2012/12/8

御大会式講演を読んで  
信行氏の口の悪さは天下一品であるが、それはどうでもいいことだ。ようは話の中身が肝心なのである。

浅井はついにボケてしまったのであろう。
我が宗門において佐前外用上行菩・内証久遠元初自受用身は当然であって、そうでなければ発迹顕本にはならないではないか。
そもそも立宗宣言の題目とは三大秘法の本門の題目である。浅井はその意味すら理解できぬのであろう。
「日蓮正宗入門」「日蓮大聖人正伝」「日蓮正宗要義」などに浅井がいうごときの記述が無いのも当然。ただ云いがかり難癖をつけているだけではあるまいか。
いよいよ謗法者浅井の頭破七分が顕現する時か。


なるほど、これは真っ当な反論である。

昨日の復習を兼ねて、会長講演のくだんの部分を再掲しよう。

 宗門においても、次のような論説がしばしば目につく。

そして続きは次のごとくである。

 「立宗以後の大聖人は上行菩薩。そして竜の口以後は久遠元初の自受用身である」と。

カギカッコで括って引用文のような体裁を取ってはいるものの、具体的な出典が明記されていない。一方、信行氏は具体的な書名を三点挙げた上で、反論しているわけだ。

つまり、現時点では顕正会側に挙証義務がある。しばしば目につく。こう言っている以上は最低でも二つは出すべきだろう。宗門側の書籍に上掲のような記述があるかどうか、もしなければ浅井先生はウソツキである。

顕正新聞当該号では明年の教学試験の大綱が発表されている。そこには四級試験の試験範囲として、本年の御大会式講演が挙げられている。このままではウソの講演を試験範囲に入れることになる。さすがにマズイだろう。

わたくしの思うに、たまたま信行氏のご覧になった資料には浅井先生の指摘するような記述はなかった。しかし、たぶん宗門のどなたかが、そのようなことを言ったり書いたりしているはずなのだ。火のないところに煙は立たない。必ず何かしらの文証が存在するはずである。

四級試験が実施される日までに、顕正新聞紙上にその具体的な文証を出すべきだろう。それが顕正会側の宿題である。

以上、そういうわけなので、信行氏には申し訳ないが、この件はしばらく保留とさせていただくことになる。

さて、そこで昨日の続きである。

表裏一体、同時進行、並行の御化導

今回の会長講演は素晴らしかった。一つ余談を書けば、二面の写真が印象的である。総合部長ないし副部長という顕正会における大幹部たちの真剣さが伝わってくる写真なのだ。ようは先生の講演に全神経を集中しているわけで、一人としてダラけた表情をしている人がいないのが凄いところだ。世間ではなかなかお目に掛かれない光景だかもしれない。

さて、上掲は二面の見出しの一つであるが、昨日紹介した一面の大見出しと同義である。つまり、上行菩薩と自受用身は表裏一体であり、同時進行・並行の御化導であるとのことだ。

並行・・・

わたくしはこれが気になった。まず、どのように読むのか、それが俄かにはわからなかった。普通に読むならば「へいこう」だろう。しかし、「びょうぎょう」と読むのかもしれない。そのほうが仏法用語らしく感じられるからだ。
それはともかく、ごく単純に言えば、同時進行と並行は重複表現であり、わざわざ並べて表記する必要性はないと思う。
さらに言えば、表裏一体と並行は矛盾しているようにも感じられるのだ。

わたくしは以前、釈尊=大聖人、というような論述をしたことがある。この時、ある人がコメントで言っていた。もし巌虎の言うごとくであれば、釈尊=上行、となる。霊山において、釈尊は上行に付属した、自分で自分に付属したことになる、ヘンだなあ、という感じだったと思う。

実はこれこそが並行なのだと思う。

七百年前においては大聖人御一人が出現された。ゆえに本地が自受用身であり、垂迹が上行菩薩とする捌きにおいては、まさに表裏一体の関係である。しかし、実際に御化導をあそばすのは大聖人御一人なのだから、並行は表現的に相応しくないのではないかと思うのだ。

同様の意味で、同時進行もやや不適切だかもしれない。

ただし、デフォルメ的というべきか、これらの表現をあえて意図的に用いたのだとしたら、ある意味では成功しているとも言えるかもしれない。

すなわち大聖人の御化導を佐前・佐後に切り分けて、それぞれを上行と自受用身に配当する捌きに対する破折の意味においてである。

信行氏のコメントによって宗門側の見解はさにあらずということになりそうだが、少なくとも創価学会ではそのように教えているわけだろう。だとすれば、それは違うんだよ、同時進行なんだよ、というふうに説明することは便宜的な意味でひじょうにわかり易いはずである。

なるほど、浅井先生のネライはこの辺にあるのだろう。

「本地、垂迹、再誕」の大事を深く拝せよ

先生は、久遠元初の自受用身と上行菩薩と日蓮大聖人の関係をズバリ端的に示す御指南として、百六箇抄を引用している。

本地・自受用身、垂迹・上行菩薩、再誕・日蓮

悩ましいところだ。

第三婦人部長の言葉が思い起こされる。たとえ御書にズバリ説かれていても我々ごときには拝し得ないと。

では、平成新編における当該御指南がどのようになっているか、確認しておきたい。

本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮

なるほど、わたくしにもさっぱりわからない。第三婦人部長の言っていることはあながち間違いではないようだ。

ついでながら書いておくと、浅井先生は自受用身を多用するけれども、自受用報身とは言わない。しかし、顕正会版の観念文は自受用報身となっているので、それをことさら否定するつもりはないのだろう。たぶん、ここは報中論三といって、かなり難解な概念が含まれる部分なので、先生としては避けている意味があるのだろう。きわめて賢明だ。

倶出霊鷲山

真面目に勤行している人ならば、誰もが知っている自我偈の一節だ。当該講演ではもう少し引用範囲が広いけれども、ようはここに重大な意味があるという。もしかしたら過去にも同様の講演があったかもしれないが、わたくしの記憶にはない。ゆえにけっこう驚いた。

広宣流布の時、戒壇の大御本尊はいよいよ国立戒壇にお出ましになる。

国立戒壇の用語はともかくも、あの自我偈の文がこのような意味をあらわしているとは驚きである。はたしてこれが正当な解釈なのかどうか、わたくしにはまったく判断がつかない。ようするに浅井流法門なのか、それとも先師上人の御指南に基づくものなのか、そこが問題である。

2012/12/12  19:44

投稿者:wahaha
我々創価学会員は、創価学会の御書の読み方はできますが、沖浦宗のような御書の読み方は絶対にできません。

2012/12/9  12:38

投稿者:ユタ
こんにちは。そういえば、宗門では「御大会式」とは呼ばないんですよね。「御会式」または「御大会」だったと思います。見事に足しで2で割る名称なわけですね。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2012/12/8  23:41

投稿者:のび太
>先生は、久遠元初の自受用身と上行菩薩と日蓮大聖人の関係をズバリ端的に示す御指南として、百六箇抄を引用している。

本地・自受用身、垂迹・上行菩薩、再誕・日蓮

悩ましいところだ。<引用終了>


「自明の理」という言葉をご存知だろうか。
証明するまでもなく明らかな道理である。

並行 / 表裏一体…??
解りずれ〜ぇぞ! (笑)


2012/12/8  22:02

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今晩は

 日蓮正宗や、顕正会正信会の間違いは、大聖人を私共と全く同じ人間であると言う立場で取らえられない所です。

 大聖人が久遠の南無妙法蓮華経如来なら、私共一切衆生も同じですよ。
 御書に書いてあります。
 先に挙げた宗派の方々は、それがわからない。
 ですので、大聖人の仏法は絶対にわかりません。

 御書読めないことは悲しいですね。

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