2014/11/12

長期休暇の後で  
わたくしが休んでいる間に何やら大きな動きがあったごとくである。まるで浦島太郎状態だ。

まず、すかいみかん氏にお返事申し上げよう。

直接コメントできなくてすみません。情けない話ですが私、巌虎ブログのコメント欄の猛者の皆様と激論を交わせる気がしないのです。

この素直な心情の吐露こそが尊いことで、むしろ知ったぶりだとか衒学癖みたいなものがいちばんダメなのだと思う。近代仏教学を振りかざしている人たちの自戒すべき点である。

さて、そこでわたくしなりの反撃である。

まず、関の山氏は質問に答えていない。例の空海の話である。これについてご回答願いたい。

日出でぬれば星隠れ、巧みを見て拙きを知る

伝教大師の言葉だそうだ。

わたくしはこれを教法流布の先後に当てはめ、大聖人の仏法が出現したら、もうその後には何も出てこない、大聖人の仏法を超えるものは存在しないからだ、などと考えていた。もちろん、時代時代で単発的に出てくるものはあるだろうし、それが一時的には隆盛を極めるようなこともあるだろう。ただし、それはいわゆるブームのようなものであって、永続はしない。なぜならば、万年の外未来までも流れるべきは、大聖人の仏法だからである。

おそらくこれは手前味噌の論理なのだろう。どこかに誤謬が潜んでいるに違いない。わたくしは信仰者であると同時に、こうした自己反省の目線も併せ持っている。いや、これは自慢でも何でもない。たぶん、誰もが多かれ少なかれ持っていることであって、ようはそれを口にするかしないかだけの話なのだろう。わたくしは饒舌なだけなのだ。

さて、そこで上掲の言葉であるが、近代仏教学ないし現代仏教学が大聖人の仏法に潜む数々の誤謬を指摘することが信仰者に何をもたらすかに思いを馳せる時、なぜかしっくり来ないという現実に気づくのだ。

わかり難いので一例を挙げよう。

現在、蒸気機関車はほぼ死に絶えたと言っても過言ではないだろう。電気かディーゼル、これが現在の鉄道の主流である。蒸気機関はいわゆる産業革命の原動力となった意味において人類の歴史に燦然と輝くものであるが、さりとて今現在、それを好んで利用する人はいない。もっと高効率の動力源が存在するからだ。

この辺はユタ氏の得意分野であろうから補足いただくとして、まさにこれが日出でぬれば云々に通ずるわけである。

大聖人は、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり、と仰せあそばす。裏を返せば、大聖人の仏法より勝れたものがあるならそれを用いればよい、という意味になるだろう。であるならば、近代仏教学ないし現代仏教学の成果によって、我々は軌道修正を余儀なくされるのではないか、旧態依然のままの信仰は通用しなくなるのではないか、ということになりそうである。

ところが現実は違うようである。

これはいみじくも、のび太氏が指摘したごとく、仏法と仏教学は異なるからなのだろう。それがすべてと言ってもいいかもしれない。

もしそうならば近代仏教学を振りかざす人たちの徒労感たるやハンパないものがあるだろう。

アンタたち何が言いたいの? ずいぶん面倒臭いこと言うわね? どうぞご勝手に、ご苦労さま。アタシたちはアタシたちの道を進むから、ほっといて頂戴!

これで終わりにしてもいいくらいなのだが、実はもう一つ重要な点を見逃していると思われるので、そこを取り上げておきたいと思う。

難行道・易行道

これはご存知、念仏宗で使う言葉である。念仏の一行のみが易行であって、それ以外は悉く難行であると。いわゆる鎌倉新仏教が広く民衆に受け入れられたのは、この易行ということが大きいのだろう。そこで専修念仏が爆発的に弘まった。

いわば大聖人は後発組である。では、この念仏に対し、大聖人はどのような破折をあそばされたであろうか?

念仏無間地獄

これがいちばん明快だ。いわゆる四箇の格言は単純明快で誰もが容易に理解できる。おそらくは大聖人御自身が心掛けておられたのだろう、平易であることをだ。

ちなみに守護国家論では念仏に対し、念仏なんかよりも法華経のほうが百千万倍も易行である、という意味を仰せあそばしている。

法華経こそが易行であると。

これは顕正会が強調してやまない、南無妙法蓮華経の難しい意味はわからなくとも信じて唱えれば自ずと功徳を生ずる、ということに他ならないわけである。

たぶん、これが仏教学を云々する人たちの盲点ないし欠落点なのだろう。

実はテクノロジー全盛の時代においても共通していることがあって、それはエンジニアとユーザーの立場の違いである。
自動車の性能は年々向上しているし、さまざまの技術が導入されて複雑になっている。パソコンなども同様だ。しかし、ユーザーの立場としてはその利便を享受できればいいのであって、極論すれば中身をまったく知らなくても構わないのである。
同様の意味で、信仰者は功徳が得られれば難しいことなど知らなくても構わないし、むしろ昔から戒められているのがいわゆる有解無信なのである。

アンタたち何が言いたいの? ずいぶん面倒臭いこと言うわね? どうぞご勝手に、ご苦労さま。アタシたちはアタシたちの道を進むから、ほっといて頂戴!

再掲であるが、これは冗談である。ここに戻りたいわけではない。わたくしの思うに、実は仏教学の立場においても平易に語ることが求められているのではないか、ということなのだ。それができないからそっぽを向かれてしまうのだ。

拙ブログのコメント欄に書き込むということは、何かを訴えたいのだろう。いわば啓蒙である。ところがなかなか蒙を啓くことができない。なぜできないか? それはもちろん、こちら側が無知蒙昧だからであって、もはや度し難いレベルだからなのだろう。ところが仏法はその度し難い人たちを救済するのである。では仏教学はどうかである。そこが問題だ。我々は救われるのであれば仏教学でもいいのである。

さて、沖浦氏からはたくさんのコメントを頂戴しているが、さしあたっては次の文章が気になった。

 他宗を責めることではなく、自身の命の中で戦いを起こせないから、怨嫉謗法の誘惑に負けるんです。

これはどうなんだろうね。御書の引用があるけれども、あまり適切とは思えないなあ・・・。何しろ大聖人は他宗を責めてますからね。大聖人御自身もそのおつもりでしょう。つまりは沖浦氏の勝手な解釈ってことだ。

2014/11/14  7:50

投稿者:沖浦克治
御本尊の事ですが、御書にあります。
 大聖人の御本尊は完全無欠。
 たかが書写した係りの人間性で左右されるような、いい加減なものではありません。

 寛師は習い損ないですが、書写した御本尊は大聖人ご図顕の本物の御本尊です。
 基本ですね。

 『曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、』
 (日女御前御返事)

 寛師がダメでも、御本尊は輪円具足!
 寛師であれ、大法謗の顕師であれ、書写係として問題はありません。
 どちらの書写の御本尊も、同じお力。
 ですので、理屈では拝んで問題ありませんね。
 で、ここからは人間の感情の問題になります。

 顕師は創価学会員の間では、蛇蝎の如く嫌われていたことをご存知ですか?
 座談会で寛師の話が出ると、参加者が一斉に、

 エ〜〜〜!!!

 と声を上げて顔をしかめたものでした。
 家を建てるのに普通は大工さんの人格まで考えません。
 仕事が良くて値段が安い。
 これが選択しになります。
 所が、

 あいつは腕も良いし値段も安いが、嫌いなんで、あいつにだけは絶対に頼まないぞ!

 世間でよくありますね。
 顕師がそれです。
 御本尊には問題ないのですが、嫌われてしまって、自分が書写した御本尊は創価学会に拝んでもらえなくなってしまいました。  
 仏法史上まれに見る大醜態を晒してしまった。
 身から出た錆び・・・

 寛師は習い損ないですが、創価学会員には人気がありました。
 それで、御本尊は顕師書写と同じお力ですが、創価学会員は寛師書写を選びました。

 今後は、寛師から離れ独自に創価学会で書写するか、身延などの御真筆を買い取ってコピーするかになるでしょうね。

 良い時代です。
 私は今の寛師の御本尊で満足していますので、このままで良いですよ。
 功徳あるなら、寛師でも顕師でも書写係りにはこだわりませんので。

2014/11/13  14:20

投稿者:関の山
続きです。

近代仏教学は水戸黄門に例えるとわかりやすいです。
徳川光圀は史実の水戸藩主。TVドラマの水戸光圀は仮託の人物。史実では東照宮程度位しか旅をしていないのに、ドラマでは日本全国を漫遊。角さん、助さんなどモデルがいた人物もいるが、飛猿など架空人物もいる。

史実の徳川光圀は、ドラマ水戸黄門の物語など預かり知らぬ事です。史実の光圀に「光圀公は、飛猿から道中でよく守ってもらったでしょう?」と言っても「え?誰それ?何の事?」と首を傾げるでしょう。

>南無妙法蓮華経の難しい意味はわからなくとも信じて唱えれば自ずと功徳を生ずる、ということに他ならないわけである。

他宗信仰でも功徳話は一杯です。「魔の通力」と反論しますが「難しい意味はわからなくとも信じて唱えれば自ずと功徳を生ずる」で、功徳が出ればそれで何が魔の通力であると証明されますか?

>アンタたち何が言いたいの? ずいぶん面倒臭いこと言うわね? どうぞご勝手に、ご苦労さま。アタシたちはアタシたちの道を進むから、ほっといて頂戴!

見事にブーメランだと思います。学会や正宗や顕正会など、他宗の信仰が間違ってる、インチキだ、罰だ、自分の教団のみ正しい!と信者勧誘していましたよね?
他宗に言わせれば、大きなお世話だ、ほっといて頂戴!ですよ?

2014/11/13  14:17

投稿者:関の山
巌虎さん、今日は。そしてお帰りなさい。

空海の話は、実は差別問題にぶつかる為に躊躇していたのですが。それは学会員からも聞いた事ありますし、顕正会の富士に真言宗批判として載っていた記事です。

「弘法(空海)はハンセン氏病(原語病名)にて石室にて一人寂しく亡くなった」と。


>空海のハンセン氏病説は「性霊集補闕抄」

「沙門空海言す。空海、恩沢に沐せしより、力を竭(つく)して国に報ずること歳月すでに久し(中略)然るに、今、去る月の尽日に­悪瘡体に起こって吉相減ぜず」

国の師にならないかと要請を断る時の文のようです。

天皇はそんな悪瘡は自分の祈りで直したらといったようですが。

あと法華講の方のサイト記事にも書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/ashuhokkekoshu/20141028/p2
http://www.e-net.or.jp/user/mblu/ndb/jsk/shingon-01.html


このサイト記事では日蓮聖人自体が、空海はハンセン氏病にて亡くなったと言われたと書かれています。

自分の意見としてはおそらくデマでは? 石室やお堂で亡くなるのは断食での即身成仏の為、体の悪瘡は密教錬金術による水銀中毒か?断食のため栄養失調症の疥癬症?と思うのですが。

2014/11/12  23:38

投稿者:のび太

こんばんんは、巌虎さん。

無事に退院できて良かったですね。

紹介したように取り巻く環境は変化の連続です。

どうも年内の解散総選挙が現実味を帯びてきました。

私は、選挙の結果次第で政局は流動化すると見ています。季節がらお体ご自愛ください。

ではまた。

2014/11/12  15:44

投稿者:沖浦克治
 巌虎さんお帰りなさいませ。

>>他宗を責めることではなく、自身の命の中で戦いを起こせないから、怨嫉謗法の誘惑に負けるんです。

>これはどうなんだろうね。御書の引用があるけれども、あまり適切とは思えないなあ・・・。何しろ大聖人は他宗を責めてますからね。大聖人御自身もそのおつもりでしょう。つまりは沖浦氏の勝手な解釈ってことだ。

 大聖人ほど自らの命の中で戦われたお方はおられません。
 以下の御書に明らかです。

 『杖の難にはすでにせうばう(少輔房)につらをうたれしかども第五の巻をもつてうつ、うつ杖も第五の巻うたるべしと云う経文も五の巻不思議なる未来記の経文なり、さればせうばうに日蓮数十人の中にしてうたれし時の心中には法華経の故とはをもへどもいまだ凡夫なればうたてかりける間つえをもうばひちからあるならばふみをりすつべきことぞかし、然れどもつえは法華経の五の巻にてまします。
 いまをもひいでたる事あり、子を思ふ故にやをやつぎの木の弓をもつて学文せざりし子にをしへたり、然る間此の子うたてかりしは父にくかりしはつぎの木の弓、されども終には修学増進して自身得脱をきわめ又人を利益する身となり、立ち還つて見ればつぎの木をもつて我をうちし故なり、此の子そとば(率塔婆)に此の木をつくり父の供養のためにたててむけりと見へたり、日蓮も又かくの如くあるべきか、日蓮仏果をえむに争かせうばう(少輔房)が恩をすつべきや、何に況や法華経の御恩の杖をや、かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。』
 (上野殿御返事)

 御人格の高さが明らかです。
 だから他宗を破折しても、修羅道に堕ちません。

 『常のごときんば氏神に向いて大瞋恚を生ぜん者は今生には身をほろぼし後世には悪道に堕つべし然りと雖も尼倶律陀長者氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し賢子をまうけ給いぬ、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり。』
 (諌暁八幡抄)

 最初の常のごときが、ネットで他人を攻めて破邪顕正だと勘違いしている人たち。
 大聖人は当然後者です。

 人間革命出来ない方々が、他宗を責めてもダメですね。

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ