2015/4/8

春の冷雨  
沖浦氏から中二日の間に大量のコメントをたまわった。わたくしの愚問に懇切丁寧に答えて下さったのだろうけれども、必ずしも要領を得るものとは言えないようだ。たぶん第三者が読めば、話がややこしくてわけがわからないに違いない。

しかし、実はけっこうシンプルなのである。まずは発迹顕本から入ろう。

 久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことは一度もありません。

 但し、それが久遠の自受用報身如来であって、その如来が大聖人お一人。

 これは間違いです。


凄いことを言うものである。なぜならば創価学会の公式サイトには次のように書かれているからだ。

この法難は、大聖人御自身にとって極めて重要な意義をもつ出来事でした。すなわち、大聖人は竜の口の法難を勝ち越えた時に、凡夫という迹(仮の姿)を開いて、久遠元初自受用報身如来という本地(本来の境地)を顕されたのです。これを「発迹顕本」(迹を発いて本を顕す)といいます。

つまり、創価学会では大聖人を久遠元初自受用報身如来だと言っているのにもかかわらず、沖浦氏はそれを間違いだと断言しているのである。

しかし、これには反論があるかもしれないので、もう少し説明しておこう。

沖浦氏は、大聖人だけが久遠の自受用報身如来なのではない、一切衆生がそうなのだ、と言っているのかもしれない。もしそうならば、いちおう創価学会の公式見解と、それほど齟齬はないことになるのかもしれない。

そこで発迹顕本の話に入ろう。

先ほど、発迹顕本をキーワードに調べたところ、なんと検索上位の大半が創価学会系のサイトだった。一位が先ほど引用したものであり、以下、これでもかと言うくらい創価学会系のサイトばかりが登場するのだ。つまり、彼らは発迹顕本が好き(?)なのだ。
わたくしは前回、これを正宗教学における常識中の常識だと書いた。たぶん日蓮宗のほうでは言わないはずである。なぜならば、これはいわば日蓮本仏論に根差した考え方だからであり、釈迦本仏論の立場としては認めるわけにはいかないのだろうと想像されるからである。
そこで本来ならば検索上位に日蓮正宗系のサイトが出てこないといけないのだが、おそらくは層の厚さ薄さの問題なのだろう。創価学会のほうが圧倒的に層が厚いので、検索上位には自ずと彼らが登場することになるのだと思われる。

さて、そこで問題である。発迹顕本とは何か、それが問題なのだ。

実は御書中のキーワードとしてはきわめて希少、それがこの発迹顕本という用語なのである。前回、沖浦氏に問い質したのもこれがためで、結局のところ、氏はこれの直接の文証を提示することが出来なかった。

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて・・・

常識中の常識である。しかしながら、ここに発迹顕本という語はない。

 聖人御難事では、大聖人は明確に出世の本懐を既に遂げたと仰せです。

 ご本人が仰せですので、他人の推測が入る余地はありません。


これをアゲアシ取りなどと思ってはいけない。ようするに出世の本懐は大聖人御自らが明確に仰せられている。このことを沖浦氏は知っているわけである。もちろん出世の本懐が具体的には何であるかは議論の分かれるところであって、今や創価学会では戒壇の大御本尊を否定する方向に走っているわけであるが、ともかく大聖人が出世の本懐をあそばしたという点に異論はない。だったら前掲の開目抄の御文はどうなのかという話なのである。発迹顕本をあそばしたとは書かれていない。

結論として、沖浦氏は文証を提示できなかったということになる。

ちなみに、創価学会の公式サイトでは発迹顕本と共に久遠元初自受用報身如来という用語を使っているが、これも希少な用語である。おそらくは御相伝書にしか出てこない言葉だろう。

以上、ここまでは発迹顕本について書いて来たわけだが、創価学会員のお好きな発迹顕本は、どうやら正宗教学を拝借しないことには成立しない教義のようである。

次が厄介である。

 戒壇本尊は物で出来ています。
 厳然たる事実です。
 物はいつかは消滅致します。
 ですが、法は消滅致しません。


繰り返し引用している沖浦氏の発言であるが、少しだけ進展があった。以下、氏の新たな発言の中から、重要と思われる部分を紹介したい。

 この世に形として存在するものには、例外なく寿命があります。
 貴方も、私も、戒壇本尊もその定めは逃れられません。


進展と書いた理由をおわかりだろうか?

沖浦氏は今まで散々、自分自身を南無妙法蓮華経如来だと言い、物質で出来た戒壇の大御本尊よりも勝れるかのごとく言ってきたのだ。しかし、ここでは同列に見ていることになる。そこで改めて前掲を読むと、なるほど、法は消滅しないと言っているのだった。

つまり、これはいわゆる法勝人劣思想と呼ばれるものである。すると、沖浦氏はいわゆる人法一箇ないし人法体一を認めない立場なのだろうか?

最初に厄介だと書いたのはこのためだ。

実はわたくしの長年の懸案事項がこれなのである。未だによくわかっていないというのが正直なところである。しかし、これを書くと話がますます混迷を極めるので、今回はやめておこう。

そこで沖浦氏に問いたい。まずは確認である。

物体本尊は本尊そのものにあらず

氏はこのような意味のことを言い続けてきたわけだが、今もそれに変わりはないのかどうかをお聞きしたい。ここで回答を待っていても仕方がないので、話を進めてしまおう。次はわたくしからの新たな問いである。

南無妙法蓮華経は法そのものにあらず?

当体義抄には聖人が因果倶時・不思議の一法に対して妙法蓮華と名づけたとある。また御義口伝の冒頭には南無妙法蓮華経を梵語では薩達磨芬陀梨伽蘇多覧と言うのだと仰せである。

沖浦氏は仏像について、仏像は仏を象ったものであって仏ではない、という意味を繰り返し言っている。だったら同じではないかと言いたい。南無妙法蓮華経は法を表現したものであって法そのものではない、ということにならざるを得ないのではないかと言いたいのだ。これはまったく同じ理屈のはずである。仏と仏像はいわゆる色法に属する概念だからすぐにわかる。ところが法と南無妙法蓮華経の関係は心法の概念なのでわかり難い。ゆえに沖浦氏は何となくわかったような気になっているだけであって、実はまったくわかっていないのではないかということなのだ。

法は消滅しません。

再掲であるが、この言葉に酔い痴れたところでどうにもならないことは、ここまでの説明でよくわかったのではないかと思う。そこで無始無終について、少し触れておこう。

久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことは一度もありません。

そもそも三身とは何か、その三身が無始無終とは如何なる概念なのか、実はそこがよくわかっていないのではないかと思う。いや、これは沖浦氏がわかっていないのではなく、我々全員がわかっていないのである。何しろ必ず死ぬのである。一人の例外もなく死ぬのだ。説明上は三世の生命だとか輪廻転生だとか理解しているつもりになっているけれども、それが本当かどうかはわからない。

 この世に形として存在するものには、例外なく寿命があります。
 貴方も、私も、戒壇本尊もその定めは逃れられません。


再掲の繰り返しで恐縮だが、結局のところ、沖浦氏の言う我々は本来南無妙法蓮華経如来ということもアヤシイものである。氏は久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことはないと言う。ならば我々も本来は無始無終のはずなのだ。ところが上掲のごとく、氏は寿命があることを認めているのである。

つまり、法は消滅しないなどと言ったところで死は免れない、無始無終などと言ったところで死は免れない、これが厳然たる事実ということだ。

最後は難解な話になってしまったが、今日のポイントは二つである。発迹顕本のことと、法のことだ。現状、創価学会は正宗教学に依存している。この事実は否めない。発迹顕本が好例であって、これは正宗教学のパクリに他ならないだろう。そこを自覚しないといけない。そして法は消滅しないなどと文字曼荼羅を貶めるようなことを言ったところで、そもそも南無妙法蓮華経がなぜに法と言えるのかと問われれば、結局は同じ土俵に戻されてしまうことに気がつかないといけないのだ。

以上、うまく説明できたとは言えないけれども、これをもって沖浦氏への返信としたい。

2015/4/9  16:16

投稿者:沖浦克治
大沢さん、今日は。

 私は以前池田先生を疑って、書物も捨てたことがあります。
 その後、自分の過ちに気付き、その後はもう絶対に変わることがありません。

 世界で最後の一人になろうが、人生の師匠は池田先生お一人です。

 それと、私は創価学会が絶対だと発言したことはありません。

 牧口先生、戸田先生、池田先生と言う三人の聖人方が唱え広めた、創価仏法が絶対だと発言しております。

 お間違いないようにお願い致します。

2015/4/9  8:13

投稿者:大沢克日子
沖浦さんはそんなに生き永らえないでしょうけど、あと二〜三十年したら「池田会長などと言う稀代の習い損ない」云々って言いそうな感じですね。

今は創価学会絶対って言っていますが。

2015/4/9  5:22

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。
 
 日蓮正宗の愚かな教義は破折し尽しましたので、本来に戻って功徳を書きます。

 松本セキさんの体験で、

 長女が働いて稼いだお金を全部家に入れてくれた。
 それで少しは贅沢をして良いと思って、お肉屋さんでコロッケを買って夕飯に出した。
 子供達から歓声が上がって、本当に幸せだった。
 我が家で初めて並んだ芋の煮つけ以外のおかずだった。

 こういう意味の書き込みがありました。
 私の小学生のころ我が家もおかずに困る家庭でした。
 母がさんまを買ってきて、かば焼きにして出してくれました。
 でも、あんまりおいしくないので、しぶしぶ食べているような家。
 ある時父親が、

 今夜は本物のウナギを蒲焼で食べる。

 そう言って、母が夕飯に、ウナギのかば焼きを出しました。
 でもさんまと変わらない味で、私が、

 ウナギってサンマと同じだ。

 と言うと、父が辛そうに、

 すまん、本当はこれはサンマなんだ。
 と打ち明けました。

 私はその時、父親の心が嬉しくて嬉しくて、今もよく思い出します。

 あの時の苦しい生活は、今では財産です。
 その後創価学会員となりましたが、創価学会員が貧乏人と病人の集まりだと揶揄され、実態もその通りのころ、貧困と病のどん底で創価学会員となりました。

 それが、人生最大の誇りです。

 本当に、功徳功徳の人生です。

2015/4/8  21:59

投稿者:沖浦克治
>氏は久遠元初の三身が無始無終であることに反対したことはないと言う。ならば我々も本来は無始無終のはずなのだ。ところが上掲のごとく、氏は寿命があることを認めているのである。

つまり、法は消滅しないなどと言ったところで死は免れない、無始無終などと言ったところで死は免れない、これが厳然たる事実ということだ。

 巌虎さん、ご自分が死んでそれで終わりだと信じておられるなら、御本尊なんか拝む必要ありません。

 どんなに拝んでも、死んだらハイおしまい・・・・

 題目唱えて後生を願うなんてナンセンスですね。

 ついでですが、創価学会は日蓮正宗教学を基本とするとか、離れられないとか、そういうご意見は愚かです。
 
 既に書きましたが、あの宗派は御書に無いことを根幹とする邪義で固まった宗派です。

 戒壇本尊本懐とか、大聖人のみご本仏だとか、法主の血脈だとか、おとぎ話レベルの低劣教義を基本に据えております。

 あろうことか、寛師などと言う稀代の習い損ないを、大聖人と並べたてる愚か宗です。

 大聖人とは全く関係がございません。
 そういう所が、私共天下の創価思想の本になり得る道理すらございませんね。

 アホらしいですし、創価学会の一員として迷惑でしかございません。

2015/4/8  21:52

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、今晩は

>つまり、創価学会では大聖人を久遠元初自受用報身如来だと言っているのにもかかわらず、沖浦氏はそれを間違いだと断言しているのである。

 間違いだと書いていません。
 久遠元初のことを、久遠五百塵点その上と言います。

 その時。唯我一人として悟りを開かれたのが、日蓮大聖人だ。

 これが寛師教学です。
 所が大聖人はそう言う事はおっしゃいません。

 『過去久遠五百塵点のそのかみ唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり、』
 (船守弥三郎許御書)

 一切衆生が久遠の自受用報身にょらいである。

 明言されておられます。
 創価学会の公式見解より、御書が優先することは陶然過ぎるほど当然です。

 大聖人門下なら信受すればいいのです。
 日蓮正宗はここが全くダメです。
 ですので、あの宗派は大聖人と関係がございません。
 況や、戒壇本尊本懐などは噴飯ものでしかありませんんし、法主の血脈などと言うに至っては、愚の骨頂に過ぎません。

 寛師はここに迷った。
 習い損ない故でしょうね。


 発迹顕本とは、迹を発って本を顕すとの意味で、火としての仮の姿から、久遠の南無妙法蓮華経であることを悟ることを言います。

 釈迦は菩提樹の下で、伝教は比叡山散策中に、大聖人は竜の口で、戸田先生は獄中の悟達でそれぞれ発迹顕本をなさいました。

 その時のことを、大聖人は、

 『日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて』
 (開目抄下)

 これが大聖人の発迹顕本です。
 ですが、発迹顕本と出世の本懐を遂げることは異なります。
 
 前者は、自身が仏であるとの悟りを得る行為。
 後者は、悟りを得た自分が衆生を救済する行為です。

 混同してはいけませんね。

>南無妙法蓮華経は法そのものにあらず?

 法そのものです。
 ですが存在するだけでは無意味です。
 衆生が唱えてこその法です。

 『妙とは法性なり法とは無明なり無明法性一体なるを妙法と云うなり蓮華とは因果の二法なり是又因果一体なり経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて経と為すと』
 (御義口伝)

 『仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、』
 (新尼御前御返事
 

 

2015/4/8  18:38

投稿者:んっ?
巌虎さん,こんばんは!

>どうやら正宗教学を拝借しないことには成立しない教義のようである

当たり前のお話ですよね?
例えば史実其のものにしてもそうです。
2/16の彼の書き込み一つ取ってみても,

>61 :沖浦克治:2014/02/16(日) 07:58:29 ID:MCKEasM20
>今日は大聖人の、お誕生日です。
>良き日を、良き境涯で迎える。
>功徳だな・・・・・

当たり前の事のように彼は書いていますが,
では,出典が何処にあるのか,彼は知らないようですww

2015/4/8  17:47

投稿者:大沢克日子
仕事の合間の休憩時間なので、横着してコメントさせていただきます。

前回のブログに下記のコメントをさせていただこうとして思い留まったのですが、今回のブログを拝見して改めてそう感じた次第です。

>創価学会員のお好きな発迹顕本は、どうやら正宗教学を拝借しないことには成立しない教義のようである。

沖浦さんのコメントの内容は脱日蓮正宗の流れの中のものなんでしょうが、それでも日蓮正宗の教学を前提にしないと辻褄が合わないところが多々ある。本尊についてもそう。

元教学部長氏の書いてある内容が正しいとは思いませんが、本尊に関しては普通だったらそう感じて当然だと思います。
その根本をとにかく崩そうとしているのが創価学会。

池田先生が
「そこまでやる必要はない」
と発言したのが事実ならば、意外でしたが。

(前回一度思いとどまった内容)

沖浦さんは

> 日蓮正宗の寛師教学などに見られる、極めて矮小なものではありません。

と胸を張っておられるけれども、沖浦さんのコメントを拝見すると中途半端というか、知らず知らずのうちにあなたの揶揄する日蓮正宗の教学から抜け出していないところもあれば、無理矢理否定しようとしている部分もありますよね。
創価学会教学も、日蓮正宗教学が根本にあります。
否定する内容と、根本・前提となっている内容が共存している。

マダラ教学とでもいうのでしょうか。

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