2010/5/17

浅井先生の御聖意?  
今日はのび太氏のコメントをベースに思うところを書くつもりだが、その前に触れておくべき事柄が出来した。大沢克日子氏による長文のコメントである。

巌虎様は顕正会の問題点、浅井会長の矛盾を知っておられるにもかかわらず、「監視」「批判」のみに止まっておられてよろしいのでしょうか?

文章の中ほどにご覧の記述があって、さらには文末にも同趣旨の文章がある。

顕正会により様々な実害を受けている会員が出ている現状を見る時、問題点に気付きながら、第三者的に「監視」「批判」に止まってしまっていいのでしょうか?

ようするに、巌虎はブログを書いているだけで他に何もしていないじゃないか、それはイカン、ということなのだろう。それでは無慈悲だ、というのが最終結論である。

ひじょうに厳しいコメントであるが、事実なので仕方がない。ご批判は甘んじて受けたいと思う。
もし現状から一歩前進をするとしたら、一つには宗門への帰伏という具体的な行動が求められるところだろう。他の選択肢としては、たとえば顕正会批判をするにしても、ブログでやるのではなく、直接的な行動に打って出るべきだ、という考え方もあるだろう。もちろん、他にもいろいろあることだろう。
ようするに、今のままブログを続けていれば、大沢氏に限った話ではなく、同様の批判が各方面から出ても、おかしくはないのだ。
ゆえに、それはそれで甘んじて受け止めるしかない。それがイヤなら、最終的にはネットから撤退するしかないだろう。わたくしの唯一の自慢(?)は、自分にとって耳の痛い話であっても、削除せずに残しておくことである。

nabe氏にお伺いします。顕○会時代の遥拝勤行と唱題で日蓮大聖人を御本仏と感得できるのでしょうか?
厳虎氏の観念論的な信仰はどうもこの辺にあるように思うのですが…率直な感想をお願いします。


さて、本題である。のび太氏のコメントはわたくしに宛てたものではないが、さりとて無関係というものでもないので、思うところを書いてみたい。

相変わらず顕正会を伏せ字にしているところが気に入らない。どこか他のところにコメントするならまだしも、拙ブログは副題に零落れ顕正会員云々と書いているわけである。いわば顕正会のことが主要なテーマとなるべきブログなのだ。そこでわざわざ伏せ字を使うことにいったい何の価値があるのか、おそらく普通の感覚からすればひじょうに奇異に感じられるはずである。ちなみに以前の沖浦克治氏は顕彰会と書いていたが、今はちゃんと顕正会と書くようになった。それが常識人のあり方だろう。

遥拝勤行と唱題で日蓮大聖人を御本仏と感得できるのでしょうか?

再掲させてもらったが、ここでの感得の意味がよくわからない。単に教義の問題として捉えるならば、顕正会員は大聖人を御本仏であると認識しているわけであって、それは遙拝勤行云々に左右されるものではない。

顕○会員のように遥拝勤行と唱題で御本仏の境地を感得できるのか不思議でなりません。

のび太氏の二つ目のコメントである。何となく話が見えてきた。この前にはnabe氏のコメントがあって、感得とは仏果を得ること、と書いておられる。のび太氏の、御本仏の境地を感得する、という意味が仏果を得ること、すなわち成仏の意味であると理解しておこう。それをnabe氏に問うところが面白い。

この際、遙拝勤行は関係ない。今、もっとも問われるところはニセ本尊疑惑である。つまり、法華講員の言い分としては、そんなので成仏できるわけがない、ということになる。何を隠そう、これはそっくりそのまま創価学会にも当てはまることなのだ。法華講員たちの認識としては、創価学会版の本尊も顕正会版のそれも、いずれも不可ということになる。妙な話、ニセ本尊を拝むくらいならば、むしろ遥拝のほうがマシという見解もあり得るだろう。この意味で、のび太氏の質問は自爆のようにも感じられるところである。

厳虎氏の観念論的な信仰

ここはある意味、大沢氏の批判とオーバーラップするところだと思う。ゆえに、あえて抗弁するつもりはないが、しかし、どうなんだろうか、のび太氏の周囲には顕正会員がいないのか、そこが気になるところである。これは顕正会経験者であれば、よくわかっていることだと思うが、わたくしの信仰姿勢は決して模範的ではない、いわば顕正会における異端であって、平均的な顕正会員像とは異なるものである。よって、わたくしの姿を見て顕正会員とはこういうものなのだ、と思ったならば大間違いである。のび太氏にはそこを誤解のないようにお願いしたい。

観念論的の対極に位置するのが何か、適切な言葉が見つからないが、熱心な活動会員たちは実践的であり、行動力がある。一方のわたくしが落ちぶれ会員を自認するのは、まさに事実だからである。

なお、観念論的という意味において、あるいは顕正会の信仰が実生活にメリットをもたらさないという一面があるのは否めないかもしれない。熱心な活動会員ほど生活破綻に至るケースが多いとも言われているが、もしこれが事実であれば、ぶっちゃけ功徳がないのだろう。のび太氏の言う観念論的信仰は、この意味では案外に正鵠を射ているのかもしれない。

いずれにしても、わたくしを平均的な顕正会員像だと思うのは大間違いであると、これは何度でも言っておきたいところだ。

話は変わるが、四月度総幹部会の副理事長の登壇を紹介したい。

 また顕正新聞には、総幹部会・御書講義・日曜勤行等における浅井先生の重要指導が掲載されておりますが、耳を通して頂いた指導を、改めて活字を通して拝読することで、御聖意がより深く命に刻まれ、信心は深まるのであります。

凄いことを言っている。これではまるで浅井先生が御本仏みたいだ。

2010/5/19  6:10

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、おはようございます

 顕正会に功徳ありますよ。
 昨日、私が大事にしている女の子のお母さんが、家を購入される運びとなりました。
 一緒に行った不動産の専門家が、

 この家がこの値段とは物凄い買い得だ!

 驚いたそうです。
 親子で顕正会の信者です。
 今しがた、その子に言いました。

 お前のお母さん、お題目よく唱えるんだろう?

 ハイ、何時も唱えています。

 その功徳だよ、よかったな〜。

 本気で私は功徳だと信じます。
 もうね、

 創価学会だから、日蓮正宗だから、うちだけ功徳で、他所は全部罰しかないんだ。

 こう言う事言って、ふんぞり返る時代じゃないですよ。
 何宗でアレ、お題目には力がある。
 こう言う仏法の常識と道理、弁えるべきなんじゃ無いでしょうか?
 では、どうして法華講員のお題目に功徳が無いか?
 何故、顕正会のご婦人と、と創価学会の私がキチンと功徳出て、法華講は罰だけ?

 顕正会のお方ですが、非常に面倒見のいいお方です。
 そして、何よりも他宗の悪口は言われません。
 自分は縁があって顕正会に入り真面目に唱題する。
 でも、私が創価学会員である事で、一度も文句は言われないのです。
 怨嫉謗法が無いお方です。
 ですので、唱題はそのまま、功徳になって帰ります。
 法華講員はは、常に他宗と信徒の悪口雑言を書く。
 怨嫉謗法なんです。
 だから罰です。

 『何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、』
 (曾谷殿御返事)

 この通りです。
 ご本仏様のご指南です。
 信受なさい。
 怨嫉謗法ダメですよ。
 若し、住職がそう言う事すすめるなら、叩きだしてやりなさい。
 能化が言うなら、その人提婆です。
 謗法勧める僧不要です。
 法主が言うなら、追い出しなさい。
 どう言う地位にあろうと、謗法を勧める人は追い出すんですよ。
 念仏でさえ、五逆罪と正法誹謗以外は功徳があるんです。
 少しは、お題目唱える人間として、責任持ちなさい。
 情けないですな〜〜。
 魔の通力ほどの功徳すら無い!
 功徳で魔に負ける唱題なんてね〜〜。

2010/5/18  8:43

投稿者:nabe
 みなさん活発ですねぇ。
 のび太さんの「感得」って言葉。「御本仏であることを体現する」という意味だと私は思ったのです。
 感得=仏果であるとして、究極の仏果は外用の成仏ですが、内証成仏によって功徳を得ることはありますので、「誠に御本尊様は有難い」ということは感得であるといえます。
 それでは顕正会員はどうなのかというと、現世利益=功徳という解釈なので、これは思いこみにすぎません。ですから、顕正会に感得など存在せず、ただの思いこみであると断言します。
 そして、その思い込みによる出鱈目な信仰の最も大きな罰は「平面」だと私は思っています。
 すべてを2Dで見て悟ったかのようになってしまうということです。
 天母山に行ったこともないのに、大石寺に行ったこともないのに、それを講釈師の様にしゃべる姿は滑稽です。
 私は大沢さんのように切りこんだことは言いませんが、巌虎さんが自分の成仏を真剣に考えているとは思えません。
 これも2Dの罰からくるものだとおもいます。
 センセーは立派ですね。政治・経済・軍事・ありとあらゆることをすべて知っています。
 登壇して「経済に精通している人なら、みんな良く知っている」というと、「あ、センセーも経済に精通しているんだ」って思うんでしょう?
 だからセンセーはすべてに精通している。顕正会員はそう思うことでしょう。
 『一切世間の治生産業等は皆実相と相違背せず』のまんま。御金言のまんまの仏様だ。
 自分もそう思ってるだろうし、会員もそう思っています。
 合掌しちゃえばいいのにね。立派なセンセー仏を。

http://heartland.geocities.jp/kamijo2057/index.html

2010/5/18  6:09

投稿者:大沢克日子
巌虎様

おはようございます。

日淳上人様はこのように仰せです。

「ややもすれば、法によって人に依らざれの経文に執して、あながちに人をしりぞけんとする者がるが、これは誤れる解釈にして、師と法と合せざれば法に依って人を捨つべし、というなり。師あって法正しく、法あって師正しきを得。師言もし法に合せずとなさば躊躇するところなく捨て、さらに師を求むべきである。
この場合、我れにはついに師あらず、といわば上慢なり。中途にして挫折するは怯懦なり。この二者は、ついに道を得ること能わざるべし。怯懦者はなお道を得る機有らんも、上慢においては道を得べからず。(中略)昔、雪山童子が半偈のために身を投げし謙譲と真剣とは、求道者の精神であらねばならぬ。(中略)求道者は、師を選ぶに、師伝曖昧にして法統明らかならざる者は悉くこの類(※仏法を破る怨敵の類)として、しりぞけざるべからず。
正師とは、日興上人とその門流あるのみ」

巌虎様の取るべき姿勢としては、顕正会(浅井会長)を躊躇なく捨て、師を求めることであり、
「正師とは、日興上人とその門流あるのみ」
であれば取るべき道は一つしかないのではありませんか?

顕正会(浅井会長)の問題点に気付きながら放置するのは御自身の信仰上も問題ですし、また実際に顕正会の活動の結果数多くの後輩が苦しんでいる訳ですから、一人でも多く救っていく事が必要だと思います。

私事ですが嬉しい事がありました。
顕正会男子部幹部で本部会館・東京会館等で活躍された方(かつて猛烈に反発なさっていた方)が法華講に帰伏なさりました。
勤行の折、また御開扉の折何年も祈念申し上げていたのですが、その報を聞き大変嬉しかったです。

毎度ながら長文になりましたが、巌虎様、御自身のため、また先に誤りを知る者として後輩を実際に救って行くために、決意しなければならない時ではないでしょうか?

(ネットはネットとして御活躍なされば良いのではないでしょうか?)

2010/5/17  21:17

投稿者:ジャスティ
浅井教…。確かに。
大聖人様のお言葉を自分勝手に解釈して、自分の都合のいいように指導して「ワシは凄いんじゃぞ!」とばかりに会員を洗脳している姿から見ると浅井教と断言しても何も間違ってないでしょう。
以前に「顕正会の中心はどなたなんですか?」と上長に質問してみました。
ある意味カマ賭けをしたんですわ。
私の内心では「そんなの今更聞いてどうするんよ。大聖人様に決まってるやん!」と返ってくるのを期待してましたが。
「はあ?何を聞いとんねん。浅井先生が顕正会の中心に決まってるやん。浅井先生の言われるままに信心しとればええんやわ。いらんこと考えんでええわ!」と返されました。
この時点で(顕正会は大聖人様を見失い浅井教になっちまったか…。)と感じましたね。
大聖人様の為、自身の成仏の為、と思って活動してましたが、顕正会では大聖人様に通じる御奉公ではなく浅井の発言を後ろ押しするためだけの数集めなんやなと実感しました。
顕正会は浅井の野望の為に使われ、心身ともボロボロになった会員ばかりですわ。
しまいには浅井会長に賛同し、浅井と異体同心しないと成仏出来ないなんて指導も上長から言われることもあります。
このことからも浅井教になってしまった実態がわかると思います。

長文、失礼しました。

2010/5/17  15:10

投稿者:ありの金吾
すみません、間違えました。
 
×私のサークルもいい加減に更新しないといけませんね。
 
○私のブログもいい加減に更新しないといけませんね。

2010/5/17  15:07

投稿者:ありの金吾
お久しぶりです。
私のサークルもいい加減に更新しないといけませんね。
 
>凄いことを言っている。これではまるで浅井先生が御本仏みたいだ。
 
その通り、顕正会は浅井教なのです。
 
顕正会にまだ在籍していた頃、私は『御書』を持とうとしました。
 
しかし、勝手に『御書』を持つのはよくないと思い、顕正会本部に直接電話してみました。
 
電話に出た本部職員も返答に困ったらしく、電話の相手が変わりました。
 
変わって電話に出たのは、なんと浅井城衛男子部長でした!
「浅井です」とは名乗ってませんでしたが、声からして浅井城衛氏でした。
 
城衛氏
「なんで『御書』を持ちたいの?」
 

「(『御書』を持ちたい理由を説明)」
 
城衛氏
「気にしなくていいです。
私達が『御書』を読んだところで、内容が理解できますか?
『御書』を読んで大聖人の御聖意が拝せるのは、いやもう、浅井先生だけですから。
浅井先生は『御書』の内容を分かりやすく指導して下さっていますから、我々は浅井先生の御指導を心肝に染めるのが大事なんです。」
 

「は、はいっ!そうですね!分かりました!」
 
城衛氏
「君の所属と名前は?」
 

「3隊T中支隊の有○です…。」
 
結局、『御書』を所持してよいという許可は下りませんでした…。
 
城衛男子部長と電話で話していた時は、彼の言っていることがもっともらしく聞こえました。
しかし、電話が終わりその緊張から解き放たれると、
 
「『御書』を読んで大聖人の御聖意が拝せるのは、浅井先生だけ」
 
という城衛氏のセリフがとても気になり、「これではもはや浅井教ではないのか!?」との疑問がこみ上げてきました。
 
この城衛氏との電話で顕正会に対する疑問が深まっていきました。

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