2013/4/7

戒壇論、番外編  
昨夕から今朝にかけての沖浦氏のコメントは、その悪逆非道ぶりがよくあらわれているものだった。

 御書を引用しても、貴方が認めたくないものは認められないでしょう。

 ですので、無意味なのです。


こう言っていたわけだが、今度はわたくしの発言を逆手に取って次のごとく言うのだ。

 大聖人が一言もおっしゃられない、戒壇本尊本懐。

逆ギレみたいなものであろう。

話を戒壇論に戻そう。沖浦氏の言いぶりでは、文証はあるが巌虎に示したところで難クセをつけるだけなので無意味である、と言っているように聞こえる。もしそうならば、沖浦氏らしくないなあ、というのがわたくしの率直な感想である。相手が聞こうが聞くまいが説き伏せる、納得しようがしまいがとにかく言うことは言う、そういうタイプだと思っていたのだが、少し違ったようである。いずれにしても第三者が判断して下さるので、もし文証があれば遠慮せずに示すべきだろう。仮にわたくしが意固地になって認めようとしなくても、それが明々白々の文証であれば第三者が認めてくれるはずなのだ。

厳虎氏と沖浦氏の戒壇義おもしろかったです。(拍手)

のび太氏である。何がどのように面白かったのか、それが不明であるが、おそらく最近は各種掲示板が不調なのだろう。いや、最近ではなく、もうかなり前からずっとそのような状態が続いているようである。

論客がいない。今まで活躍していた人も、いつの間にか出てこなくなったりして、丁々発止の議論が行なわれなくなった。すると閲覧者も自ずと減ってくる。それが悪循環となって、ますます低調になる。

のび太氏は議論に参加するのではなく、観戦するのが好きなタイプなのだろう。すると、おそらく現時点では他に興味を惹くような議論が行なわれておらず、必然的に沖浦氏とわたくしとの議論に注目せざるを得ない状況なのだと思われる。

例えば、三秘抄も文上読みをすれば国立戒壇が是とも読める。原理主義者の陥穽は、字面どおり読むことが正しいと錯覚することである。

教相と観心という視点から展開するならば、原理主義は教相に捕らわれ易い側面がある。

解釈論はどこまでいっても解釈論でしかない。

のび太氏のコメントを抜粋させてもらったわけだが、きわめて模範的な問題提起である。おそらくは議論の一助というか、議論の発展を期待して、ご自身の見解を示されたのだろうと思われる。

いわく、三大秘法抄は文上読みすると国立戒壇になる、と。文上の対義語は文底だと思われるが、では、聞きたい。文底読みの場合、どのような戒壇になるのだろうか?

別にそれほど言いたくもないが、いちおう言っておこう。創価学会はかつて国立戒壇を言っていた。当然ながら三大秘法抄がその根拠である。しかし、今は言わなくなった。はたして、その総括は出来ているのだろうか?

いわく、原理主義者は字面どおりに読むことが正しいと錯覚する、と。

相手にイチャモンをつけるのは簡単であるが、では、どのように読むのが正しいのか、それが問題である。

教相と観心・・・

これまた大変な問題提起である。しかし、言っていることは先の文上読み・文底読みと同じだろう。ここで問題となるのは文底読みの是非である。観心釈という表現もある。

日蓮宗と正宗との議論で争点になるのがこれである。たとえば大聖人を御本仏と拝するのが日蓮正宗であるが、それを日蓮宗では批判する。これはいわば文底読みに対する批判であり、文底読みは勝手読みである、というのが彼らの言い分であろうと思われる。

のび太氏はお気づきであろうか、ねじれ現象とも言うべきことが起こっていることに、である。

つまり、のび太氏の論理であれば、日蓮宗こそが原理主義の親玉であり、日蓮正宗はその逆に位置することになるのだ。いったい、これはどういうことであろうか?

解釈論はどこまでいっても解釈論でしかない。

これは再掲であるが、では、解釈論に代替されるものは何か、というのが問題である。文脈上、のび太氏は現証を言わんとしているごとくである。しかし、それを言っちゃあオシマイよ、と言いたいところだ。今までの文上読みに対する文底読み、あるいは教相に対する観心、これらはいったいどうなったのだろうか?

つまり、解釈論の決着はどこまでいっても解釈論で決すべきなのである。

のび太氏のコメントを逆手に取って言わせてもらったわけだが、顕正会の、あるいはわたくしの御書の読み方が、原理主義的であり間違いであると言うのであれば、正しい読み方・正しい解釈を示すべきなのである。

もしそうでなければ、しょせんは自分勝手な解釈に過ぎないものを、文底読みだとか観心釈だとかいう装飾を施して権威づけているだけになってしまうだろう。

これは創価学会が痛烈に批判するところの日蓮正宗と、実はまったく同じであるという、イヤミな結論にならざるを得ないところなのだ。

今日はこんなところで終わりにしよう。

2013/4/8  7:04

投稿者:沖浦克治
 本門の戒壇が私どもに備わる根拠の御文を提示いたします。

 一大秘法とは衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華です。
 
 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、』
 (御義口伝巻下)

 キチンと書いてあります。
 ですから、私どものそれぞれが三界の衆生でしかも、唯我一人の教主釈尊と言う、一大秘法の南無妙法蓮華如来。

 一大秘法は三大秘法を包含していることはわかりますでしょう?

 わからなくとも、舎利弗でもわからなかったことですから、貴方や私が簡単にがわからないのは当然ですね。
 ですから、信じることで知恵に代えるのです。

 御書にこのように書いてあるから、とりあえずそれが真実だと前提にして学ぶ。

 そうすると、理解が出来ます。
 以信得入、以信代慧です。
 

2013/4/8  7:00

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、おはようございます。

 御書を引用しますので、否定のための否定はやめましょう。
 先ず戒壇本尊本懐論は、御書には全くございません。
 弘安2年10月12日に大聖人が興師に出した御書がありますが、その中に戒壇本尊のことは全く出てきません。
 興師の唯受一人が唯一の富士門流の正当性の根拠です。
 その唯受一人の方に、出世の本懐を遂げた日に出した手紙に、全くその記載がない。

 ありえないと私には思えますし、世間の常識から判断しても同じになります。
 ですから、貴方が戒壇本尊本懐を信じるのはご自由ですが、他人に対してもそれを主張なさるならば、ご真筆か信頼性に富む写本で、御文証を引用して証明なさるか、そう言うものが存在しない現状では、相当強力な状況証拠の提示が必要です。
 然るに、これまで私にそう言う提示をされた方は皆無です。

 私は、そう言う証明を法華講員の方が成功なさるなら、即時その方のご紹介で法華講員となると、数年前から宣言しております。
 未だそう言う人が現れない。
 ネットで何万何十万というロムがある中での宣言です。
 しかし未だに出てこられない。
 戒壇本尊本懐が事実なら、極めて不思議な現象です。
 
 ですから、私は常に言います。
 御書にないことを勝手に持ち出して、錦の御旗にしても世間に対しても、大聖人門下に対しても、どう言う説得性を持ちません。

2013/4/7  17:13

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、今晩は

 三大秘法は一大秘法を開いたものだと言いますね。
 一大秘法は御書に明らかです。

 『大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊宝浄世界の多宝仏高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列座したもう、四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもうの儀式は華厳寂場の華蔵世界にも勝れ真言両界の千二百余尊にも超えたり一切世間の眼なり、』
 (曾谷入道殿許御書)

 虚空会の儀式がそのままで一大秘法ですし、集約するなら、虚空に立った宝塔が一大秘法です。

 そして、その宝塔こそが、阿仏房の五体だと仰せです。

 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、』
 (阿仏房御書)

 ですから、阿仏房がそのままで一大秘法です。
 開けば三大秘法。
 本門の戒壇も備わっています。

 厳虎さん、どうしてここまで明確に書かれたことを疑いますか?

 今の貴方は否定のための否定です。

 更には、、戒壇本尊本懐は御書にありません。

 御書にないことを信じ、あることを否定する。

 おかしいですね。

2013/4/7  15:12

投稿者:のび太

わざわざコメントを取り上げていただき恐縮です。

>解釈論はどこまでいっても解釈論でしかない。

>これは再掲であるが、では、解釈論に代替されるものは何か、というのが問題である。文脈上、のび太氏は現証を言わんとしているごとくである。しかし、それを言っちゃあオシマイよ、と言いたいところだ。

どうオシマイなのか知りたいところだが、要するに身もふたも無いと言いたいのだろう。

先にも述べたが、原理主義者が絵に描いた餅を煮て食おうが、一生眺めて暮らそうが勝手である。
まして評論しかできないものが何をのたまうか?(笑)

浅井先生に言いたい!ご本仏に立てた誓いだ。
きっちり落とし前はつけてもらいたい。
去年の12月にマヤ暦の終わりから終末論を語っていた吾人がおったが、時間がたてば言ったことなどゴミ箱へポイかな?

平成25年12月31日、そこでもう一度この戒壇論を検証してみてはどうだろうか。


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