2011/2/21

原点回帰を考える  
いわゆる御命題については、他人事のような物言いで恐縮だが、ひじょうに困難な目標だと思う。しかし、宗門がこのような目標を掲げて前進することは、物凄く画期的なことであろう。いわゆる伝統仏教は形骸化が著しく、マレには例外があるにせよ、多くは葬式を行なうことが主目的となってしまっている。そうした中で日蓮正宗は異彩を放っている。何しろ倍増計画を立てているからだ。この点では新興宗教も顔負けであろう。創価学会が宗門を敵視するのも頷けるところだ。当然、顕正会も同様であり、ことに近年になって宗門批判を強めているのは、せっかく苦労して集めた会員を横取りされたくない、という思いがあるからだろう。倍増計画のターゲットは差し当たり、創価学会員ないし顕正会員なのだ。

現在、創価学会員が増えているという話は聞かない。また、ご存知のように顕正会員も同様だ。累積数は百五十万になんなんとしているが、実勢は些少であり、増えているとしても微増だろう。

つまり、現代の社会的諸事情を勘案した時に、信徒を倍増することがどれほど困難なことかがわかるのだ。

今こうして偉そうなことを書いているけれども、こんなことは誰だってわかっていることだろう。おそらくは宗門の高僧たちだって承知していることだと思う。それにもかかわらず御命題を下された。すでにこれ自体が画期的なことなのだ。日蓮正宗がそこらの伝統仏教とは一線を画する存在であることの表明であり、大聖人の仏法を広宣流布するという重大使命を帯びているがゆえの責任感なのだ。

いずれにしても一般人の入信はハードルが高い。すると必然的に、当面の主要なターゲットは創価学会員ないし顕正会員となる。

わたくしが思うに、創価学会の首脳ないし顕正会の首脳が信徒を横取りされたくないと思うのは、筋違いというか、物凄くおかしなことなのではないかという気がする。横取りという言葉の響きからすれば、横取りするほうが悪者になる。もちろん、一般的にはそのとおりである。しかし、相手が日蓮正宗の場合はかなり事情が異なるのではないかと思う。なぜならば、創価学会員や顕正会員が宗門へ帰伏することは、まさに原点回帰に他ならないからだ。ゆえに首脳たちは、横取りされたなどと思うのではなく、むしろ積極的に信徒を差し上げるくらいの気持ちでいなければいけないはずである。たぶん、今は亡き戸田城聖氏であるとか顕正会の顧問先生であれば、わたくしの意見に賛成するであろう。

さて、最近は顕正新聞の感想を書くのも面倒になってきた。

第1197号の一面は御書講義の報道であるが、どうやら講義の詳細は後日「冊子」として発行される模様である。それはそれで結構だけれども、はたして本年は何回御書講義が行なわれるだろうかという点に注目したいと思う。ちなみに今回は松野殿御返事だった。ベテラン会員たちは同じ講義を何回受けたことだろう。内心、またこの御書か、と思った人もいることだろう。

浅井先生に注文しておこう。おそらく十年くらい前だと思うが、いつか機会があったら頼基陳状を講義したい、という意味のことを言っていたはずである。ぜひ、やるべきだ。

次に婦人部の班長さんの記事を紹介しよう。四級試験を受験して、というタイトルであるが、昨年の八月末の総幹部会以降続いている宗門批判キャンペーンの一環である。そう、これは教学試験という名目でありながら、実質的には宗門批判キャンペーンなのだ。浅井先生は「最後に申すべき事」を出してしまった手前、自らが先頭に立って批判するわけにもいかない。そこでいわば間接的な方法で宗門批判を展開したわけである。

 しかしこのような貫首であっても、学会首脳らが「貫首の責任」を持ち出したとき、貫首の立場を守りつつ学会の誑惑だけを破折された先生のお心には平伏し、いま自分が正しき師匠の下で御奉公が叶う宿縁の有難さを噛み締めたものであります。

それにしてもヒドイ文章である。構文がデタラメで何が言いたいのかよくわからない。そこで直前の文章に注意してみよう。

 また浅井先生と直接対決する度胸もない、池田大作の卑怯さに憤慨するのはもちろんのこと、細井管長が顕正会と学会との間でフラフラする態度には(中略)憤りを越えて情けなさを感じました。

これでいちおうは理解できると思う。

つまり、この人は日達上人を情けない貫首だと言いたいのだ。そして、浅井先生はこのような情けない貫首を庇いつつ創価学会の誑惑だけを破折した、だから先生は凄いお方なのだ、と言いたいわけである。

わたくしはここ数日、原点回帰について考えていた。しかし、上掲の記事を読んで、原点回帰は理想だがどうやら無理のようだ、と思った。理想だが無理・・・というのはややこしい言い方だが、ここには二つの意味を込めたつもりである。一つには、理想だが実現するのは無理である、ということ。そしてもう一つの意味は、そもそも顕正会の原点そのものが間違っているのではないか、ということである。

昭和四十五年の御遺命守護の戦いにおける最大の困難は、創価学会が猊下を盾に取っていたことである。早い話が、自分たちの主張を正当化するために猊下の権威を利用していた、もっと言えば、悪用していたわけである。ゆえに浅井先生は猊下の御本意を守りつつ創価学会を破折したわけだ。これは物凄く難しいことで、結果的には失敗に終わったとも言えるだろう。後には解散処分に付され、猊下に背く大謗法者との烙印を押されるハメになったからである。

それはともかく、くだんの婦人部班長はいちおうこの辺の事情をよく理解しているようだ。真面目に先生の書籍を読み込んだのだろう。「貫首の立場を守りつつ学会の誑惑だけを破折」というのがポイントである。

しかし、情けない貫首・・・という文脈がいただけないところだ。

彼女は浅井先生の書籍を読むことによって、そのような感想を懐いた。ようはここに馬脚があらわれている。つまり、これは彼女の感想ではなく、浅井先生の本音なのだ。

日達上人に対して、情けない貫首と思っていたとしたら、もはやそこでアウトである。原点回帰もクソもない。浅井先生の性根は最初から腐っていたことになる。確かに創価学会は猊下の権威を利用ないし悪用していたのだろう。本音では猊下を侮りながらも、建て前では御法主上人猊下などと奉っていたのだ。しかし、浅井先生だって同じじゃないか、ということなのである。情けない貫首が本音であれば、創価学会とは方向性が異なるものの、信徒のブンザイを逸脱している意味では同じ穴のムジナであろう。

ただし、一つだけ浅井先生の弁護をしておこう。

「情けない貫首」は後天的に発生したものかもしれないということだ。上述のごとく、浅井先生は猊下に背く大謗法者との烙印を押された。先生にとってはヤルセナイ気持ちだったろう。先生はその後もずっと罵倒され続けたのだ。そうして今日までの長い間に、過去の記憶が変形していくこともあり得ることだと思う。ゆえに、先生が当時から日達上人を情けない貫首だと思っていたのか、それともずっと後になってからそのような感想を懐くようになったのかは、定かではないと思う。

いずれにしても「情けない貫首」は世間で言うところの失言であろう。しかし、現在の顕正会はそれを承知でわざと言っているフシがある。なぜならば会員を横取りされたくないからである。そのためには失言だろうが何だろうが構わない。宗門を貶める言辞を弄することが会員の流出を防ぐ手段になるのだ。

原点回帰どころの話ではなさそうだ。

2011/2/21  17:30

投稿者:山門手前
顕正会に原点回帰もリセットも必要ないですよ。

今のままで、浅井さんが他界するまで宗門に人材を
送り続けていれば良いのです。それ以上の機能は、
必要ありません。特に折伏しなくとも「顕正会」の
欺瞞や謀りを見抜いた人は、自ら宗門に就きます。

軍隊形式で思考回路がショートしている人が幹部に
なるのが顕正会です。

思考回路が正常に「機能」していれば、顕正会に
疑問をもつはずです。

リセットすべきなのは顕正会員の頭脳です。
精神科という立場から見れば浅井さんに関して
は、完全に「異常」があります。それを見抜け
ない人が猪突猛進しているだけです。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ