2011/3/3

春の実感  
沖浦流法門には批判も多いが賛同者も少なくない。氏の同苦についての持論はなかなかのものだと思う。それはさておき、わたくしが同苦から連想するのは次の御文である。

日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。

凄まじい御指南である。これこそ大聖人が御本仏であることの明証と思う。

(私が現役の時は、もう心が張り裂けそうなほど苦悩しました。。)

話があちこち飛んで恐縮だが、これは元会員氏のコメントである。きっと沖浦氏であれば、この人の気持ちを痛いほど感ずることができるだろう。それが同苦ということだ。

元会員氏は常識的思考を失わなかった。だから心が張り裂けそうなほどの苦悩を味わったのだ。

わたくしが心配するのはそうじゃない会員もいるかもしれないということだ。いわゆる顕正会用語に「三毒どっぷり」がある。これになぞらえて言うならば「顕正会どっぷり」の人もいるはずなのだ。もはやそうなると常識的思考など働かなくなるのではないかと思う。
しかし、少し角度を変えて見ると、顕正会どっぷりの人はいわば顕正会というコミュニティで生きているわけだから、その中での立身出世こそが幸せなことだとも言えるだろう。彼らには彼らなりの常識がある。決して常識的思考ができないわけではないのだ。つまり、世間の常識と顕正会の常識に乖離があることを承知していて、自分が置かれている立場を考えて今はどちらの常識に従ったほうが有利であるかを、その都度うまく選択しているかもしれないのだ。
そういう器用な人はまだマシだろう。しかし、不器用な人もたくさんいるはずである。顕正会の活動をしていて逮捕されてしまった人たちというのは、おそらくは不器用な人たちなのだろう。

わたくしの個人的感覚では、器用な人よりも不器用な人のほうがピュアであり、ものすごく愛しい存在である。そんなわけで沖浦氏の持論についても共感できる部分が少なくないのだ。

正しきは「一」に「止まる」。
簡単に言えば、正しいことは一つしか無いと言う事です。
@「御遺命が破壊された」=「御遺命は護られなかった」
A「御遺命を護りぬいた」=「御遺命は破壊されていない」
これらは、@とAは両存しないのです。
顕正会は「御遺命を護りぬいた顕正会」と言う言葉を良く使用されます。
同時に「宗門は御遺命を破壊した」とも言います。
実はこの二義は完全なる矛盾用語なのです。
俗に「覆水盆に返らず」と申します。
一度破壊されたら何も元には戻らないのです。
実は浅井氏はこのような二立相反する用語の使い手なのです。
「御相承が断絶した」と言う同じく口で「血脈は断絶しない」と言う。これも二立相反の典型なのです。
御相承は血脈相承の事なのですから、滅茶苦茶な日本語です。
これらを顕正会員は疑問にすら思わない。
まさに洗脳の典型ですね。


イチロー氏のコメントを全文掲載させてもらった。氏は論理的思考を得意とする人のようである。しかし、わたくしは必ずしも上掲に賛成しない。

先日、現役顕正会員のヨシ氏がお出ましになった。その時、上掲とほぼ同じ意味の顕正会批判が持ち上がったが、ヨシ氏はこれをいとも簡単に一蹴した。いわく、それは屁理屈だ、と。
なぜ屁理屈なのか、氏は具体的に説明しなかった。相手もそれ以上の追及をしなかった。ゆえに今となってはヨシ氏がどのような意味で屁理屈と言ったのか、わからないことである。できれば再び登場願いたいところだが、まあ、それは本人次第だ。
わたくしが感じたのは、ヨシ氏は相手の言い分を充分に理解した上で、屁理屈だと断じたことである。単に回答不能を紛らかすために、負け惜しみのような意味で言い返したわけではないということだ。

さて、わたくしの意見を書いておこう。イチロー氏の書いていることは単に煩瑣なだけだと思う。顕正会では、宗門は御遺命を破壊した、と言っているが、それは事実誤認である。これで一つ目の問題は終了なのだ。そしてもう一つの御相承が断絶したと言うのも事実誤認である。はい、これでおしまい。

論理的に合っているか間違っているかを説明するのはけっこう面倒臭いことだ。ましてや相手が論理的な思考を苦手としている場合、相当な困難をともなう。しかし、相手を馬鹿だと思ってはいけない。実は馬鹿なのは自分なのだ。世の中には論理を理解できない人がたくさんいるのだ。法華講員の中にもたくさんいるはずである。ゆえに、ややこしい議論はできるだけ避けて、なるべく平易な方向に持っていくべきなのだ。上述のことで言えば、顕正会側の認識そのものが間違っていることを指摘すれば、それでほとんど終わっているような話なのである。

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。

何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模国竜口にて頸切られんとせし時・・・

せっかくだから宿題を出しておこう。別に誰に対するものでもないが、うまく説明できる人がいるのであれば、お願いしたいと思う。たぶん、このままでは設問の意味すら理解できない人もいることだろう。上掲の二つの御文は文法的に不整合である。これをどのように整理するかが問題なのだ。

平成7年1月度総幹部会において、当時浅井克衛氏が務めていた「総合男子部長」が廃止され、男子部の最高位は「男子部長」(当然、克衛氏)となりました。
顕正新聞平成7年2月5日号では「戦う組織は実質、簡略であるべきとの精神」との説明がありましたが、それから15年、いまや「総男子部長」の下に総男子副部長、第○男子部長、第○隊長・・・兼任も多いのによくぞまぁ、役職が多くなったもので(笑)。
「簡略」どころではありませんな。


水無月氏はご苦労にもわざわざ古い新聞を引っ張り出してきたものである。

この件に関しては、いちおう顕正会側に立って弁明しておこうと思う。平成五年に男子部大会が行なわれた。この時の結集人数は確か七千だったはずである。つまり、当時は一万人を集めることすら難しかったのだ。それから十数年を経て今度は三万人の男子部大会を行なった。この数字には疑問を呈する人が多いけれども、それを割り引いて考えたとしても平成五年当時に比べれば、それなりに組織が大きくなっているのは事実だろう。

しかし、水無月氏の視点とはやや異なるが、不審な点があるのも事実である。

平成五年当時は総合男子部長・男子部長の体制だったのだ。ところが男子部長が失脚した。それで、しばらくの間は男子部長が不在だった。総合男子部長はいるけど、男子部長はいないという時期があったのだ。さすがにそれではおかしいだろうと言うことで、平成七年には総合男子部長を廃止して、男子部長一本に絞ったわけである。

当時のわたくしはあまり疑問に思わなかったが、考えてみれば男子部長が失脚した時になぜに新しい男子部長を抜擢しなかったのかそれがわからないのだ。総合男子部長を廃止するのは組織の後退を意味するわけだから、何がなんでも新しい人を男子部長に祭り上げてしまったほうが見栄えがよかったはずなのだ。しかし、そうはしなかった。そこにはいろいろな裏事情があるのだろう。今般の壮年部廃止もまた、同様のことが言えるかもしれない。

最後に山門入り口氏にお返事申し上げて今日は終わりにしたい。

そうそう、当方のブログで、現役顕正会員との法論がありましたが、ご存じでしたよね?・・・

とぼけるわけにはいかないだろう。もちろん閲覧していた。

巌虎さんにも顕正会員として登場してほしかったです。

おそらく氏のことだから、わたくしが打ち負かされるのを見たいと思っているのだろう。それは大いに結構なことだ。

拙ブログの自慢は一切の投稿規制を設けていないことである。ゆえに、わたくしをやっつけたいと思う人はどんどんコメントを寄こせばいいし、実際、過去にそういう人がお出でになったこともある。最近になって拙ブログを閲覧し出した人はご存じないかもしれないが、今般の法論で法華講側の弁士だったトチロ〜氏や富士川氏もかつては拙ブログへしばしばコメントを下さっていたのだ。たぶん気が向けば、またお出でになることもあるだろう。

ともかく、わたくしは負けることを恐れていない。ただ単に面倒臭いから他所のサイトには顔を出さないだけである。

2011/3/3  18:47

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今晩は

 『日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし』

 共鳴できない人は、仏法者ではないですね。

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