2013/9/7

謗法行為のボーダーラインについての私見  
相変わらず話が噛み合っていない。閲覧者たちはあきれていることだろう。あるいはいつものことなので、気にも留めていないかもしれない。

しかし、事は重要である。

日興上人が己義にあらずと仰せられたことに対し、沖浦氏はまるで見当はずれのことを言っている。わたくしは己義ではないことを論証したつもりだった。しかし、沖浦氏はそれをまったく理解できていないようである。

わたくしは何も、唯授一人の日興上人が己義ではないとおっしゃっているのだから己義であるはずがない、などと強弁しているわけではない。上人の当該御指南と立正安国論の御指南が事実において一致・符合していることを示したのだ。前回のおさらいとして、二つの御指南を掲げておこう。

謗法を致せる悪鬼乱入の寺社

世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。

見事な一致・符合である。

せっかくなので、木画二像開眼の事からも引用しておこう。前回とは違う一節である。

今の木画二像を真言師を以て之を供養すれば、実仏に非ずして権仏なり。権仏にも非ず、形は仏に似れども意は本の非情の草木なり。又本の非情の草木にも非ず、魔なり、鬼なり。

ここにも悪鬼乱入の原理が明快に示されている。

さて、もはや決着はついたも同然であるが、ここで自分自身に宿題を課しておこう。都合の悪い御書があるのだ。

こくうざう菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。

聖密房御書である。ちなみに清澄寺大衆中にも同趣旨の御文が存在する。

虚空蔵菩薩の御前にして大衆ごとによみきかせ給へ。

清澄寺は謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に当たらないのか?

もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいと思うが、ともかく現時点におけるわたくしなりの考えを示しておこう。

意外というべきか、あるいは当然なのか、大聖人は諸仏・諸経を頭ごなしには否定していないのだ。そして前回も紹介したごとく、大聖人は神道を頭ごなしには否定しないのである。それぞれの具体的な事例を次に掲げておこう。

女人の御身としては南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱へて、後に暇あらば時々は弥陀等の諸仏の名号をも口ずさみなるやうに申し給はんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに・・・

法華題目抄である。消極的ながらも諸仏を肯定していることは明らかだ。

予、事の由ををし計るに、華厳・観経・大日経等をよみ修行する人をば、その経々の仏・菩薩・天等守護し給ふらん。疑ひあるべからず。

開目抄の一節である。これも大意としては消極的なのだが、部分的にはかなり積極的とも拝せられるところである。何しろ、疑いあるべからず、だからだ。

かゝる不思議の徳まします経なれば此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきとたのもしき事なり。

上野殿母尼御前御返事であるが、これはもちろん議論百出というか、解釈の分かれるところだろう。公平に見るならば、確かに沖浦氏の主張する神社での読経・唱題を肯定するフシが窺える御文であり、決して簡単ではない。

以上の三文に拝するごとく、案外に大聖人は諸経・諸仏に寛容であり、神道に対してもあながち否定的ではないことがわかるのだ。

さて、どうしたものか・・・

この解決方法は次のキーワードに集約されるのだと思う。

謗法を致せる悪鬼乱入の寺社

前掲の開目抄に明らかなごとく、諸仏・諸菩薩にも力がある。霊験があると書いたほうがわかりやすいだろうか?

しかし、そこには条件があるのだ。

すなわち、謗法か否か、である。

ここで安国論の御指南を踏まえるならば、謗法とは正に背き悪に帰すことである。それによって聖人善神が去ってしまい、かわって悪鬼が乱入して来るのだ。

法華題目抄は消極的ながらも念仏肯定の意味が拝される。しかし、大聖人の御化導全体からすれば、異例中の異例である。なぜならば当時の念仏は謗法だからである。いわば法華経を全否定した上で念仏を立てた。これは明らかな謗法である。禅も真言も同様である。ひるがえって神道の場合は案外に謗法色が弱いようにも思える。念仏・真言・禅・律などに比べれば、はるかに謗法色が薄い。我々は仏教・非仏教という枠で捉えて、むしろ仏教各派にヨシミを感じて、逆に神道を敬遠するようなフシがなきにしもあらずであるが、しかし、もしかしたらこれは大きな勘違いかもしれないのだ。

いよいよ話がややこしくなってきたが、わたくしは十章抄の御指南を結論としたい。

 当世の念仏は法華経を失う念仏なり。設ひぜんたりとも、義分あたれりというとも、先づ名をいむべし。

これは当然ながら真言にも禅にも当てはまるし、神道にも応用してしかるべきである。もし大聖人の仏法を失うものであれば、それは忌むべきなのだ。

愚者は智者の念仏を申し給ふをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候はじ。

先の法華題目抄の御指南を異例中の異例と書いたのはこのためである。やはり、こちらが本筋だろう。そして、この応用が神道にも当てはまるのだ。仮に法華講員でも創価学会員でもいい。あるいは顕正会員でもいいだろう。なぜか足繁く神社の鳥居をくぐる姿が目撃されていたとする。これはもう大問題だ。もし仮にそこで読経・唱題をしていたとしても、問題であることには変わりない。鳥居をくぐっている。すなわち神社に参詣しているという姿が問題なのである。こうした誤解を与える行為そのものが問題なのである。

たとい善たりとも、義分当れりというとも、先ずはそうした行為を忌むべきなのだ。

以上、謗法を致せる悪鬼乱入の寺社をどのように規定するかを考えると、そのボーダーラインの引き方がひじょうに難しくなってなかなか結論が出せなくなるが、十章抄の御指南に従うならば、わざわざ誤解を招くような行為をすべきではないことは確かだろう。

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