2015/2/15

顕正新聞第1331号精読  
不勉強のわたくしが言うのもナンであるが、蝸牛氏の反論は的確のようである。沖浦氏を見事に一刀両断している。

そもそも沖浦氏が拙ブログのコメント欄で日寛上人を批判するのは、ややオカドチガイのようなところがある。なぜならば、わたくしは御書こそ引用するものの、歴代上人の御指南は滅多に引用しない。もちろん日寛上人も例外ではない。理由は冒頭に述べたごとく、不勉強だからである。知ったかぶりをしても仕方がない。正直に知らないことは知らないと言ったほうがいい。ゆえに歴代上人の御指南はほとんど引用しない。その意味で沖浦氏のコメントはオカドチガイも甚だしい。わたくしが日寛上人の御指南を連発して、それで沖浦氏をねじ伏せようとしているのならば、話はわかる。しかし、事実はまったく違うのだ。

もっとも、沖浦氏も沖浦氏だが、わたくしもわたくしである。ご存知の人も多いかと思うが、顕正会では日寛上人を物凄く尊んでいる。御書の発刊は実現していないけれども、なぜか六巻抄はある。そう、顕正会版の六巻抄が存在するのだ。しかし、わたくしはそれを持っていない。また、ネット上にも六巻抄はあるわけだが、それすら読んでいない。

そんなテイタラクなものだから、沖浦氏に日寛上人のことをあれこれ言われても、何も言い返せない。そこに蝸牛氏からの切れ味鋭いコメントが寄せられたわけである。素晴らしいの一語だ。

さて、今日は顕正新聞第1331号を拾い読みしてみよう。

当該号は元旦勤行を報ずる以外、登壇記事ばかりで詰まらないと以前に書いた。しかし、それは編集部の手抜きを批判する意味であって、記事そのものに罪はない。つまり、一つひとつの記事にはそれぞれのドラマが詰まっていて、そのまま読み捨てるにはモッタイナイような記事も少なくないのだ。

まずは総合婦人部長の記事から紹介しよう。

 「御遺命を堅持あそばす貫首上人が出現されれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である」
 と裂帛のご気魄で叫ばれ
 「この深義は、池田大作一党などには分かるはずもない」
 と一刀両断され、先生がここで言葉を止められました・・・


これは創価学会の原田会長が述べた「永遠の法主不在・血脈の断絶」に対する反論のくだりであるが、ひじょうに悩ましい。

どうでもいいことから書くと、裂帛はほぼ顕正会用語と言っても差し支えないだろう。わたくしの知る限りでは、一般的にはほとんど使われない表現である。それがなぜか顕正会の中では多用される言葉なのだ。とりわけ浅井先生の発言に対して、この裂帛が高頻度で使われている。

さて、何が悩ましいかであるが、ようするに上掲の発言は現宗門とも相容れないものであって、いわば顕正会独自の見解であることだ。後半のカギカッコだけを見れば、思いっきり宗門寄りの発言のように見える。しかし、前半に蘇る云々とある以上、今は断絶している状態なのだと言っているわけなのだろう。これを現宗門が認めるわけがない。

何とかならないものだろうか?

次に副総合婦人部長の記事を見てみよう。

・・・「広宣流布いよいよ近し」の大確信で国難二年を猛進し、「あと五年」の正念場を一点に見つめられる浅井先生に、・・・

出た、あと五年だ。

本人がそのつもりで書いたとは思えないけれども、うっかりすると広宣流布まであと五年であるかのように読めてしまう。

時の然らしめる凄さ

歓喜炸裂


あとは言葉を拾ってみたわけだが、なかなか凄い表現力である。

 由比ヶ浜さんは名前にコンプレックスがあったそうですが、「大聖人様が御成道を遂げられた凄い所です」と言うと・・・

これは婦人部早稲田支区班長の記事から拾った。竜の口と由比ヶ浜は別の場所ではなかったか?

三人の発達障害の子供たちを抱えながらも・・・

四人の自閉症の息子がいます。


前者は女子部第一区総班長の記事の中で紹介されている話で、後者は婦人部神奈川支区組長本人の話である。ウカツなことは言えないが、こういう人たちを救済するのが宗教の役目でもあるだろうから、顕正会は立派にその役目を果たしていると言えるかもしれない。

群馬の「自民教」とも言うべき体質は大へん根深い・・・

第十六婦人部長の記事から拾った。前掲の話と関連付けて書くならば、宗教と政治の共通点は弱者救済ということになるだろうか? 延いてはそれが王仏冥合の議論に結びつくのだと思うが、わたくしには荷が重い。かつての公明党は福祉の党をウリにしているようなところがあったけれども、はたして今の自公政権が弱者に優しい政治を目指しているかと言えば、どうも違うような気がする。その辺を現役の創価学会員がどのように感じているのか、気になるところではある。ともかく群馬は自民王国であり、登壇者の実感するところでは自民教なのだそうである。

それにしても次のくだりはひじょうに考えさせられる。

「安倍はもうだめだ、どこに投票すればいいのか教えてほしい、顕正会は初めて聞いた、どういう団体なんですか」

この若者の発言は重要である。どこに投票すればいいのか教えてほしいと。残念ながら顕正会はその答えを用意できない。たぶん五年後も同じだろう。

つまり、浅井先生は政治的発言を繰り返すけれども、今の制度の中で何をどのようにするのが最善であるかを提示できないでいるのだ。戒壇建立は宗教的発言である。それはそれでよいとしても、政治的発言の場合はそこに具体性が求められるのだ。くだんの若者はどの政党に投票すればいいのかを聞いている。しかし、顕正会にその答えはない。

次は男子部第十二隊長の活動報告である。

そして近き国家破産を思い、「今しかできない財のご奉公を」と、例年以上の思い込めて推進しております・・・

セロリ氏によれば、浅井先生は十一月度総幹部会になると決まって経済問題を話題にするという。国家破産だとかハイパーインフレだとか、そんなことを縷々述べるのである。これは翌十二月の広布御供養を前にしての巧妙なる作戦なのではないかとセロリ氏は睨んでいる。
ここにはもう一つの背景があって、もしかしたら宗門も創価学会も似たり寄ったりのことを言っているのかもしれないが、御供養はムダにはならない、真心の御供養は功徳となって必ず自分に返ってくる、という意味のことがクチコミで広く伝えられているのである。これは顕正会経験者ならば誰もが知っていることである。
つまり、浅井先生の経済事案への言及とクチコミ指導とを勘案するならば、セロリ氏の指摘もあながち荒唐無稽ではないことになりそうである。ましてや上掲の記事を読めば、なおさらその思いを強くするものである。

ただし、いちおう言っておかなければいけないだろう。浅井先生が国家破産のことを論ずるのは十一月に限ったことではない。調べたわけではないが、けっこうアトランダムに発言しているはずで、たぶん、年がら年中言っている、ノベツマクナシ言っている、というのが真相に近いだろう。

いずれにしても広布御供養をすれば経済的な御守護をいただけるという意味のことが言われているのは事実であり、そこに国家破産の話が出てくれば一種の投資みたいな感覚で今のうちにたくさん御供養しておこうという心理が働くのは理の当然であろう。

それはさておき、次のくだりが悩ましい。

・・・障害になる直属の上司は、他の営業所に明日から異動させる

登壇者は今の職場にいたら思う存分に顕正会の活動が出来ないことを悩みに思っており、社長に会社を辞める旨を伝えることにしたという。そして実際に面談したところ、なんと社長のほうからさまざまの好条件を提示してきたのだそうだ。その一つが上掲である。

しかし、これはいかがなものかと思う。職種にもよるだろうが、仕事における悩みの半分は人間関係である。半分と書いたが、もしかしたら大半かもしれない。それがこんな形でいとも簡単に解決されるはずがないし、そもそもこんなことが許されていいわけがない。世の中にはイヤな上司の下でひたすら耐えながら働いている人が無数にいるのだ。それがあたかも顕正会で信心すれば解決するかのような錯覚をおぼえさせる意味で、上掲はひじょうに問題だと思う。

女子部第147区長の記事も悩ましい。

信心の肚を決め薬を中止、鬱完治!
「冨士軍楽隊」講師の大任 果させて頂く

病院では解決しなかった疼痛も完治


この人は今の顕正会ではけっこう目立つ存在のはずである。しかも会社を経営する父や現職市議会議員の母を云々する記述を読めば、いいところのお嬢さんというイメージが強まる。それが鬱病に苦しんでいたとは意外であるが、問題は次のくだりである。

 その中、浅井理事長より、向精神薬の副作用について教えて頂く機会がありました。

これを機に薬をやめたという。結果的には鬱病が完治したのだから文句は言えないのかもしれないが、しかし、問題だろう。ようするに、城衛よ、オマエは医者か、ということだ。医者でもない人間が投薬について意見を言うのは問題である。もしそれで症状が悪化したらどうするのかである。そこを考えないといけないだろう。

卒業した中学校五十年分と高校二十年分の同窓会名簿を入手でき、片っ端から連絡を入れ折伏していくと・・・

このくだりは並の創価学会員が読めば驚くだろう。しかし、顕正会の活動会員にとってはわりと普通のことなのだ。

十一月には十日間の日程でネパールでの御奉公も叶い、現地で計百十七名の入信勤行の唱導を勤めさせて頂いた・・・

ともかく最近は海外折伏が流行っている。これは今後も注目していきたい。

池田大作専用の
  金張り浴槽!


最後に女子部第123区総班副長の体験発表から疑問に思ったところを紹介したい。上掲のようなアヤシゲな小見出しに続いて、次のような文章が綴られている。

 入信した折、学会の会館内を案内されましたが、ある部屋には大理石のタイルに金張りの浴槽があり、池田大作のためだけに作られたものと説明を受けました。

創価学会に入信した時のエピソードを語っているわけだが、はたして本当だろうかと疑問に思う。わたくしの感覚では、こういう場所は一般会員には見せないものである。ゆえに、いつだったか週刊誌にすっぱ抜かれる形で、この手の話題が出てきたのだと記憶している。まさか、そういうネタを拾ってきて登壇原稿を作っているとか?

さすがの顕正会もそんなバカなことはやらないと信じたいが・・・

2015/2/18  6:28

投稿者:沖浦克治
論点が複雑にされて焦点ぼかしの逃げがはじまっているので、そのごまかしを避けるため、整理しておきます。

 寛師は大宇宙の仏界(私共衆生己心の妙法と同じ)が迹。
 曼荼羅が本門だと言っています。

 習い損ないなんです。

 『第廿五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。』
 (御義口伝巻下)

 『我が身又三身即一の本覚の如来なり』
 (阿仏房御書)

 三学が三大秘法だと言われておられるでしょう。
 それは法華経の行者である、大聖人を始とする私ども人間の一身の当体だとあります。
 阿仏房には、その本体が阿仏房自身だと仰せです。

 三大秘法と言うのは、私共の命とその器である身体なんです。
 御書に明確です。

 その命の形を写しとったのが、大聖人の御本尊。
 写したものですから、迹です。
 本体は私どもの命。

 鏡に富士山写るのを見ても富士山は楽しめますね。
 でも、鏡が割れると富士山は見えません。
 山が無くなったのではなく、鏡が無くなったのです。

 御本尊は物ですから、何時かは消滅します。
 ですので、虚空不動定には成り得ません。
 本体の私どもの命である南無妙法蓮華経は、宇宙と共にあります。
 ですのでなくなりません。
 永遠不滅なんです。
 その命を大聖人は、

 『法華経の第七に云く「火も焼くこと能わず水も漂すこと能わず」等云云、』
 (南条平七郎殿御返事)

 命と言うものは、方便で死んだり生きたりしますが、本来は常に存在していて無くなりません。
 火で焼くことも、水に流すことも出来ない。
 大宇宙と共に常にある。

 法身〜南無妙法蓮華経〜虚空不動定〜本門の本尊
                         双方衆生己心の妙法
 報身〜南無妙法蓮華経〜虚空不動慧〜本門の題目

 応身〜南無妙法蓮華経の器である身体〜虚空不動戒〜本門の戒壇

 三身如来です。

 曼荼羅は迹、私共が本。

 大聖人仏法では、明確にこう説かれています。
 寛師はそれを否定し、曼荼羅を本にした。

 習い損ないなんですよ。

2015/2/17  6:06

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。

 少しわかりやすくしておきましょう。

 本尊に優劣があります。

 最も優れたものが、大聖人ご図顕の曼荼羅本尊。
 完全体です。
 これ以上のものはございません。
 
 何故なのか?

 この御本尊を拝むと、何時の日にか、自分が久遠からの本来の仏だと悟れます。

 他の宗派の本尊では、こういう事は起こりません。
 ぜいぜい、
 
 自分の汚れた命の中にも、仏の命もあるんだ。

 ここまでです。
 大聖人の御本尊は、

 なんだ、自分は久遠元初からの仏だったんだ。

 こういう悟りに最後には行きつきます。
 ですので、大聖人は、

 『五百品
     日本国一切衆生  題目御本尊  心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃
      貧人       見此珠    其心大歓喜
                       信心ノカタチ
 『此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。』
 (御義口伝巻下)

 と言われておられるのです。
 大聖人の御本尊を拝むと、何時の日にかその大歓喜が訪れます。
 体験しないとわかりません。

 私はそれを体験致しました。




2015/2/17  0:24

投稿者:んっ?
蝸牛さん,こんばんは!

「御本尊供養の御為に鵞目五貫白米一駄菓子其の数送り給び候い畢んぬ,
 抑此の御本尊は在世五十年の中には八年八年の間にも
 涌出品より属累品まで八品に顕れ給うなり,
 さて滅後には正法像法末法の中には正像二千年には
 いまだ本門の本尊と申す名だにもなし,
 何に況や顕れ給はんをや又顕すべき人なし,
 天台妙楽伝教等は内には鑒み給へども故こそあるらめ
 言には出だし給はず,
 彼の顔淵が聞きし事意にはさとるといへども言に顕していはざるが如し,
 然るに仏滅後二千年過ぎて末法の始の五百年に出現せさせ給ふべき由
 経文赫赫たり明明たり天台妙楽等の解釈分明なり。
 爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん
 竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を
 末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり,
 是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり,
 されば首題の五字は中央にかかり四大天王は宝塔の四方に坐し
 釈迦多宝本化の四菩薩肩を並べ普賢文殊等舎利弗目連等坐を屈し
 日天月天第六天の魔王竜王阿修羅其の外不動愛染は南北の二方に陣を取り
 悪逆の達多愚癡の竜女一座をはり
 三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神十羅刹女等
 加之日本国の守護神たる天照太神八幡大菩薩天神七代地神五代の神神
 総じて大小の神祇等体の神つらなる其の余の用の神豈もるべきや,
 宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云,
 此等の仏菩薩大聖等総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず,
 此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて
 本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」(日女御前御返事)

彼は何時も通り,「本尊」と「曼荼羅」を違う物だと云い出しただけ。

しかし,彼が依文とする御文を前後を含めて挙げてみますと此の通りww

区別してませんね?ww

2015/2/16  23:16

投稿者:蝸牛
蝸牛です。漫荼羅と本門の本尊についてですが、

あと、「万年救護本尊」の讃文もいいですね。

「大覚世尊御入滅後、二千二百二十余年を経歴す、尓りと雖も月漢日三ヶ国之間、未だ此の
大本尊有さず、或は之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父、仏智を以て之を隠留し、末代
の為に之を残す、後五百歳之時、上行菩薩世に於て出現し、始めて之を弘宣す」

「此の大本尊」っていったい何を意味しているんでしょうか。沖浦克治さんがどうとらえて
いるのか私にはわかりませんが、普通に私は理解します。日蓮が初めて開顕した漫荼羅本尊
でしょう。

以下は沖浦克治さんに捧げたい言葉です。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめに
もしらざる法門なり」

「妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の
御師一切の女人の成仏の印文なり」

曼陀羅が御本尊ですね。こんなこと、今までたくさんの人が何回も言っていたような気がし
ます。沖浦克治さんはそれを全くしらぬふりをしていたのでしょうか。この漫荼羅を沖浦克
治さんは本門の本尊ではないとおっしゃる。

あと、沖浦克治さんとのやりとりについては、以下の沖浦克治さんの掲示板でもやっており
ます。

> http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9645/1395829838/

2015/2/16  23:15

投稿者:蝸牛
失礼とは存じながら、あんまりなので、またまた書き込みをさせていただきます。

沖浦克治さんは、本尊を媒介にした受持即観心、下種結縁という日蓮系仏教の基本が、よくわ
かってられないではないでしょうか。

私がどうこう言う必要はないです。日蓮の言葉を記します。

私にとっては、「観心本尊抄」や「法華取要抄」、「本尊問答抄」といった主要著作、および
漫荼羅そのものの内容から、日蓮にとって本尊とは何かが理解できるような気がします。

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏
・多宝仏。釈尊の脇士、上行等の四菩薩。文殊・弥勒等は、四菩薩の眷属として末座に居し、
迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地
の上に処し給う。迹仏・迹土を表する故なり。是くの如き本尊は、在世五十余年に之れ無し」

「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ可
し。月支・震旦に未だ此の本尊有さず。」

私は、以下の「観心本尊抄」の言葉も好きです。

「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に
懸けさしめ給う。四大菩薩の此の人を守護し給わんこと、太公・周公の文王を摂扶し、四皓が
恵帝に侍奉せしに異ならざる者なり。」

続きます。

2015/2/16  21:39

投稿者:沖浦克治
曼荼羅は本門の本尊ではなく、それを象ったものです。

 本門の本尊そのものではありません。
 寛師はそこに迷った。

 習い損ない故です。
 鏡の中の人間は人間を象ったものです。
 本物の人間ではありません。

 寛師は、鏡の中の人間が本当の人間だと勘違いしたのです。

 習い損ない故ですね。

2015/2/16  21:12

投稿者:んっ?
全く往生際の悪い奴ですね?ww

>創価学会では以上の様に読みます。

其れは君の「読み方」であって,学会の「拝し方」ではない!

>師匠が曼荼羅は物だと言われる。
>素直に信受するのが弟子。
>貴方は先ず、そこを弁えましょう。
>『宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、
> ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。
> 信心の二字の中にしか本尊はないんです。
> 本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、
> ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。』   

あのねえ,此処に先生の講義を挙げてあげたでしょう?
君は其れよりも,法華講の改竄文書を信じるのかね?

正しくは
「宗祖大聖人が、『此の御本尊も只信心の二字にをさまれり』と言われたのである。
 信心の二字の中にしか、本尊はないんです。
 本門戒壇、板御本尊。なんだかんだと。
 信心の中にしか本尊はないんです。
 あとは物です。一応の。機械です、幸福製造機だもの。
 信心、大聖人が仰せなんだもの。」

何度も云ってるでしょう? 
君の様に信じてなければタダの物。当たり前の御話だ。

都合が悪いと「寛師教学だ〜」だって?
「生死一大事血脈抄」は何時の御述作ですか?
其の時,戒壇様は存在しましたか?ww

良い加減にしなさい!     以上!

2015/2/16  18:08

投稿者:沖浦克治
『「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と
 我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
 妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり,
 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり』
 (生死一大事血脈抄)

 久遠実成の釈尊とは、久遠元初の南無妙法蓮華経如来の事です。
 皆成仏道の法華経とは、自行化他の南無妙法蓮華経。
 我ら衆生とは、大聖人を含む私共一切衆生の事です。

 寛師教学では、
 久遠実成の釈尊が大聖人。
 皆成仏道の法華経は戒壇本尊。
 我ら衆生が、大聖人以外の一切衆生。

 習い損ないの読み方です。
 創価学会では以上の様に読みます。

>「御本尊様」を「ただのモノ」「ただの道具」と云い

 師匠が曼荼羅は物だと言われる。
 素直に信受するのが弟子。
 貴方は先ず、そこを弁えましょう。
 そして、私は自分自身が久遠の南無妙法蓮華経如来で、大聖人と全く同じで南無妙法蓮華経の当体だと知っております。

 久遠の南無妙法蓮華経如来と、自行化他の南無妙法蓮華経、それと私ども衆生に全く差別がありません。

 私はそれを熟知しております。
 ですので、貴方のこれはデマですね。

>「差別あり」と信じてる間は,君の「仏性」が開くことは無い!

 今少し道理を弁えてお書きなさい。
 
 『宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。』   

2015/2/16  17:46

投稿者:んっ?
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と
 我等衆生との三つ全く差別無しと解りて
 妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり,
 此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

もう一度,拝してみなさい。
「御本尊様」を「ただのモノ」「ただの道具」と云い
「差別あり」と信じてる間は,君の「仏性」が開くことは無い!

2015/2/16  17:38

投稿者:んっ?
>多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば

>かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ

此処でも「前提」があるね?
「十界互具・一念三千」が説かれ,其の仏性を開くための
「三大秘法」の大切さが述べられている。

凡そ,あらゆる法華経とは「十界互具・一念三千」が説かれた教え。

末法における修行法は「三大秘法」に尽きるんですよ?

其れをあ〜でもないこ〜でもないと否定するならば「歴劫修行」しかない。

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