2015/4/15

春の陽気  
沖浦氏のスキー姿はけっこうカッコイイと思う。専門的にはどうか知らないが、わたくしのような素人目にはそう映る。あの急斜面を滑降すること自体、相当のレベルに達していなければ無理であろうし、それを七十歳にしてやり遂げられるのだから、まあ、自慢してもおかしくはないだろう。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=574987475976088&set=a.266449960163176.1073741827.100003945214954&type=1&theater

興味のある人はリンク先をご覧になられるとよい。

 忙しいことは良い事です。

 70歳になるが、忙しい。
 世間でニーズがある。

 創価の冥益です。


創価学会の冥益には異論があるものの、おっしゃることはごもっともである。七十歳にして忙しい。世間から必要とされている。素晴らしいことだ。

やや話が脱線するが、世間ではブラック企業のことが問題になっている。あるいはさらに大局的に見れば、非正規雇用の増加が問題視されている。ごく最近のニュースでは、年収一千万以上の人を残業代ゼロにするという法案を出すとか出さないとか、そんなようなことが話題になっていた。

これらはすべて同じ方向性を示しているように思える。すなわち労働者搾取である。

企業は金儲けを目的としているわけで、労働者はそのための道具に過ぎない。あるいはコストと言い換えてもいいだろう。リストラ対象年齢が低下しているとも言われるのは、まさにコスト削減の一環であろう。かつての終身雇用の考え方で行けば、一度入社した人はよほどのヘマをしない限り、定年まで居られる。しかし、企業の本音は逆である。ダメな人間は追い出したい。ダメな社員に給料を払うのが、いちばんのムダなのだ。そんなところにコストを掛けるわけには行かない。その結果がリストラの断行である。

ようするに文句を言わずに低賃金で働く人、それが企業のニーズなのである。ごく一部の能力のある人を除いては、国民の大半がそういう方向性に進まざるを得ない、そんな国になりつつあるのだと思う。

よしんば定年まで無事に勤め上げたとしてもである。逆にそれはそれで次なる試練が待っているのだと思う。今は平均寿命が長い。ようは定年後の人生がけっこう長いのだ。会社でそれなりに活躍していた人も、会社を辞めてしまえば、タダの人である。そこから残りの人生をどうやってまっとうするかが難しい。

こうして見ると、沖浦氏の人生はけっこう理想的なのかもしれないと思う。

まあ、しかし、それはそれ、これはこれ、である。

 基本的に日蓮正宗系の教学の方々は、顕正会や正信会、法華講員さん方に見られるように、御書に暗いですね。

日蓮正宗系の人は御書に暗いとのことだが、これはお互いさまだろう。創価学会系の人も五十歩百歩だと思う。ともかく御書を独習する人はそんなに多くない。正宗では極理の師伝を強調している。これは御書を勝手に読んでもわからないと言っているみたいなものだろう。顕正会の場合はそもそも御書を持たないので勉強の仕様がない。正信会の場合はどうだか知らないが、創価学会は人数が多いのでマレには独習している人もいることだろう。ただし、比較的に多いというだけであって、絶対数はそれほどでもないはずだ。結局のところ、組織の中で学習の機会を得て学んでいる人が大半であって、そういう人は御書に明るいとは言えないと思う。なぜならば、その組織の都合で御書がセレクトされるわけであって、広く満遍なく学べるわけではないからである。

アンケートが取れれば面白いと思うことがある。御書の所持率と通読率である。顕正会員の御書所持率は低い。これはわかり切ったことだ。しかし、もしかしたら通読率は高いかもしれない。創価学会の場合は逆だろう。これは人数の多寡が影響するわけで、創価学会は人数がベラボウに多いし、自分のところで御書を発刊しているので、自ずと御書の所持率は高いはずである。しかし、それが災いして、通読率は低くなる。顕正会は自前の御書がないので、もし御書を持っている人がいるとすれば、その人はかなり積極的と言えるだろうから、御書全編を読破している可能性も高くなる。

しかし、今のは比率の話である。これで顕正会のほうが勝れていることにはならない。やはり絶対数が物を言う。これはネット上に出現する顕正会員が圧倒的に少ないことからも言えるだろう。

 御本尊が仏そのものではないことも、御書に基づいて明白です。

 仏像との呼称。 
 摺形木との表現。

 この二つの文証は絶対の説得力を持っています。
 靴がしたいなら、

 我が図顕の曼荼羅こそ仏の本体なり。

 と言うレベルの明確な文証を提示せねばなりません。


さて、今日はこれをやっつけて終わろう。直前に、戒壇本尊本懐の明確な文証がない、などというアホなことが書かれているけれども、それはナイモノネダリだと言っておこう。問題は上掲である。

観門の難信難解がわかっていない。はい、オシマイ。これでいいのだが、それではあまりにも不親切なので、もう少し工夫してみようと思う。

仏像は沖浦氏の勝手な解釈である。摺形木も勝手な解釈と言ってしまえばそれまでだが、中には沖浦氏の説明に説得力を感じている人もいるかもしれないので、ここでハッキリと書いておかなければならないだろう。

・・・是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なり。

そもそも沖浦氏は己の発言が大聖人を貶めることに気がつかないのだろうか? ここに日蓮が自作にあらずとある。つまり、沖浦流の考え方だと、大聖人は他作をコピーしたという話にもなりかねないのだ。盗作であると。

言葉は時代によって変遷する。意味・内容が変化するのだ。ゆえに摺形木を今日のコピーの意味で解釈したら大間違いである。摺形木=本物と解釈すべきが至当である。これはもう時代が異なるので現代感覚で推し量っても仕方がない。そこをよく考えるべきだろう。強いて言うならば戸籍謄本が近いかもしれない。謄本というのは写しの意味である。しかし、これをコピーと言う人はいないだろう。コピーはいかにも軽々しい。謄本は現代においても相当に重く感じられる表現のはずである。

さて、ここからが重要だ。

 日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。・・・日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。

沖浦氏は、我が図顕の曼荼羅こそ仏の本体なり、という明確な文証を示せと言っているが、これほど明確な文証もあるまい。これを素直に拝せないとなると、もはや沖浦氏の信心を疑わざるを得ないところである。もっとも氏はすでに日蓮本仏論を否定する方向に走りつつあるわけだし、曼荼羅正意論も否定する立場のようなので、すると上掲の日蓮がたましひは曼荼羅ではなく題目なのだと言いたいのかもしれない。もしそうならば、ヘソマガリだなあ、と言う以外にないだろう。当該御文は御守り御本尊を前提に論じられているのだから、題目だけが独立しているわけではないのは自明のはずである。そこを忘れてもらっては困るのだ。

白米一俵御書は傍証として重要である。

白米は白米にはあらず。すなはち命なり。

沖浦流で行けば、白米はあくまで白米だろう、命のわけがない、ということになりそうである。つくづく信心のない人だ。

命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし。

この開目抄の御文が前掲と函蓋相応していることに気がつかなければいけない。まさに大聖人は竜の口において成道を遂げられた。その後、御本尊をあらわし始めるのだ。

名をば後代に留む・・・

一般人が読めば大聖人の名前が歴史に刻まれたことを想起するかもしれない。しかし、それはあくまで表面的な読み方だ。まさに、あの大曼荼羅御本尊に認められた日蓮在御判こそが、名をば後代に留むの本当の意味であると、このように拝するのが正宗教学の真髄だろう。これを大聖人のたましひと言わずして何をたましひと言うのだろうか?

白米は白米、命のわけがない。曼荼羅は曼荼羅、仏のわけがない。こんなことをいつまでも言い続けてはいけない。

2015/4/16  7:06

投稿者:沖浦克治
  おはようございます。

 今朝も朝一ゴンドラでゲレンデです。

 昨日は、モーグルのワールドカップ選手と一緒にすべりましたが、今日はスロープスタイルのワールドカップ選手と一緒です。

 生徒がドンドン凄くなって行く、

 功徳ですね。

2015/4/16  6:17

投稿者:沖浦克治
 現実社会で功徳の実証を示せない人が、

 成仏など出来る道理もありません。

 『是を以て思ひ給へ一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだにふらし給はず況やかたき往生成仏をや、』
 (頼基陳状)

 少なくとも、日蓮門下を名乗り、題目を唱える人たちなら、祈って祈って、戦って戦って、石にかじりついても功徳を出す。

 この執念がない人は、日蓮門下の資格がございません。

2015/4/16  6:14

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。

 仏法者を名乗るなら、自身の仏道修行の結果として、社会に功徳を示すことが責務です。

 『法華経の信心をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや、』
 (四条金吾殿御返事)

 日蓮正宗であれ、顕正会であれ、正信会であれ、創価学会であれ、信心する個々人が、社会生活の中で周りが見て、

 あの人は立派に頑張って実証を出している。
 だから、あの人がやっている信心は正しいのだな。

 このように評価を去れねばなりません。

 ですから、私は創価人として功徳を出し、それを書き続けます。

 私の昨日の功徳の形です。

 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=575585765916259&set=a.459663217508515.1073741831.100003945214954&type=1&theater

2015/4/15  22:11

投稿者:沖浦克治
 大沢さん、

 私は裏切りの側にはおりませんよ。

 日蓮正宗と言う宗派は、伝統的に裏切りの習性があります。

 ですが、創価学会はそうではありません。
 だからこそ袂を分かったのです。

 日蓮正宗は戒壇本尊本懐論と、法主の血脈論採用し、大聖人仏法を裏切りました。

 こういう事実をキチンと弁えないとダメですね。

2015/4/15  21:06

投稿者:大沢克日子
> 裏切られる側になっても、裏切る側にならない。
 嫉まれる人になるが、妬む人にはならな。

生活上、良い心掛けだと思います。

ですが沖浦さんは仏法上、「裏切る側」に行ってしまっている訳です。

沖浦さんは世間様云々とよくおっしゃると思いますが、その世間様の例に当てはめると沖浦さんの説はおかしいのです。

せっかく世間で業績を残しているのですし、一般的に言えば余命は平均して十数年でしょうから、大切にしていただきたいと思います。

2015/4/15  20:57

投稿者:沖浦克治
 大沢さん、

 本気で大聖人仏法を広めたなら、功徳出す信心を心掛ける以外にありません。

 破邪顕正とは、功徳を出して世間に示すことです。
 
 『第一法師功徳の事
 御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得意可きなり云云。』
 (御義口伝巻下)

 悪を滅することが、破邪です。
 善を生ずる子が、顕生です。

 罵って悪しざまに言う事ではありません。
 現実社会に即して御書を拝するとは、こういう事なんですよ。

2015/4/15  20:33

投稿者:沖浦克治
 大沢さん、今晩は

 私は創価の仏法者なんです。

 決めた生き様がございます。

 裏切られる側になっても、裏切る側にならない。
 嫉まれる人になるが、妬む人にはならな。

 御書に書いてあることはそう言う事なんです。
 御書を学問としていくら研鑽しても、現実社会を行く抜く指針として拝せないなら、こういう考えは出て来ません。

 大聖人の生き様がそういうものです。
 その人間としての大聖人の生き様に共鳴し、行動できるかどうか?

 弟子の資格はそれだけです。

 御書を読むには極意があります。
 依義判文して読む。
 具体的には、御書に現実を当てはめるのではなく、現実社会の立場から御書を読む。

 大聖人滅後700年間で、戸田先生だけがこれに成功なさいました。

 だから創価学会は世界に広まったのです。

 宗門の教学では不可能です。

2015/4/15  19:52

投稿者:大沢克日子
>同じく、御本尊も道具です。

沖浦さんは重量挙げの教え子が大勢いると思いますが、教え子の中から大成する人が出たとして、その人が
「沖浦さんは指導者面しているけれども、元々は私に素質があったからこれだけの成果が出ているのであって、沖浦さんは私の素質を引き出すための道具にすぎない。偉そうに師匠面するのがおかしい」
と言いはじめたら、沖浦さんはどう思うのだろう?

沖浦さんがそれを良しとしたとしても、世間的にいえば「教えてもらっておきながらその態度はなかろう。恩知らずの人だ!」となる。

仏法においても能所の立て分けということがある訳で、沖浦さんは
あたかもその思い上がった教え子みたいな事を言っている。

沖浦さんは齢七十に至っているけれども、今後亡くなるまでの間に、せっかく教えた教え子からそういう不知恩の者が出て、痛手を負って人生を終えるようなことにならないだろうか。

重量挙げにしてもスキーにしても、沖浦さんの努力には敬意を表するが、同時に沖浦さんのことを心配している。

戸田先生は偉大な人ですが、沖浦さんのような勘違いを産み出す言葉(御本尊道具論)を使ったことは誤りであったと思います。

2015/4/15  17:50

投稿者:沖浦克治
巌虎さん、今晩は。

 ご評価を頂きました事、感謝もうしあげます。

>観門の難信難解がわかっていない。

 これは貴方方がお分かりでないのです。
 紙に書かれた曼荼羅で何故拝むと力用があるのか?
 これは難信難義です。
 こういう意味なんです。

 紙の曼荼羅がそのまま仏の本体だ、と言う事ではございません。

 所が戒壇本尊にこだわる人は、曼荼羅がそのまま南無妙法蓮華経如来の当体だと理解出来ないことを。観門の難信難義だと言いますね。
 これは間違いです。

>大聖人は他作をコピーしたという話にもなりかねないのだ。盗作であると。

 これも根底に悪意があります。
 盗作であるなど、一度も書いておりません。
 御図顕なされた大聖人御本人が、

 全く自分が勝手に考えたことではない。
 既に法華経に説かれているように、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なのだ。

 このように言われておられます。
 大聖人門下を名乗るなら、素直に信受すべきです。

 南無妙法蓮華経も大聖人が最初ではありません。
 ですが、それを持って、大聖人のお題目を盗作とは言いません。 
 少し道理を弁えて下さいね。

 『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。・・・日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。』
 (経王殿御返事)

 これは曼荼羅本尊がそのまま仏の本体だとの御文ではありません。
 同じ御文の直前には、

 『つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、』

 御本尊を剣に例えておられます。
 剣は道具です。
 同じく、御本尊も道具です。

 世間でも、道具に職人の魂がこもるとの表現は常にあります。

 御書は正しく拝さねばなりません。

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