2015/1/23

本年最初の特別企画  
前回、閲覧諸氏の見解を伺ったところ、約一名からの返信のみで、あとはナシのツブテだった。単に相手にしてもらえないだけなのか、それとも難し過ぎて誰も答えられないのか、微妙なところではある。

それにしても貴重なリンクのご紹介をたまわった。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%A5%8F%E7%8A%B6

わたくしは御書は読むけれども解説書は読まない。こう書けば格好つけているように思うかもしれないが、そうではない。なぜならば、他の古文書にはまったくの無知だからである。つまり、御書しか読まない。ゆえに、わかっていないことがたくさんある。

先般引用した念仏者追放宣旨御教書事の引用文だが、その出典と思しき資料が判明した。それが上掲なのである。

興福寺奏状 第五
 第五に霊神を背く失。
念仏の輩、永く神明に別る、権化実類を論ぜず、宗廟大社を憚らず。もし神明を恃めば、必ず魔界に堕つと云云。実類の鬼神においては、置いて論ぜず。権化の垂迹に至っては、既に是れ大聖なり。上代の高僧皆以て帰敬す。かの伝教、宇佐宮に参じ、春日社に参じて、おのおの奇特の瑞相あり。智証、熊野山に詣(けい)し、新羅神を請じて、深く門葉の繁昌を祈る。行教和尚の袈裟の上に、三尊影を宿し、弘法大師の画図の中に、八幡質(すがた)を顕はす。是れ皆法然に及ばざるの人か、魔界に堕つべきの僧か。なかんずく、行教和尚、大安寺に帰りて、二階の楼を造りて、上階に八幡の御体を安じ、下階に一切経論を持す。神明もし拝するに足らざれば、如何ぞ聖体を法門の上に安ぜんや。末世の沙門、なほ君臣を敬す、況んや霊神においてをや。此のごときの麁言、尤も停廃せらるべし。


リンク先から拝借してきたものである。これが平成新編所収の「一 霊神を蔑如する事」の原典らしいのだ。しかし、すでに表題からして違っているし、内容的にもかなりの相違がある。煩瑣になるので御書の引用は控えるが、その相違の意味は何だろうと考えるに、いわゆる転写ないし孫引きによるものではないかと想像する。パソコンならばコピペで済む。逆に現代においてはそれが問題になったりもするわけだが、ともかくコピペならば誤写はあり得ない。しかし、当時はパソコンもなければコピー機もない。ゆえに手書きで写しているうちに、徐々に内容が変わってきてしまうようなことがあったのだろう。

ちなみに当時もいわゆる形木による印刷はあった。しかし、印板を作るまでの労力と時間を考えたら、筆写のほうが遥かに効率的だった。

それはさておき、話を少し戻そう。

念仏の輩、永く神明に別る・・・

専修の輩永く神明を別へず・・・

煩瑣になるので御書の引用は見送ったけれども、せっかくなので冒頭の部分だけ紹介しておこう。上段が原典と思しきもので、下段が御書の該当部分である。念仏と専修は同じ意味とは言え、筆写の段階でこんな間違いをするとはなかなか考えづらいところである。また、「別る」と「別へず」はおそらく訳者ないし編者のセンスの問題だろう。原文は漢文体なのだと思われる。

面倒臭がりのわたくしはやらないけれども、こうした細かい相違をチェックしていくことで、何か新しい発見があるかもしれない。当然、このような方法論は、真面目に研究している人たちにとっては先刻承知のことなのだろう。ただし、実行している人がいるかどうかは、微妙なところであるが・・・

さて、わたくしは冒頭で約一名云々と書いた。約二名と書いてもよかった。ようするに沖浦氏を入れるか入れないかは微妙なところなので、そのようなアイマイな書き方をしたわけである。

ともかく沖浦氏の妄執を打ち破る作業は困難を極める。そこで特別企画を考えた。

「神札を焼くような信心はごめんですよ」
 という人がいる。


わたくしの手元には折伏教典がある。改訂二十八版だ。昭和四十三年という微妙な年数が気になるところで、国立戒壇の問題と絡めて論じても面白いところだが、今回は別の話題である。

上掲は「神の種類と批判」と題する項目の冒頭のくだりである。まさに語るに落ちるという表現がピッタリの一節だかもしれない。つまり、創価学会は神札を焼くような信心だったわけだ。

また、後半の各論には次のような項目が並んでいる。

先祖からの宗教を捨てるわけ

神だなやお札を取るわけ


いわゆる謗法払いである。そして前掲にもあるように、神札を焼いて相手から反感を買うことが全国で起こっていたのだろう。折伏教典ではそのことへの理論武装を施しているわけだ。前掲の三ページほど後に出てくる一節を紹介しておこう。

・・・神社から買ってきた神札のなかには神はおらず、悪鬼のすみ家と化している。その理由については「立正安国論」に、邪教がはびこり正法護持の者が少なくなれば、諸天善神がその国を去り、悪鬼がはいる原理が詳しく述べられている。

また、別項には五老僧についての批判も書かれているわけだが、その中に次のような一節がある。

・・・さらに神社参詣等を許して世間に迎合し、すべてが柔らかになって、先師日蓮大聖人の末法のご本仏としての教風はすたれるにいたった。

これは実に意味明瞭である。ようするに神社参詣禁止が大聖人の教風だということである。

他のページにも同様の記述がある。

・・・本尊問題では大聖人の御真筆の御本尊を軽視して釈迦の仏像を立てたり、戒律の問題、神社参拝の問題・・・

戒律の問題というのがイマイチよくわからないので、ご存知の人がいらっしゃればよろしくご教示願いたい。

それはさておき、数行後には身延の地頭への批判もある。

神社に参拝して立正安国論の正意を破り・・・

もはやこれまで、である。

少なくともこれらは厳然たる事実であり、過去にこうした発言をし、かつ実行していたことは否定できないだろう。

では、今はどうなのか、である。

もし違うことを教えているのであれば、その総括はできているのか、ようするに教義を改変することの釈明なり何なりをしたのかどうかが問われるのだ。

最後にオマケである。

 日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることに間違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人のご遺志を継ぎ、一切民衆を救わんとするものである。したがってこれは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である。

誰が言っているかと思えば、驚くなかれ、創価学会が言っているのである。これは類文繁多にして九牛の一毛に過ぎないが、時に当たってきわめて重要な一文なので、挙げさせていただいた次第である。

2015/1/27  7:48

投稿者:ユタ
おはようございます。
まあ、確かに凄いことなんだろうなというのは頭では分かりますよ。
でもやっぱり分からないと、そこ止まりなんですね。
私の心が冷たいのかな。
ただ、一家団欒の写真は素直に微笑ましいと思いましたよ。
独居が更に増える中(私もその片棒を担ぐ中)、貴重な光景となるでしょう。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2015/1/27  6:29

投稿者:沖浦克治
 ユタさん、

 貴方が何宗の方でも、普通の感覚をお持ちなら、この写真から幸福が伝わるでしょう。
 
 功徳とはそういうものなのです。

  https://www.facebook.com/photo.php?fbid=535475109927325&set=a.459663217508515.1073741831.100003945214954&type=1&theater¬if_t=like

2015/1/27  6:22

投稿者:沖浦克治
 んっ?さん、おはようございます。

>で,八幡は蓮祖に叱られて,頭を掻きながら社から出てきたのかね?ww

 私は御本尊の前に端座し、唱題する時、仏様の前に座っている気持ちで致します。

 貴方は違うのですか?

 でもね、一度として、御本尊から大聖人が出て来られて、私に声をかけられたことはございません。

 神社に貴方が行っても悪鬼がいるだけ。

 私が行きますと、諸天が宿る。

 依正不二なんです。

 頑張って、御書学びなさい。
 
 それとね、功徳書ける信心しましょう。

2015/1/27  6:18

投稿者:沖浦克治
 ユタさん、おはようございます。

 スキーもパワーリフティングもご存じない人でも、パワーリフティングで世界記録を7つ出して、初代王者になったことが功徳だとは理解出来ますよ。

 他人の功徳を素直に喜ぶことは、仏法者の基本です。

 あれは正信会だから、顕彰会だから、法華講だから、ああいうのは功徳じゃない。

 そういう偏頗な境涯はダメですね。
 御書にあります。

 『涅槃経に云く「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。』
 (御義口伝巻下)

 一切衆生のあらゆる苦しみは、大聖人の苦しみなんです。
 当然、一切衆生の功徳を受ける姿は、大聖人の喜びです。

 仏法の基本です。

 私は他宗の方が、功徳を出させると心から嬉しいです。

 大聖人門下ですからね。

2015/1/26  21:44

投稿者:ユタ
 ……で、そろそろ沖浦さんが、

「怨嫉謗法はやめて、功徳を語りましょう」

 と話の流れを変えて、スキーもパワーリフティングも
興味無い人には何がどう凄いのか分からない功徳を語っ
て、

「功徳〜〜〜〜〜〜!!」

 と締め、んっ?さんが一言何か仰ったところで、厳虎
さんが記事を更新される、と……。

http://blog.goo.ne.jp/localfor

2015/1/26  21:21

投稿者:んっ?
初めに云っておく。 
相手の書き込みをよく読んで何を云わんとしてるのかを
理解した上で自説を書きなさい。

其れにしても,オウムの様に同じことばかり書いて飽きないか?

>大聖人は神社へ積極的に参拝せよとは言われておられません。
>当然ですね。

其のとおり! で,如何「当然」なのかね?ww
蓮祖は「神」を如何説明されたか,立正安国論には
如何認められてるのか,また,立正安国論の草案とされる
巌虎さんの挙げられた御文で,君の大好きな念仏宗は
神社参拝を如何位置づけているのか,蓮祖は其の念仏宗を
破折するに当たって如何認めておられるのか等々,
今迄,私と巌虎さんが何を話していたのか理解出来ないだろう?

此のスレで私は「対告衆の理解度」に応じて蓮祖はお手紙を
認めておられるのであるから,一見矛盾していると見えるものもあると書いたはず。

要するに君の書き込みは自説を補強するための「御書のパッチワーク」に過ぎない。

で,八幡は蓮祖に叱られて,頭を掻きながら社から出てきたのかね?ww

自分の外に人格を持った「神」が実在するという考えを
「外道」と云うんだよ? 覚えておくように!

今度八幡と一緒に写メ撮ってアップしてくれww
馬鹿馬鹿しい・・・。 

2015/1/26  20:51

投稿者:沖浦克治
 んっ?さん

>で,神社に神は居るのかね? 

 御書全くダメですね。

 『八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か和気清丸が頚を刎られんとせし時は長一丈の月と顕われさせ給い、伝教大師の法華経をかうぜさせ給いし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給いき、今日蓮は日本第一の法華経の行者なり其の上身に一分のあやまちなし、日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり、又大蒙古国よりこの国をせむるならば天照太神正八幡とても安穏におはすべきか、其の上釈迦仏法華経を説き給いしかば多宝仏十万の諸仏菩薩あつまりて日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺漢土日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各各法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば一一に御誓状を立てられしぞかし、さるにては日蓮が申すまでもなしいそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきにいかに此の処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す、さて最後には日蓮今夜頚切られて霊山浄土へまいりてあらん時はまづ天照太神正八幡こそ起請を用いぬかみにて候いけれとさしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞいたしとおぼさばいそぎいそぎ御計らいあるべしとて又馬にのりぬ。』
 (種種御振舞御書)

 神社と言うものは、神の住む所とされています。
 ですので、正法を行じる人がそこ祈る時、その神社には諸天が宿るとされます。

 貴方が祈っても悪鬼の役目しかしませんが、私が祈ると諸天の役割をします。

 依正不二と言います。

 今後はそう言う道理を弁えなさい。

2015/1/26  17:48

投稿者:沖浦克治
 んっ?さん、今晩は。

 大聖人が神社へ参拝せよと書いているのか?

 そういう愚かなご質問は恥でしかありませんよ。

 大聖人は神社へ積極的に参拝せよとは言われておられません。
 当然ですね。
 では大聖人は門下や信徒の神社参拝をどう指導されておられたのか?

 『 又うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかどもうぢがみへまいりてあるついでと候しかばけさんに入るならば定めてつみふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり所従のついでに主君へのけさんは世間にもをそれ候、其の上尼の御身になり給いてはまづ仏をさきとすべし、』
 (三沢抄)

 優先順位を間違わないら、参拝は許すと言うお立場です。
 御書に明確です。

 当時の武士は、代参と言って、主君の代理で神社へ参詣することも職務のうちです。
 ですので、神社参拝を禁じるなら、教団そのものが成り立ちません。
 
 有師ご存知ですか?
 彼は、化義抄で、勉学のために他宗の寺で過ごす時には、その宗派の本尊へ、その宗派の経を唱えてかまわないと書いています。

 興師はこの点が全くダメでした。
 優れた仏法指導者となれなかったゆえんです。

 覚えておきましょうね。

2015/1/26  14:56

投稿者:んっ?
>色々とお書きですが、興師が唯一の跡取りの証拠には全くなりません。

話を逸らそうと必死だね?ww

私は「色々」なぞ書いてない!
唯一「十界互具・一念三千」について書いているのみ。

で,神社に神は居るのかね? 
大聖人様は参拝せよと仰せなのかね?

2015/1/26  7:17

投稿者:沖浦克治
 愚かな論議に関わってもアホらしいので、創価の信心の功徳を書きますね。

 先日、友人がお子様を伴ってやって来ました。

 2日間滑って帰りました。

 15年前最初にあった時は独身でしたが、今は東京のど真ん中に家を建て、世界をまたにかけて仕事する人。

 それが、子供連れてやって来て、成功の人生の姿。

 嬉しいです。

 本当に良い方々が集まる家になりました。

 功徳です!!!

 『三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり、』
 (三大秘法禀承事)

 創価の家に、世間の一流が参集する。
 この御文の一つの読み方です。
 若いころ、池田先生に教わりました。

 嬉しいです。

 功徳〜〜〜!!

 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=535475109927325&set=a.459663217508515.1073741831.100003945214954&type=1&theater¬if_t=like

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