2009/11/21

会長講演二題  
まず、十月度総幹部会の会長講演を顕正新聞第1153号から引用する。

大聖人様はあの悪逆の平左衛門、良観においてすら、その悪を霊化せしめ、本仏成道の助けとなさしめ給うている。

とりわけ霊化が興味深い表現である。わたくしの記憶では、かつて浅井先生の口からこのような言葉が発せられたことは一度もないはずである。講義録や数々の著書にも見当たらないのではないかと思う。

なぜ、このような表現を用いたのか、そこがひじょうに気になるところだ。

というのは、わたくしの言語感覚ではあまり響きがよくない言葉だからである。
ずいぶん前にも書いたことがあるが、わたくしのところにエホバの証人がたまに来る。来ると必ず二冊セットで渡されるものがある。いわゆる彼らにとっての機関誌なのだろう。
今は読みもしないが、最初の頃はいちおう興味を懐いて読んだことがある。わたくしの読書術は、一冊の本をぜんぶ読む、拾い読みとかナナメ読みをしない、というものである。そうすると、その本の傾向性が見えてくる。
エホバの証人の本は当然、記事ごとに内容も違うし、執筆者も違うわけだろう。しかし、どうも似たような雰囲気があるのだ。それは顕正会で言えば、顕正会独特の言い回しだとか他では使わないような単語が頻出することである。
彼らの本を何冊か続けて読んでみて、いちばん印象に残っているのは、霊的という言葉だった。ともかく霊的が頻出するのだ。
結局のところ、霊的とは何か、それがよくわからないものだから、読んでいてストレスが溜まる一方だった。彼らはわかっているのだろうか、それともわかったつもりになっているのだろうか、その辺を追求してみようかと思ったが、面倒なのでそのままウヤムヤにしてある。

浅井先生の言う霊化もまた、わたくしにはよくわからない表現であり、いかがなものかと思うところである。

もっとも先生の場合は、わかり易さがウリであるから、前後の文章を読めば言わんとしていることはわかる。しかし、その表現そのものの是非という意味で、今回はいかがなものかと思うのである。今一度、部分的に切り出してみよう。

悪を霊化

アゲアシ取りを承知で書けば、言葉の並び方によっても印象がガラリと変わる場合があるので、わたくしは常にその辺を気をつけたいと思っている。上掲の場合、ウッカリすると、次のようなことにもなりかねない。

悪霊化

もちろん、これはあくまでアゲアシ取りであるが、しかし、悪霊化となるとまったく意味が違ってきてしまうので、そうなると大事件である。

さて、今度は顕正新聞第1154号であるが、鹿児島会館での会長講演である。

御当躰

これが気になった。今回の講演では「躰」が頻出する。現代表記は「体」である。なぜ、わざわざ「躰」を使うのか、それがよくわからない。

というのは、顕正会版の勤行要典を見ると、二座の御観念文に「御当体」とあるからだ。今さら字体を難しくする必要がどこにあるのか、とりわけ一念信解路線の顕正会において、読めない字を使う必要があるのか、聞きたいものである。

 いいですか。「南無妙法蓮華経」とは、日蓮大聖人の仏法上の御名前なのです。
 ゆえに御義口伝には、「南無妙法蓮華経如来」と仰せられている。「如来」とは仏という意味です。南無妙法蓮華経という名の如来、その仏様こそ、久遠元初の自受用身すなわち日蓮大聖人であられる。


思い出したが、ずいぶん前に沖浦耕治氏が南無妙法蓮華経如来のことを云々しているのに対し、わたくしは御書のどこにそんな言葉があるのかと問うたことがある。当然ながら、わたくしはわかっていて問うたのだ。御義口伝の寿量品二十七箇の大事のいちばん最初には次のごとくある。

南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事

つまり、浅井先生にしても耕治氏にしても、一種の切り文をしているわけである。原本がどうなっているか、さすがにそこまでのことをわたくしは知らないが、御書全集にしても平成新編にしても上掲のごとく一続きになっていて切れ目がないのだ。

せっかくだから、再び顕正会版の経本にご登場願おう。

妙法蓮華経。如来寿量品。第十六。

字体は便宜的に現代表記に直させてもらったが、いわゆるマルの打ち方はご覧の通りである。

わたくしは南無妙法蓮華経如来を間違いだと言いたいわけではない。ようするに、御義口伝の当該御文をもって直ちに南無妙法蓮華経如来とするのは不正確であり、切り文との指摘を受けざるを得ないことになるので、その点を承知しておく必要があると言いたいのだ。

もう一つ、御書の引用についてイチャモンをつけておくと、まったく同じ御書がそっくりそのまま二回引用されている。しかも比較的長文である。これは片一方を省略してもいいだろう。山門入り口氏あたりは実際の講演と活字化されたものが違うとすぐに大騒ぎするけれども、それはまったく気にする必要のないことである。

最後に、

広宣流布の時には、富士山に温泉が湧くのではないか

これは日亨上人が仰せになったことなのだそうである。

2009/11/23  0:28

投稿者:山門入り口
>山門入り口氏あたりは実際の講演と活字化されたものが違うとすぐに大騒ぎするけれども、それはまったく気にする必要のないことである。

長文の同じ御書を、活字かされてないとか省略したて騒ぎませんよ。同じ文書なら。
ただ、切り文とかして誤魔化してる部分は、指摘しますよ。
ま、鹿児島会館の記事で先読みされたのか?て思うのですが、音声がまだ入手してないし、音声の内容が判らないので、今は、新聞記事のみの検証ですね。

「実際の講演と活字化されたものが違うとすぐに大騒ぎするけれども、それはまったく気にする必要のないことである。」て、内容次第ではないですかね。

学会・宗門の名前を言っていたのを、話の内容で、少し問題になる。騒がれると思って消したり、逆に学会・宗門の名前が出てないのに、記事では、ちゃっかり入れていたりする。
そういう、小細工の部分を言ってるわけであり、同文の御書云々とは言ってません。
 どうも恣意的に見てしまうと、あたかも音声と新聞記事が違っても問題がない。
だから気にする必要が何一つないと顕正会員に訴えてるように読めますね。
 あくまでも、都合の悪い発言を削除して誤魔化してる事に対して、指摘してるだけです。
 元法華講員の登壇なんかが一番良い例ですよね。
あそこまで、作文するのも凄いですが、他の登壇と違って、音声と記事もだいぶ修正してる。
そういう、さすがにスルーですかね?・・・
ま、独白だからいいですけど。
 

http://plaza.rakuten.co.jp/sanmon77

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