2012/9/15

いつまで続く、この残暑  
高速太郎氏より難解なコメントをたまわった。正直なところ、半分も理解できていない。ゆえに、どのようにお返事申し上げるべきか、悩ましい。

■国立戒壇の論争は、休止した方が良い

ヘソマガリなことを言わせて貰うと、国立戒壇の論争はすでに休止状態なのだ。そもそもが論争はなかった。論争モドキはあったけれども、まともな論争はなかった。

顕正会の御遺命守護はシンプルである。日達上人の御指南においても、あるいは池田大作氏の発言においても、かつては国立戒壇を言っていた。昭和三十年代だ。それが四十年代に入ると言わなくなる。言わなくなるどころか、積極的に否定することになる。それが昭和四十五年だ。浅井はこの自語相違を責めた。ただそれだけのことなのだ。

当時は国立戒壇に対する社会的圧力みたいなものがあった。憲法違反ではないのか、と言った論難である。こうした背景から見ていくと、宗門と創価学会はその圧力に屈したごとくに思える。いかにもだらしがない。

この意味で妙信講は有利だった。あの弱小の妙信講が堂々と戦い、それなりの戦果を得られたのも、こうした背景によるわけだ。

結果的に論争と呼べるほどのものはなかった。

社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか? しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。これではまともな論争とは言えないだろう。

◇天動説を地動説に変えてもキリスト教は衰退していない

これはよくわからない説明だった。あえて便宜的に図示すると次のごとくなるのだろうか?

国立戒壇=天動説
民衆立戒壇=地動説


上掲はわたくしが勝手に想像して書いたに過ぎない。高速太郎氏のコメントには民衆立云々の記述がないからだ。しかし、今はとりあえずこれで話を進めよう。わたくしの思うに、上掲は譬えの取り方が適切ではない。

おそらくキリスト教の場合は自然科学との齟齬が問題となったのだろう。キリスト教の宇宙観と現代科学とは相容れない。ゆえにさまざまの問題が生じた。進化論などもその一例なのだろう。しかし、これは仏教の場合は当てはまらない。もともと真っ向から対立するような事案は存在しないからだ。

そこで話を戻すが、国立戒壇が天動説であり、民衆立戒壇が地動説とするのは、単なる譬喩なのだろう。現代科学では地動説を唱える。これが科学的真実であると。民衆立=地動説。つまり、民衆立こそが真実であると。

もし高速太郎氏がこのような意味を言っているのだとすれば、ようは婉曲に表現しただけのことであって、実際には大したことを言っていないことになる。国立戒壇なんて天動説みたいなものだ。時代遅れだ。早い話がこういうことを言いたいわけなのだろう。

仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ。

わたくしは天動説云々について、譬えの取り方が不適切だと書いた。ようするに仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。むしろ、ここでは社会科学的側面において、論ずるべき事案が存するわけなのだ。

上掲はまさに王仏冥合の御指南そのものである。本門戒壇建立の意義は、仏法が社会の中にどのように反映されるかにある。

いわゆる仏国土の実現だとか依正不二の原理だとかは、一見すると自然科学の範疇に属するように思われる。ようは仏力・法力にはどのような作用があって、どのような化学反応を起こすか、それが国土世間にどのように反映されるか、という学問的考察である。

もちろん、これはきわめて重要な検討課題であるが、上掲の御指南の意味するところはそうではなく、いわば社会科学的範疇である。

為政者が仏法を実践する。創価学会流に言えば、それで人間革命するのだ。当然、くだんの為政者は善政を行なう。為政者のみならず、多くの人が仏法を実践する。そうすれば世の中がよくなるのは理の当然である。

以上、国立戒壇を天動説になぞらえることの不適切さを説明したつもりだが、はたしてどこまで理解できただろうか?

懺悔滅罪の戒法

多くの人が仏法を実践すれば世の中がよくなる。理屈は簡単だ。問題は実効性なのだ。戒壇建立の意義は懺悔滅罪にある。懺悔滅罪して人々が善人になる。善人ばかりの世の中になれば、文句はない。

たぶん、ここでようやく議論の土台が出来上がったのだと思う。

ようやくにして戒壇建立の意義が見えてきた。問題は国立か否かである。わたくしは直前で実効性を云々した。ああ、なるほど、国立のほうが実効性がありそうだ。このように感じていただければ、本稿の目的はいちおう達したことになるだろう。いや、もちろん、まだ議論の余地はたくさんある。つまり、議論は緒に就いたばかりなのだ。

 御遺命の為にとするのであれば、現在の国立戒壇論争は、どこに立って行われているのだろう。私には、外道としているキリスト教の天動説論争までも行っていないように思われる。

しまった。しくじった。

わたくしは冒頭に、論争モドキはあったけど本格的論争はなかった、という意味を書いた。しかし、これは上掲のごとく、すでに高速太郎氏が言っていることだったのだ。

本日の拙稿はトンチンカンもいいところだ。

2012/9/17  16:32

投稿者:高速太郎
つづき!

◇プロテスタント
・ローマ教皇⇒認めていない。神父も居ない。牧師は居るが信徒と同じ立場である。
・教会⇒教会の権威を認めてはいなく、民主的な組織との理解である。
・礼典⇒洗礼、聖餐以外の秘蹟を認めていない。
・聖書⇒聖書中心忠義で、その解釈は信徒の良心にまかされている。
※ローマ・カトリックの上記の内容のほとんどを、聖書に無いものとして認めていない。
 違いはまだ有り、言葉の説明も必要かもしれないが、ここでは割愛させて頂く。


◆キリスト教の、この構図を見て、何かと同じだ(似ている)と思わないだろうか?

 私の言いたい事は、乱暴な言い方をすれば、国立戒壇や宗門問題などで我こそが
正義と発言している、聖人シンドロームの方達は、一見、仏法の本義を巡っての話に
思えるが、第三者から見たら、内外の外のレベルの話になり兼ねないと云う事である。

つまり、法を下げてしまう事にならないか、と云うことである。


●次も違うと考える。
>仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。

 おそらく、内外相対的な意味での発言では無いかと考えているが・・・?!

 今日は、時間が無いので申し訳有りませんが、次回にさせてください。

2012/9/17  16:15

投稿者:高速太郎
本題に戻ろう!

私の投稿に対して、厳虎さんは、次の様に受け止められておられる。
>国立戒壇なんて天動説みたいなものだ。時代遅れだ。
>早い話がこういうことを言いたいわけなのだろう。

●実は、違う。そのようなことを言いたいのではない。
 本題から少し離れるが、キリスト教について説明する必要があるようだ。

■カトリック(ローマ・カトリック)とプロテスタントの違い
◇カトリック
・ローマ教皇⇒ペテロの後継者として唯一の権威を受けつぎ、全ての権能を有す。
       最高権成者であり、信仰について一切の誤りがない不謬性の教皇への
       忠誠は、救いの絶対条件としている。
・教会⇒教会自体が、神と信徒の間を繋ぐもの(仲介)。教会には位階制度がある。
    カトリック教会の聖職者のみが祭司の権威を持ち、神の恵みを与え、
    罪を許す権威を授けられている。
    おきてがあり、ミサ聖祭に参加し、年に一度は、告白、聖体を受ける・・・。
・礼典⇒目に見えない内的、霊的な神の力(恵み)を、礼拝を通し恵みの形として表す。
    洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の7つの秘蹟としている。
・聖書⇒聖書の解釈は、全て教会が行う事であり、信徒が解釈する事では無い。

2012/9/17  16:09

投稿者:高速太郎
厳虎さん こんにちは!
 暑い日が続きます。ご自愛ください。 仙台も暑い!!

 本題に入る前に、私の投稿の目的を再度確認させて戴くと
◇厳虎さんを組織に戻すため
・組織は、正しい人が居ないと、間違った方向に暴走しかねないからである。
・国立戒壇の正当性を論じているのではない。
◇「大願とは法華弘通」である
・世界の情勢を見ると、法華弘通の必要性が痛切に感じられる。見失ってはいけない。

 今は、この2点に立って話を進めている。

 もう一つ、私は沖浦克治さんの数少ない理解者(?!笑)の一人だと思っている。
 年齢も近いので、焦ってはいないが、許されている時間は少ない事も一緒である。
 すべてでは無いが、ある面は、沖浦克治さんが言いたいことを、違う表現で
書いているのかなと思う点もある。

 ちょうど良い例が、厳虎さんが引用される「仏陀すでに仏法を王法に付し給ふ」は、
沖浦克治さんが、情熱を込めて言っている事の一つだと考える。
この点は、私も同じであるが、他者からは、理解されていないように見える。
つまり、出家に、ここで云う王の様な威力が無ければ付属はしないよ、と!
そこに繋がり、出家も在家も別け隔てはない。互いに大願を全うすれば良いのである。

2012/9/16  17:53

投稿者:ユタ
 高速太郎さん、こんにちは。
 手持ち無沙汰だったので、ブログ再開することにしましたよ。もっとも、もう信心していた頃の話は書かないと思いますけどね。縁あって、顕正会員の姿を見た時くらいでしょうか。法華講員よりも顕正会員との遭遇率が高いので、やっぱり私はそっちに縁があるのでしょうな。
 仕事は民間企業勤めですよ。とはいっても、普通に朝出勤して夕方帰る仕事ではなく、泊まり勤務が主体の交代制の仕事です。だから、土曜も日曜もお盆も年末年始も全く関係無いわけです。平日簡単に休めるので、通院には都合のいい業種でしょうね。ただ、日曜簡単に休めないので、信心するには不都合です。なので、平日に大石寺参詣をしていましたね。ま、今となっては懐かしい思い出です。
 物書きは趣味です。趣味が鉄道一辺倒だった頃、よく鉄道紀行文を書いていたことがありましたので。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2012/9/16  17:22

投稿者:高速太郎
ユタさん 
 ブログ読ませて頂きました。
 ユタさんは、書くことを仕事にされているのですか?

 私も若い時に、埼玉に会社の寮が有り住んでいました。
 草加市だったので、チョット離れています。
 

2012/9/16  17:08

投稿者:高速太郎
おおひがしさん こんにちは!

 ホームページのご紹介ありがとうございます。
 興味深く、何度も見ています。「これはチョット違うよナ」とブツブツ言いながら。


ユタさん こんにちは!

 そうですね。私も難しいのは苦手です。
 ただ、その山を登り切らないと、簡単さにたどり着かないので、頑張って登っていま
す。
 あ〜、いい眺めだ・・・!!! と、いえる日を目指して。

2012/9/16  15:23

投稿者:ユタ
 こんにちは。
 本当に難しいですね。私には、こういう難しいことはよく分かりません。いかに顕正会の“一念信解”や“信心口唱”が簡単だかが分かりますよ。信心していた頃も、信行学の中で、学が1番疎かったですね。お恥ずかしい話です。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2012/9/15  22:27

投稿者:のび太
残暑お見舞い申し上げます。

>社会的圧力に屈して国立戒壇を捨てた立場の人がいったい何を主張できるだろうか?<相変わらず幼稚ですね。日蓮仏法を現代に蘇らせたとでもいいましょう。>しょせんは見え透いた言い訳に過ぎないのだ。<ちょっとずるい言い方ですが、42年経って国会議員40名/800万票、一方そちらは5万結集が目一杯でしょうか>わたくしの思うに、宗門にしても創価学会にしても、現在に至るまで言い訳に終始しているだけなのだ。<私が思うに浅井一族の己義の解釈だったという結果なのだ>これではまともな論争とは言えないだろう。<論争で広宣流布ができれば、大聖人の時代に広宣流布はとっくに終わっています>

と、まあ、こんな丁々発止を繰り返してきたんだ。
そうすると42年経って、さて、一方が事でもう一方が理だとすると、どちらが事であったか賢明なみなさんにはお判りでしょう。

2012/9/15  16:09

投稿者:沖浦克治
厳虎さん、今日は

 戒壇が、大御本尊がなどと行って見ても、拝む人がいればこそです。
 戒壇も、大御本尊も、信じて行じる人のためにありますし、無くても全く困りません。
 
 『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
 (日女御前御返事)

 御本尊が私共の信心の二字におさまっているのですから、安置する戒壇も当然同じです。

 本門戒壇を建築物だとして、考える事自体が間違えです。

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