2014/11/23

男子部大会会長講演批判各論  
のび太氏のコメントを拝見するまで、地震のことはまったく知らなかった。それで大急ぎでニュースのサイトを開くと、それがけっこう大きな地震だったことがわかった。家屋の倒壊している写真が載っていたからだ。

へな氏のご指摘はまさにそのとおりであって、今回なぜにわざわざ結集人数を公表したのか知らないけれども、顕正会の実態を如実に物語る意味において貴重だった。これをもって男子部の結集状況も類推することが可能となる。すなわち男子部大会には五万人が集まったとされているけれども、その直後のビデオ放映にはそれ以下の人数しか集まっていないと考えられるのだ。

大会とビデオ放映では条件が異なる。

大会は同じ場所・同じ時刻に五万人が集まる。いわゆる一堂に会するということだ。一方のビデオ放映は全国各地に会場があって、しかも日時に幅がある。どちらが厳しい条件かは明白だろう。同一会場・同一時刻のほうだ。
であるならば、ビデオ放映には五万人以上の参加があってしかるべきで、その逆はひじょうに考え難いことである。ところが女子部の結集が示すごとく、大会よりもビデオ放映のほうが人数が少ないのだ。

この理由は何だろうか?

すでにお気づきのことと思うが、昨年であれば女子部大会の三万五千人結集はウソッパチであり、本年もまた男子部大会の五万人結集はウソということなのだ。これ以外に合理的な理由を説明できる人がおられれば、ぜひともご披露願いたいものである。

さて、ユタ氏のコメントであるが、これはひじょうに重要である。

わたくしはわりと教義に関心があって、拙ブログにおいては教学関連のことをけっこう取り上げているつもりである。類は友を呼ぶ、という。それがためか、コメント投稿者においても教学関連のことを書く人が多い。
ここでひじょうに厄介なことが起きる。これは日蓮系の宿命なのかもしれないが、いわば正統派争いみたいなことが起きて、議論が紛糾することになるのだ。マレには他山・他門の人が参戦することもある。キリスト教系の人が来たこともあるくらいだ。
別にわたくし自身は勝ち負けを争っているつもりはないので、それはそれで一向に構わないのだが、しかし、少々やり難いのも事実である。教学を論ずるに当たって上下関係はない。ゆえに遠慮会釈は必要ない。そのような理由でコメント欄は全面的に門戸開放しているけれども、実際には戦々恐々という心理もないわけではないのだ。

そこで正直な感想を書くと、このところ所属だとか過去の経歴だとかは不明ながらも教学に堪能な人がお出ましになって、けっこう苦戦を強いられる状況が続いていた。前回の拙稿はいわばその対応策の意味で書いたのだった。信徒は己の信仰がどのようなものかを必ずしも充分に理解しているわけではない、日蓮正宗系といえども必ずしも教学に関心のある人ばかりではない、といった具合である。

ユタ氏はそれを身をもって証明してくれたわけである。

それにしても氏は不思議な人物である。かれこれ何年になるだろうか、かなり長いお付き合いであるが、これまで一度として教学関連のことを書いたことがない。いや、一度としてというのは誇張が過ぎるかもしれない。もしかしたら何かしら書いておられるのかもしれないが、それがほとんど印象に残らないくらい教学ネタには食いつかない、それがユタ氏なのである。

 顕正会に居続けた理由もそうですが、人との輪を大事にしたいからですよ。
 そういった人間にとって、実は宗教はどこでもいいのです。
 基本、どこでも人の輪を大切にするのが宗教団体ですからね。
 たまたまそれが今、日蓮正宗法華講にいるだけですよ。


コメントの一部を紹介させていただいたわけだが、顕正会関係者にしても法華講の関係者にしても、もしかしたらガッカリしたかもしれない。なぜならば正義を主張するのが正宗系だからである。顕正会が正しいと確信したからでもなければ、日蓮正宗が正しいと確信したからでもない、では何なのかと言えば、人との輪を大事にしたいからなのだそうである。

ある意味、わたくしにとってはありがたい存在である。

というのは、拙ブログには法華講関係者も出入りしているが、たいていがケンカ別れになっている。なぜならば、わたくしは正宗批判も辞さない。正宗シンパを謳いつつも、批判的なことも書く。ことに戒壇論に限っては厳しい。全体的に見れば顕正会批判のほうが圧倒的に多いわけだが、戒壇論に関しては正宗側に相当の問題があると考えているわけだ。

すると、マレには反論してくる法華講員がいて、そういう人はたいていが元顕正会員であり、顕正会を全否定したいという思いが強いのだろう、その点がわたくしとは相容れないのである。それでケンカ別れになってしまうというパターンなのだ。

この点、ユタ氏はまったく当てはまらない。ネット上での付き合いに過ぎないけれども、わたくしとの関係を大事にしたいということなのだろう。実にありがたい存在である。

さて、今日は他に書こうと思って用意していたことがある。男子部大会の会長講演を批判するものである。以前のものを総論とすれば、今回は各論に位置付けられると思う。

まず、顕正新聞第1324号二面の記事から紹介する。

 中国は建国以来、「二〇二〇年代にアジアから米国勢力を駆逐し、大中華帝国を築いてアジアに君臨する」との国家目標を掲げ・・・

いつものごとく、各地の集会において会長講演が反復される。これは第十一婦人部長の登壇記事であるが、浅井先生の男子部大会での発言をご覧のごとく書いているわけである。

おいおい、それは違うだろう。

中国の建国は一九四九年とされている。上掲の言い方だと、あたかもその時から二〇二〇年代を見据えていたかのごとく読めてしまうが、そんなことはあるまいと思う。そんな国家目標の立て方があるわけがない。凡夫は未来のことがわからないのである。十年先のことだってわからない。いや、もちろん、十年先二十年先のことを目標として掲げることはあるし、五十年先百年先の目標だってないわけではないだろう。だが、しかし、上掲はいかがなものかと思う。

他の幹部も似たような書き方をしているが、当の会長講演を読むと必ずしもそうは書かれていない。この意味では幹部たちが勝手に誤読していることになるだろう。しかし、これを顕正新聞にそのまま載せるということは、ある意味ではこれが正しいと言っていることにもなるわけで、それを踏まえて会長講演を読み直すと、なるほど、そう読めなくもないのだ。つまりは会長講演に問題があることになる。

これ以上は煩瑣になるので掲げないが、建国以来云々が会長講演の文脈であるならば、それはさすがに違うだろうというのがわたくしの意見である。

さて、会長講演にはこの直前にも問題がある。たまたま第十一婦人部長の記事の右隣に関連する文章があるので紹介しよう。

 ことに、御在世における大蒙古国の版図をなぞるような、現中国の領土拡大の規模には圧倒され・・・

第十六男子部長の登壇だが、この文章そのものは特に問題ないだろう。では、会長講演はどうかであるが、まずは読者のご判断を仰ぎたいと思う。

 大聖人御在世には大蒙古が、そしていま広布前夜には中国が、ともに日本の隣国に出現したのも不思議ですね。そして両国はともに類まれな侵略性の強い国でもある。

実はこのくだりもそれほど問題を感じない。正しいか間違っているかは別にして、いわば浅井先生の認識を示しているわけである。蒙古と中国の共通性についてである。

では、何が問題なのかであるが、それはまさに「版図」である。

大蒙古の最大版図

中国の版図


図面をお見せできなくて恐縮であるが、顕正新聞第1321号四面には二つの地図が上下に並べられていて、その地図の意味するところが上掲である。わたくしはこれをインチキだと思う。

図面のサイズは、ほぼ同じである。しかし、縮尺が異なるのだ。

縮尺を謳っていればまだしも、それがどこにもない。すると、ウッカリすれば同じ縮尺の図面であると勘違いする人がいるかもしれない。同じ縮尺で同じサイズの図面を並べるのは、両国の共通性を客観的に示す意味で正当である。しかし、サイズが同じでありながら、こっそりと縮尺を変えるのは、不当である。インチキも甚だしい。

つくづく図面を紹介できないことが悔やまれるが、もし同一縮尺だったらどのような印象を受けるかを書いておくと、大蒙古の規模に比べれば中国はまだまだ小さい、ということになる。これを逆に言うと、中国を大きく見せたいということだろう。中国脅威論を主張する顕正会としては当然だかもしれない。

結論として、掲載図面はきわめて恣意的ないし意図的、さらに言うならば詐術的ということになる。

己の主張をよりいっそう強調するためにさまざまの工夫を凝らすのはけっこうなことだが、インチキをしちゃいかん、ズルをしちゃいかん、ということである。

2014/12/8  12:57

投稿者:あんたもわかっとらんね
日達上人は浅井に向かって、国立戒壇が正しいと心の中で思うのはあなたの自由だが、人に強制するのはよくないし、やってはいけないと仰せられたそうだ。浅井はおそらくこの日達上人の言葉を逆手にとって本意云々といったのではなかろうか。頑迷でわがままな浅井が謗法に堕することなきよう、日達上人が仰せられたお優しい言葉を踏みにじったのである。日達上人も浅井が心の師とはなれないことを見越して悩まれたのだろうと拝する。あわれな男だ、浅井は。心の師となれぬものはすべて同じ。浅井も池田も、それ以下も。

2014/12/8  12:52

投稿者:あんたもわかっとらんね
先日幼子が親から食を与えられず亡くなった記事を読んだ。同年齢の標準体重の半分しかなかったという。その子の体内からはロウが検出され、おそらくは空腹を満たすために口にしたのであろうと書かれており、落涙した。空腹に苛まれ、飢えに植えたとき、そのような行動に出たのであろう。そのような心境で御本尊様に向かうべきことを大聖人は飢えて食を願うがごとくと仰せられたのではないのだろうか。自分の成仏を心から願ったとき、他者のことなどどうでもよくなる。大聖人は我が方の人は少々のことは見ず聞かずして睦をもてと仰せであるが、謗法以外はすべて少々のことであると知らなければならないだろう。それができなかったのが浅井の愚かしさといえる。

2014/12/8  12:46

投稿者:あんたもわかっとらんね
宗教ってのは心の問題であって正邪など関係ないのだよ。自分の心がそれを信じるか信じないかがすべてなんだよ。だから、正邪なんていうことはどうでもいい。かくいうあんたがそうやろ。理屈より心の赴くままが正しいんだ。ただし、それは日蓮大聖人の信仰ではない。成仏もできない。しかし、ゆえに大聖人は心の師となれと仰せられ、正理をさきとすべしと仰せられている。それが実行できるのはほんのわずか、人と生まれるのが爪上の土、人の上に生まれて正法に遇うのが爪の上、さらには正法に遇って成仏できるのも爪上の土。ここでようやく魚の子多くとも魚になるは少なしの意がわかる。しかし、それはごくわずかな人。純真一実に正法の修行をして成仏するのはほんのわずかにすぎない。ここに集う人は爪上か、踏みつぶされる土か。おのずとわかろう。心にしたがうのが宗教であるが、それでは成仏はできないのだ。わき目もふらず御本尊だけを見つめて他者との比較もせず、ただひたすら自分の成仏を願う信仰ができていれば、他人がどうとか、輪がどうとか、どうでもいい。日蓮正宗の信仰は御本尊様に向かう自分と御本尊様の約束の上に成り立っている。受戒の時、誰と約束をしたのだ。御住職か、友人か。そうではない、御本尊様と自分との約束であろう。修行を行えば必ず成仏できるという約束を仏様は破らない。何かと理由をつけては、成仏を願って修行をしますという約束をたやすく破るのが凡夫。破ってしまえば池田浅井と同じ穴のムジナになるだけだ。心に従う姿がそこにある。それは間違った信仰姿勢なのだ。

2014/11/25  11:41

投稿者:ユタ
こんにちは。

沖浦さん、御無事で何よりです。
1日も早い現地の皆さんの復興と、大糸線の復旧・運転再開をお祈り致します。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2014/11/25  7:46

投稿者:沖浦克治
 ユタさん、おはようございます。

 地震お見舞いを沢山の方々から、色々な方法でいただきました。

 法華講の皆様からも、お見舞いをいただいております。
 
 宗派の事なりを乗り越え、友情を交わせる。

 人間としての、大きな功徳だと感謝いたします。

2014/11/25  6:58

投稿者:ディープスロート
すみません。
「法門折伏・該当折伏一辺倒」→「訪問折伏・街頭折伏一辺倒」の打ち間違いがありました。

2014/11/25  6:52

投稿者:ディープスロート
顕正会出身者の方には思い当る節ないですか?
そうです。「宗門」と「顕正会」は対立反発しながらも、教団トップの「○●万達成」の権勢欲を満たすだけの為に「折伏」の布教方法もそっくりになっているのが実態です。
「総本山からうちのお寺の新入信者名簿を調べられて、実態調査をされたら一発アウトだ」と所属寺院の法華講幹部は語ってます。
先日は「お目通り登山」をして「○○地方部の先陣を切って、●●寺が『請願』を達成した事は、○○地方部全体に弾みがつく」と御法主上人からの御指南を頂いた云々と僧俗共に喜んでましたが、実態はこの有様です。
「今年は請願が達成できたから、まだ達成が出来てない他支部の応援に行って、見ず知らずの団地アパート廻りをして訪問折伏しよう。来年は更にうちの支部の団地アパート廻りをして訪問折伏しよう」と御住職や法華講幹部は云ってますが、寺院の世帯数は増えても御講の参詣者や日々勤行をしている人は全く増えずに、「このままでは今年の請願が達成できても、来年の登山のノルマがこなせなくなる」というお笑い草になってます。
厳虎さん。「観念論」だけでなく、「宗門復帰」をする際には、こういう「現実」があることも知ってください。

2014/11/25  6:50

投稿者:ディープスロート
厳虎さん、はじめまして。
僕は妙信講時代に入信した後、「顕正会」として宗教法人化した時に「ああ、もうこの教団は終わった」と見切りをつけて、宗門のある寺院の信徒になりました。
その当時から浅井さんを「先生」と呼ぶ気は全くなく、「終末思想的・狂信的なカルト教団」の体質が嫌でなおかつ、一人ひとりの会員の苦悩に全く目を向ける気もないのに、自己顕示的な「○●万達成」の権勢欲のために末端の会員を走らせて、内外から顰蹙をかっている様子を残念に思ってました。
厳虎さんはこのサイトでも「宗門復帰」に言及されてますが、今の宗門はこのような「顕正会・妙観講スタイル」に感化されて、また末寺の住職が「請願という名のノルマ」が出せなければ「クビ」になることを恐れて「法門折伏・該当折伏一辺倒」になっています。
元元、「請願という名の営業ノルマ」に全然届かなかった僕の所属寺院の御住職は藁にもすがる思いで「妙観講方式」→「顕正会方式の折伏とそっくり」を採用して、「顕正会・妙観講スタイル」の「街頭折伏・訪問折伏」を信者にやらせて(御住職は寺の中にいるだけ)本年は早い段階で「請願という名の営業ノルマ」を達成しました。
ですがその実態は「独居老人・生活保護・在留外国人」の新入信者ばかりで、日々の勤行・唱題・寺院参詣はおろか宗教の正邪もわからなければ謗法払いもやってない状態で、酷い場合は「入信が先、発心は後」と云いながら、御授戒もやらずに寺院にも参詣した事が無い人がわけもわかってないのに用紙にサインをするだけで「入信」とカウントしています。

2014/11/24  14:09

投稿者:関の山
巌虎さん、ありがとうございます。

>つまり、大石寺教学(ないし創価学会教学)の間違いに気づいたからとの動機で移籍するなんて人は、ごく少数なのではないかと思うのだ。

保田の信徒は墓檀家と仰せの通りに元学会員や元正宗系の方で占められているのでしょう。
あの松本勝弥氏が「板まんだら」裁判を起こした当時は、確かに大石寺の板本尊に疑義を持って保田や西山や北山に入って来た方が多かったようです。
しかし、保田に集まったのは松本派(万年講)だけでなく創対蓮(左翼、共産党色が強い)や玉井派や中杉派など教義主張が違う方々も多かったようですね。
あの浅井克衛氏と軋轢した妙観講關係者の羽柴瑞穂氏(元学会文芸部)は動画で浅井克衛氏の「あの万年救護の松本勝弥と関係ある羽柴」と言われたように宗門から保田に移転したようですね。
あの樋田氏派からも保田に流れたとか。
このように保田に集まった方々は約5千人に登ったというので、ある意味ブランド力?があるのでしょう。スゴイですね。

>日蓮正宗(創価学会)から他山・他門に移籍するのはまだしも、神道系の新興宗教に移籍するというのは考え難いことだ。しかし、現実にこうした事例が存在するのだから、仕方がない。

一瞬、幻の浮世絵師?のペンネームのF教祖さんを思いましたが、時代が違いますね。
多分、手かざし系教団ですね。

学会から他宗に移転、一時は理事長まで上り詰めたのは
元KM党市議のO氏が移転したKの科学です。
山友氏も高橋信次のGLAの分裂教団の国際正法協会に関係してた、との噂でした。

信奉する神仏教義思想が変わった方や、他宗内での幹部候補になるため、云わば「一旗上げる」ための入信もいるのでしょうね。

因みに巌虎さんは以前、あの犀角独歩系の掲示板に参加されていましたよね? 別に批判ではないのですが、何故に板本尊偽作論、日興血脈疑義論、日蓮本仏否定論の犀角独歩系の掲示板に参加されていたのか? 何か教義思想など勉強になりましたか?
よかったら教えて下さい。

2014/11/23  21:29

投稿者:ユタ
 連投、申し訳ありません。
 私自身がほぼ無教学なので、教学の話には乗れないだ
けのことです。
 だから沖浦さんがよく御書を明示して下さいますが、
はっきり言ってサッパリです。
 もっと無教学者にも分かるように説明して頂きたいも
のですね。

 私は先述した通り、人の輪を大事にしますので、それ
が崩壊すれば、さっさと辞める主義です。
 宗教も仕事もね。
 1度脱講したのもそれが理由ですし、転職を何回かし
ていますが、それもまた人間関係の崩壊が理由です。
 幸い、今のところ落ち着いてはいますがね。

 ま、やはり少しは学習しませんと。
 色々な意味でね。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

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