2012/8/12
広本における真言批判の位置付け
各方面より種々雑多のコメントを頂戴しているが、さしあたって沖浦氏にお返事申し上げたい。
伽藍思考の本末転倒
魅力的な表現だと思う。意味不明ながらも考えさせられるのだ。
『善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、』
(立正安国論)
ほほう、これは鋭い。
はっきり言って沖浦氏の戒壇論はデタラメだと思う。しかし、部分的ながらも鋭いところがある。まさに上掲の引用がそれだ。このことを説明するのは相当に骨が折れるので、今は略して申し上げよう。上掲は戒壇論に近接する、きわめて重要な御文なのだ。
蜂須賀於虎
凄い人物が登場した。相当の論客である。しかし、リンク先を見ると、まだブログを立ち上げたばかりのようだ。よって、当面は今後の動向を見守りたい。
さて、もう一つの懸案である、広本の話題に移ろう。
三、『立正安国論』にみる真言批判
『立正安国論』の中で、真言密教批判が示されているのは、すべて広本にて書き加えられたものであり、次の箇所です。
1、第五問答の主人の答えの中で
《具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論の邪義にも超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峰末教の悪見にも勝出せり。大慢婆羅門の蘇生か、無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離せよ。破仏法の因縁・破国の因縁の金言これなり。……》
の文句が加えられています。ここでは慈恩による三乗真実一乗方便の論に対する批判と併記して、弘法に対して望後作戯論と名指しで批判されています。ただしこの他にも、光宅寺法雲の涅槃正見法華邪見論や、法蔵の華厳根本法華枝末論に対しての批判も同時におこなわれており、念仏法門のみならず、法華最第一を歪める諸説やその論者に対する批判として述べられています。
2、第九問答にて客人の領解として述べた中で
「法水の浅深」の後に
《顕密の浅深》
の一文が加えられ、さらに
《真言・法華の勝劣を分別し》、
と、勝劣論による法華経の優位が示され、
《一乗の元意を開発せん》
と、法華経を弘める必要の領解が強調されています。
以上、『立正安国論』全体からみればけしてその占める割合は多くはありませんが、真言密教への批判が明確になっていることは確認できます。少なくとも、文応元年本での念仏法門批判の意味合いから、真言をはじめとする他をも含めたものへと大きく展開されたといえます。法華経の引用の追加に関係していることからも(本来ならば、他経典等の引用の比較も検討すべきとは思いますが、ここでは略します。)宗祖にとって弘安本を記された意味は、単なる書写上の補填とは言えない大きな意味を待つものと推察されます。その原因の一つは先に述べた、命にもかかわった重大な法難でありますが、その他にも重要な要素があります。
これは現代宗教研究所の田澤元泰所長が書いたものである。
これまでの経緯を端折って説明すれば、安国論の広本に真言批判があるかないか、という議論だった。わたくしは不勉強なものだから、広本の内容については詳しく調べたことがなかった。ゆえに、広本に真言批判があるかどうか、まったく知らなかった。知らないにもかかわらず、勝手な推測として、広本には真言批判はない、というふうにも考えていた。そうして議論が終わり掛けていたところ、突如、上掲の資料が提示されたわけである。
まずは感想を申し上げよう。
田澤所長の論はずいぶん乱暴というか、説明が足りていないように思う。その理由は紙数の関係でもあろうし、もう一つには、上掲の直前の文章に答えが隠されているとも考えられるだろう。
なお、佐渡流罪と宗祖の法華経色読のご自覚による真言密教への展開については多くが論じられていますので、ここではこれ以上の検討は控えたいと思います。
検討は控えたい・・・
言い換えれば、詳述しない、ということだろう。さらに続きの文章を紹介する。
こうした経緯から推察するに、宗祖はそれまでにはなかった真言密教批判が大きなテーマとなり、『立正安国論』においても引用が加えられたと考えられます。
これ以下が前掲の、三、『立正安国論』にみる真言批判、という項目なのである。
つまり、田澤所長は安国論における真言批判と思われる箇所をピックアップするのみであって、それについて詳しくは論じていないのだ。わたくしが先に、乱暴ないし説明不足と書いたのは、この意味である。
話が面倒なので、ここで結論を書いてしまおう。
立正安国論広本における真言批判は、安国論全体の文脈からすれば真言批判に当たらない。
誤解のないように申し添えるが、これは何もヘソマガリなことを言っているのではない。真面目に拝するならば誰もが了解し得ることなのだ。ようするに、安国論の大意はあくまで念仏批判が中心であって、ここに他の批判を加えると全体の文脈が著しく損なわれてしまうという問題が生じてしまうのだ。ここでは二つの御文を紹介しよう。
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
一凶は念仏のことである。
我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは・・・
一仏は阿弥陀仏、三部経は弥陀の三部経である。ここが安国論の最後の段であり、結論部分なのだ。これで全体の文脈が損なわれると書いた意味がわかるだろう。
さて、それでは前後を含めて真言批判と思しき一節を紹介しよう。
就中、法然其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り。具さに事の心を案ずるに 慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論之邪義に超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峯末教之悪見に超出せり。大慢婆羅門の蘇生歟。無垢論師之再誕歟。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離す。破仏法の因縁、破国の因縁之金言是れ也。而るに人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。
下線が広本で加筆された部分である。
超過し・・・、・・・超出せり。
すなわち文脈上はあくまで念仏批判を主眼としているのだ。
そして、もう一箇所の真言批判が次の一節である。
然して後、顕密の浅深を斟酌し、真言・法華の勝劣を分別し、仏家之棟梁を崇重し、一乗之元意を開発せん矣。
この部分は短いので、次に平成新編から同一箇所を引用する。
然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。
ここはまさに大聖人の御化導の進展を如実にあらわすものである。まずは念仏批判であり、その後に真言批判を展開するという、その順序を示している。この類文というか、関連を思わせる御文が清澄寺大衆中に出てくる。
其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。
以上、広本に真言批判と思しき文言が散りばめられているのは事実であるが、あくまで中心は念仏批判である。当然、筆者であるところの大聖人は、全体の文脈を損なわないように留意しながら加筆修正あそばしている。この点が重要だ。
伽藍思考の本末転倒
魅力的な表現だと思う。意味不明ながらも考えさせられるのだ。
『善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、』
(立正安国論)
ほほう、これは鋭い。
はっきり言って沖浦氏の戒壇論はデタラメだと思う。しかし、部分的ながらも鋭いところがある。まさに上掲の引用がそれだ。このことを説明するのは相当に骨が折れるので、今は略して申し上げよう。上掲は戒壇論に近接する、きわめて重要な御文なのだ。
蜂須賀於虎
凄い人物が登場した。相当の論客である。しかし、リンク先を見ると、まだブログを立ち上げたばかりのようだ。よって、当面は今後の動向を見守りたい。
さて、もう一つの懸案である、広本の話題に移ろう。
三、『立正安国論』にみる真言批判
『立正安国論』の中で、真言密教批判が示されているのは、すべて広本にて書き加えられたものであり、次の箇所です。
1、第五問答の主人の答えの中で
《具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論の邪義にも超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峰末教の悪見にも勝出せり。大慢婆羅門の蘇生か、無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離せよ。破仏法の因縁・破国の因縁の金言これなり。……》
の文句が加えられています。ここでは慈恩による三乗真実一乗方便の論に対する批判と併記して、弘法に対して望後作戯論と名指しで批判されています。ただしこの他にも、光宅寺法雲の涅槃正見法華邪見論や、法蔵の華厳根本法華枝末論に対しての批判も同時におこなわれており、念仏法門のみならず、法華最第一を歪める諸説やその論者に対する批判として述べられています。
2、第九問答にて客人の領解として述べた中で
「法水の浅深」の後に
《顕密の浅深》
の一文が加えられ、さらに
《真言・法華の勝劣を分別し》、
と、勝劣論による法華経の優位が示され、
《一乗の元意を開発せん》
と、法華経を弘める必要の領解が強調されています。
以上、『立正安国論』全体からみればけしてその占める割合は多くはありませんが、真言密教への批判が明確になっていることは確認できます。少なくとも、文応元年本での念仏法門批判の意味合いから、真言をはじめとする他をも含めたものへと大きく展開されたといえます。法華経の引用の追加に関係していることからも(本来ならば、他経典等の引用の比較も検討すべきとは思いますが、ここでは略します。)宗祖にとって弘安本を記された意味は、単なる書写上の補填とは言えない大きな意味を待つものと推察されます。その原因の一つは先に述べた、命にもかかわった重大な法難でありますが、その他にも重要な要素があります。
これは現代宗教研究所の田澤元泰所長が書いたものである。
これまでの経緯を端折って説明すれば、安国論の広本に真言批判があるかないか、という議論だった。わたくしは不勉強なものだから、広本の内容については詳しく調べたことがなかった。ゆえに、広本に真言批判があるかどうか、まったく知らなかった。知らないにもかかわらず、勝手な推測として、広本には真言批判はない、というふうにも考えていた。そうして議論が終わり掛けていたところ、突如、上掲の資料が提示されたわけである。
まずは感想を申し上げよう。
田澤所長の論はずいぶん乱暴というか、説明が足りていないように思う。その理由は紙数の関係でもあろうし、もう一つには、上掲の直前の文章に答えが隠されているとも考えられるだろう。
なお、佐渡流罪と宗祖の法華経色読のご自覚による真言密教への展開については多くが論じられていますので、ここではこれ以上の検討は控えたいと思います。
検討は控えたい・・・
言い換えれば、詳述しない、ということだろう。さらに続きの文章を紹介する。
こうした経緯から推察するに、宗祖はそれまでにはなかった真言密教批判が大きなテーマとなり、『立正安国論』においても引用が加えられたと考えられます。
これ以下が前掲の、三、『立正安国論』にみる真言批判、という項目なのである。
つまり、田澤所長は安国論における真言批判と思われる箇所をピックアップするのみであって、それについて詳しくは論じていないのだ。わたくしが先に、乱暴ないし説明不足と書いたのは、この意味である。
話が面倒なので、ここで結論を書いてしまおう。
立正安国論広本における真言批判は、安国論全体の文脈からすれば真言批判に当たらない。
誤解のないように申し添えるが、これは何もヘソマガリなことを言っているのではない。真面目に拝するならば誰もが了解し得ることなのだ。ようするに、安国論の大意はあくまで念仏批判が中心であって、ここに他の批判を加えると全体の文脈が著しく損なわれてしまうという問題が生じてしまうのだ。ここでは二つの御文を紹介しよう。
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
一凶は念仏のことである。
我一仏を信じて諸仏を抛ち、三部経を仰ぎて諸経を閣きしは・・・
一仏は阿弥陀仏、三部経は弥陀の三部経である。ここが安国論の最後の段であり、結論部分なのだ。これで全体の文脈が損なわれると書いた意味がわかるだろう。
さて、それでは前後を含めて真言批判と思しき一節を紹介しよう。
就中、法然其の流れを酌むと雖も、其の源を知らず。所以は何ん。大乗経六百三十七部・二千八百八十三巻、竝びに一切の諸仏菩薩、及び諸の世天等を以て捨閉閣抛之字を置いて、一切衆生之心を薄す。是れ偏に私曲之詞を展べて、全く仏経之説を見ず。妄語之至り、悪口之科、言ひても比い無く責めても余り有り。具さに事の心を案ずるに 慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論之邪義に超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峯末教之悪見に超出せり。大慢婆羅門の蘇生歟。無垢論師之再誕歟。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離す。破仏法の因縁、破国の因縁之金言是れ也。而るに人皆其の妄語を信じ、悉く彼の選択を貴ぶ。
下線が広本で加筆された部分である。
超過し・・・、・・・超出せり。
すなわち文脈上はあくまで念仏批判を主眼としているのだ。
そして、もう一箇所の真言批判が次の一節である。
然して後、顕密の浅深を斟酌し、真言・法華の勝劣を分別し、仏家之棟梁を崇重し、一乗之元意を開発せん矣。
この部分は短いので、次に平成新編から同一箇所を引用する。
然して後法水の浅深を斟酌し、仏家の棟梁を崇重せん。
ここはまさに大聖人の御化導の進展を如実にあらわすものである。まずは念仏批判であり、その後に真言批判を展開するという、その順序を示している。この類文というか、関連を思わせる御文が清澄寺大衆中に出てくる。
其の上真言宗は法華経を失ふ宗なり。是は大事なり。先づ序分に禅宗と念仏宗の僻見を責めて見んと思ふ。
以上、広本に真言批判と思しき文言が散りばめられているのは事実であるが、あくまで中心は念仏批判である。当然、筆者であるところの大聖人は、全体の文脈を損なわないように留意しながら加筆修正あそばしている。この点が重要だ。
2012/8/15 5:54
投稿者:沖浦克治
2012/8/15 5:52
投稿者:沖浦克治
おはようございます、厳虎さん
最近は、大聖人仏法を現代に開いた、創価仏法の基本を書いています。
釈迦仏法ですら理解出来ない人が、ネットで創価学会員を名乗り、論師顔をして論陣みたいなものを張っています。
教学の基本が理解出来ない人が、仏法云々は無理ですね。
釈迦は本当は仏法を立て別けて説いていません。
後世の弟子が、立て別けて、いつの間にかおかしくなったものを、天台や伝教がそれぞれに悟ってもとに戻しました。
大聖人は御書を沢山残されましたが、それぞれがバラバラで伝わって、後世の弟子たちがメチャクチャにしたのですが、戸田先生がキチンと統一なされ、大聖人の本意に戻されました。
釈迦仏法における、天台伝教の役割を、一応はなされたのです。
本地は違いますが・・・
大聖人の時代は権実相対が主。
その後の日蓮系では、本迹相対が主。
そして、種脱相対が少しあって、現在は、
一切衆生が、大聖人と全く等しく、久遠よりの本来の仏である。
と言う、創価思想が表に出んとしております。
この思想は究極の人間至上主義、生命至上主義です。
私共が大聖人と全く同じなのですから、当然、漫荼羅本尊は迹で、私共が本です。
創価では自然にこうなるのですが、寛師の未熟な教学にたぶらかされた人の耳には入りません。
大聖人仏法の何処をどう解釈すると、偶像崇拝である、戒壇本尊至上主義が生まれますかね〜?
本未有善が我々で、本已有善が釈迦の衆生。
両者は決して交わらない。
こう言う与太話が、未だに頭に生きている人もいます。
創価ではそう言う差別はありません。
一切衆生が本来久遠の南無妙法蓮華経にょらいです。
本已有善に決まってますよ。
こう言う道理もわからない。
それで、小理屈だけにはこだわる。
悪鬼入其身の姿そのものです。
最近は、大聖人仏法を現代に開いた、創価仏法の基本を書いています。
釈迦仏法ですら理解出来ない人が、ネットで創価学会員を名乗り、論師顔をして論陣みたいなものを張っています。
教学の基本が理解出来ない人が、仏法云々は無理ですね。
釈迦は本当は仏法を立て別けて説いていません。
後世の弟子が、立て別けて、いつの間にかおかしくなったものを、天台や伝教がそれぞれに悟ってもとに戻しました。
大聖人は御書を沢山残されましたが、それぞれがバラバラで伝わって、後世の弟子たちがメチャクチャにしたのですが、戸田先生がキチンと統一なされ、大聖人の本意に戻されました。
釈迦仏法における、天台伝教の役割を、一応はなされたのです。
本地は違いますが・・・
大聖人の時代は権実相対が主。
その後の日蓮系では、本迹相対が主。
そして、種脱相対が少しあって、現在は、
一切衆生が、大聖人と全く等しく、久遠よりの本来の仏である。
と言う、創価思想が表に出んとしております。
この思想は究極の人間至上主義、生命至上主義です。
私共が大聖人と全く同じなのですから、当然、漫荼羅本尊は迹で、私共が本です。
創価では自然にこうなるのですが、寛師の未熟な教学にたぶらかされた人の耳には入りません。
大聖人仏法の何処をどう解釈すると、偶像崇拝である、戒壇本尊至上主義が生まれますかね〜?
本未有善が我々で、本已有善が釈迦の衆生。
両者は決して交わらない。
こう言う与太話が、未だに頭に生きている人もいます。
創価ではそう言う差別はありません。
一切衆生が本来久遠の南無妙法蓮華経にょらいです。
本已有善に決まってますよ。
こう言う道理もわからない。
それで、小理屈だけにはこだわる。
悪鬼入其身の姿そのものです。
2012/8/15 5:16
投稿者:沖浦克治
終戦記念日です
67年前の今日、
忌まわしい戦争が終わりました。
現在の私共の平穏が、あの多くの犠牲の上に成り立っていることを、国民が思い出す日です。
新たなる不戦の誓いを胸に、犠牲になられた皆様方のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。
・・・・・合 掌 ・・・・・
67年前の今日、
忌まわしい戦争が終わりました。
現在の私共の平穏が、あの多くの犠牲の上に成り立っていることを、国民が思い出す日です。
新たなる不戦の誓いを胸に、犠牲になられた皆様方のご冥福を、衷心よりお祈り申し上げます。
・・・・・合 掌 ・・・・・
2012/8/14 22:54
投稿者:のび太
ご無沙汰しております。
蜂須賀於女虎さんという方が登場したんですね!
読み方が判んねぇ〜?カナふってくれ〜
顕○会の人は、ハンネに「虎」を入れるのが王道なんですか?
ブログをざっと閲覧しました。
やはり、顕○会くずれの法華講員ですかね?
特徴を表している文を拾ってきました。↓
「顕正会員諸氏におきましては、国立戒壇の正義を宗門に復活させるためにも、早く勧誡を受け宗門に復帰することを切に願います。
浅井氏率いる顕正会も、戒壇の大御本尊への謁見を遠ざけられてより幾星霜…本尊の私製に手を染め謗法団体になってしまっています。」<引用終了>
以前、大沢氏のコメントでも感じたことがあった。
国立戒壇を否定する宗門のスタンスに対し、心のどこかに引っ掛かっているのだ。しかし彼は一生懸命に正信を取り戻そうと努力していた。別な見方をすると同化しようとしていた。
蜂須賀於女虎氏は、国立戒壇を否定した宗門の現在を覚醒しようというのだ!!!
師子身中の虫は一体誰だ?(笑)
今後の動向をみたい。
蜂須賀於女虎さんという方が登場したんですね!
読み方が判んねぇ〜?カナふってくれ〜
顕○会の人は、ハンネに「虎」を入れるのが王道なんですか?
ブログをざっと閲覧しました。
やはり、顕○会くずれの法華講員ですかね?
特徴を表している文を拾ってきました。↓
「顕正会員諸氏におきましては、国立戒壇の正義を宗門に復活させるためにも、早く勧誡を受け宗門に復帰することを切に願います。
浅井氏率いる顕正会も、戒壇の大御本尊への謁見を遠ざけられてより幾星霜…本尊の私製に手を染め謗法団体になってしまっています。」<引用終了>
以前、大沢氏のコメントでも感じたことがあった。
国立戒壇を否定する宗門のスタンスに対し、心のどこかに引っ掛かっているのだ。しかし彼は一生懸命に正信を取り戻そうと努力していた。別な見方をすると同化しようとしていた。
蜂須賀於女虎氏は、国立戒壇を否定した宗門の現在を覚醒しようというのだ!!!
師子身中の虫は一体誰だ?(笑)
今後の動向をみたい。
2012/8/13 7:24
投稿者:沖浦克治
厳虎さん、おはようございます
『善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、』
(立正安国論)
戒壇論に重要な関係がある、と知る人は、ほとんどいません。
貴方はさすがです。
やはり、口先だけの論師気取りとは違います。
嬉しいです。
『善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当に無量の法器と為るべし、』
(立正安国論)
戒壇論に重要な関係がある、と知る人は、ほとんどいません。
貴方はさすがです。
やはり、口先だけの論師気取りとは違います。
嬉しいです。
常識と道理で考えるなら、
興師が、二箇相承で全てを相承したのなら、身延を捨てて出たら負け。
後継ぎが嫌気がさして、独立し、別派を作った事になります。
これが世間の道理です。
ですので、身延離山は大聖人違背の、師敵対の行為。
ですが、二箇相承が嘘なら、興師はどう言う行動をとろうが自由になります。
その場合のみ、教学上の問題はさておき、人としての行動から見て、大石寺開基は問題ありません。
ですが、二箇相承が本当なら、とんでもない大謗法の行為。
大聖人を裏切って出て行くのですから。
私は、二箇相承は嘘だと信じていますから、興師が謗法の徒だとは思いません。
ご立派な僧侶であられた、と信じております。
この場合、興師の身延離山は、悪く考えても仲間割れ、善意で見ると、新しい寺を作って大聖人の仏法を広める行為。
こうなりますね。
ですので、二箇相承が本当でも、嘘でも、大石寺にだけ大聖人の血脈があると言う事は、
明らかに、嘘!!!!
です。