2010/2/5

顕謗法抄を中心に  
ユタ氏から引き続きコメントが寄せられているけれども、今日は久しぶりに御書の話題である。

周の宇文王の四千六百余所の寺院を失ひ、二十六万六百余の僧尼を還俗せしめし・・・

顕謗法抄に上掲の御文がある。わたくしはこれを周の文王のことだと思っていた。しかし、これが文王だとすると、おかしなことになる。なぜならば、報恩抄には次のごとくあるからだ。

周の代の七百年は文王の礼孝による。

これは肯定引用である。ゆえに前掲とは矛盾する。しかし、誤解だった。そもそも中国史がわかっていれば、このような初歩的な間違いはあり得ない。周の時代には、まだ中国に仏教は渡来していない。それどころか文王の時代はまだ釈尊が生まれていないのだ。

報恩抄に戻って、上掲の少し前には次のごとくある。

後周の宇文・唐の武宗

ようするに顕謗法抄の周の宇文王は、後周の宇文王のことであり、周の文王とは別人なのである。わたくしはそれを今まで知らなかった。ちなみに顕謗法抄の同一箇所を御書全集で確認したところ、後周の宇文王と表記されていた。これならば勘違いすることはなかっただろう。

しかし、いずれにしても大聖人にはじゃっかんの錯誤があられるのではないかと思われる。

漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし・・・

撰時抄の一節であるが、顕謗法抄と比較すると数字がほぼ同じである。つまり、大聖人は後周の宇文と唐の武宗を混同しているのだ。もちろん、報恩抄に示されるごとく、いずれも悪王という括りであるから、結論的には変わりがないのであろう。

では、後周の宇文王とは具体的に誰なのか、御書を拝する限りではよくわからないけれども、おそらくは後周=北周であり、この第三代目に当たる武帝のことだと思われる。ちなみに武帝という呼称は中国史に多数出てくるので、ますます混乱してくる。御書にも梁の武帝が出てくるが、これは当然ながら別人である。八宗違目抄には「慧遠法師の武帝を詰る語なり」という御文が出てくる。たぶんここでの武帝は宇文王のことだろう。これに連動して下山御消息に出てくる「武王は慧遠法師と諍論」との御文は、今度は周の武王と勘違いし易いけれども、そうではなくて武王=武帝=後周の宇文王のことなのだ。

オマエはいったい何が言いたいのか?

読者の中にはそのように思う人もいるかもしれない。今回の話には特に意図するものはなくて、ただ単に冒頭に掲げた御文に疑問を感じたのでいろいろ調べてみたというだけの話である。

最後に、顕謗法抄は断簡御書なのか、という問題に触れておこう。

 第一に八大地獄の因果を明かし、第二に無間地獄の因果の軽重を明かし、第三に問答料簡を明かし、第四に行者の弘経の用心を明かす。

これが書き出しの部分である。この四番目に注目してほしい。次の引用は四番目の書き出し部分である。

 第四に行者仏法を弘むる用心を明かさば、夫仏法をひろめんとをもはんものは必ず五義を存じて正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり。

 第一に教とは・・・

大聖人はいわゆる五綱判に基づき、行者の弘経の用心を御教示あそばす予定であられた。ところがどうしたことか、この御書では第一の教だけで終わっているのだ。上掲の文勢からすれば、第五の仏法流布の前後まで論じられていなければおかしいだろう。ゆえに、顕謗法抄は断簡御書なのではないか、後半部分を欠損しているのではないか、というふうに見えるわけである。もしくは大聖人御自身が途中で筆を止めてしまったという、いわゆる中絶の可能性もあり得るだろう。

さて、どちらが本当だろうか?

顕謗法抄はこの時期としてはひじょうに充実した御書である。仮に後半部分を欠損しているとして、もしもそれがぜんぶ残っていたならば、あるいは五大部・十大部に属するような重要御書に位置したかもしれない。何しろ五綱判のほんの一部しか残っていないことになるのだから、その後ろの部分があったとすれば相当のボリュームになることだろう。あるいは顕謗法抄のみならず、そうした御書が他にもたくさんあるのかもしれない。大聖人の御書は今の倍以上はあったはず、と誰かが言っていたけれども、なるほど、そうかもしれないと思う。

2010/2/5  22:48

投稿者:情報ツウ
厳虎さんが御書の話題を書くと教学1級の海老原、小泉の両氏を思い出す。
海老原さんはもう顕正会にはいないようだけど小泉さんはまだいるのかな?

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