2013/4/15

這っても黒豆  
ユタ氏は謙虚な人なので、自分を偉く見せようとはしない。そこはひじょうに好感が持てるところだ。

 いや、全く仰る通り、ダメな人間です。

しかし、これは誤解である。わたくしはユタ氏をダメな人間だとは思わない。ただ、信仰に限らず何でも同じだと思うが、誰々がやっているから自分もやるというのはよくないわけで、誰がやろうがやるまいが関係なく自分の判断でやるべきが筋なのだ。

それが巌虎さんの授誡であれば、物凄く大きいことだと思うんですよね。

このように言っていただけることは嬉しいことであるが、わたくしの意見は上に書いたとおりである。

2013/4/15 7:56
投稿者:沖浦克治
 御書には、私ども自身が一大秘法であると説かれています。
 ですので、戒壇も私ども自身に自然に備わります。
 
 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、』
 (阿仏房御書)

 貴方方の寛師教学では、宝塔とは御本尊ですね?
 戒壇とはその住所でしょう?
 阿仏房が唱題する場所が、宝塔の住所だとあります。
 読めますか??
 寛師教学と言う、きわめて低い破理屈でも読めますね?
 御書読まないと駄目です。


さて、今度は沖浦氏との議論であるが、マグマグ氏の予想通り、いよいよ堂々巡りが始まったごとくである。

参考までに聞いてみよう。

宝塔とは御本尊ですね?
戒壇とはその住所でしょう?


これはおっしゃるとおりなのだが、では、その根拠はどこにあるのだろうか?

宝塔が御本尊であることは阿仏房御書を読めばわかる。問題はその次である。御本尊の住所が戒壇であるというのは、いったいどこから導き出されるのか、教えてほしいものである。

参考までに聞いてみよう・・・と書いた。そう、あくまで参考までに、である。

ようするに、これは別の議論なのだ。

すでにお忘れの人もいようかと思うので、煩瑣ながらも改めて議論の出発点を示しておこう。今調べてみたら、半月前のことだった。

2013/3/31 15:04
投稿者:沖浦克治
 今日は、厳虎さん。

 三大秘法は前にも書きましたが、衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経が本門の題目と本尊です。
 それを収める五体が、本門の戒壇。

(以下省略)

http://white.ap.teacup.com/ganko/1833.html#comment

五体を戒壇だと言っているのだ。さすがにこれは飛躍だろうと思って、そんなことが御書のどこに説かれているのか、どこにもないだろう、あるならばはっきりと示せ、とわたくしは追求しているのである。

わりと最近のコメントでも同様のことを言っている。

 私共が仏身ですから、その住所は戒壇です。
 突き詰めて言うなら、私共の身体が戒壇で、広義に訳すなら、その私共の活動の場所が戒壇です


http://white.ap.teacup.com/ganko/1839.html?b=10#comment

上掲には「住所は戒壇」とか「活動の場所が戒壇」とあるが、ここは特に問題にしていない。先ほど参考までに聞いてみようと書いたのは、いわばこの部分に相当するわけである。つまり、これはあながち間違いではないのだ。

私共の身体が戒壇・・・

まさにここが大問題なのである。

ところが直近のコメントではこれにまったく答えていない。おそらくは答えられない、ようは回答不能なのだろう。であれば、ここは素直に認めるべきではあるまいか?

ところでマグマグ氏は連想ゲームにひそむワナについて興味津々のごとくであるが、ワナというのは相手が引っ掛からないと意味がないので、当分は種明かしをしないことにする。

それからもう一つ余談がある。

開山上人の実相寺申状に云わく、大覚世尊、霊山虚空二処三會、二門八年の間三重の秘法を説き究むと雖も、仏滅後二千二百三十余年の間而も之れを伝えず、第三の秘法今に残る所なりと云云。権実、本迹、種脱云云。云云。

依義判文抄である。毎度のことながらnb資料室からお借りした。

過去にも何度か書いているが、わたくしは歴代上人の御指南をほとんど存じ上げない。日寛上人の御指南もよく知らないのだ。何しろナマケモノであるから、面倒臭くて読んでいられないのだ。

そういうわけで依義判文抄も読んだことがなかったのだが、今回はいちおう全文通して読んだ。いわゆる切り文の批判を免れるためには、全体を把握しておかないといけない。面倒臭がりのわたくしでも、そういうところは弁えているのだ。

さて、最近の顕正会では、事実上の国立戒壇が流行している。その根拠として用いられたのが四十九院申状である。

第三の秘法、今に残す所なり。

あれれ? これはどういうことだろうか?

日寛上人の依義判文抄には、開山上人の実相寺申状としてほぼ同一の御文が掲げられているのだ。開山上人とは日興上人の御事であろう。実相寺申状は四十九院申状のことだと考えられる。そして平成新編をお持ちの人はご存知のごとく、四十九院申状は掲載されていない。

これは平成新編の編纂に関わった人に聞いてみないとわからないことだが、単純に考えればくだんの申状は大聖人の御書ではなく日興上人の御著と判断して不収録としたのだろう。

であれば、今度は浅井先生の見解を聞きたいところだ。

先生が現宗門に反抗的であるのは当然にしても、日寛上人に反抗するとは何事か、ということなのだ。前掲のごとく、開山上人の実相寺申状に云わく、とおっしゃるわけだから先生がこれに背いているのは明々白々である。

2013/4/17  7:06

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、おはようございます。

 創価学会は、創価学会総本部を今建築中です。
 以前は宗門への寄付で大変でしたが、今はああ言う不良債権は処理しましたので、自分たちの事にお金を使えるようになりました。
 それで、近年は会館の整備や新築をやって、いよいよ総本部の建築なのです。

 この総本部を、戒壇だと呼ぶことは差し支え無いと思います。
 創価学会の総本部ですから、当然権力者も学者も来ます。
 
 『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり、』
 (三大秘法禀承事)

 当然これからSGIは大興隆致します。
 世界中の会員が総本部に憧れ、一生の内に訪ねたいと願望するでしょう。
 三国並びに一閻浮提の人が、懺悔滅罪にやって来ます。

 総本部がそう言う位置づけになることは、火を見るよりも明らかです。

 ですがね、それでも尚、総本部を信徒の上に位置づけたらダメなのです。
 仏法は人のためにあります。

 戒壇も、当然信徒のためです。
 そして、伽藍の戒壇より、人々の命の戒壇がず〜〜〜〜〜と重要なのです。
 

2013/4/16  20:49

投稿者:沖浦克治
 厳虎さん、少し補足致します。

 戒壇は本尊安置の場所ですね。
 私共の生命は五体と言う場所を借りて活動しております。
 借りているのですから仮の姿です、この世の私共は。
 ですので、釈迦は方便現涅槃と説きました。
 方便で生きて、方便で死んで行く。
 生命の本質から見ると、この世の現象は全て方便なのです。
 所が大聖人はその方便であるこの世こそが、仏世界だと言われました。
 ですので、戒壇とは私共の五体であるとともに、私共が活動する娑婆世界そのものです。
 何故ならば、娑婆世界こそが仏の住所だからです。

2013/4/16  19:44

投稿者:沖浦克治
厳虎さん、今晩は

 概ね興門派の方々は、戒壇論になると途端に歯切れが悪くなりますね。
 先ず戒壇とは、一般的に本尊を安置する建物を意味します。
 私共が正本堂を建てた時、そこが事の戒壇で戒壇本尊を安置する場所で、本門の戒壇となる。
 私共が御形木御本尊を安置する仏間は、義の戒壇である。

 こう言う指導が創価学会でなされていて、それはそれで正しかったと思います。
 今、創価学会は日蓮正宗ではなくなって、寛師の唱えた戒壇本尊本懐論に執着する、必要がなくなりました。

 ですので、あの頃より遥かに自由に戒壇について論議が可能です。
 厳虎さんは、寛師教学に見られる、戒壇は本尊の住所であることに疑問がおありのようですが、寛師教学では当然そうなります。
 例えば、国立戒壇を建てても、中に戒壇本尊が安置されないなら、それは国立戒壇とは言いません。
 寛師教学では当然そうなります。

 戒壇は、本尊の住所。

 この点は問題無いと思いますが、ご疑問がおありでしょうか?

 本尊とは南無妙法蓮華経です。
 御書にあります。

 『問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、』
 (本尊問答抄)

 御書に明白ですから、信受する以外ありません。
 そして、その南無妙法蓮華経は私共の己心の妙法です。
 御書にあるんですよ。

 『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、』
 (法華初心成仏抄)

 明快ですね。
 ですので、その生命の器が五体であって、宝器と言います。
 これが戒壇です。
 広く言うなら、衆生が活動する場は全て戒壇となります。

 以上ですが、まだご疑問がおありですか?
 

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