2013/3/30

沖浦流戒壇論との戦い  
今日もコメント投稿者は同じ顔ぶれだった。

芙蓉茶寮や街中のコーヒーショップと比べて、静かな所だったからかもしれませんね。

これがいちばん無難な解釈だかもしれない。

法華講から離れてからは、さすがに行ってませんよ。

大石寺は観光の寺ではないので、一般人が訪れることはあまりないのだろう。ただし、今の季節は花見客で賑わっているという話を聞いたことがある。とは言え、多くは近所の人であり、わざわざ遠方からやってくる人はそれほどいないに違いない。

そこでわたくしの自慢話をすると、実は自宅からいちばん近い公園が桜の名所なのである。今日あたりはもうだいぶ散ってしまっているけれども、早朝から場所取りのブルーシートがたくさん敷き詰められていた。わたくしは花見ではなく、そうした人々の行動を観察するのが趣味(?)なのだ。

 この戒壇とは、地涌の菩薩の住所ですね。
 建物が戒壇の常識の時ですので、この様に表現なされたと思います。
 戒壇とは生命活動の場でしょう。
 もし、本当に大聖人が戒壇建立をもって、広宣流布の完成となさっておられたならば、もっと具体的にお書きだと思います。

 御書全体を読むなら、私はそう言う結論だと思います。


三大秘法抄の本文は省略させていただいた。

建物が戒壇の常識の時・・・

これは悩ましいところだ。この説明がどれほどの説得力を持つか、俄かには判断できない。

少しイヤミを込めて書くと、かつて創価学会は国立戒壇を目指していた。それが民衆立戒壇に変化した。だが、しかし、この時点では国立から民衆立に変わっただけであって、戒壇を建立するという考え方そのものは変わらなかったわけだ。ところが沖浦氏は違うことを言っている。もし氏の見解が現在の創価学会の公式見解なのだとすると、まさに二転三転である。創価学会の戒壇論はコロコロ変わっていることになるだろう。

 そして、富士山に建てると言う事はデマですので、場所は後世の人の判断です。
 これは日順も書いていますね。


さて、この前半にはシンボル云々の記述があるわけだが、わたくしに言わせればそれがいちばんの愚論であるから取り上げないことにする。そこで上掲であるが、これはまた思い切ったことを言うものである。

身延相承書は認めないということか?

沖浦氏は、跡目争いでは通用しないが思想信条においては通用する、という考え方を言っていたはずである。であれば、唯授一人の血脈相承は認められないが戒壇建立については認める、ということになるはずだ。それが上掲のごとく言うのだから困ったものである。

日順も書いている?

仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。

nb資料室からお借りしてきた。

たぶん沖浦氏が言っているのはこのあたりのことだろう。しかし、ずいぶん乱暴な解釈だ。上掲は富士山に建てることを否定するものではない。兼日の治定は後難を招く恐れがあるので詳しいことは書かない。ただそれだけの話である。そして寸尺高下は実際に建てる段になってから皆で議論すればいいという、きわめて常識的なことを言っているわけである。

ちなみに、仏像を安置する云々はひじょうに悩ましいというか、正直なところ都合の悪い文章なのであるが、それはさておき、当該文献には次の注目すべき一節がある。

本門の戒壇建立必定なり

沖浦氏は墓穴を掘るのが好きらしい。

前掲には地形に従うだとか寸尺高下だとかあるわけで、これはもう築壇の意味がはっきりしていることである。これで沖浦流戒壇論は崩壊だ。

しかしながら、沖浦流法門も侮れないところがある。

 戒壇とは生命活動の場でしょう。

 御書全体を読むなら、私はそう言う結論だと思います。

再掲であるが、これはあながち間違いとは言えないところであって、頭ごなしに否定することは出来ない。ただし、わたくしの意見としては、これと築壇とは矛盾しない。ゆえに、これをもって大聖人に戒壇建立の思想なしとは言えない、ということを強調しておきたいと思う。

たまたま今朝、御講聞書を拝読していて次の諸文に行き当たった。

所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処即寂光土と心得べきなり。

法華経の行者の住処は山谷曠野なりとも直至道場なり。

直至の至は此より彼へ至るの至には非ず、住処即寂光と云ふを至とは云ふなり。


沖浦氏の御書全体を読む云々に、おそらくはこれらの御文も含まれるのだろう。

ただし、シツコイようだが、繰り返し言っておく。これと戒壇建立は矛盾しない。これらが戒壇建立を否定することにはならない。つまり、決定打とはならないのだ。

2013/3/31  15:07

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、のび太さん、

 御書読めば、

 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、

 こんな馬鹿馬鹿しい事を、大聖人がご遺言なさる道理がありません。
 身延追い出された大石寺の連中が、悔し紛れに捏造したに決まっています。

2013/3/31  15:04

投稿者:沖浦克治
 今日は、厳虎さん。

 三大秘法は前にも書きましたが、衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経が本門の題目と本尊です。
 それを収める五体が、本門の戒壇。
 ですので、特別に戒壇本尊とか、本門の戒壇と言う大伽藍はいりません。
 但し、SGIが広宣流布するなら、世界中で20億ほどの会員が生まれます。
 当然、集合するために建物は必要です。
 それだけのことで、その建築物が聖地であったり、本門の戒壇だから参詣せねばならない。
 そう言う事にはなりません。
 集合するためだけに建物を建てても仕方ないですよ。
 打ち合わせとか、指導会とか、そう言う目的があって集まる場所がいる、そのために建物が要る。
 それだけのことで、参詣の対象の建物などは不要です。
 御書読めばわかります。

 『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、』
 (当体義抄)

 題目唱えるなら、その場がそのままで常寂光土なのです。
 別の場所に聖地をこしらえるなど、大聖人門下の私には、ちゃんちゃらおかしいです。

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