2010/4/16

天母山戒壇説の再確認  
まず前々回、振り込め詐欺に騙されること自体が問題ではないのか、と書いたところ、振り込め詐欺に引っ掛かる様な人だから浅井にも引っ掛かる、とのコメントを頂戴した。実はわたくしとしても、それを言外にほのめかすようなつもりで書いたのだ。さすがにあからさまに書くのはどうかと思って、含みを持たせたわけである。

しかし、今日は逆に浅井先生の側に立って書こうと思う。例の天母山ないし天生原のことだ。

その前に、種々のコメントを頂戴しているが、いつもながら行き届かない点があることを予めお断りしておきたい。一点だけ触れるならば、ニシケン氏のおっしゃることはまったくそのとおりである。おそらくは重々承知のことと思うが、拙稿にあるごとく、あくまでイヤミを込めて書いたものだということなのだ。つまり、もし顕正会が本気で十二年後の戒壇建立を実現しようと思っているのならば、そろそろ工事を開始してもよさそうなものである。当然、用地の買収を済ませていなければいけない。しかし、さらにツッコミを入れるならば、顕正会は勅宣・御教書を必要欠くべからざる手続きとしているわけだから、今の段階で勝手に用地買収だとか、あるいは工事の開始などをするわけには行かない。こういうのを見切り発車と呼ぶ。正本堂の時には前もって建てたということだけで、いわばイチャモンをつけたくらいである。以上の観点からして、すでに十二年後の戒壇建立は不可能と言わねばならないのだ。その上で、ニシケン氏のおっしゃるごとく、本義はまさに大御本尊の御安置にある。よって、現時点での宗門と顕正会の関係性を考えるならば、なおさら不可能なことになる。おそらくは本部首脳も薄々はわかっているのだろう。なんとも悲しい話である。

浅井は「天母山」ではなく、「天生原」という変節がありますが、結構意味があります。

さて、本題に入ろう。nabe氏は自著において、この問題を詳細に論じておられる。いわば一家言をお持ちである。ゆえに、こちらとしては衝突を避けるためにあまり深入りしないほうが賢明ではあるのだが、しかし、今のわたくしは振り込め詐欺に引っ掛かるようなタマではないという意味において、わたくしなりの信念に基づいて意見を申し述べたいと思う。

冨士第二百五十号の八十ページから百十一ページには、昭和四十七年四月十七日の臨時班長会における講演が掲載されている。けっこう長いけれども、この途中には会話形式のくだりがあって、それが全体の過半数を占めている。この講演の前日に行なわれた宗務院の役僧三人との面談の様子を再現したものである。この中には、けっこう重要なことがたくさん書かれていると思う。まず、わかり易いところから拾うと、浅井先生のセリフに次のごとくある。

天母山と天母原とどう違うのか。天母山が北海道にあるのなら一緒にしては間違いだが、同じ場所を指すこと宗門古来からの慣習ではないか

この後、先生は宗門古来からの慣習ということの証明として、寛尊の御筆記に天生原と天生山の両方があること挙げている。さらに寛尊の講義の聞き書きにまで注目し、次のように言う。

寛尊の講義を筆記された聞書数本を見ればことごとく天生山≠ナある。ただ一本だけは天生原≠ニなっている。これまた、天生原と天生山が同じ地域なるゆえ山≠ニ聞きながら原≠ニ記したのではないか

けっこう説得力があると思うのだが、いかがだろうか? それともこのわたくしも浅井に騙されているクチなのだろうか?

さらに先生は、前総監・柿沼御尊師の一文を紹介している。

日達上人猊下の御徳によって天母山が日蓮正宗の所有に帰した事は一文慶賀にたえない。乃至、私はその天母原に登り冨嶽に対してひそかに念願する所があります

柿沼師はまさに宗門古来の慣例に従って山と原を同義に扱っているのだ。わたくしは原文を確かめたわけではないが、まさか法華講の諸氏はこれを浅井の得意とする改竄とでも言うのだろうか?

さらに同講演では、昭和四十五年六月九日付の文書が紹介されているが、これもまた注目である。

宗門において天母原の戒壇について否定したことはない。先に述べたごとく将来天母山にいかなる建物が建てられるかは未来のことであって今は想定できない。

必要な箇所だけ抜き出したので全体の文意は見えてこないかもしれないが、ここでも山と原が同じ扱いになっている。これまた浅井の改竄だろうか?

以上、この件に関しては、浅井先生に変節があるとは言えないだろう。

ちなみに、わたくしがもっとも注目したのは、日穏上人の御筆記とされる次のくだりである。

大石寺も未だ真実の本国土にあらず、天母山はこれ本国土なり、しかれども肝要の本尊未だ住し給わず

いかがだろうか?

顕正会が全面的に正しいなどと言うつもりは毛頭ない。むしろ今となっては間違いだらけである。けれども、宗門の主張にだってあちこち綻びがある、そこを改めずにゴリ押しするのはいかがなものか、というのがわたくしの言いたいことだ。

2010/4/17  17:25

投稿者:ありの金吾
nabeさんへ

顕正会在籍時には数々の無礼を働き、大変申し訳ありませんでした。

>顕正会員に言わせれば、その時点でのセンセーは迹なんだそうです。
宗門に与えられた法難によって勝応身みたいに徐々に開顕にしていくのだそうです。

こんなことを言う顕正会員がいるんですね・・・。
まさに浅井本仏論ですね。


http://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo

2010/4/17  0:17

投稿者:nabe
ありのさん
 顕正会員に言わせれば、その時点でのセンセーは迹なんだそうです。
 宗門に与えられた法難によって勝応身みたいに徐々に開顕にしていくのだそうです。

http://heartland.geocities.jp/kamijo2057/index.html

2010/4/16  23:33

投稿者:ありの金吾
顕正会は妙信講の時代に、大石ヶ原(富士大石寺)が本門戒壇建立の地と述べていますが?
 
「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」
(『富士』昭和39年9月号 23ページ)
 
天母山が本当に本門戒壇建立の地なら、こんなことを述べるはずはありません。
 
顕正会は本門戒壇建立の地を、大石ヶ原から天母山に変更した理由についてはきちんと説明しているのですか?
 
都合が悪くなれば、御遺命の戒壇の教義さえも、何の断りもなく変更してしまうのですか?

http://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/

2010/4/16  21:25

投稿者:nabe
そうじゃないですよ。
僕が言いたいのは
・浅井はかつては山=原という立論だった。
・いまは「原」というが「山」とはいわない。
・その時期は僕の指摘と符合していたと記憶している
ということなんですよ。
 それと、天母山戒壇説について論じるとき、昭和45年というのは節目なんです。
 日達上人が大坊棟札本尊の裏書が誤りであることを指摘された年だからです。
 第59世の堀上人がすでに確証を得られていたのに、なぜ第66世日達上人の代になってが公表されたのか。
 浅井および浅井信者は「日達上人の己義だ」なんていいいますが、研究ってそういうものですよね。
 堀上人が監修されたといえども未完成ながら勉学の礎として発表された『御書全集』から『平成新編御書』まで40年かかってるのです。
 また、日達上人は天母山戒壇説を誤りとされながらも、先師のお徳を汚されないように御配慮遊ばされたかたちで述べられています。
 自分を肯定するために他を非難する浅井の狂気はその御心中など分かりません。
 腹は出てるが心は狭いんですよね。

http://heartland.geocities.jp/kamijo2057/index.html

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