2012/9/30

秋の宿題  
まずはのび太氏にお返事申し上げたい。

浅井先生は以前に青森の会合で原発の必要性を説いていましたよね。

去年の3.11以降、彼は声高に反原発を叫んだんですよね。
それ以前の発言や行動に対する総括は無く、むしろ昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス!?

世の中では、こいう人を称して『インチキ』と呼ぶのです。 (笑)


明らかに誤解している部分がある。昔から反原発を言っていたようなパフォーマンス・・・だ。これはまったくの誤解である。おそらくは漠然とした印象でそのように思い込んでしまっているのだろう。

それ以前の発言や行動に対する総括は無く・・・

これは確かに言えることだが、しかし、その絶対的必要性はないと思う。むしろ客観的には、単なるアラサガシ、重箱の隅を突付いているだけ、そんな感じだと思う。

極端な例を挙げれば、今まで曼荼羅本尊を掲げていた宗派がいきなり釈迦像に切り替えたとする。これは説明責任が問われるだろう。

ようは重要度の問題だ。

すると、遥か昔の質問会における一つの回答に過ぎない原発容認発言を取り上げて、今さら自語相違だの何だのと騒ぎ立てることがいかに大袈裟であるか、ということになる。ましてやインチキは言い過ぎであろう。

ただし、水掛け論をやっても仕方がないので、一つだけ付け加えておこう。

実現の見込みはないけれども、記者会見の場を設けてそこで質問をするのだ。過去の発言についてである。さて、どう答えるか、そこが問題だ。わたくしは素直に答えればいいと思う。当時は不勉強だった。愚かにも安全神話に乗っかってしまっていた。昨年の大震災で原発の危険性がよくわかった。ゆえに今は断固反対である。

これで問題ないだろう。

さて、次は高速太郎氏だ。

 「違う選択肢を選んだ」理由を、大聖人様の仏教で捉えた上で、その選択肢を教えて頂ければ、私としては、嬉しかったのですが。

自殺以外の選択肢について、大聖人の御指南を基に論ぜよ、という意味だと理解した。

単純に言えば、生きることだ。自殺はよくない。もう一つの選択肢は他殺? しかし、それよりは生きるという選択肢だろう。

大聖人の念仏宗批判の一つに善導の自殺がある。柳の木に縄をかけて首を吊ったという話だ。よく知らないが、今はこの事実関係に疑義があるらしく、正宗では念仏破折のためにこれを使うことはないそうである。
それはともかく、大聖人の御考えは明瞭だ。自殺はよくないのだ。
いわゆる法華経の精神であるところの不惜身命は自殺を意味しない。あえて言うならば他殺である。小松原法難や熱原法難、これらはまさに他殺である。

以上、自殺がダメなのはもちろんのこと、不惜身命といえども命を粗末にしてはいけない、なるべくならば死を回避するのが理想、というのが大聖人の御考えであろうと思う。

不登校や退学、出社拒否や退社、これらは物凄く不本意なことなのかもしれないが、自殺よりは遥かにマシなのではないか、生きていればリベンジの可能性があるけれども、死んだら不可能、このようにわたくしは思うのだ。

さて、もう一つ宿題があった。

 厳虎さんの記事の中に以下の文がある。
>仏教はもともと自然科学的な意味での齟齬が存在しない。

 なぜ、この様に断言出来るのだろう。
 仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画していると云うことか。
 若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じないと云うことなのだろうか?

 はたして、そうだろうか。
 ならば、一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体と云うことに成りはしないだろうか。

◇厳虎さんに、真意を教えて頂ければ幸甚です。


ひじょうに面倒臭い。なぜならば高速太郎氏の考えが明確ではないからだ。ようするに、仏教は自然科学と齟齬するのか否か、これについての氏の考えがはっきりしていないのだ。

つまり、対立軸が明確ではないので、いわゆる議論を戦わせることができないのだ。

 仏教は、生命の内側(幸、不幸の三世の因果)を説いた法だから、物事の現象面を捉える自然科学とは、一線を画している・・・

しかしながら、部分的にはひじょうに鋭いことを書いておられるわけで、具体的には上掲がそれである。わたくしは次の御文が当てはまると思う。

仏、地神に汝大地より重きものありやと問ひ給ひしかば、地神敬んで申さく、大地より重き物候と申す。仏の曰く、いかに地神偏頗をば申すぞ・・・

地神は地球を動かしている神だとしよう。すると、この時点ですでに自然科学者と相容れないことになりそうだ。そんな神がいるわけがないと。
それはともかく、仏は地神に聞いた。大地より重いものがあるのかと。上掲では省略してしまったが、端折って言えば人間のほうが重たいのだと、こう地神は答えるのだ。
この点では仏のほうが自然科学者の考えに近い。ようするに、人間なんてちっぽけなものだ、大地のほうが重いに決まっている、ということなのだ。

おわかりいただけるだろう。いわゆる質量としては大地のほうが圧倒的に重い。そんなことは誰だってわかることだ。つまり、当該御文の言わんとしていることは、そうした自然科学とは一線を画する話なのだ。

ここまで理解できれば、自然科学者といえども地神の存在がどうであれ、仏が説かんとしていることにはそれなりの意味がある、価値がある、という点は認めざるを得ないだろうと思う。

 若しくは、一念三千には、自然界を始め宇宙の森羅万象の法則が含まれており、それを説いている法だから、齟齬は生じない・・・

地神の存在を科学的に証明するのは困難であるが、いわゆる概念的にはすでに充分に証明されているのではないかと思う。

夫一心に十法界を具す。

本尊抄の冒頭である。前掲の高速太郎氏の文章をさらに縮めれば、まさにこの御文に突き当たるのではないかと思う。そして本尊抄にはいわゆる観門の難信難解が説かれている。

不審して云はく、非情に十如是亘らば草木に心有って有情の如く成仏を為すべきや如何。

草木だけではない。

一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり

これだ。概念的には証明されている、と書いたのは、これがためである。

いや、もちろん、わたくしは信仰者であるから、ある意味では手前味噌の論理に陥っている部分が無きにしも非ずだろう。ゆえに、客観的にはぜんぜん証明になっていないのかもしれないが、まあ、それは読者の批判を待つことにしたい。

一閻浮提とは、全て包括した宇宙全体・・・

ここでわたくしはつまづくことになる。高速太郎氏が何を考えておられるのか、さっぱりわからなくなるのだ。以前にも説明したはずだが、一閻浮提は宇宙ではなく、たぶん地球のことである。それもさることながら、何をおっしゃりたいのか、その全体の文脈がわからないのだ。

2012/9/30  15:34

投稿者:高速太郎

厳虎さん、つづきです。

 「刑部左衛門尉女房御返事」の御文と通しての説明ありがとう御座いました。
 科学者は、譬喩を、この場合は、喩え話が妥当かも知れませんが、否定はしないと
思います。地神の事も自然科学と合わないから間違いとは言わないでしょう。
 人の命の大切さを「人の命は地球より重い」と言っても、反論は少ないと思います。
 しかし、それを自然科学と齟齬が生じないとの論拠にするには、無理があるのでは
ないでしょうか。

 もしかすると、厳虎さんの考えは、「仏教の教えは全て譬喩であり自然科学とは
相容れないよ」と言う事なのでしょうか。
 だとしたら私との対話は成立しないと・・・!

2012/9/30  15:33

投稿者:高速太郎

厳虎さん、こんにちは!

 今日の仙台は、どんよりした曇り空です。台風のせいだと思います。
 来週の10月5日〜8日の間、山形県高畠町の高畠ワインさんで「秋の収穫祭」が
催されます。ここは、ゲストがいつも私の好きな方が出演され、今年も、庄野真代さん
小室等さん、ブレッド&バターさん、ムッシュかまやつさんなど出演されます。
 入場無料だし、ぜひ行って見たいと思っています。


>以上、自殺がダメなのはもちろんのこと、不惜身命といえども命を粗末にしては
>いけない、なるべくならば死を回避するのが理想、というのが大聖人の御考えで
>あろうと思う。
●厳虎さん、上記のお答えありがとう御座いました。
 ”自殺するしか苦しみを乗り越える方法がない”と考えている方を、
どの様に説得すれば良いか、常に悩み考えています。解らない事は常に御書に応えを
求めるのですが、いまだ答えを見つけられていません。
 自分では、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」でいるのですが。


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