2012/12/22
各種コメントと会長講演とのコラボ
沖浦氏の所論は支離滅裂である。おそらくは、すでに原点を忘れてしまっているので、それで話に統一性がないのだろう。
摂受と折伏は機根で使い分けるのですよ。
こう言っていたのだ。ゆえに、わたくしはこの点を追求してきたわけだが、沖浦氏の対応は一向に要領を得ない。
釈迦仏法は本質的に無意味ですから、そう言う機根のたてわけはいりません。
先には機根で使い分けると言い、今は機根のたてわけを不要だと言う。困ったものだ。
ちなみに氏が引用した御文は、いわゆる四重興廃と呼ばれる最難関の御法門である。これについてはいずれ機会を改めて書きたいと思う。
のび太氏とユタ氏が好都合のコメントを残して下さった。そのキーワードは山本太郎と夢物語である。これらは今日これから書く、十一月度総幹部会の話題に直結するものなのだ。
以下は顕正新聞第1260号一面の見出しである。
初陣誓願大突破 六千万必ず成るの瑞相
9・10・11月度弘通、二万一千二一四名
「顕正会こそ唯一の異体同心の大集団」
ここだけでもいくらでもイチャモンがつけられる。初陣が多過ぎる。年がら年中、出陣だの初陣だのと言っている。誓願大突破はいわば数字のマジックである。目標を低く設定すればそうなる。何しろ昨年の同時期と比べると折伏成果は減少しているのだ。そして最後の一段は会長発言なのだろうけれども、やや疑問だ。
「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」
会長講演ではこの御書を引用した上で前掲のごとく言っているわけだ。大集団だと。いかがなものかと思う。大聖人は「人々すくなく候へども」とおっしゃっているのだ。であれば、大集団などと威張るべきではないだろう。まるで謙虚さがない。
さて、一面の記事であるが、下段には人事が載っている。
婦人部 大規模人事断行
4部長、16支区部長を抜擢
他に男子部と女子部の人事もあるが、こちらは通常の範囲だと思う。問題は婦人部だ。上掲のごとく、ぜんぶで二十一人もの人材が抜擢されたわけだ。まさにポストの乱発だ。
それとも婦人部大会で勢いがついて、組織が発展・充実している結果なのだろうか?
ここからは、のび太氏のコメントに関連する話題だ。
わたくしが山本太郎の当落に注目したのは、彼の選挙運動の様子を動画サイトで見たことがキッカケだった。芸能人だから注目される。街頭で演説していると他の候補者よりも人が集まる。ある意味では当然なのかもしれないが、彼の場合はちょっと違うように感じられたのだ。しゃべりがしっかりしている。自分の考えを自分の言葉でしっかりと伝えることが出来る。単なる客寄せパンダではなく、自分の意志で立候補し、自分の信念で行動している。わたくしにはそのように見えた。
街頭演説の様子を見ていると、その盛り上がりからして、これは当選するんじゃないか、そう思わせるものがあった。たぶん本人も、行けるんちゃうか、そう思っていたはずだ。支援者たちも手応えを感じていただろう。
わたくしは顕正会員の心理がまさにこれなのだと思った。
十一月度の総幹部会は大宮ソニックシティ大ホールで行なわれたわけだが、この会場はけっこう大きい。この手のホールの中では大きいほうだと思う。わたくしの記憶だと、もうかなり昔からここを使っていた。現・東京会館が本部会館だった時代からすでに使っていたはずだ。そして顕正会の集会はいつも超満員なのだ。少なくとも浅井先生の出席する集会は超満員が当たり前であって、月例の総幹部会は顕正会における中核的な幹部たちで会場が埋め尽くされるのだ。
その会場が醸し出す雰囲気を想像するがいい。なるほど、浅井先生自身もそうだろうし、そこに集いし幹部たちも同様である。誰もが「行けるんちゃうか」と思い込むのだ。
しかし、現実はどうか、である。
まさにユタ氏の夢物語という表現がピッタリと当てはまるのではないかと思う。もちろん先生だって馬鹿じゃない。それがわかっているから果敢なる挑戦を続けているのだろう。本年の婦人部大会もそうだし、明年の女子部大会、そして男子部大会と、大宮ソニックシティの大ホールに甘んじず、さらなる大会場を制覇すべく挑戦し続けているのだ。
ところで会長講演には、次のような興味深いくだりがある。
たとえ「脱原発」を掲げている政党でも、その実現はみな一〇年、二〇年、三〇年先としているでしょ。「何とかそれまでに太陽光や風力など自然エネルギーの開発を」などと言っておりますが、これは夢です。ファンタジーですよ。
この批判はそのまま顕正会にも当てはまることだ。十年、二十年、三十年、はたして先生がいつまで頑張れるかわからないが、ともかく顕正会の実力が現状どまりのままであれば、先生の言っていることは単なる夢だったことになるのだ。その時、熱心な活動会員たちはどう思うのか、楽しい夢を見させてもらったと思うのか、人生を棒に振ったと思うのか、わたくしには何とも言えないところだ。
十一月度の総幹部会では地方会館の建設計画が発表される。
会津会館、京都会館、熊本会館
さらに追加の建設が発表された。
顕正新聞社別館
どうやら本部会館周辺は顕正会の施設で埋め尽くされていく運命のようだ。
そして明後年の建設計画も発表された。近年はこの傾向が顕著であるが、これは会員を鼓舞するための先行投資みたいな意味があるのだろう。
静岡会館、岡山会館、福岡会館
個人的な関心を書けば、藤枝会館がどうなるか、である。すでに浜松に会館がある。さらに静岡に会館が建てば不要になるのではないか、さすがに不要は言い過ぎにしても、顕正会の実力からすると現状ではそれほど必要としないのではないか、と思われるのだ。
岡山はよくわからないので言及しないが、福岡については言っておきたい。なんだ、まだ会館がなかったのか、と。福岡は九州の中ではいちばんの大都市のはずだ。そこに今まで会館がなかったのは、いかにも顕正会の組織分布が偏っていることの象徴である。
政治は大衆迎合、憂国の至情なし
総幹部会は十一月二十七日に行なわれた。会長講演はこの時点での政局を論じている意味で貴重である。浅井先生は政治家を褒めない。たいていが悪く言う。ボロクソだ。そして今回、もっともヤリダマに挙がったのが自民党の安倍総裁である。
結果はご存知のごとく、自民党の圧勝だった。何とも皮肉な話だ。
脱原発もごまかし
原発政策についても先生は厳しい。どの政党も看板は脱原発を言っているものの本気度が感じられない、とのことだ。総幹部会の時点では日本未来の党はまだ結党していなかったけれども、たぶん先生の評価は同じだろう。先生に言わせれば負けて当然となるだろうか?
ところでわたくしは先日、次のように書いた。
百五十万顕正会は今回も動かなかった。
これはまさしく会長講演を踏まえて書いたのだ。原発政策にかくも辛辣な発言をするのであれば、それを具体的な行動に移してもよさそうなものである。ただ言っているだけじゃ意味がない。百五十万顕正会の実力を見せつける絶好の機会でもあるはずだ。
いや、もちろん、そこまでの実力はないわけで、それは本部首脳もよくわかっているのだろう。
私は思う。これは、政治家たちが原発の危険そして被災者の悲惨を、我がこととして感ずる心がないからだと。
けだし名言である。今回の会長講演ではもっとも感動的なくだりかもしれない。沖浦氏の好む表現を使えば、まさに同苦ということだろう。政治家には同苦の心がない。もちろん、全員がそうだとは言わないが・・・
摂受と折伏は機根で使い分けるのですよ。
こう言っていたのだ。ゆえに、わたくしはこの点を追求してきたわけだが、沖浦氏の対応は一向に要領を得ない。
釈迦仏法は本質的に無意味ですから、そう言う機根のたてわけはいりません。
先には機根で使い分けると言い、今は機根のたてわけを不要だと言う。困ったものだ。
ちなみに氏が引用した御文は、いわゆる四重興廃と呼ばれる最難関の御法門である。これについてはいずれ機会を改めて書きたいと思う。
のび太氏とユタ氏が好都合のコメントを残して下さった。そのキーワードは山本太郎と夢物語である。これらは今日これから書く、十一月度総幹部会の話題に直結するものなのだ。
以下は顕正新聞第1260号一面の見出しである。
初陣誓願大突破 六千万必ず成るの瑞相
9・10・11月度弘通、二万一千二一四名
「顕正会こそ唯一の異体同心の大集団」
ここだけでもいくらでもイチャモンがつけられる。初陣が多過ぎる。年がら年中、出陣だの初陣だのと言っている。誓願大突破はいわば数字のマジックである。目標を低く設定すればそうなる。何しろ昨年の同時期と比べると折伏成果は減少しているのだ。そして最後の一段は会長発言なのだろうけれども、やや疑問だ。
「日本国の人々は多人なれども、同体異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候」
会長講演ではこの御書を引用した上で前掲のごとく言っているわけだ。大集団だと。いかがなものかと思う。大聖人は「人々すくなく候へども」とおっしゃっているのだ。であれば、大集団などと威張るべきではないだろう。まるで謙虚さがない。
さて、一面の記事であるが、下段には人事が載っている。
婦人部 大規模人事断行
4部長、16支区部長を抜擢
他に男子部と女子部の人事もあるが、こちらは通常の範囲だと思う。問題は婦人部だ。上掲のごとく、ぜんぶで二十一人もの人材が抜擢されたわけだ。まさにポストの乱発だ。
それとも婦人部大会で勢いがついて、組織が発展・充実している結果なのだろうか?
ここからは、のび太氏のコメントに関連する話題だ。
わたくしが山本太郎の当落に注目したのは、彼の選挙運動の様子を動画サイトで見たことがキッカケだった。芸能人だから注目される。街頭で演説していると他の候補者よりも人が集まる。ある意味では当然なのかもしれないが、彼の場合はちょっと違うように感じられたのだ。しゃべりがしっかりしている。自分の考えを自分の言葉でしっかりと伝えることが出来る。単なる客寄せパンダではなく、自分の意志で立候補し、自分の信念で行動している。わたくしにはそのように見えた。
街頭演説の様子を見ていると、その盛り上がりからして、これは当選するんじゃないか、そう思わせるものがあった。たぶん本人も、行けるんちゃうか、そう思っていたはずだ。支援者たちも手応えを感じていただろう。
わたくしは顕正会員の心理がまさにこれなのだと思った。
十一月度の総幹部会は大宮ソニックシティ大ホールで行なわれたわけだが、この会場はけっこう大きい。この手のホールの中では大きいほうだと思う。わたくしの記憶だと、もうかなり昔からここを使っていた。現・東京会館が本部会館だった時代からすでに使っていたはずだ。そして顕正会の集会はいつも超満員なのだ。少なくとも浅井先生の出席する集会は超満員が当たり前であって、月例の総幹部会は顕正会における中核的な幹部たちで会場が埋め尽くされるのだ。
その会場が醸し出す雰囲気を想像するがいい。なるほど、浅井先生自身もそうだろうし、そこに集いし幹部たちも同様である。誰もが「行けるんちゃうか」と思い込むのだ。
しかし、現実はどうか、である。
まさにユタ氏の夢物語という表現がピッタリと当てはまるのではないかと思う。もちろん先生だって馬鹿じゃない。それがわかっているから果敢なる挑戦を続けているのだろう。本年の婦人部大会もそうだし、明年の女子部大会、そして男子部大会と、大宮ソニックシティの大ホールに甘んじず、さらなる大会場を制覇すべく挑戦し続けているのだ。
ところで会長講演には、次のような興味深いくだりがある。
たとえ「脱原発」を掲げている政党でも、その実現はみな一〇年、二〇年、三〇年先としているでしょ。「何とかそれまでに太陽光や風力など自然エネルギーの開発を」などと言っておりますが、これは夢です。ファンタジーですよ。
この批判はそのまま顕正会にも当てはまることだ。十年、二十年、三十年、はたして先生がいつまで頑張れるかわからないが、ともかく顕正会の実力が現状どまりのままであれば、先生の言っていることは単なる夢だったことになるのだ。その時、熱心な活動会員たちはどう思うのか、楽しい夢を見させてもらったと思うのか、人生を棒に振ったと思うのか、わたくしには何とも言えないところだ。
十一月度の総幹部会では地方会館の建設計画が発表される。
会津会館、京都会館、熊本会館
さらに追加の建設が発表された。
顕正新聞社別館
どうやら本部会館周辺は顕正会の施設で埋め尽くされていく運命のようだ。
そして明後年の建設計画も発表された。近年はこの傾向が顕著であるが、これは会員を鼓舞するための先行投資みたいな意味があるのだろう。
静岡会館、岡山会館、福岡会館
個人的な関心を書けば、藤枝会館がどうなるか、である。すでに浜松に会館がある。さらに静岡に会館が建てば不要になるのではないか、さすがに不要は言い過ぎにしても、顕正会の実力からすると現状ではそれほど必要としないのではないか、と思われるのだ。
岡山はよくわからないので言及しないが、福岡については言っておきたい。なんだ、まだ会館がなかったのか、と。福岡は九州の中ではいちばんの大都市のはずだ。そこに今まで会館がなかったのは、いかにも顕正会の組織分布が偏っていることの象徴である。
政治は大衆迎合、憂国の至情なし
総幹部会は十一月二十七日に行なわれた。会長講演はこの時点での政局を論じている意味で貴重である。浅井先生は政治家を褒めない。たいていが悪く言う。ボロクソだ。そして今回、もっともヤリダマに挙がったのが自民党の安倍総裁である。
結果はご存知のごとく、自民党の圧勝だった。何とも皮肉な話だ。
脱原発もごまかし
原発政策についても先生は厳しい。どの政党も看板は脱原発を言っているものの本気度が感じられない、とのことだ。総幹部会の時点では日本未来の党はまだ結党していなかったけれども、たぶん先生の評価は同じだろう。先生に言わせれば負けて当然となるだろうか?
ところでわたくしは先日、次のように書いた。
百五十万顕正会は今回も動かなかった。
これはまさしく会長講演を踏まえて書いたのだ。原発政策にかくも辛辣な発言をするのであれば、それを具体的な行動に移してもよさそうなものである。ただ言っているだけじゃ意味がない。百五十万顕正会の実力を見せつける絶好の機会でもあるはずだ。
いや、もちろん、そこまでの実力はないわけで、それは本部首脳もよくわかっているのだろう。
私は思う。これは、政治家たちが原発の危険そして被災者の悲惨を、我がこととして感ずる心がないからだと。
けだし名言である。今回の会長講演ではもっとも感動的なくだりかもしれない。沖浦氏の好む表現を使えば、まさに同苦ということだろう。政治家には同苦の心がない。もちろん、全員がそうだとは言わないが・・・
2012/12/26 22:54
投稿者:村石太ダー&コピーマン
2012/12/23 6:30
投稿者:沖浦克治
続きです
本来一切衆生が仏ですから、全ての衆生は本己有善。
そして、その本己有善の衆生の機根が、様々に変化をするので法の広め方も様々にある。
天台の九識論を正しく理解出来ると、これは理解が出来ます。
現在の寛師教学では不可能です。
本来一切衆生が仏ですから、全ての衆生は本己有善。
そして、その本己有善の衆生の機根が、様々に変化をするので法の広め方も様々にある。
天台の九識論を正しく理解出来ると、これは理解が出来ます。
現在の寛師教学では不可能です。
2012/12/23 6:28
投稿者:沖浦克治
補足です
正法千年がこう言う機根で、像法千年はこの通りだ。
そして、末法は永久に機根が劣悪で本未有善の衆生である。
これが間違いなのですね。
一切衆生は久遠の南無妙法蓮華経如来で、法華経の会座に湧現した地涌の菩薩達は、釈迦を凌ぐ威儀を備えていたと説かれていて、この弟子こそが久遠からの本でしだと釈迦も言っています。
久遠からの本弟子が、本未有善である道理がありません。
ですので、機根を考えるときには、大聖人の仏法の立場から考えないと絶対に理解出来ません。
例えば日蓮正宗では、以下の様に言います。
>機とは可発の状態である。
したがって仏教でいう機とは、機感と熟字すれば衆生が仏教に対しこれを受け止めるべく、何らかの心意識の発動する状態をいう。
また機根というときは教法に対する潜在的能力をいうのである。
民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、機と応の関係と意義を考えなければ、機の意味を正しく把握することはできない。
〜引用終わり〜
ここが全くダメですね。
>民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、
感応妙が全く理解出来ていません。
これは仏法ではありませんね。
正法千年がこう言う機根で、像法千年はこの通りだ。
そして、末法は永久に機根が劣悪で本未有善の衆生である。
これが間違いなのですね。
一切衆生は久遠の南無妙法蓮華経如来で、法華経の会座に湧現した地涌の菩薩達は、釈迦を凌ぐ威儀を備えていたと説かれていて、この弟子こそが久遠からの本でしだと釈迦も言っています。
久遠からの本弟子が、本未有善である道理がありません。
ですので、機根を考えるときには、大聖人の仏法の立場から考えないと絶対に理解出来ません。
例えば日蓮正宗では、以下の様に言います。
>機とは可発の状態である。
したがって仏教でいう機とは、機感と熟字すれば衆生が仏教に対しこれを受け止めるべく、何らかの心意識の発動する状態をいう。
また機根というときは教法に対する潜在的能力をいうのである。
民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、機と応の関係と意義を考えなければ、機の意味を正しく把握することはできない。
〜引用終わり〜
ここが全くダメですね。
>民衆の心に潜む仏法に関しての可能性の発現は、聖(仏)の応(導き)によって初めて開発せられるので、
感応妙が全く理解出来ていません。
これは仏法ではありませんね。
2012/12/23 6:12
投稿者:沖浦克治
厳虎さん、おはようございます
機根について少し説明致します。
釈迦仏法では、正像末で機根が大きく異なり、その機根は三時によって固定されていて変化がない。と説きます。
大聖人はこうではなく、一切衆生は本来南無妙法蓮華経如来であって、それは過去から未来永劫に変化をしない。
命とはそう言うものだ。と説きます。
ですので、釈迦の正像末で説かれる機根の変化は無視してかまいません。
無論、御書には釈迦仏法の立場が多く出てきますので、一応は正像末の機根の変化を肯定されるお立場が多いのですが、それは、釈迦本仏が定着した時代で、民衆の機根がそう言うものだからです。
大聖人の仏法では現在は正法である。
これが先ず最初に認識すべきことです。
そして、永遠に続く大聖人の正法の中で、民の機根が様々に時代と共に変化をする。
これが大聖人仏法の機根の捉え方です。
ここが理解できないと、御書は絶対にわかりません。
機根について少し説明致します。
釈迦仏法では、正像末で機根が大きく異なり、その機根は三時によって固定されていて変化がない。と説きます。
大聖人はこうではなく、一切衆生は本来南無妙法蓮華経如来であって、それは過去から未来永劫に変化をしない。
命とはそう言うものだ。と説きます。
ですので、釈迦の正像末で説かれる機根の変化は無視してかまいません。
無論、御書には釈迦仏法の立場が多く出てきますので、一応は正像末の機根の変化を肯定されるお立場が多いのですが、それは、釈迦本仏が定着した時代で、民衆の機根がそう言うものだからです。
大聖人の仏法では現在は正法である。
これが先ず最初に認識すべきことです。
そして、永遠に続く大聖人の正法の中で、民の機根が様々に時代と共に変化をする。
これが大聖人仏法の機根の捉え方です。
ここが理解できないと、御書は絶対にわかりません。
2012/12/22 16:58
投稿者:沖浦克治
厳虎さん、今晩は
大聖人が、末法は折伏と摂受を使いわけると言われています。
既に文証は提示致しました。
ここで考えるべきは、本来は末法は機根悪いので折伏に限ると言う事が常識であるにも関わらず、何故大聖人が摂受もあると言われたのか?
思索すべきですよね。
貴方方は、押しなべて仏法の知識が偏っています。
それは、大聖人のお立場からの絶対妙の立場がわからない事に原因があります。
釈迦仏法では今は末法ですが、大聖人の仏法では今は正法です。
ここがわからないとダメなんです。
そして、大聖人はご自分の南無妙法蓮華経が出たなら、釈迦の仏法は廃れると仰せです。
ですので、あなた方もそろそろ釈迦仏法の呪縛から抜け出すべきですね。
いつまでも釈迦仏法を引きずっていて、大聖人の御書はわかりませんよ。
大聖人が、末法は折伏と摂受を使いわけると言われています。
既に文証は提示致しました。
ここで考えるべきは、本来は末法は機根悪いので折伏に限ると言う事が常識であるにも関わらず、何故大聖人が摂受もあると言われたのか?
思索すべきですよね。
貴方方は、押しなべて仏法の知識が偏っています。
それは、大聖人のお立場からの絶対妙の立場がわからない事に原因があります。
釈迦仏法では今は末法ですが、大聖人の仏法では今は正法です。
ここがわからないとダメなんです。
そして、大聖人はご自分の南無妙法蓮華経が出たなら、釈迦の仏法は廃れると仰せです。
ですので、あなた方もそろそろ釈迦仏法の呪縛から抜け出すべきですね。
いつまでも釈迦仏法を引きずっていて、大聖人の御書はわかりませんよ。
芸能人としての立場 また 芸能界から政治家になる人達〜党にもよるのかなぁ?
こないだ 山本さんの街頭演説を 聞きました。感動しました。
今 もう一度 動画を 調べています。どの動画が よかったか?探しにくい状況です。
反核運動の杉並区〜一人の〜世界〜。役者人生を賭けるかもしれない。マスコミ スポンサー〜。
役者として、今回 落選して 芸能界で 生きていけるのだろうか?
ところで 山本太郎さんは 政治資金を いくら 使ったのだろうか?
政治研究会(名前検討中
ジュリーは 大丈夫だろうか〜