2013/9/12

謗法容認路線がもたらした誤解釈  
何やら顕正会の施設に家宅捜索が入ったとかで、大騒ぎしているようだ。わたくしはユタ氏のコメントで知ったわけだが、のび太氏もめずらしくコメントを寄せている。この件に関してはバーズ氏のブログが単純明快でわかり易い。わたくしも書きたいことはあるが、その前にやるべきことがある。すなわち前田氏との議論である。また、そこに沖浦氏も参戦というか横槍というか、ゴチャゴチャと書いているので余計にややこしいことになっている。

神社参詣の是非について、日興上人と五老僧とでは見解が大きく分かれる。前田氏によれば、日興上人は一片に偏しているという。ようは五老僧のほうが大聖人の御意をバランスよく拝しており、日興上人は偏向が過ぎるのだそうである。

日向師は「守護の善神此国を去と申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候、

法華の持者参詣せば、諸神も彼社壇に来会すべく、尤も参詣すべしと」と答える。


しかし、これは明らかな間違いである。

まずは基本的なところから説明しよう。南部六郎入道は九年間、神社参詣を停止していたという。普通に考えれば、それは大聖人が禁止していたからに他ならない。つまり、この事実がある以上、五老僧は御書を誤読していることになるのだ。一見すると神社参詣を容認するような御書が存在したとしても、それは誤読以外の何物でもないのだ。何しろ神社参詣禁止という事実があるからだ。

ゆえに、ここを引っくり返さないと話は進まない。すなわち、富士一跡門徒存知事の記述は真っ赤なウソである、でっち上げである、と。

次に論理的な意味で間違いを説明しよう。

要するに日興師は捨国面を強調して擁護面を無視してしまいます。
日向師は捨国のことはもちろんであるが、擁護の面のあることも忘れてはならぬ、

とそれぞれ主張しているのではありませんか。


二面があるにもかかわらず、一面しか見ていない。

これは実にもっともらしい説明であるが、物事には両立できることと、できないことがある。その点を見落としているのではないかと思う。

檀那の社参物詣でを禁ずべし

この理由は何か?

すなわち、謗法を致せる悪鬼乱入の寺社、なるがゆえである。

ところが五老僧は次のごとく言っているらしい。

守護の善神此国を去と申す事は安国論の一篇にて候へども、白蓮阿闍梨外典読に片方を読て至極を知らざる者にて候、

外典読みとか、片方を読みて至極を知らざる者とか、ボロクソなことを言っている。そして次が重要である。

法華の持者参詣せば、諸神も彼社壇に来会すべく、尤も参詣すべし

おわかりだろうか、彼らの言い分こそ、実は偏向が過ぎるのである。

もし、この理屈が正しいのであれば、神社参詣禁止はあり得ないことになる。謗法を致せる悪鬼乱入の寺社など存在しないことになる。つまり、法華の持者が参詣すれば諸天善神が還帰するという理屈は、神社参詣禁止や悪鬼乱入云々を有名無実化することになるのである。

これでは論理破綻である。彼らは日興上人を偏頗であると断ずるが、しかし、自分たちのほうがはるかに偏頗なのである。

日興上人の御見解は、以前にも示した。再掲しよう。

但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰んで鎮守を定むべし云云。

つまり、この一文がある以上、日興上人が一方に偏していることにはならないわけで、逆に五老僧たちは謗法容認路線とでも言うべきか、本門流宣以前の垂迹還住がなされていない段階で、悪鬼乱入の寺社に詣でようというのだから、とんでもない話である。すでにお気づきの人もいるかと思うが、法華経の行者のいるところには諸天善神が還って来るというのは、まさに謗法容認路線を正当化するための言い訳に過ぎないのだ。

更には『法門可被申様之事』(48歳)に、日本の諸神の中で八幡大菩薩をもってその代表とし、その八幡も件む処がないから天に昇ってしまったが、

正法の弘まるのを見れば、当然その弘通者のところへ還帰するという訳でしょう。(還帰する)


失礼ながら墓穴を掘ったも同然である。

 又日蓮房の申し候、仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺々を一もなく失ひ、其の僧らをいましめ・・・

まさに立正安国論の主旨そのものである。あくまで謗法を責めなければいけないのだ。その謗法呵責の精神なくして、むやみやたらに神社参詣することの断じて不可なることを、日興上人は口を酸っぱくして仰せられるのだ。

檀那の社参物詣でを禁ずべし・・・返す返すも口惜しき次第なり、と。

ちなみに、この御遺誡の直前には次の一条がある。

謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並びに外書歌道を好むべからざる事。

いかにも日興上人らしい厳格さであるが、それはともかく、これに対して逆ギレよろしく神社に行ってもいいんだなどと開き直るのは、実に恥ずべき振る舞いである。しかも御書を都合よく解釈して、そのようなことを言うのだから困ったものである。

ここで問いを発しておこう。

「宮には善神がいるのか、それとも、邪神がいるのか」と問われれば、天照神も八幡神も、今、神社に居ますよ」と御書にあるわけです。

わたくしにはこれがわからない。具体的にはどの御書を想定してるのだろうか?

新尼御前御返事の場合は、特に問題とはならないと思う。ようは大聖人の御認識というよりは、当時の一般的な認識を紹介しているのだと考えるのが、他の御書との整合性の上からは自然である。

若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給ふとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。

諫暁八幡抄の一節であるが、まず日興上人の御遺誡との関連で書いておこう。

何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。

其の器にして・・・

このニュアンスが大事だと思う。与えて論ずるとして、諫暁八幡抄の御文が神社参詣を可とするものだとしよう。そこで日興上人は言うのだ。え? オマエが? そのウツワで大聖人のマネゴトをしようってことなのかい? ムリムリ、やめておきなさい。

謗法の恐ろしさがわかっていない連中が安易に御書を解釈するとロクなことにはならないのだ。

さて、今は与えて論じたわけであるが、奪って言えば五老僧は御書が読めていないのではないか、生意気を承知で言えば五老僧といえどもこのレベルなのかと、ガッカリする思いである。

法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給ふべし。

わたくしの拝する限り、この御文は神社に還帰するなどという意味ではない。其の所とはどこか? 文脈的な意味では日本国であるが、より正確に拝するならば大聖人のましますところである。

いかがだろうか?

不勉強のわたくしは他にどのような御文があるのか知らないが、少なくとも諫暁八幡抄の御指南は神社に神がいる、もしくは還って来る、という意味ではない。あくまで大聖人のましますところにやって来るのである。それを神社に還って来るかのごとく解釈するのは完全なる誤読である。

日興上人が明らかにしたごとく、いずれは広宣流布が実現し垂迹還住の時が来る。ゆえに、それまでは参詣禁止とすべきなのである。

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