2010/4/19

賢愚の分かれ目  
nabe氏には懇切丁寧なるコメントをお寄せ下さり感謝に堪えない。ここに全文を転載させていただくことにする。

 そうですね、今の大石寺が戒壇建立地であるという明確な文証はありません。
 しかし、それこそ天母山戒壇論を肯定する以上に、大石寺であろうとするたくさんの文証はあります。
 近年では堀上人が『富士日興上人詳伝』において、四神相応の勝地が大石寺であると論証されています。
 この「四神相応の勝地」は、興尊が『門徒存知事』に明言されていることです。
 四神とは北面に山、南に湿地、東に川、西に大道です。
 大石寺のすぐ東には潤井川があります。
 天母山の東にはありませんよ。
 それだけでも十分わかるでしょう。
 それと、「なめたら」と言ったのは、浅井に対してですよ。
 所詮は浅井一人が相手であって、それ以下は問題外ですから。
 逆にいえば浅井がいなけりゃ何もできないのが顕正会でしょう?


戒壇論については一区切りついたと思う。冒頭こそ、nabe氏が本質をよく弁えている証拠であり、さながら法華を識る者は世法を得べきか云々の御金言のままである。つまり、一般人が聞いていて、あれ、言っていることがおかしいぞ、などと感じるようではダメなのだ。もちろん、わたくしごときが偉そうに言える立場ではないのだが、ともかくnabe氏の柔軟性に富んだコメントを拝見して、爽快な気分になったものである。

ちなみに、文末の浅井云々については、今朝たまたま拝読していた御書に関連するのではないかと思った。依報不依人御書である。

仏は依報不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。

この数行後の御文が象徴的である。

されば華厳宗に人多しといえども澄観等の心をいでず。彼の宗の人々諸経をよめども、たゞ澄観の心をよむなり。全く諸経をばよまず。余宗又かくのごとし。

華厳宗を顕正会に、澄観を浅井に、諸経を御書に、それぞれ置換してみればいい。余宗又かくのごとし、創価学会なども似たり寄ったりということだ。

しかし、ここでも本質論を提起しておきたい。たぶん、ここで法華講員と袂を分かつことになると思うが、同御書の後半には次のごとくある。

これ偏に文書に依りて人によらず、人によりて文書によらざるによりて賢愚はいで来たるなり。当世の僧俗多くは人を本として経文を本とせず。

本質的には御法主上人も「人」に含まれるのではないか、もちろん浅井や池田と同日の談ではないけれども、さりとて猊下だけを絶対的な例外に置くことはできない、というのがわたくしの信念である。おそらくはここが賢愚の分かれ目だろうと思う。

いずれにしても、この件に関しては顕正会がいちばん程度が悪いことになる。何しろ御書がないのだから、もうハナっから浅井先生に依る以外にないのだ。つまり、人によりて文書によらざる、という姿である。大聖人はこれを「愚」であると仰せになっているのだ。

ところで沖浦氏であるが、またしてもケッタイなことを言い出した。唯授一人は目師までだと言うのだ。その根拠が難の有無にあるらしい。ようするに、法華経の行者ならば難が起きなければいけない、目師以降は難が起きていない、法華経の行者が途絶えてしまった、というようなことらしい。

これについては実に簡単な反論がある。すでに大月天氏などが盛んに主張していることなので、今さら書くこともないだろう。だったら、なぜ日寛上人の御本尊を用いるのか、ということなのだ。譲っても目師まで、などと言っている人が、どうしてそれよりさらに二十数代も下る大石寺の住職の書いた本尊を用いるのか、である。

沖浦氏のことだから、いつものごとく、ああ言えばこう言うで、また何かしら書いてくるのだろう。氏の主張にはいささかも与しないが、しかし、そのバイタリティには敬意を表しておく。

2010/4/21  6:39

投稿者:沖浦克治
厳虎さん、おはようございます

 私の板にも書きましたが、私共は興師の身延離山からもう抜け出すべきだと思っています。
 所詮、あのお話は、富士門流の正当性のよりどころでしかございません。
 既に私共創価学会は、富士門など言う卑小な枠決めには収まりません。
 独立した創価宗として、世界宗教への道を歩み出しております。
 ああ言う、富士門流がどうで、身延がこうで、などは、面倒なだけです。
 第一、大石寺などは、大聖人様に直接の縁もゆかりもない寺です。
 大聖人様は名前すらご存知ではありません。
 そう言う後世の権力争いで生まれた寺が、大聖人様ゆかりの久遠寺と肩を並べようと思うほうが滑稽です。
 そう言う陳腐な争いは、大石寺に任せていいんじゃないでしょうか?

2010/4/21  5:11

投稿者:nabe
論語読みの論語知らずですね
>これ偏に文書に依りて人によらず、人によりて文書
>によらざるによりて賢愚はいで来たるなり。
 の意味は次下の
>当世の僧俗多くは人を本として経文を本とせず。
にかかるわけですよ。
 経文を本とするすなわち如説修行でなければならない、ということですから、引用が間違っています。

>本質的には御法主上人も「人」に含まれるのではな
>いか、
 日蓮大聖人も「人」です。
 それでは、御法主上人にお間違いがないか、ということですが、勘違い程度の些少の間違いはあるでしょう。大聖人にもありました。
 しかし、仏法の大綱から外れることはあり得ません。
 幼いころから仏道に使えられているのですし、堀上人もそのような趣をおっしゃっています。
 また、日淳上人はあなたや浅井・池田のような人を指して「『(御法主上人を)あれは凡夫じゃ』と言って信じない」と指摘しています。
 御宗門に帰伏してからも、ずっと私が考えていたのは日精上人に対する造仏疑惑です。
 どう考えたって、大曼荼羅御本尊以外を信じることはできませんし大衆が許しません。
 しかし、その答えはすぐに導かれました。
 西山の檀徒が行った造仏が強く指弾されることに対しての処置が『随喜論』だったということです。
 さて、御法主上人に対する侮言の根拠、実例を示してもらいましょう。
 天母山戒壇論の難癖以外には存在しないでしょう?

http://heartland.geocities.jp/kamijo2057/index.html

2010/4/19  21:32

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今晩は

 堕落法主の寛師書写で御本尊様にお力ある。

 書写係りの条件は、案外ゆるいんでしょうね。

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