2015/5/11

独白者の狂気  
管理能力を問うコメントが寄せられた。しかし、これについては特に申し上げることはない。拙ブログは独白を基本としているので、そもそも管理などという概念を有さない。しかもである。コメント投稿者のほぼ全員が常識的であり、立派なオトナたちであるからして、その自主性に任せればいいのである。事実、これまでさしたる問題も発生せず、やって来れた。これも偏にコメント投稿者の皆様のお陰(?)である。

ということで、わたくしに対する批判は歓迎であって、それを排除するつもりはまったくないし、また逆に、わたくしのほうからも各氏に対して言いたいことを言わせてもらっているわけなので、これはこれでバランスが取れているのではないかと思う。これを管理能力の欠如だと言われれば、まさにそれはそのとおりであってそれまでの話であるが、各自の自主性を重んじる気風なのだと理解下さるならば、それもまた一つの理想的なブログのあり方なのではないかと思う。

特に申し上げることはないなどと言っておきながら、気がつけばナンダカンダと書いてしまっている。これも独白ゆえの気楽さだろうか?

せっかくなので話を続けよう。

ふてぶてしいヤツを見ると腹が立つ。

腹が立つというのは違うかもしれないが、まあ、誰もが似たような感情を懐くのではないかと思う。物凄く傲慢で厚顔無恥で尊大で、そんなヤツがいれば誰もが好からぬ感情を懐くものだと思う。コイツが泣きべそをかくところを見てみたいものだと、口に出しては言わないにしても内心ではそのような感情を懐くのが、おそらくは平均的な人間の心理であろう。

ネットの世界ではそれが言えてしまうのだ。現実の世界では口が裂けても言えないことをである。それが容易に言えてしまうのがネットの世界なのだ。

ある意味、沖浦氏とわたくしの共通項は、フテブテシサなのかもしれない。ハッキリ言って、タイプはまったく異なる。しかし、この独白ブログにおけるわたくしの傲岸不遜な文章は、読者にある種の感情を懐かせる意味において、沖浦氏のそれと共通なのかもしれない。ゆえに沖浦バッシングがいつの間にか巌虎バッシングにスライドするという現象を起こすのだろう。また、客観的な事実として、わたくしは沖浦氏に相当寛容であり、沖浦氏もまた、なぜかわたくしに対しては相当に擁護的である。この点に不満を懐く読者も相当数いると思われる。

ここでもう一つ、共通項を出しておこう。いや、これはわたくしの勝手な思い込みであって現時点ではまったく通用しないだろうことを自覚しつつ書くわけだが、おそらくは覚悟がハンパないのだと思う。

覚悟がハンパない?

自分で言っているようではオシマイだが、少なくとも沖浦氏は実名で胸を張って己の主義主張を展開しているわけだから、その覚悟たるや相当であろう。かく言うわたくし自身も、沖浦氏に及ぶか及ばざるかは知らないが、相当の覚悟を持ってブログを書いているつもりなのだ。

だからフテブテシクも感じられるのだと思う。

先日、沖浦氏は唐突に質問会なるものを打ち出した。ゆえにわたくしもそれについては否定的な見解を示したわけだが、しかし、沖浦氏の言い分も一理あるのだ。世の中にはいわゆる坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な人が多くて先般の一連の応酬においてもそうした雰囲気が濃厚だったけれども、わたくしは氏の言い分も相当だと思う。ようするに顕正会では創価学会員を救うというキャンペーンを行なっているのである。しかるに沖浦氏のところには誰一人として近づかないのだそうだ。これは確かにおかしい。救うと言っている以上、救わねばならない。法華経は皆成仏道の教えである。どれほどの大悪人であっても救わねばならない。しかし沖浦氏はテゴワイ。それゆえに顕正会の活動会員たちも躊躇しているのだろう。

ということで、沖浦氏の質問会はいわば顕正会員へのメッセージなのだ。創価学会員を救うんでしょ? だったら遠慮せずにイラッシャイ、ということなのである。

沖浦氏はデタラメなことをたくさん言っている。これは事実であり、わたくしもこれまでたくさん指摘してきた。けれども、たまには筋の通ったことを言うこともあるのだ。その時に、素直にそれを認められるか否か、そこが分かれ目なのだろう。わたくしは認める方針である。

沖浦氏の過去の不祥事をあげつらう人たちがいる。

わたくしはこれに反対である。これはいわば反則技であり、即反則負けだと思っている。いや、もちろん、ここは議論の余地があるわけだが、ともかくわたくし的には反則だと思っているので、自分自身がこれを使うことはない。

この点について、わたくしは二段構えで考えている。

まずは単純に、議論で負けそうになって苦し紛れに反則技を繰り出す、そんなふうに思われるのが物凄くイヤなので、最初からそういう話はしないほうがいいというのが一つの考え方である。いかがだろうか? そうは思わないのだろうか?

もう一つが重要だ。

もし仮に沖浦氏と対面法論をすることになった時、どうするかである。既述のごとく、わたくしは氏の不祥事をあげつらうのを反則技だと思っているのでそれを持ち出すことはないし、議論で負けそうになったとしても同じである。では、他の人たちはどうするつもりなのだろうか?

結論は出たと思う。

ようするに、わたくしは場合によっては対面法論も辞さない、そういう覚悟でブログを書いているのだ。だから反則技を使わない。純粋に議論を戦わせる。

けれども、おそらく反則技を使っているような人は、ハナッから対面法論など考えてもいないのだろう。つまりはゲリラ的に、テロ行為のごとく、沖浦氏に立ち向かうしか術がないのだ。

相当に過激なことを書いてしまったようであるが、仕方がない。思っていることをそのまま書いただけの話である。これで余計に心証を悪くしたとしてもいいのだ。ようはこれが覚悟ということなのである。

2015/5/14  12:01

投稿者:沖浦克治
 奪依婆さん、今日は。

 面白いギャグでございます。

2015/5/14  11:59

投稿者:沖浦克治
 マイケルさん、今日は。

 善導??
 
 だからワザワザここで書いているのですよ。
 
 何時かは立ち直って欲しいと思わないなら、最初から相手に致しません。

2015/5/14  10:17

投稿者:奪衣婆
横からのコメント失礼いたし申し上げます

>大沢さん、ユタさん、んっ?さんは、不覚後の人生。

>『法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、』
 (寂日房御書)

>これが覚悟です。
>貴方方は行者どころか信者ですらない。

弟子・行者様にたいしてのお手紙でございます。
それを貴方様は、信者ではないとお三方の名をだされて愚弄する姿は、法華読みの法華知らずといえるのでございます。

>そりゃ、恥ずかしくて何方とも対面して実像見せられませんね。

「一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(崇峻天皇御書)

 沖浦様に置かれましては、御難しい御紋は御理解不可能と拝察しております。
老い先短い御身が不憫でございます。
閻魔大王様に対面され、地獄の鬼の責め苦を受ける御身。不憫不憫。

2015/5/14  8:46

投稿者:マイケル
横レス、失礼します。

>何時までそういう恥の人生おやりですか??

善導してあげたらいかがですか?

2015/5/14  8:20

投稿者:沖浦克治
 結論です。

 大沢さん、ユタさん、んっ?さんは、不覚後の人生。

 『法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、』
 (寂日房御書)

 これが覚悟です。
 貴方方は行者どころか信者ですらない。

 そりゃ、恥ずかしくて何方とも対面して実像見せられませんね。

 何時までそういう恥の人生おやりですか??

 

2015/5/14  8:16

投稿者:沖浦克治
 大沢さん、おはようございます。

 貴方の信心の底の浅さが露呈される書き込みですね。
 この文章から読み取れるのは、貴方が本気で祈ったことがない人であることです。

 この点はんっ?さんも同様です。
 祈りの苦しさ、祈りの強さ、祈りの素晴らしさを知っている人は、こう言い駄文は書けません。

 私は世界を獲りましが、その苦しさを知っております。
 ですので、他種目で世界を狙う人を決して揶揄致しません。

 ですが、そういう体験の無い方は平気で揶揄致します。

 一流の心は一流にしか理解出来ません。

 唯仏与仏乃と言います。

 私は叶わねば御本尊を焼くなどとは言いませんし思いません。

 貴方がそういう印象操作をしないと、私に敵わないことは貴方の現在の人生のレベルを示します。

 怨嫉謗法はダメですよ。

 それと、貴方は私に関して今回捏造のデマを書かれました。
 その結果、貴方はご自分が書いた内容の人生をご自分で選んだのです。

 因果の理法とはそういうものですよ。

2015/5/14  7:32

投稿者:大沢克日子
横から失礼します。

沖浦さんは構ってほしくてそう言っているのか、本気でそう言っているのかしりませんが、最早ダメですね。
沖浦さんが本当に功徳を感じて信仰が素晴らしいと確信しているのなら、もっと堂々としていて良いはずなのに、何でいつも言い訳がましい事を言うのかと疑問に思います。

「私は自分の不徳故の事件を隠したことも、言い訳も致しません。

 ひたすら御本尊の前に座り、懺悔滅罪の唱題を致しました。
 その半年、数珠を3回切りました。
 必死で祈っていたら勝手に切れました。」

先日指摘されたからそう言っているのでしょうが、幼稚園児がするような言い訳を何故するのか疑問に思います(一々解説しませんが)。

もし私が沖浦さんの立場だったら、このように書くでしょうね。

「私は不祥事により、公務員の職を辞さざるを得なくなりました。そもそもそうなったのも自業自得によるもので、病欠中にスキーをしていたことが発覚して、素直に謝罪すべきであったのに、『仕事はできなかったがスキーはできた』などと、今にして思えば非常識な言い訳をしたことから、報道されて世間から糾弾される事態になって、公務員を辞職せざるを得ませんでした。
その段階になって、自分がいかに非常識なことをしてしまったかに気付いたのですが、全てを失った私にはとにかく本尊を必死に拝むことしかできませんでした。
私は半年間、必死に祈りました。
本当に追い込まれていた私は、感情をコントロールできずに、数珠を切ったり「功徳を出さないと焼き捨ててやるぞ」と仏壇を揺さぶって祈るような有様でした。
当時は本当に異常な状態でしたが、私は「自分自身の非常識な振舞いにより世間様の信用を失い、法を下げるような振舞いをしてしまったのだから、今後は世間様から信用され、一流の人物として評価されるような人間になろうと決意しました」

表現はどうでもいいのですが、とにかく自分の失敗は失敗、おかしいことはおかしいこととして何故素直に見つめられないのだろう、いつも言い訳に満ちているんだろうと思います。

もっと堂々とすればいいのに、何か裏があるのでは、と思います。

これ以上はまた繰り返しになるでしょうから、コメントしませんが。

2015/5/14  5:29

投稿者:沖浦克治
 ユタさん、おはようございます。

 御書にもキチンとございますし、引用致しました。
 貴方は御書を人生の指針と出来ない。

 それりゃ功徳は出ません。
 
 『かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわいちやうりやうまさかどすみともといはれたる者は名ををしむ故にはぢを思う故についに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢはもののかずならずただ後生のはぢこそ大切なれ、』
 (寂日房御書)

 貴方が大聖人門下だと思われるなら、この御書心肝に染めないとダメですね。

 大聖人は匿名などお使いになられません。
 命を失う覚悟で国家諫暁をなさいました。
 ハンネで他人の悪口を言う事は、大聖人門下の振る舞いではございません。

 それは提婆達多の行為です。
 怨嫉謗法は恐ろしいのです。
 私は身を持って知っております。

 ですので、必ず忠告致します。
 与同罪は嫌ですから。
 
 私は自分の不徳故の事件を隠したことも、言い訳も致しません。

 ひたすら御本尊の前に座り、懺悔滅罪の唱題を致しました。
 その半年、数珠を3回切りました。
 必死で祈っていたら勝手に切れました。

 その時の創価の祈りで現在があります。

 私は後悔は致しませんが反省は常に致します。
 創価の人生ですので。

2015/5/14  5:21

投稿者:沖浦克治
んっ?さん、おはようございます。

 池田先生が言われました。

 『貴方方は僻む人より僻まれれる人になっていただきたい。』(趣意)

 私はおかげさまでそういう人生です。

 貴方も頑張りましょうね。

2015/5/14  1:50

投稿者:ユタ
 んっ?さん、こんばんは。

 そうなんですか。
 んっ?さん、もしかして、あなたは……あ、いや、やめ
ておきましょう。
 

http://biog.ne.jp/localfor

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