとチャンスをうかがっていただろうし、その意味でも自身の売り込みに躍起になっていたのだろう。それが京都での行動にあらわれているのだ。

定んでことばつき音なんども京なめりになりたるらん。

この一文だけでなく、この前後を拝すると、大聖人の凄まじい御気迫を感じてならない。弟子に対する叱責とはいえ、ここまでの激しさは他の御書に類例を見ないのではないかと思う。
それはともかく、上掲の一文は誤読の可能性があるやも知れない。先ほども書いたごとく、大聖人は京言葉が嫌いだった、というような誤解である。もちろん、大聖人を信仰している人にそのような誤解はないだろうけれども、ここでのポイントは次のごとくだと思う。
どれほど理性的な人であっても、あるいは不動の信念を持っている人であっても、知らず知らずのうちには何かしらの影響を受けてしまっている、ということだ。
三位房よ、オマエは気がついていないかもしれないが、ハタから見ればずいぶんと京風に染まってしまっているぞ、京風が悪いというのではない、しょせん凡夫というのは知らず知らずのうちに悪縁に引かれてしまうことの例を言っているのだ。

ひじょうに示唆的であると思う。いろいろなことに当てはまる話ではあるが、わたくしは浅井先生に言いたい。先生は一貫不変を主張している。おそらく本人はそのつもりなのだろう。けれども、しょせんは凡夫である。やはり長い歳月のうちには、徐々にではあっても、変化せざるを得ないのである。この現実だけは素直に認めるべきだと思う。

2008/12/17  23:04

投稿者:のび太
>それにしても、顕正会から正宗へ帰伏した人たちが共通して言っていることは、御題>目の唱え方の違いである。これは今までの話と同じというわけには行かないだろう。>かなり重要な問題である。

そう言えば、旦房は生きているのかな?
ナムミョウホウレンゲキョウ
顕○会の方は皆がムを発音しているのかね?

2008/12/17  12:42

投稿者:出張マグマグ

巌 虎 様

お書き込みを拝見し、
ふと数年前のことを思い出しました。

―――そう言えば、あの頃、
この御書ではなかったか。。。笑 ヽ(^。^)ノ

また、ご内容として、
我が身にあてはめて考えさせられました。。。

少し複雑な気持ちですが(笑)、
ともかくも巌虎様がお元気で、
御書を丁寧に読み解き、
健筆を揮っておられる限り、
こちらは安泰だなぁ、と、
みょうな感慨にふけってもおります。

どうかどしどしお書き下さい。
私は信心とかそ〜んな大それたことと関係なしで、
これらの美文に目を楽しませ、
心を和ませて頂いている読者の一人です。

巌虎ファンです、ね。。。笑 ヽ(^。^)ノ

          出張マグマグでした。。。

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