2015/6/24

鬱屈とした日常  
沖浦氏は相変わらず意気軒昂である。今日は座談会で御書講義を担当するそうだ。

しかし、唯授一人についての考察はいかがなものかと思った。授と受の違いについて、あれこれと書いているわけだが、話がややこしくてわけがわからない、というのが正直な感想である。

すでにこの件では、あの大月天氏が書いているとおり、御書全集掲載の御義口伝では受と表記されているものの、平成新編ではそれを授に変更している。よって御書に出てくる唯授一人は、いずれも授ということになる。大月天氏によれば授も受も同じことらしいが、今日においては授で統一されているわけだから、沖浦氏の考察は徒労とまでは言わないにしても、あまり意味がないことになりそうだ。

ここでわたくしなりの切り口から言わせてもらえば、おそらくは能所不二というのが一つの真理だろうと思う。沖浦氏は受を勝、授を劣と言いたいのかもしれないが、もしそうだとすれば間違いである。授と受の双方向性こそが法華の深意であると、このように拝するのが正解のはずだ。

無量義経六箇の大事

無量義経五箇の大事


今回、新発見があった。前述の話題で確認作業のために御書を開いていて気がついたのだ。御書全集では六箇、平成新編では五箇、この違いは何だろうか?

理由は知らない。けれども編者も馬鹿ではないだろう。何かしらの理由があって、一箇条削除したはずである。

同様の意味で、受から授への変更も理由があってのことだと考えられる。

已上二百三十一箇条の大事

已上二百廿九箇大事


さらに気になって確認したところ、上掲のような違いを発見した。もう一箇条あるのだ。さて、どこだろう。

法師品十六箇の大事

法師品十五箇の大事


これである。ただし、内容を確認したところ、平成新編では御書全集の第十四と第十五を一つにまとめて一箇条としているごとくなので、実質的な変更はないことになりそうだ。

では、無量義経のほうはどうなのか、改めて確認してみた。やはり同様に、二箇条を一つにまとめて一箇条としているので、内容的には変更なしのようである。

う〜ん、これは逆に悩ましい。

五字七字

理由はこれである。題目を五字と言ったり七字と言ったりするが、これは南無を冠するか否かの違いである。実に明快だ。

ところがである。もしこれが六字だったり八字だったりしたら、わけがわからなくなる。

理屈は同じだろう。五箇の大事と題するものが、増えたり減ったりしたら、おかしいだろう。何しろ「大事」と題するくらいなのである。ここに数字の不同があること自体、ひじょうに不可解なことである。

さて、この合理的説明は可能なのだろうか? 何か名案があれば、ぜひとも伺ってみたいものである。

2015/6/30  3:12

投稿者:傍観者v
ミスがありましたので、修正させていただきます。
依報→依経
波状→破綻

2015/6/29  0:38

投稿者:傍観者v
>戸田先生が御出現なされなければ、大聖人の予言は外れ大聖人は嘘つきとなって、大聖人仏法そのものが全否定されます。

依報にしてる法華経が仏説でない時点で、日蓮の教え自体波状です。
そして、遺文自体も嘘ばかり書いてる嘘つきですね。

2015/6/27  9:50

投稿者:沖浦克治

2015/6/27  9:39

投稿者:沖浦克治
 創価仏法が何故正しいのか?

 戸田先生が開祖であられる故です。
 戸田先生に付いて所感を書きます。

 大聖人が御出現なされたのは、釈迦の仏法が隠没せんとした末法。
 世は乱れに乱れ、民衆は途端の苦しみにあえぐ世相で。
 大聖人は一切衆生を救済せんと、南無妙法蓮華経を唱え広められました。

 末法広布は釈迦の予言にありますが、もし大聖人が御出現になられなければ、釈迦の予言は外れ、釈迦は嘘つきとなってしまい、釈迦仏法全体が否定されてしまいます。
 大聖人が仰せです。

 『日蓮末法に出でずば仏は大妄語の人多宝十方の諸仏は大虚妄の証明なり、仏滅後二千二百三十余年が間一閻浮提の内に仏の御言を助けたる人但日蓮一人なり、』
 (聖人御難事)

 ですから、大聖人の仏法に、釈迦仏法の全てが包含されています。
 同じく大聖人から700年後、軍部の武力による国家神道の強制によって、全ての仏教団体が無力となり軍部独裁の内に、国と共に大聖人仏法が隠没せんとした時、不思議にも戸田先生が御出現になられ、牢獄の中で唱題をされ、南無妙法蓮華経をお悟りになられました。

 『我地涌の菩薩の棟梁なり!』(趣意)

 と宣言なされ、そこから創価仏法が燎原の火の如く広まりました。
 大聖人は、自分の仏法が全世界に広宣流布する、とのご予言をなさいました。

 戸田先生が御出現なされなければ、大聖人の予言は外れ大聖人は嘘つきとなって、大聖人仏法そのものが全否定されます。
 その瀬戸際で戸田先生が御出現になられ、ご予言を実現なさいました。

 大聖人滅後七百年間で、大聖人のお言葉を助けたお方が戸田先生お一人です。
 当然、戸田先生の創価仏法に、大聖人仏法の全てが包含されています。

 『日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、』
 (諸法実相抄)

 この御文を身でお読みになられたお方が戸田先生です。

 戸田先生は大聖人と全く等しい御境涯のお方です。

2015/6/26  22:00

投稿者:マイケル
大沢さん、折伏被害者さん、こんばんは。
丁寧に、有難うございます。

それぞれのお立場から親切にご意見を賜り、感謝
申し上げます。




2015/6/26  21:40

投稿者:沖浦克治
私は顕正会にはあまり知識がありませんが、日蓮正宗全体より遥かに大きいと知っております。

 ですので、浅井さんが日如さんよる世間から支持されていることは、日蓮正宗の日如さんより浅井優れたお方である証拠だと思います。

 私は創価人ですので、宗門と顕正会のどちらの贔屓も致しませんが、顕正会は日蓮正宗とは異なって、在家仏法に分別出来ます。

 この点だけでも、日蓮正宗は仏法団体として遥かに後れを取っています。

 

2015/6/26  20:31

投稿者:元実践者
投稿者:折伏被害者さまに、賛同します!!

2015/6/26  19:44

投稿者:匿名
「いよいよ」連発、キレる上長には首を傾げながらも
御歯茎や体験発表にたびたび表れる成仏の相の逸話が、
仰せのままの信心と思われる根拠となっている

誇大表現、仮想敵批判、事実歪曲、には思考停止状態

2015/6/26  18:31

投稿者:折伏被害者
顕正会員が顕正会員であり続ける理由は、カルトにおけるマインドコントロールに他なりません。

そもそも何がきっかけで入信したのか?

何らかの行き詰まりを感じている時、その病んだ心の隙間に入り込んだのです。

『罰』を振りかざし、末法の恐怖を煽り、外部の情報から隔離して、カリスマ教主に従わせる、典型的なカルトのやり方で、疑問は封殺し、離れる事の恐怖を植え付けてるんです。

しかしながら、自身で考える力のある人は退即会とまでは行かずとも未(非)活動となるんでしょう。

残るのは、良い表現をすれば純粋な人、悪い表現をすれば無知で自分を持たない人と言えるでしょう。

成仏の相などを、いかにも信仰の功徳ように信じるのが顕著な例です。
死後硬直の有無など、医学的に解明されてる事を、いかにも奇跡のように信じてしまうのはそのためです。

そうしたカルトの要素の根源を遡って行くと、日蓮にたどり着くのです。

だから退会しても日蓮(特に正宗系)という呪縛からは離れられず、法華講であれ創価であれ、逆の移行も含めて、枠の中でカルトサーフィンを繰り返すのです。

ブログ主さんが、頭では気付いていながら、いまだに旗幟を鮮明にして行動出来ないのは、ここに原因があると思われます。

過去ログを拝読すれば、その悩みが綴られた箇所がありました。

いつまでも鎌倉時代の呪縛に囚われているのではなく、現代を人間らしく生きて欲しいものです。

2015/6/26  10:57

投稿者:大沢克日子
マイケルさん、おはようございます。

顕正会員は何故顕正会員であり続けるのかということについて、これはあくまでも私見ですが、「顕正会は何だかおかしいみたい」だけど、「日蓮大聖人の仏法は物凄い」という思いがあるし、正本堂問題についての創価学会(池田名誉会長)の横暴に対し孤忠を貫いた浅井先生は正しかったという思いが交錯して、辞めるに至らないということだと思います。

増殖する顕正会本尊、いつもキレている幹部たち、ヤル気のないベテラン会員、顕正新聞の多重購読問題、いつも眼前・眼前、最終段階と言われながら一向に来ない広布、当たらない浅井先生の予言…おかしいけど、ネットは見るな、過去の指導は云々。

「広布達成の暁には、時の御法主上人から幹部は常住御本尊、そしてみんなは御形木御本尊を賜り、一日三時間働けば良いような生活になる」
「実は宗門には、顕正会を秘かに応援する高僧がいる。今は日顕(上人)に抑えられているが…」
それで寝食を忘れ活動するも、何年か経つと力尽きていく。
日顕上人から日如上人に御代替わりが行われた時、創価学会も顕正会も、「これで宗門は代わる」「日顕(上人)の謀略部隊のお前らはどうするんだ?すぐにクビになるぜ」と得意げに言っていましたが、結局御宗門は変わりませんでした。
御宗門は、私たちが勝手に思い込むように動かないことは皆さんに認識していただきたいと思います。
御宗門は最終的には御宗門の御考えによってしか動くことはありません(令法久住のためには当然だと思いますが)。
ですので、「いつか私たちを認めてくださる日目上人の御再誕が…」という希望は捨てるべきだと思います。

仏法の素晴らしさには深い感動を覚えているし浅井先生の激闘を思えば、顕正会から離れられない。

最終的に顕正会から離れる人は、精魂尽き果てて姿を消してしまう人々、これが相当多いと思います。
そのうち一部の人が、顕正会は誤りだけれども、真実の日蓮大聖人の仏法を求め法華講員になる。
でも、外形的には同じ形の本尊、同じ発音のお経、同じ発音の題目、同じ形のお数珠…同じ形式の信仰ですから、心の奥底に疑問を秘めたまま…。

本当に難しい問題だと思います。

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