2015/3/29
顕正新聞第1336号の記事から
大沢氏の迅速なレスポンスには驚いた。しかも内容が的確である。わたくしが更新して三十分足らずの短い時間に、これだけの芸当が可能なのは、日頃の準備に怠りがないからなのだろう。
さて、写真の件で少し揉めているようだが、これは水掛け論になりかねないので、ほどほどにしたほうがいいだろう。いわゆる雑乱勧請の問題を考えるならば、仏壇の中には余計なものをなるべく入れないほうがいいに決まっている。ただし、わたくしの見聞の範囲では、中央の最上段に位牌を据えて下段の然るべき位置に故人の写真を置くのが世間一般の通例のように思えるので、その辺の順列さえ間違えなければそれほど問題ではないような気がするのだ。よって正宗系の場合は、中央最上段に曼荼羅御本尊を安置してあれば、下段のほうに物故者の写真を置いてもいいのではないかと思った次第である。しかし、大沢氏によればそれすらもダメらしい。
もっとも池田大作氏は故人ではないので、その写真を仏壇に飾るのはヘンな気がしないでもない。あるいは生き仏のような意味があるのかもしれないが、しかし、んっ?氏によれば、せいぜい経机の上に写真を置くのがギリギリの線のようである。つまり、仏壇の中には飾らない、いわんや御厨子の中をや、ということらしい。
いずれにしも、沖浦氏が言っているように、創価学会員はひじょうに人数が多いのでマレにはおかしな人がいても不思議はない。そこを針小棒大にあげつらっているような面が我々にはあるのかもしれないと、いちおうは反省しておきたいと思う。
学会副本部長として活動、男子部大会で覚醒
「学会員を救う特集号」に大衝撃と熱涙
学会幹部の臨終はすべて悪相だった!
さて、わたくしはわりと冷静というか、客観的にものを見ているつもりなのだが、顕正会は丸っきりダメである。その見本が顕正新聞第1336号に出ているので紹介しよう。
「学会より正義にめざめて」
このタイトルは今回が初めてだろう。特集号と連動していることは一目瞭然だ。その登壇の一つが前掲である。副本部長がどれほどの地位なのか知らないが、内容的にはちょっと腑に落ちないところがある。
学会幹部の臨終
すべて真っ黒
この小見出しのついた一節が問題である。
私は学会を正しいと信じ、五十五年間の人生を学会に捧げてきました。
そして学会時代、幹部から「これが成仏の相です」と言われて見てきた、たくさんの学会幹部の臨終の相はすべて真っ黒であり、「黒くなるのが成仏した証拠」と思い続けてきました・・・
五十五年もの間、いったい何をやっていたのかと思う。御書を読んだことがないのだろうか? そんなバカなことはあるまい。
つまり、いかにもウソっぽいのだ。
創価学会員の臨終が悪相かどうかは主観的な部分が少なくないので何とも言えないところである。しかし、彼らも御書を読むわけで、御書には臨終の相についての御指南もある。ゆえに五十五年もやっていれば、しかも副本部長を仰せつかるほどの人物であれば、それを知らないはずはあるまい。ゆえに腑に落ちないと書いたのだ。
もう一人の登壇者についても少し触れておこう。
・・・学会幹部に相談すると、「愚痴と文句は功徳を消す」と言われ、納得がいかなかった私が意見を言うと、「反発する者は第六天の魔王の使い」「組織を乱す者は師子身中の虫」と罵られ・・・
私も亡き父の遺産を全額供養しましたが・・・
この人は昭和三十五年に入信したという。それで創価学会時代の思い出を語っているわけだが、途中からなのでわかり難い点はご容赦願いたい。ようは顕正会だって似たり寄ったりだろうということなのだ。上段の愚痴と文句は功徳を消すなど、おそらく顕正会経験者ならば、先輩に言われたことがあるし、自分自身も後輩に対して言ったことがある、という人がザラにいるはずだ。下段のほうは正本堂の御供養についてであるが、顕正会も御供養に参加しているので一方的には批判できないはずである。
そして次が問題である。
学会の早口で長い勤行・・・
あれれ? という感じだ。かつての創価学会は五座三座の勤行をやっていた。その時であれば早口で長い勤行は当てはまる。しかし、近年の創価学会は違うだろう。早口かどうかは知らないが、少なくとも勤行の長さは相当に短くなったはずである。
こんなテイタラクである。
さて、その他の記事も見ていこう。第二十四女子部長のお出ましである。
・・・極限の大謗法を犯した学会を責めんと、先生が新たな戦いを開始された意義の重大さであります。
イジワルな見方かもしれないが、顕正会員は折伏三昧の日々に疲れている。そこで目先を変えて気分転換を図る意味も兼ねて、今回の創価学会破折キャンペーンを開始したのだろう。
いよいよ最後、最重要段階に突入したことを肌身に感ずるものであります。
最終段階という表現はもう使い古された感がある。そこで新登場したのが上掲なのだろう。たぶん初出のはずである。
第十九男子部幹事・第五十八隊長の記事にも類似の表現がある。
いよいよ迎えた広布史上最後の戦いに、悔いなき戦いを決意するばかりであります。
さて、今度は婦人部片瀬支区部長の登壇であるが、ここには久々に会長本仏論を思わせる記述が出てくる。原文はやや煩瑣なので、少し加工した上で紹介させていただくことにする。
大聖人様の「必ず身命を喪わんか」との御覚悟で国主諫暁に望まれた御心と、身を捨てて御遺命守護の戦いに敢然と立たれた先生のお姿とが重なり、ひれ伏す思いになりました。
大聖人と浅井先生とを重ね合わせてはいけない。
「試練と忍従の時代」以来、先生が待ち望まれてきた、顕正会が二百万の仏弟子の大集団になって国を揺り動かす日を・・・
これはじゃっかんアゲアシ取りの気味がなくもないけれども、いつも言っているようにそんな何十年も前から二百万を目指していたなどという話は信用ならないところである。事実、そのような文証は存在しないはずである。
男子部第108隊支隊長は元ヤクザを売り文句にたびたび登場しているが、今回の記事ではヤクザ云々の記述がまったく見当たらない。それはともかく、わたくしはこの記事にいろいろとイチャモンをつけたいと思っている。失礼ながらチグハグ感が拭えないのだ。前の職場にいたら思う存分に顕正会の活動が出来ないので転職したわけなのだろう。けれども結局はまた元の職場に戻ったわけである。まあ、しかし、ここには文章ではあらわせない、さまざまの葛藤もあるだろうから、あまり深く突っ込むべきではないのかもしれない。
有難くも前法戦では支隊結成初の誓願達成も叶えさせて頂きました。
この人がいつ支隊長になったのか確認していないのであまり大きな声では言えないが、しかし、意外な感じがした。ようするに連戦連勝のイメージがあったからである。
残り五年、浅井先生から頂いた支隊長としての使命をよりいっそう強く果したい・・・
なるほど、前述の大幹部たちが「最後、最重要段階」だとか「広布史上最後の戦い」などと言っているのは、残り五年のことだったのだ。しかし、あと五年で終わるわけではあるまい。彼らはそれをわかっているのだろうか?
大音響の「防犯ブザー」
これは販促と呼ばれる記事の一種だと思われるが、なぜか前号にもまったく同じ記事が掲載されている。編集部がうっかりしたのか、あるいはこれを強力に売り込みたい理由があるのか、その辺はわたくしの知るところではない。
最後に創価学会ネタに戻って、婦人部栃木支区部長が興味深いことを言っている。
四年前、配布先で、「神社の供養を一切やらない、熱心な学会員がいる」と聞いたのがきっかけで、学会の一婦人と出会いました。
四年前はつい最近の部類に入るだろう。創価学会は今も謗法厳禁の精神を堅持していることの証拠と言えるかもしれない。
さて、写真の件で少し揉めているようだが、これは水掛け論になりかねないので、ほどほどにしたほうがいいだろう。いわゆる雑乱勧請の問題を考えるならば、仏壇の中には余計なものをなるべく入れないほうがいいに決まっている。ただし、わたくしの見聞の範囲では、中央の最上段に位牌を据えて下段の然るべき位置に故人の写真を置くのが世間一般の通例のように思えるので、その辺の順列さえ間違えなければそれほど問題ではないような気がするのだ。よって正宗系の場合は、中央最上段に曼荼羅御本尊を安置してあれば、下段のほうに物故者の写真を置いてもいいのではないかと思った次第である。しかし、大沢氏によればそれすらもダメらしい。
もっとも池田大作氏は故人ではないので、その写真を仏壇に飾るのはヘンな気がしないでもない。あるいは生き仏のような意味があるのかもしれないが、しかし、んっ?氏によれば、せいぜい経机の上に写真を置くのがギリギリの線のようである。つまり、仏壇の中には飾らない、いわんや御厨子の中をや、ということらしい。
いずれにしも、沖浦氏が言っているように、創価学会員はひじょうに人数が多いのでマレにはおかしな人がいても不思議はない。そこを針小棒大にあげつらっているような面が我々にはあるのかもしれないと、いちおうは反省しておきたいと思う。
学会副本部長として活動、男子部大会で覚醒
「学会員を救う特集号」に大衝撃と熱涙
学会幹部の臨終はすべて悪相だった!
さて、わたくしはわりと冷静というか、客観的にものを見ているつもりなのだが、顕正会は丸っきりダメである。その見本が顕正新聞第1336号に出ているので紹介しよう。
「学会より正義にめざめて」
このタイトルは今回が初めてだろう。特集号と連動していることは一目瞭然だ。その登壇の一つが前掲である。副本部長がどれほどの地位なのか知らないが、内容的にはちょっと腑に落ちないところがある。
学会幹部の臨終
すべて真っ黒
この小見出しのついた一節が問題である。
私は学会を正しいと信じ、五十五年間の人生を学会に捧げてきました。
そして学会時代、幹部から「これが成仏の相です」と言われて見てきた、たくさんの学会幹部の臨終の相はすべて真っ黒であり、「黒くなるのが成仏した証拠」と思い続けてきました・・・
五十五年もの間、いったい何をやっていたのかと思う。御書を読んだことがないのだろうか? そんなバカなことはあるまい。
つまり、いかにもウソっぽいのだ。
創価学会員の臨終が悪相かどうかは主観的な部分が少なくないので何とも言えないところである。しかし、彼らも御書を読むわけで、御書には臨終の相についての御指南もある。ゆえに五十五年もやっていれば、しかも副本部長を仰せつかるほどの人物であれば、それを知らないはずはあるまい。ゆえに腑に落ちないと書いたのだ。
もう一人の登壇者についても少し触れておこう。
・・・学会幹部に相談すると、「愚痴と文句は功徳を消す」と言われ、納得がいかなかった私が意見を言うと、「反発する者は第六天の魔王の使い」「組織を乱す者は師子身中の虫」と罵られ・・・
私も亡き父の遺産を全額供養しましたが・・・
この人は昭和三十五年に入信したという。それで創価学会時代の思い出を語っているわけだが、途中からなのでわかり難い点はご容赦願いたい。ようは顕正会だって似たり寄ったりだろうということなのだ。上段の愚痴と文句は功徳を消すなど、おそらく顕正会経験者ならば、先輩に言われたことがあるし、自分自身も後輩に対して言ったことがある、という人がザラにいるはずだ。下段のほうは正本堂の御供養についてであるが、顕正会も御供養に参加しているので一方的には批判できないはずである。
そして次が問題である。
学会の早口で長い勤行・・・
あれれ? という感じだ。かつての創価学会は五座三座の勤行をやっていた。その時であれば早口で長い勤行は当てはまる。しかし、近年の創価学会は違うだろう。早口かどうかは知らないが、少なくとも勤行の長さは相当に短くなったはずである。
こんなテイタラクである。
さて、その他の記事も見ていこう。第二十四女子部長のお出ましである。
・・・極限の大謗法を犯した学会を責めんと、先生が新たな戦いを開始された意義の重大さであります。
イジワルな見方かもしれないが、顕正会員は折伏三昧の日々に疲れている。そこで目先を変えて気分転換を図る意味も兼ねて、今回の創価学会破折キャンペーンを開始したのだろう。
いよいよ最後、最重要段階に突入したことを肌身に感ずるものであります。
最終段階という表現はもう使い古された感がある。そこで新登場したのが上掲なのだろう。たぶん初出のはずである。
第十九男子部幹事・第五十八隊長の記事にも類似の表現がある。
いよいよ迎えた広布史上最後の戦いに、悔いなき戦いを決意するばかりであります。
さて、今度は婦人部片瀬支区部長の登壇であるが、ここには久々に会長本仏論を思わせる記述が出てくる。原文はやや煩瑣なので、少し加工した上で紹介させていただくことにする。
大聖人様の「必ず身命を喪わんか」との御覚悟で国主諫暁に望まれた御心と、身を捨てて御遺命守護の戦いに敢然と立たれた先生のお姿とが重なり、ひれ伏す思いになりました。
大聖人と浅井先生とを重ね合わせてはいけない。
「試練と忍従の時代」以来、先生が待ち望まれてきた、顕正会が二百万の仏弟子の大集団になって国を揺り動かす日を・・・
これはじゃっかんアゲアシ取りの気味がなくもないけれども、いつも言っているようにそんな何十年も前から二百万を目指していたなどという話は信用ならないところである。事実、そのような文証は存在しないはずである。
男子部第108隊支隊長は元ヤクザを売り文句にたびたび登場しているが、今回の記事ではヤクザ云々の記述がまったく見当たらない。それはともかく、わたくしはこの記事にいろいろとイチャモンをつけたいと思っている。失礼ながらチグハグ感が拭えないのだ。前の職場にいたら思う存分に顕正会の活動が出来ないので転職したわけなのだろう。けれども結局はまた元の職場に戻ったわけである。まあ、しかし、ここには文章ではあらわせない、さまざまの葛藤もあるだろうから、あまり深く突っ込むべきではないのかもしれない。
有難くも前法戦では支隊結成初の誓願達成も叶えさせて頂きました。
この人がいつ支隊長になったのか確認していないのであまり大きな声では言えないが、しかし、意外な感じがした。ようするに連戦連勝のイメージがあったからである。
残り五年、浅井先生から頂いた支隊長としての使命をよりいっそう強く果したい・・・
なるほど、前述の大幹部たちが「最後、最重要段階」だとか「広布史上最後の戦い」などと言っているのは、残り五年のことだったのだ。しかし、あと五年で終わるわけではあるまい。彼らはそれをわかっているのだろうか?
大音響の「防犯ブザー」
これは販促と呼ばれる記事の一種だと思われるが、なぜか前号にもまったく同じ記事が掲載されている。編集部がうっかりしたのか、あるいはこれを強力に売り込みたい理由があるのか、その辺はわたくしの知るところではない。
最後に創価学会ネタに戻って、婦人部栃木支区部長が興味深いことを言っている。
四年前、配布先で、「神社の供養を一切やらない、熱心な学会員がいる」と聞いたのがきっかけで、学会の一婦人と出会いました。
四年前はつい最近の部類に入るだろう。創価学会は今も謗法厳禁の精神を堅持していることの証拠と言えるかもしれない。
2015/3/31 6:53
投稿者:大沢克日子
2015/3/31 5:50
投稿者:沖浦克治
おはようございます。
功徳の形です。
http://ameblo.jp/nobobsleigh-nolife/entry-12007968261.html
私には、忘れられない池田先生のご指導が、幾つかあります。
『皆様方は創価学会と言う位の中では、地区部長(大ブロック長)さんと言う、末端の中の末端のようなご存在であられるかもしれない。
ですが、ここに山田さんと言う地区部長さんがお荒れるなら、その地区は、山田創価仏法学校です。山田創価仏法塾です。
山田さんは、その校長先生で塾長さんです。
その塾は、学校は、小さくとも、成仏のための学校です。
何人の人を自分は成仏させてあげようか。
人数ではありません。
不幸にしてその塾長さんが亡くなった。
アア〜〜、自分はあの人には一生世話になった・・・
そう言って、遠くから駆けつけてくれる人を持つかも持たないかは、人生における重要な問題であります。』(趣意)
私の父は団地住まいで社会的地位もありませんでした。
昭和47年10月2日、正本堂建立の日、69歳で逝きました。
御書の通りの成仏の相でした。
葬儀には数百人が来て下さって、泣き崩れるお方もおられました。
この指導をおもう時、父と重なります。
そういう人生やりたいのです。
です野で、残り少ない人生を、人を育てて終えます。
功徳の形です。
http://ameblo.jp/nobobsleigh-nolife/entry-12007968261.html
私には、忘れられない池田先生のご指導が、幾つかあります。
『皆様方は創価学会と言う位の中では、地区部長(大ブロック長)さんと言う、末端の中の末端のようなご存在であられるかもしれない。
ですが、ここに山田さんと言う地区部長さんがお荒れるなら、その地区は、山田創価仏法学校です。山田創価仏法塾です。
山田さんは、その校長先生で塾長さんです。
その塾は、学校は、小さくとも、成仏のための学校です。
何人の人を自分は成仏させてあげようか。
人数ではありません。
不幸にしてその塾長さんが亡くなった。
アア〜〜、自分はあの人には一生世話になった・・・
そう言って、遠くから駆けつけてくれる人を持つかも持たないかは、人生における重要な問題であります。』(趣意)
私の父は団地住まいで社会的地位もありませんでした。
昭和47年10月2日、正本堂建立の日、69歳で逝きました。
御書の通りの成仏の相でした。
葬儀には数百人が来て下さって、泣き崩れるお方もおられました。
この指導をおもう時、父と重なります。
そういう人生やりたいのです。
です野で、残り少ない人生を、人を育てて終えます。
2015/3/31 0:33
投稿者:んっ?
なるほど!
心当たりのある奴が,若干一名居るようですね?ww
心当たりのある奴が,若干一名居るようですね?ww
2015/3/30 7:17
投稿者:沖浦克治
んっ?さん、おはようございます。
その他人のあら捜しに人生を費やすこと自体が、、怨嫉謗法なのですよ。
『月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶるさいわいは心よりいでて我をかざる。』
(十字御書)
だからいつまで経っても功徳が書けないのです。
『金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし。』
(妙密上人御消息)
貴方は御書をキチンと学ばないとダメですね。
私はこれからスキーです。
又ね・・・・
その他人のあら捜しに人生を費やすこと自体が、、怨嫉謗法なのですよ。
『月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶるさいわいは心よりいでて我をかざる。』
(十字御書)
だからいつまで経っても功徳が書けないのです。
『金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利くなる法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと思食すべし。』
(妙密上人御消息)
貴方は御書をキチンと学ばないとダメですね。
私はこれからスキーです。
又ね・・・・
2015/3/30 6:55
投稿者:んっ?
「公平」で思い出しました!
数年前、若鷹掲示板をアク禁になった奴が
モバイルから「公平人」というハンネで
未練たらしく書き込みして失笑を買って
慌てて「本人ですよ」とか「会長」とか
他ハンで書いてましたね?
あれなぞ、「悪例」の見本でしょうww
数年前、若鷹掲示板をアク禁になった奴が
モバイルから「公平人」というハンネで
未練たらしく書き込みして失笑を買って
慌てて「本人ですよ」とか「会長」とか
他ハンで書いてましたね?
あれなぞ、「悪例」の見本でしょうww
2015/3/29 17:48
投稿者:沖浦克治
大沢さん、今晩は。
巌虎さんのブログは極めて公平ですね。
ネットでハンネで書く時の模範とも思えます。
ハンネは匿名性が強く出ます。
ですので、他人や他宗の批判が簡単に出来ます。
自分がどこの誰だとわかっていると絶対に書けないことが、簡単に書けるのです。
更に、別の人格になりすませます。
ネットでの名誉棄損で捕まった人たちには、共通点があって、日常生活ではほとんど自分の意見を言えない方々が多いと言うデーターがあります。
普段怖くて言えないことをハンネでは書ける。
魔力に魅入られて、他者への非難はエスカレートします。
んっ?さんに顕著な傾向ですね。
これは凄く危険です。
他人の非難をすることで満足感を得ると、ドンドン非難はエスカレートします。
御書に、
『わざわいは口より出でて身をやぶる』
(十字御書)
こうありますが、ネットでハンネの匿名性を利用し他人の非難中傷をする人は、この御文を身で読むことになります。
ですので、ハンネで出来ることは、自分の主義主張の表明までです。
一度他人の批判をするなら、ハンネは駄地獄の因でしかありません。
『元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、』
(治病大小権実違目)
ハンネでの他者や他宗の非難中傷は、どういう場合も元品の無明から出ている行為です。
巌虎さんはその一線を超えることはありません。
若鷹などの怨嫉謗法板の管理人は、巌虎さんの爪の垢でも煎じて飲むべきでしょう。
『さいわいは心よりいでて我をかざる。』
(十字御書)
他人を非難するより、他人や他宗の方々の功徳を褒め称えることが肝心です。
同じ身で読むなら、こっちが1億倍は素敵ですね。
巌虎さんのブログは極めて公平ですね。
ネットでハンネで書く時の模範とも思えます。
ハンネは匿名性が強く出ます。
ですので、他人や他宗の批判が簡単に出来ます。
自分がどこの誰だとわかっていると絶対に書けないことが、簡単に書けるのです。
更に、別の人格になりすませます。
ネットでの名誉棄損で捕まった人たちには、共通点があって、日常生活ではほとんど自分の意見を言えない方々が多いと言うデーターがあります。
普段怖くて言えないことをハンネでは書ける。
魔力に魅入られて、他者への非難はエスカレートします。
んっ?さんに顕著な傾向ですね。
これは凄く危険です。
他人の非難をすることで満足感を得ると、ドンドン非難はエスカレートします。
御書に、
『わざわいは口より出でて身をやぶる』
(十字御書)
こうありますが、ネットでハンネの匿名性を利用し他人の非難中傷をする人は、この御文を身で読むことになります。
ですので、ハンネで出来ることは、自分の主義主張の表明までです。
一度他人の批判をするなら、ハンネは駄地獄の因でしかありません。
『元品の無明は第六天の魔王と顕われたり、』
(治病大小権実違目)
ハンネでの他者や他宗の非難中傷は、どういう場合も元品の無明から出ている行為です。
巌虎さんはその一線を超えることはありません。
若鷹などの怨嫉謗法板の管理人は、巌虎さんの爪の垢でも煎じて飲むべきでしょう。
『さいわいは心よりいでて我をかざる。』
(十字御書)
他人を非難するより、他人や他宗の方々の功徳を褒め称えることが肝心です。
同じ身で読むなら、こっちが1億倍は素敵ですね。
2015/3/29 16:40
投稿者:大沢克日子
沖浦様
ふむふむ、そういう方向性なんですね。
沖浦さんの話が全くイカサマではなく、そんな方向には行きそうですよね?
顕正会は、創価学会と違って根本の部分で日蓮正宗と切り離すことは難しいでしょうから、浅井先生も後継者(?)も頭を悩ませていることでしょう。
巌虎さんのブログの内容について、いかがですか?
ふむふむ、そういう方向性なんですね。
沖浦さんの話が全くイカサマではなく、そんな方向には行きそうですよね?
顕正会は、創価学会と違って根本の部分で日蓮正宗と切り離すことは難しいでしょうから、浅井先生も後継者(?)も頭を悩ませていることでしょう。
巌虎さんのブログの内容について、いかがですか?
2015/3/29 16:21
投稿者:沖浦克治
大沢さん、
>元は(故人でもない?)池田先生の写真を本尊と一緒に拝むのはどうなんだという話です。
そういう人を見たことがありませんが、おられる可能性はあります。
1600万人もいるのですからね。
ですが、そういう事は創価学会の問題ではなく、その方個人の問題でしょうね。
>沖浦さんの言っていることが全く創価学会と離れたところにあるとは思っていません。
「学会が沖浦さんを追従した」
とも思っていません。
学会の中で非公式にでも言われているようなことを言っているのではということです。
基本的なことですが、常に書いて来ておりますが、私共は戒壇本尊本懐と、法主の血脈を前面に掲げ、それらを武器にして、大折伏をやったのです。
私自身、身延の寺に乗り込んで、二箇相承を武器にして相手の住職をやっつけたことが何度もありました。
あれはあれで必要な時代だったと思います。
ですが、時代は変わったのです。
もう、創価学会は日蓮正宗の暖簾を借りる必要が無くなりました。
破門以前、昭和54年の池田先生のご勇退以後、私は独自に勉強をし、日蓮正宗を見限りました。
戒壇本尊本懐論と、法主の血脈を御書に照らし、邪義だと見破ったのです。
近年、興師の唯綬一人も邪義とわかりました。
今後の創価学会は何処かの時点で、興師否定になると思っています。
更に、その次には、大聖人御本仏の見直しがあると思います。
大聖人は仏ですが、それは私ども一切衆生も同じです。
これも御書に明確に書かれてありますので、疑う余地がありません。
ですので、大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になるでしょう。
世界広布には絶対に必要な視点です。
大聖人は最初のお一人。
ですので、御本仏と言うより、本師とお呼びするべきでしょう。
ここまで来ないと、世界宗教への道は開けません。
>元は(故人でもない?)池田先生の写真を本尊と一緒に拝むのはどうなんだという話です。
そういう人を見たことがありませんが、おられる可能性はあります。
1600万人もいるのですからね。
ですが、そういう事は創価学会の問題ではなく、その方個人の問題でしょうね。
>沖浦さんの言っていることが全く創価学会と離れたところにあるとは思っていません。
「学会が沖浦さんを追従した」
とも思っていません。
学会の中で非公式にでも言われているようなことを言っているのではということです。
基本的なことですが、常に書いて来ておりますが、私共は戒壇本尊本懐と、法主の血脈を前面に掲げ、それらを武器にして、大折伏をやったのです。
私自身、身延の寺に乗り込んで、二箇相承を武器にして相手の住職をやっつけたことが何度もありました。
あれはあれで必要な時代だったと思います。
ですが、時代は変わったのです。
もう、創価学会は日蓮正宗の暖簾を借りる必要が無くなりました。
破門以前、昭和54年の池田先生のご勇退以後、私は独自に勉強をし、日蓮正宗を見限りました。
戒壇本尊本懐論と、法主の血脈を御書に照らし、邪義だと見破ったのです。
近年、興師の唯綬一人も邪義とわかりました。
今後の創価学会は何処かの時点で、興師否定になると思っています。
更に、その次には、大聖人御本仏の見直しがあると思います。
大聖人は仏ですが、それは私ども一切衆生も同じです。
これも御書に明確に書かれてありますので、疑う余地がありません。
ですので、大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になるでしょう。
世界広布には絶対に必要な視点です。
大聖人は最初のお一人。
ですので、御本仏と言うより、本師とお呼びするべきでしょう。
ここまで来ないと、世界宗教への道は開けません。
2015/3/29 16:09
投稿者:沖浦克治
んっ?さん、今晩は。
>あはは!
意図を見破られて,今度は印象操作ですか?
河童君とやり方がそっくりですね?ww
>それから,河童君は沖浦新宗の狂祖様ですので
彼の発言を以って論を進めるのは卑怯です。
こういう書き込みを続ける限り、貴方の現実生活での敗北は続きます。
全ては貴方の命の中から起きているのです。
抜け出さないとね・・・・
>あはは!
意図を見破られて,今度は印象操作ですか?
河童君とやり方がそっくりですね?ww
>それから,河童君は沖浦新宗の狂祖様ですので
彼の発言を以って論を進めるのは卑怯です。
こういう書き込みを続ける限り、貴方の現実生活での敗北は続きます。
全ては貴方の命の中から起きているのです。
抜け出さないとね・・・・
2015/3/29 16:06
投稿者:大沢克日子
沖浦様
いやいや、遺影の話じゃないんですよ。
元は(故人でもない?)池田先生の写真を本尊と一緒に拝むのはどうなんだという話です。
私はそれが創価学会員全員や、多数がやっているなどとは当初から言っていませんし、おそらくその人は池田先生への尊敬のあまりそうしているんだろうと思ったまでです。
故人についていえば、私自身そうでしたが、故人の遺骨にしても位牌にしても写真にしても、別れ難い心情というのはあるはずです。
しかし最終的には御供養も御本尊への信仰礼拝を通じてということになります。
同じ学会員でありながら沖浦さんとんっ?さん一派は何がゴチャゴチャやっていますが、私は沖浦さんの言っていることが全く創価学会と離れたところにあるとは思っていません。
「学会が沖浦さんを追従した」
とも思っていません。
学会の中で非公式にでも言われているようなことを言っているのではということです。
いやいや、遺影の話じゃないんですよ。
元は(故人でもない?)池田先生の写真を本尊と一緒に拝むのはどうなんだという話です。
私はそれが創価学会員全員や、多数がやっているなどとは当初から言っていませんし、おそらくその人は池田先生への尊敬のあまりそうしているんだろうと思ったまでです。
故人についていえば、私自身そうでしたが、故人の遺骨にしても位牌にしても写真にしても、別れ難い心情というのはあるはずです。
しかし最終的には御供養も御本尊への信仰礼拝を通じてということになります。
同じ学会員でありながら沖浦さんとんっ?さん一派は何がゴチャゴチャやっていますが、私は沖浦さんの言っていることが全く創価学会と離れたところにあるとは思っていません。
「学会が沖浦さんを追従した」
とも思っていません。
学会の中で非公式にでも言われているようなことを言っているのではということです。
おはようございます。
拝見しました。
沖浦さんの写真、重量挙げの試合の場面以外の姿はじめて拝見しました。
>ジムではすぐ脱ぎだして筋肉確認するし、急にギター引き出して愉快に歌うし、自分に必要ない事はすぐ忘れちゃうし、会話成り立たない時あるし、人に合わせるとかしないし……
って、変なところいっぱいあるけど
ただの変なおじさんに終わっていない、そういうお人柄だと思いますが、沖浦さんが「残り少ない人生」を考えているとは思いませんでした。
大沢は沖浦さんより年少ですが今日死んでしまうかもしれませんし、年齢の通りということかもしれません。
「一、祖判卅二 十一に云く、夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが、念願すらく、人の寿命は無常也、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の燈尚譬にあらず、かしこきもはかなきも老たるも若きも定めなき習ひ也、されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと云云。
(中略)
一、多年の臨終、刹那の臨終の事。
愚案二 八に云く多年の臨終と云ふは日は今日、時は唯今と意に懸けて行住坐臥に題目を唱ふるを云ふ也。次に刹那の臨終と云ふは最期臨終の時也、是れ最も肝心也。臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依る也」
(臨終用心抄)
私も沖浦さんもどなた様も、後生を思い独り慎むということが大切だと思います。
すぐに忘れてしまうんですけどね。