2009/4/11

記憶の上書き  
いわゆる謀略ビラについて、顕正会の自作自演ではないか、といった疑惑が取り沙汰されている。山門入り口氏に言わせると、その可能性があるとのことだ。そこでわたくしは根拠を求めた。以下はその回答である。

証拠、根拠をこれ以上明かすことが出来ないので、あえて、ご指摘されたことには、根拠も、証拠もだせないと認めます。

この言い回しだと、実は証拠はあるのだが事情があって出すことができない、というようにも読むことができる。なぜならば、氏のコメントは他の事案においても、思わせぶりな内容が多いからである。
しかし、証拠はあるけど出せない、というのは無いのと同じことなのである。ましてや今回の場合、「これ以上明かすことが出来ない」とは書いているものの、以上も以下もありゃしない、一つも根拠を示していないのである。

別に気取って敷居を高くするつもりはないのだけれども、拙ブログにコメントを入れる時にはよく考えてからにしてもらいたい。わたくしがどのような反応を示すか、そこまで想定して書くべきである。

○○の可能性がある・・・

こういう書き方は使い勝手がいい。わたくしも使うことがあるし、誰もが使っていることだと思う。
しかし、可能性とさえ表現すれば、何を書いても許されるのかと言えば、それは違うだろう。当然ながら根拠が必要なのである。もし根拠のないことであれば、その内容によっては誹謗中傷になってしまうからだ。
もちろん、逆も言えることである。たとえば、浅井先生は偉大である、もしかしたら日目上人の再誕かもしれない、などと言う人がいたとする。やはり根拠が必要なのだ。この場合、根拠もなしに言っていれば、それはただの盲信であり、狂信ということなのだ。
つまり、方向性が逆なだけで、結局は同じような間違いを犯していることになりかねないのである。そこに気がつかないといけないと思う。

ところで、顕正新聞第1133号に載る「正義にめざめて」に、いかにもヤラセっぽいものがあった。この「ヤラセっぽい」というのは、ヤラセの可能性がある、とほぼ同義である。ゆえに根拠を述べないといけない。どこがどのようにヤラセっぽいのか、それを書かないといけない。それを今日は書いてみたい。

五面に昨年十一月に入会した婦人部員の登壇がある。役職を持たない七十八歳の人だ。昭和二十九年から昭和五十三年まで創価学会員だったという。どうも文章を読む限り、その後は法華講だとか正信会だとかに縁をした様子は見られない。この点は重要である。

わたくしは二つのことを疑問に感じた。まず一点目は次のくだりである。

 また正本堂完成後、参詣した際、御宝前の大前机に張り付けられた、寝そべる池田大作の裸体レリーフを目にしたときにはギョッとし、「なんでここに池田大作の裸像が彫られているのか」と開いた口がふさがらず、身震いし、正本堂が御遺命の戒壇であることにますます疑いが強まるばかりでした。

本当は全文紹介しないと理解しづらいのだが、ともかくこの部分はきわめて不自然である。具体的には「ますます疑いが強まるばかり・・・」というのがおかしい。この書き方だと、誰もが前段において同様の話題が書かれていると想像するはずである。ところが正本堂の話題は上掲の部分が初出なのである。

つまり、この文章は先入観に凝り固まった人が書いたのではないか、と想像されるのだ。

正本堂は御遺命の戒壇にあらず、という結論ありきの文章であり、しかもそれが骨の髄までしみこんでいる人の文章と思われる。だからこそ前後の脈絡を無視した文章になっているのだ。普通ならば、上掲に先んじて何か正本堂に関することで疑問に思うことが書かれていなければいけないのだ。その上で、ますます疑問が強まった、と書けば自然である。

裸体レリーフについて、わたくしは知る立場にないので詳しい人に聞いてみたいと思うが、あれは信徒の席から確認できるサイズなのだろうか、ということである。

もしかしたら、これもヤラセかもしれない。つまり、これは後年、創価学会において次々に造反者が出て、その折に暴露された話の一つではなかったかと思われるのである。ゆえに御開扉の時に信徒席から見て、そのレリーフの主を池田大作だと認識できたかどうか、ひじょうにアヤシイことなのである。

顕正新聞第457号と聞けば、ずいぶん古く感じることだろう。これは平成元年の御遺命守護特集号であるが、そこにくだんの写真が掲載されている。
わたくしはつい先ほどまで知らなかったというか、考えもしなかったことであるが、そもそも顕正会がこれを撮影できるわけがないのである。すると、いったいどのようにして入手したのか、それが気になるところである。
これはどうやら、週刊誌に掲載されたものを転用したもののごとくである。

いずれにしても裸体レリーフが信徒席から確認できるかどうか、そこがヤラセかどうかを決定づける最大のポイントであろう。

さて、二点目である。

 間もなく正本堂が音を立てて崩れ、会員の尊い浄財、精一杯の財の巨大金庫が壊わされた感覚で、たいへんショックを受けましたが、私の胸の中では「この正本堂が本当の御遺命の戒壇なのか」と疑っていましたので、「やはり正本堂は偽戒壇だったのだ、学会は終わりだ」と大確信しました。

おおむね一点目で説明してしまったので、それほど多言を要しないだろう。いわゆる後付け理論である。ことに偽戒壇が決定的である。以前にも書いたが、これは浅井先生による造語である。しかも最近のことだ。
話の冒頭を振り返ってもらいたい。この人は昭和五十三年に創価学会をやめて、法華講にも正信会にも縁をしていない様子であると書いた。そして顕正会に入会したのは昨年のことである。
ゆえに、もしかしたら正本堂の崩壊を、リアルタイムでは知らなかったかもしれないのである。

いかがだろう、こうして見るとヤラセっぽいことがよくわかるはずである。

ただし、一つだけ弁護しておこう。実際には弁護にならないけれども、ようするに記憶の上書きである。
われわれは得てして錯覚することがある。つい最近になって知った事実を、あたかも昔から知っていたと思い込んでしまうことが、おそらくは誰にでもあることだと思う。
この登壇者はその状況にあるのかもしれないのだ。

しかし、この場合の記憶の上書きは、いわゆる洗脳に他ならないだろう。

2009/4/23  10:59

投稿者:渡辺雄二
簡単なことですよ。
「私の幼稚な原稿を素敵な文章に加筆してもらってうれしい」という心境でしょう。
洗脳されている間はわかりません。
なにしろ、元第9隊長のH(僕の直属の後輩)なんかは「5座の勤行やらなくていいので楽をしたくて学会やめた」ってのが本当の理由なのに「これこそ道理と思って入会」って発表してたんですから。

2009/4/15  22:22

投稿者:のび太

いわゆる謀略ビラについて、顕正会の自作自演ではないか、といった疑惑が取り沙汰されている。山門入り口氏に言わせると、その可能性があるとのことだ。そこでわたくしは根拠を求めた。以下はその回答である。

証拠、根拠をこれ以上明かすことが出来ないので、あえて、ご指摘されたことには、根拠も、証拠もだせないと認めます。

この言い回しだと、実は証拠はあるのだが事情があって出すことができない、というようにも読むことができる。なぜならば、氏のコメントは他の事案においても、思わせぶりな内容が多いからである。
しかし、証拠はあるけど出せない、というのは無いのと同じことなのである。ましてや今回の場合、「これ以上明かすことが出来ない」とは書いているものの、以上も以下もありゃしない、一つも根拠を示していないのである。

山門氏がレスを入れると厳虎氏のスイッチが入るようだ。(笑)以前も伏字の件でスイッチオンんになった。
過去世は、猿とカニなのか犬なのか?
どちらも想像の範囲で語る訳だから、多少の論理性があっても偉くはないでしょう。(笑)

「上から目線」という言葉が、あっしの周囲でよく言われる。興味のある方は自分で調べてください。
最近、管理人の言動をみていると感じます。

上から目線の不軽菩薩ってキモイよね!

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ