2015/4/5

花冷えの一日  
沖浦氏との議論は早くも佳境を迎えたようだ。予想通りの展開というか、予想以上の好展開を見せている。

大聖人を特別な仏ではなく、私共と同じ人間であるとの視点からの見直しが必要になる・・・

これについてわたくしは久成三身が無始無終の仏であるとの文証を引いて反論した。この点、沖浦氏の返事を拝見すると、どうも話が噛み合っていないようであるが、それは毎度のことなので気にすることもあるまい。

当時の人々は阿弥陀ないし大日を信仰していた。いわば特別視していたわけだ。これに対し大聖人は異を唱えた。釈尊を仰ぐべきだと。その御説明の一つが久成三身云々なのである。
科学信仰という言葉がある。しかし、それは文章表現であって何も科学を信仰の対象にするわけではない。まさか科学に対して、朝晩の勤行をするみたいなことはないのだ。
わたくしの思うに、沖浦氏のそれは科学信仰の雰囲気が濃厚である。つまりは信仰ではない。さすがに言い過ぎかもしれないが、どうも沖浦氏の言っていることは信仰そのものを薄めることにしかならないのではないかと思う。仏を特別視するのはむしろ当たり前のことであって、それがまさしく信仰の基本なのである。御本尊を道具などと言ってしまうことも、信仰を薄める作用しかもたらさないだろう。

ちなみに当時は念仏・真言に並んで禅宗も流行っていた。これに対する批判としては、謂己均仏の大慢ということを大聖人は仰せられている。己を仏と均しいなどと思うのは大慢心であると、誡められているのである。

それからもう一つ、無始無終を持ち出したのには別の意図があった。

現実問題として、我々は必ず死ぬのだ。いくら無始無終と言われても、やがては朽ち果てていく身である。だったら同じではないかと言いたい。沖浦氏は物質で作られた御本尊を卑下する発言を繰り返しているが、自分もまた朽ち果てていくのである。沖浦氏は己を仏と均しいと言い、それがまた最上の悟りであるかのごとく言っている。確かに御書にもそうした記述があるのは事実だ。

しかし、ここに自己矛盾が存することに気がつかないといけない。

やがては朽ち果てる自分自身が、本当は無始無終の仏と異ならないのだという最上の悟りと、板や紙で出来た御本尊が別物であるかのごとく思い込んでいる点が、実は大いなる矛盾なのだということを、である。

早い話がわかっていない。具体的には観門の難信難解がわかっていない。もしくは信じられないということなのだ。

>観門の難信難解を否定するのか? 

 否定したことはありませんね。


いよいよ切羽詰ってきた。蒸し返すようで恐縮だが、過去のコメントを掲げておきたい。

観門の難信難義は、木や金で出来た仏像や、紙や板でできた曼荼羅が、仏である道理がないと言う事です。

(中略)

 御本尊も同じです。
 一応の仏ですが、方便なんです。


これは「沖浦流法門の終焉は近い」のコメント欄に残された貴重な文証である。本人は否定ではないと言い張るかもしれないが、誰が読んでも否定だろう。

ここに御本尊も同じだと書いている。実は沖浦氏の言っていることとは違う意味で、御本尊も同じである。すなわち御本尊も我々も同じく一念三千の当体なのだ。

金錍論に云はく「乃ち是一草・一木・一礫・一塵、各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」等云云。

しかるに沖浦氏は次のごとく言っている。

 戒壇本尊は物で出来ています。
 厳然たる事実です。
 物はいつかは消滅致します。
 ですが、法は消滅致しません。


観門の難信難解がまるでわかっていない証拠である。

また、んっ?氏が再三にわたって書いておられることも、ひじょうに平易かつ明快なので紹介しておこう。

2015/4/1 20:29
投稿者:んっ?
>戒壇本尊は物で出来ています。

此れまた,何度も云ってる。
君も私も「物」で出来てる。

そうして「方便現涅槃」する。

違いは「有情」「非情」の差があるだけだ。

結局,「難信難解」なままなんだね?ww


金錍論に示されるごとく、有情非情に差別を設けないのが一念三千である。ゆえに、繰り返しになるが、もし一切衆生が等しく本来南無妙法蓮華経如来だというのが最上の悟りであるならば、非情を排除する理由はどこにも存在しないことに気がつかなければいけないのだ。

さらに望外の展開を見ることになる。わたくしは大聖人が仰せられる御本尊の意味がわずか二年で変化している事実を示したわけだが、そこで沖浦氏より思わぬ回答をたまわった。

 この御書は、文永十年五月とされています。
 佐渡始顕の御本尊以前です。

 現存若しくは曽存する御本尊で、私どもが拝む形式が整ったものは、佐渡始顕の御本尊からです。
 この御本尊は、十年七月八日ですので、諸法実相抄時点では御図顕前です。

 以上時系列を提示致しました。

 ここから私見を申します。

 時系列的に御図顕前は前ですが、双方のタイムラグは二月ございません。

 当然大聖人のご胸中にはいよいよ曼荼羅御図顕の御構想があったと考えられます。

 その胸中の御本尊を、御図顕の御決意と共に記し置かれた。


これはまったく予想外の回答であり、驚いているところである。そもそもが、はたして佐渡始顕の御本尊と諸法実相抄の関係性が上掲のごとくなのかどうか、わたくしにはまったくわからない。けれども、もし沖浦氏の言うとおりならば、これは戒壇の大御本尊と聖人御難事の関係と同じことになるはずである。本人はわかっているのだろうか?

そして次が本題である。

月満御前御書に仰せの御本尊と諸法実相抄に仰せの御本尊は意味が異なる。前者は釈尊を意味し、後者は大曼荼羅御本尊を意味する。わずか二年でこの変化である。これはいったい何事だろうか?

 これは変化して当然なのです。
 
 文永8年9月12日。
 竜の口法難がありました。
 そこで、大聖人が発迹顕本なされた。

 釈迦の菩提樹の下の悟りと同じです。
 その瞬間の以前と以後では、同じ人間ですが悟りの内容が全く異なります。

 境涯に一大変化が起きた。

 これが竜の口です。

 『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて』
 (開目抄下)

 わずか2年と巌虎さんは書かれましたが、悟りを開くのは一瞬の行為です。

 御書にあるのですから、信受致しましょうね。


御名答である。と同時に、これは沖浦氏の大失策だと言っておこう。

まず、わたくしがこの事実を失念していたなどと思う人は、少なくとも拙ブログの愛読者ならばいないだろう。いわば本尊論の基本だからである。日蓮正宗で信仰していればあり得ないことだが、いわゆる日蓮宗では、釈尊を本尊とするのか大曼荼羅を本尊とするのか、そこで迷ってしまっているテイタラクである。その理由はさまざまの角度から論じられるところだが、手っ取り早く言うならば彼らは発迹顕本を知らない、すなわち大聖人が御本仏であられることを知らない、だから迷うのである。

これが答えだ。

沖浦氏は大聖人を御本仏であるとすることにも異議を唱える人である。何しろ見直しが必要などと言っているくらいなのだ。

しかもである。

氏は何の気なしに発迹顕本と書いているけれども、いったいこれをどのように証明するのかが問題である。発迹顕本は正宗教学においては常識中の常識である。ゆえにわたくしに異論はない。しかし、氏は正宗教学を否定しているのだ。ならば、自力で論証しなければいけない。

いちおう論証のつもりなのだろうか、氏は開目抄の御文を引用しているけれども、いったいこれのどこが発迹顕本なの? と言われたどうするつもりなのか、そこが新たな課題である。御書に発迹顕本という用語は出てくるものの、大聖人が発迹顕本をあそばしたという記述は見当たらない。

さあ、どうする?

さて、大方の読者は沖浦氏とわたくしの議論をまた始まったかくらいに思っているかもしれないが、確かにそれはそのとおりなのだが、内容的には本尊論と本仏論が密接不可分の関係にあることを垣間見ることが出来て、それなりに有意義なのではないかと思う。

2015/4/8  7:38

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。

 昨日は出張で聖教新聞を読めませんでした。
 今朝まだ配達されていませんので、昨日のを読みました。

 松本セキさんの体験が載っていました。

 素晴らしい!!!

 宿業は一つ一つ私にあいさつをして消えて行きました。
 ですから私は御本尊様に話し掛けるのです。
 全てを信心で捉えて演じきる女優になりたい。

 こういう大先輩がおられる創価に私もいる。

 功徳〜!!

2015/4/8  6:55

投稿者:沖浦克治
おはようございます。

 創価学会は寛師教学で長い事やって来ました。

 今回の否定で大騒ぎも起きています。
 寛師教学は爾前経だと割り切ることですね。

 『浄名経に云く「其れ汝に施す者は福田と名けず、汝を供養する者は三悪道に堕す」等云云、文の心は迦葉舎利弗等の聖僧を供養せん人天等は必ず三悪道に堕つべしとなり、此等の聖僧は仏陀を除きたてまつりては人天の眼目一切衆生の導師とこそをもひしに幾許の人天大会の中にしてかう度度仰せられしは本意なかりし事なり只詮するところは我が御弟子を責めころさんとにや、此の外牛驢の二乳瓦器金器螢火日光等の無量の譬をとつて二乗を呵嘖せさせ給き、一言二言ならず一日二日ならず一月二月ならず一年二年ならず一経二経ならず、四十余年が間無量無辺の経経に無量の大会の諸人に対して一言もゆるし給う事もなくそしり給いしかば世尊の不妄語なりと我もしる人もしる天もしる地もしる、一人二人ならず百千万人三界の諸天竜神阿修羅五天四洲六欲色無色十方世界より雲集せる人天二乗大菩薩等皆これをしる又皆これをきく、各各国国へ還りて娑婆世界の釈尊の説法を彼れ彼れの国国にして一一にかたるに十方無辺の世界の一切衆生一人もなく迦葉舎利弗等は永不成仏の者供養してはあしかりぬべしとしりぬ。
 而るを後八年の法華経に忽に悔還して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに人天大会信仰をなすべしや、用ゆべからざる上先後の経経に疑網をなし五十余年の説教皆虚妄の説となりなん、』
 (開目抄上)

2015/4/6  15:15

投稿者:沖浦克治
 獄中の悟達で戸田先生は、

 『我地涌の菩薩の棟梁なり』(趣意)

 と悟られました。
 この悟りは全人類の悟りの到達点なのです。

 日蓮正宗の寛師教学などに見られる、極めて矮小なものではありません。
 それが分からない人達が、創価学会の教義変更でネットで右往左往しています。

 見苦しい限りですね。

2015/4/6  13:14

投稿者:沖浦克治
 今日、突然わかったことがあります。
 
 欠点を克服する方法です。
 仏法では変毒為薬と言います。
 
 私は創価学会員ですので、毎朝聖教新聞を読みます。
 
 そこで連載されている、小説新人間革命に、以前、宮古島の一粒種が載ったことがありました。
 生まれつき片腕がないお方でした。
 
 『彼は障害を飛躍台にした。』(趣意)
 
 とありました。
 私は今年70歳で、色々障害かかえていますし、免疫不全も出ています。
 特に右膝は、MRIを見た先生が、
 
 これは内視鏡で何とななるものではないですね。
 人口関節を入れるしかないでしょう。
 
 と、言われたほどヒドイので、今も痛んでいます。
 でも、今朝悟りました。
 車運転中に閃いたのです。
 
 障害に食われて終わるか、障害食って成長するかだ!!
 
 それなら、
 
 障害食ってやる!!!!!!
 
 これで良いんです。

2015/4/6  8:31

投稿者:んっ?
河童君,おはよう!

コピペが始まったww

>依正共に南無妙法蓮華経の当体であるから、
>未来永劫に消滅しない。
>だから戒壇本尊も消滅することはない。
>〜以下略〜

そんな事は誰も云ってない。
君は先ず「空」をお勉強しなさいww

>竜の口以前と以後で、大聖人は異なる御境涯です。
>ですので、御本尊と言われても、以前は釈迦、以後は文字曼荼羅。
>こう拝すことが大事でしょう。
>そして、そのもぢ曼荼羅を、大聖人は仏像と言われた。
>〜以下略〜

ほう! 龍ノ口以前まで「釈尊」は存命だったのか?ww

2015/4/6  7:39

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、私は仏法者ですので、本来は功徳を書くことが肝心です。
 
 行きがかり上、法についても御書根幹に書きますが、本来は功徳を書かねばなりません。
 ですので、本筋に立ち返って功徳を書きます。

 昨日でポールトレーニングが終了致しました。
 今日はスキー、トレーニング共に休養に致します。

 先日来息子にいい車が来るように、少々ですが祈っておりました。
 一昨日、無料で車を頂きました。

 今までの車より、数段良いですね。
 嘘みたいな話なんですが、本当です。

 今日兵庫県から取に来て、乗って帰ります。
 それで、今からその車で大町駅まで迎えに参ります。

 祈りって凄いですね。
 普通に祈っても勝手に叶います。

 創価の御本尊に、創価の唱題をし、創価の戦いを世間でする。
 すると祈りが叶います。

 怨嫉謗法があると叶いませんし、気付くまで罰が出て、警告を発してくれます。

 創価の信心って、素晴らしいです。

2015/4/6  5:48

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、

 竜の口以前と以後で、大聖人は異なる御境涯です。

 ですので、御本尊と言われても、以前は釈迦、以後は文字曼荼羅。

 こう拝すことが大事でしょう。
 そして、そのもぢ曼荼羅を、大聖人は仏像と言われた。

 事実なんですねこれは。

 仏像は仏を象ったものです。
 仏そのものではありません。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり』
 (日女御前御返事)
  
 ここに、日蓮はどういう不思議であろうか。正法時代の竜樹、天親等、天台、妙楽等が顕わすことのなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、初めて、法華弘通の旗印として顕わした。
 この大曼荼羅は、全く日蓮が勝手に作り出したものではなくて、法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、ならびに十方分身の諸仏の姿を、まるで板木で摺(す)るように摺りあらわした御本尊なのである。

 こう仰せです。
 摺形木とは、木版で印刷することですが、そうと同じように命の中で摺形木をされて、そのまま御図顕された。

 摺形木ですので、元があるのです。
 その本が虚空会に顕れた多宝の塔に例えられる衆生己心の妙法である、南無妙法蓮華経です。

 先に引用した通り、一切の依正の当体がこの、南無妙法蓮華経だと仰せです。

 その南無妙法蓮華経だけは、絶対に無くならない。

 『火も焼くこと能わず水も漂わすこと能わず』
 (生死一大事血脈抄)

 私や貴方、一切衆生、大宇宙を構成するあらゆる物、その全てが南無妙法蓮華経だと仰せで、この南無妙法蓮華経だけは火でも焼けない、水でも漂わない。

 ですが、方便で現じている姿はそれぞれ仮のものです。
 これは無くなります。
 ですが、本体は南無妙法蓮華経ですから、又形を変えて出て来ます。

 若退若出です。

 この世に形として存在するものには、例外なく寿命があります。
 貴方も、私も、戒壇本尊もその定めは逃れられません。

 

2015/4/6  5:32

投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます。

 依正共に南無妙法蓮華経の当体であるから、未来永劫に消滅しない。
 だから戒壇本尊も消滅することはない。

 貴方と、んっ?さんのご意見ですね。
 少し説明致します。

 私共は仮の姿でこの世に生まれています。 
 仏法では、方便現涅槃と説きます。
 釈迦が方便で死んだと言っています。
 死が方便ですから、生きていることも方便です。

 若退若出と説かれていて、退は死の状態の生命、出は生の状態です。
 御書には、

 『いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。』
 (上野殿後家尼御返事)

 生死共に仏なんです。
 命とはそういうものなんです。
 
 所で、貴方が言うように、

 物質も消滅しないのだから、戒壇本尊も消滅しない。

 これは無理なんです。
 これが正しいなら、あらゆる物は永遠に現状維持で続くことになります。

 お宅の照明切れませんか?
 一回買った車を、一生使えますか?

 物にも形と役割があって、それは寿命があります。
 ですが、寿命で使えなくなっても、構成する物質の量に変化はありません。

 リービッヒが言っています。
 質量不変の法則。

 質量は同じでも、製品としては使えなくなる。
 娑婆世界の法則ですね。

 仏法は道理ですので、今後は貴方や、んっ?さんの道理に外れたご意見は慎まれるべきでしょう。

 少々稔のある対話をお願いいたします。

 

2015/4/5  21:22

投稿者:んっ?
君は本当に「沖の毒」ですww

2015/4/5  21:03

投稿者:沖浦克治
 んっ?さん、今晩は

 貴方は本当にお気の毒です。

 

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