2009/8/11

客観性の欠如を斬る  
法華講員の二氏よりコメントをたまわった。ニシケン氏は相変わらず辛辣だ。しかし、法華講員の中には櫻川氏に好感を懐いている人もいるようなので、この辺は個々の感性に任せるところなのだろう。また、山門手前氏によれば、前回の拙稿は考え過ぎとのことだ。山門氏は櫻川氏の事情に詳しいようなので、どうやらわたくしの推測はハズレのようである。

さて、今日は『迷走する顕正会を斬る』の260ページを取り上げる。第七章「浅井会長はどのように道を違えたか」の、小見出し「教学部廃止」の一部分である。

 当時の法華講において、妙信講ほど教学研鑽に熱情を傾け、真摯に御書を学んでいた講中は他になかっただろう。正本堂問題の過程で、創価学会員と論議をする機会を得たが、情報遮断されていたから妙信講の教学が普通だと思っていたわたしは、相手側のあまりの素養のなさに驚いた。それが今やどうしたことか、惨憺たるありさまである。
(中略)
「教学は物知りになるためのものではない」等と、筋違いの言い訳で教学不要を徹底した。顕正会員の教学力低下は、その必然の結果である。思考力の低下も、組織の弱体化も連動する。対して法華講では、普通に教学が学ばれるから、もはや顕正会員では太刀打ちできない。

あえてイチャモンをつけようと思う。

顕正会員の教学力低下は事実であるが、はたして上掲の記述に客観性があるかと言えば、甚だアヤシイであろう。
櫻川氏は元来が頭脳明晰であり勉強家なのだ。しかも今となっては信心歴四十数年の大ベテランである。対する現役の活動会員たちは、その大半が十年未満のキャリアしかない。つまり、しばしば年寄りが言うところの、今の若者はなっとらん、というセリフに近いわけであり、必ずしも客観的な尺度から論じているとは言い難い。
また、氏は昭和四十年代の創価学会員の素養のなさに驚いてもいるわけだが、これもウソとは言わないにしても客観性に乏しいことだろう。ある意味、当時の妙信講は攻める側であり、創価学会は守りの側だった。攻撃側は自ずと相手の弱点を突くものである。妙信講は御遺命守護に特化して学べばよかった。一方の創価学会は妙信講ばかりに構っていられない。妙信講対策を打つにしても、相手がどのような点を突いてくるか、それを見極めてから会員にレクチャーするわけだから、いわゆる後手を踏まざるを得ない。その意味で、当時の創価学会は今の顕正会と似た状況にあったとも言えるだろう。今は法華講のツワモノたちが顕正会員を格好のターゲットにしている。今や顕正会員は攻めから守りへと立場が逆転してしまったのだ。

信心歴という視点も見逃せない。
当時の創価学会員は八百万人と言われていた。大雑把に言って、昭和二十年代の入信者は希少、三十年代の入信も全体の比率からすれば少なく、四十年代の入信者が多かった。
つまり、入信十年足らずの未熟者が大半を占めていたという意味で、今の顕正会と当時の創価学会は似ているのだ。
もちろん、櫻川氏にしても当時はまだ十年未満のキャリアしかなかった。ゆえに氏の言うことをウソとは書かなかったわけだが、しかし、上述のごとく氏は頭脳明晰であり勉強家なのだ。また、実際問題として、氏の対峙した創価学会員などは絶対数の上からは少ないだろうから、それが全体の傾向を正確に反映していたかどうかの検討も必要である。

それはともかく、現今の顕正会員の教学力を「惨憺たるありさま」とする具体例が見当たらない。
教学部を廃止した。教学試験の規模を縮小した。御書全集の発刊は実現不能である。上掲の中略部分にはこれらのことが書かれているが、これが具体例のつもりなのだろうか?
確かにこれらは事実である。しかし、これらが会員の教学力の低下を直接的に証明するものではないことは、誰もが了解することだろう。早い話が、比較検討するための直接的なデータが存在しないのだから、判断できないのだ。仮に一級試験を行なえば、それを過去の一級試験と比較検討して判断を下すことが可能である。しかし、そうしたバロメータがないのだから、惨憺たるありさまかどうかは不明としなければいけない。

おそらくは現時点で法華講員と顕正会員が法論を行なえば、完敗するということなのだろう。個人情報の観点から具体例が憚られるとは言え、現実に全国津々浦々で法論に準じた形で法華講員と顕正会員の接触があり、まさにその結果が惨憺たるありさまだということなのだろう。

わたくしはあえて異議を申し上げたい。

法華講では普通に教学が学ばれる・・・

バカを言ってはいけない。
わたくしの近隣には法華講員が存在しないのでネット上での感想になるが、正直なところ、オマエはバカか、というような法華講員も少なくない。いったい、何を学んでいるのかと思う。異流儀団体の落ちぶれ会員のわたくしが言うのだから、言われたほうはツライだろう。もちろん誰とは言わないが、おそらくは同じ法華講員の仲間うちでも、もっと勉強してから書き込んだほうがいいのでは、と内心で思っている人もいるのではないかと思う。
ちなみに、法華講では普通に教学が学ばれる・・・という、この記述からしても、前回の拙稿で触れたごとく、本書が宗門寄りであることがわかると思う。

法華講にも創価学会にもバカはたくさんいるのだ。もちろん顕正会にもたくさんいる。

ところで、先ほどの入信歴という視点がここでも活きてくる。
今の法華講員の構成メンバーを当てずっぽうに言えば、半分以上が元創価学会員であり、もしかしたら一割くらい・・・いや、本当はもっと少ないのかもしれないが、ともかく元顕正会員もそれなりの人数がいることだろう。つまり、純粋に最初から法華講員だった人は少ないし、創価学会や顕正会を経ないで新しく法華講員になった人も少ないのだ。
おわかりだろう、比較の仕方が間違っているのだ。今の法華講員の多くは法華講員としてのキャリアは短くても、それ以前のキャリアがある。ましてや問題意識の高い人たちだからこそ、正宗への帰伏を決めたわけだろう。こういう人たちと、昨日今日顕正会に入ってきた人たちを比較しても仕方がないのだ。

最後に本尊疑惑に触れておこう。実はこれが元凶なのである。

顕正会の幹部たちが法華講員を恐れるのは、本尊疑惑を追求されるからである。もし、これがなかったら今もなお顕正会員は意気軒昂であり、喜んで法華講員のところに出掛けることだろう。
当然、櫻川氏の本にも本尊疑惑のことが出てくるけれども、別の項目になっている。もちろん、これはこれでひじょうに重大な問題なので別枠を設けたのだろう。
だが、しかし、実は法華講員に太刀打ちできない真の理由は教学力の低下ではなく本尊疑惑にあるという、この視点を盛り込むことができなかったところが、わたくしには不満である。

しかし、我ながら面倒臭い文章を書いているものだと思う。そこがわたくしの欠点のようだ。

2009/8/21  2:15

投稿者:OM
教学については、山門入り口さんの仰有るとおり寺院や支部によって温度差がありますね。

ただし、伝統講のレベルは深いですよ。

新参講の教学は在家のものをテキストにしているケースが多いようですから大石寺の教えとは意味あいが異なってきますね。

まぁ、櫻川さん有縁の法華講はたいていが伝統講のようですから、ああいう記述になったのでしょう。

しかし、顕正会にしろ新参講にしろ、教学の学び方が歪ではないかという気がします。

対破、自讃毀他目的の教学が主では創価学会と同類でしかありませんね。

2009/8/11  23:14

投稿者:山門手前
それと、侵略国家じゃない等と言い放って、
そんな事を信用している顕正会員に
教学が云々とは言われたくないですよ。。。

日本が侵略戦争を仕掛けたのは歴史上の事実。

嘘で洗脳してる方も悪いけど、義務教育で習った事
すら忘れて浅井の嘘を信じてるのだから仏法以前の
問題ですよ。

http://maglog.jp/renmen/

2009/8/11  21:26

投稿者:とんび
「迷走する顕正会を斬る」は、元の原稿の1/3ぐらいの内容になっているから、仕方無いのじゃないかな..

 上下2巻という、構想も櫻川氏には、あったようですけど、出版上、いろいろと削除したようです。

2009/8/11  13:41

投稿者:山門手前
「教学」に限らず、おおよそ「学ぶ」という事柄は、あくまで本人の努力と能力次第です。但し、夫々の組織を平均してみた場合、講によってもばらつきはありますが、相対的に顕正会よりは、マシであると思います。
顕正会の現状は、惨憺たる結果です。実例を挙げればきりがないのですが、あちこちの掲示板やブログで、述べられている顕正会員の「歴史認識のなさ」や何か返答に詰まると「浅井先生の言っている事だけが正しい」との「逃げ」に走る事ばかりである事がそれらの証明になると思います。原因として考えられる事は、現在の顕正会では、入門者向けの指導しか繰り返し行われていない事に起因しているものと思います。独自に教学を身につけようと講義のテープなどを購入したとしても、六巻抄等の解説すら浅井流の己儀による偏りが見受けられるからです。勿論、この偏りとは、正宗の教義を軸としていますので、顕正会員にとっては浅井流解釈が軸になると言う事は言うまでもありません。当然ながら、浅井流己儀を刷り込まれるだけであるので法論を挑んだところで顕正会には、全く「分がない」のです。

又、本尊疑惑を別立てにしてあるのは、全体の構成上の判断であると単純に考えます。

http://maglog.jp/renmen/

2009/8/11  11:23

投稿者:山門入り口
>法華講では普通に教学が学ばれる

所属組織で違いがあります。
普通に教学が学ばれているとは、一概に言えません。
宗門発行の書籍で、自力で勉強しろて感じですね。
だから、教学を学びたいと、向上心が無い法華講員は、教学て言ってもありません。




http://plaza.rakuten.co.jp/sanmon77

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