2014/4/23

御書研究の一局面  
沖浦氏より懇切丁寧なるご教示をたまわった。おっしゃりたいことはわかるし、確かにその線に沿った理路整然たる論説であることは間違いなかろう。しかし、騙されないぞ、というのがわたくしの結論である。

その前に、円釈氏にご挨拶申し上げておこう。リンク先を拝見した。これは一筋縄ではいかないと思った。もっと直截に言えば、厄介な人がお出ましになった、ということだ。ともかく記事の分量が多いので、今は何とも申し上げられないところである。ゆえに、ある程度読み込んだ段階で、わたくしなりの感想を書こうかとも思っているが、それがいつになるかはまったくの未定である。

さて、話を戻そう。

 『南無妙法蓮華経
御義口伝に云く南無とは梵語なり此には帰命と云う、人法之れ有り人とは釈尊に帰命し奉るなり法とは法華経に帰命し奉るなり又帰と云うは迹門不変真如の理に帰するなり命とは本門随縁真如の智に命くなり帰命とは南無妙法蓮華経是なり、釈に云く随縁不変一念寂照と、又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと、又云く南無妙法蓮華経の南無とは梵語妙法蓮華経は漢語なり梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり、又云く梵語には薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と云う此には妙法蓮華経と云うなり、薩は妙なり、達磨は法なり、芬陀梨伽は蓮華なり蘇多覧は経なり、九字は九尊の仏体なり九界即仏界の表示なり、妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、或は三世常恒なるを経と云うなり、法界は妙法なり法界は蓮華なり法界は経なり蓮華とは八葉九尊の仏体なり能く能く之を思う可し已上。』
 (御義口伝)

 長くなりましたが、切文批判を避けるためです。
 ご賢察下さいませ。


いきなり御義口伝の冒頭の一段を貼り付けてきた。そして具体的な説明は以下のごとくである。

 この部分が引用したいところです。

 『経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと、』

 言語音声とは、行の部分です。
 どう言う経文でも、人が唱えないなら経ではありません。

 大聖人が明確に言われています。
 御本尊は有情と非情に分けると、非情に含まれます。
 
 『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり、』
 (木絵二像開眼之事)

 御本尊は私どもが前にいて唱題して、初めて仏としての力用を備えます。
 この御書にある通りですよ。
 唱題する人がいないなら、只の物です。
 
 『然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、』
 (諸法実相抄)

 この御文も同じ事を示してありますね。
 衆生がいなくて、経を唱えないなら、どう言う仏像も只の物です。

 御本尊と言う仏像は、私共が唱題して初めて仏としての作用が出ます。

 ご理解出来ますか?


本題に入る前に聞いてみたいことがある。

九字は九尊の仏体・・・

これがよくわからなかった。九字とは具体的にどこの文字を指して九字と仰せられているのか、それがまったくわからないのである。題目はいわゆる五字七字である。これを梵語に直すと、冒頭の引用のごとく、十文字なのだ。何度も確認したが間違いない。逆に言うと、大聖人が御間違えになられているのではないかと思うのだが、それともわたくしのほうが何か重大な錯覚をしているのだろうか?

それはともかく話を進めよう。わたくしは次の一文に注目した。

九界即仏界の表示・・・

経は仏の説法を言語化したものである。ゆえに本来、一切衆生の言語音声が経であるというのは間違いのはずであるが、九界即仏界の上から言えば正しい。この意味で沖浦氏の引用はお見事だ。

しかし、徐々に馬脚をあらわす。

 『法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり、』
 (木絵二像開眼之事)

 御本尊は私どもが前にいて唱題して、初めて仏としての力用を備えます。
 この御書にある通りですよ。
 唱題する人がいないなら、只の物です。


余計なことを書かなければいいのにと思う。

当該御書は文字通り開眼について論じられたものである。沖浦氏の言い様では、自分たちでも本尊を開眼することができそうである。しかし、そんなことはあるまい。

法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。

ここは法華講員の得意中の得意とする分野かと思うが、わたくしはもう少し手前の初歩的な意味において、沖浦氏の間違いを指摘しておきたい。

滅せる梵音声、かへて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

仏には三十二相がある。仏師は仏像を彫る時、この三十二相をどのように表現するかに腐心する。しかし、梵音声の一相だけはどうやっても表現することができない。そこで梵音声の代替として仏像の前に経典を置くのだ。それでいちおう三十二相具足の仏となるわけである。

つまり、ここでの経典は一切衆生の言語音声のことではなく、仏の梵音声を意味するわけである。ならば、自分たちが唱題することによって仏の力用を備えるなどという話とは違うだろう。何しろ文字となって衆生を利益すると仰せられるのだ。利益する側は仏である。

すると、次の引用は支離滅裂である。

 『然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、』
 (諸法実相抄)


難しい御書なのでウカツなことは言えないが、少なくとも木絵二像開眼の事とは相容れないだろう。

ちなみに沖浦氏は百も承知だろうが、御義口伝には次のような一文がある。

末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。

この凡夫僧とは日蓮大聖人の御事である。たぶん創価学会でも同じ見解のはずであるが、もしそうであれば諸法実相抄のくだんの御文は暗に大聖人御自身を示していると拝するべきかもしれない。

以上、沖浦氏が今回持ち出してきた三つの御書は、自説に都合よく引用したつもりのようだが、実際は支離滅裂である。御義口伝と諸法実相抄はそこそこ整合性があるものの、木絵二像開眼の事はまるで不整合である。やめときゃよかったのに、ということだ。

2014/4/27  0:50

投稿者:のび太
>滅せる梵音声、かへて形をあらはして、文字と成りて衆生を利益するなり。

仏には三十二相がある。仏師は仏像を彫る時、この三十二相をどのように表現するかに腐心する。しかし、梵音声の一相だけはどうやっても表現することができない。そこで梵音声の代替として仏像の前に経典を置くのだ。それでいちおう三十二相具足の仏となるわけである。

衆生済度をどう表現するか?

称名念仏がインフルエンザのように広がっていった。

パンデミックに突入するきっかけは、大衆から支持されること、論理が吹っ飛ぶ瞬間に信仰が現れるのか。

まとまらない思索の断片…です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kuya_Portrait.JPG

2014/4/24  6:43

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、レスを別けました。

>末法の仏とは凡夫なり、凡夫僧なり。

 一切衆生が本仏であるとの、大聖人のご宣言です。
 大聖人が最初に、末法の人類のため、自身が凡夫のpすがたのまま、御本仏としての振る舞いを示された。

 示同凡夫と言います。
 最初の人類のお手本のお方が大聖人です。

 『此の十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり、一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し』
(三世諸仏総勘文教相廃立)

 後は全人類が、俺は、私は本来仏なんだ、と悟だけなんです。
 その悟りに至る行程を、創価では、人間革命と言います。

 極めて単純なのですよ。

2014/4/24  6:31

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます・

>つまり、ここでの経典は一切衆生の言語音声のことではなく、仏の梵音声を意味するわけである。ならば、自分たちが唱題することによって仏の力用を備えるなどという話とは違うだろう。何しろ文字となって衆生を利益すると仰せられるのだ。利益する側は仏である。

 一切衆生が本来、久遠の南無妙法蓮華経如来ですから、人が唱題することが、梵音声になります。

 当然最初は祈りに力がこもりませんが、信心が進むと勝手に梵音声になります。

 勝手になってしまうのです。

 無作と言います。

2014/4/24  6:28

投稿者:沖浦克治
 んっ?さん、おはようございます。
 
 先ず、河童と言う言葉を侮蔑の意味で使う貴方は、怨嫉謗法の徒です。

 私は自分への悪口造言は福運の肥やしですから、気になりませんが、怨嫉謗法をする方は因果の理法で、必ず罰の人生へと軌道が向かいます。
 
 これは仏法律で決まっていて、絶対に誰人も逃れることが不可能です。

 今まで沢山悪口造言をされて来ましたが、この10年間、私の悪口造言を流した方々で、人生が上手く行っている人は1人としておられません。

 今貴方は人生の大損の元を沢山作っています。
 損ですね。

 仏法に関する事は、貴方はまだまだ他人を説得出来るレベルではありません。

 先ず論理性をキチンと磨いておいでなさい。

2014/4/23  22:04

投稿者:んっ?
河童君や?

君は宗門には学ぶところがないと云いながら
「御義口伝」「百六箇抄」は引用するんだ?ww
大聖人様を「御本仏」と云うんだ?ww

以前から「木絵二像開眼之事」を拝してから
自宅の御本尊様を拝してみろと何度も云っただろう?
結局,意味が理解出来てないだね?ww

拝めば開眼? 
では,君にそんな力が有って,本尊は何でも良いという事かね?ww
宗門の云ってる事と違いないじゃないか?ww

2014/4/23  21:48

投稿者:んっ?
巌虎さん,こんばんは!

>理路整然

皮肉がきついですよ?ww

前スレの疑問についてですが,現在使用されている台鉋は
鎌倉時代には日本に伝わっていません。

従って,誰かさんが云うように小学生が理解出来るかは別にしても,
常識的に考えれば綺麗に仕上げられる台鉋を使用せずに
態々,ちょうなを使用する理由を逆に立証しなければならなくなるのは
日達上人を批判する人達側ではありませんか?という意味です。

2014/4/23  18:55

投稿者:沖浦克治
巌虎さん、補足いたしますね。

 宗門教学は天動説と似ています。
 創価思想は地動説です。

 先ず、全ての仏法は仏も法も含めて、人のおかげで存在する。

 これが地動説。

 全ての人間は仏と法のおかげで存在する。

 これが天動説。

 創価思想は大聖人思想そのものです。
 宗門は大聖人とは無縁です。

 先日書きましたが、本尊図顕が阿仏房にとって本懐であって、大聖人のご本懐ではない。

 ここがわからないと、開眼や漫荼羅で迷い続けます。

 何かご質問がおありならどうぞ。

2014/4/23  17:34

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん今日は

>九字は九尊の仏体・

 薩達磨芬陀梨伽蘇多覧は十文字ですが、梵語では9文字。
 これが九界即仏界を顕す。

 こう言う意味だそうです。
 本題です。
 
 開眼の事で以前樋田さんたちと法論しましたが、日蓮正宗の教義は、開眼について全く無智だとわかりました。

 御本尊は完全体です。
 この点は御書に明確です。
 然しながらそのままではどう言う力用もございません。

 ピアノと同じですね。
 スタンレーの数千万円のピアノでも、誰も弾かないから只の物です。

 人が弾いてはじめて楽器です。
 そして、弾き手の技術にピアノの性能は左右されます。

 御本尊も同じですね、祈り手の信力行力に力用は左右されます。

 信力行力が、仏力法力を出す。

 ご存知ですね?

 信力があって、行力が出る、結果として仏力法力がっ涌現する。

 ですので、信が無いなら行は起りませんし、ご本尊の前で唱題と言う行をする人間がいないなら、ご本尊の仏力も法力も出ません。

 開眼とはそう言う事です。
 

2014/4/23  16:39

投稿者:横から
薩達磨芬陀梨伽蘇多覧はたしかに10文字ですが、これは原文である梵字の、「漢字を使った音写」であり、梵字で書かれてあるものが9文字であるということです。

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