2015/12/6

シワスノブロガー  
今日はまず、御大会式講演についての補足から始めよう。

・・・佐渡で著わされた義浄房御書には「三大秘法を成就」と仰せられている。

これはどういうことだろうか?

 まだ御本尊は顕わしておられない。しかし大聖人の御当体そのものが末法下種の本尊・人の本尊と顕われ給うたのです。
 よって日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経を唱え奉れば本門の題目。また大聖人まします処は義において本門の戒壇。ゆえに「三大秘法を成就」と仰せ給うたのであります。


シツコイようだが、再掲しよう。

大聖人まします処は義において本門の戒壇・・・

この部分、法華講員はどのように読むだろうか? この道理がわかれば、戒壇の大御本尊まします処は義において本門の戒壇、ということがわかるはずである。ようするに今の正宗教学はこの部分で間違ってしまっている。拙ブログにはたくさんの法華講員が訪れるけれども、この件に関して明快な反論を述べた人はいない。それは当然のことだ。なぜならば浅井先生の言っていることが正しいからである。事実、昭和四十年代当時の宗門の高僧たちは、誰一人これに反論できなかった。

唯一の例外は日達上人であろう。

浅井先生も時の猊下に対しては遠慮があったのかもしれない。はっきり言えば日達上人の仰せにもかなりアヤシイところがあるのだけれども、当時の浅井先生はさすがにそれを徹底的に粉砕するまでには至らなかった。何しろ相手は時の猊下なのである。やはり遠慮があったのだろう。

しかし、解散処分以降はその遠慮が徐々に除かれていった。さらに近年に至ってはエスカレートして、とうとう呼び捨てにするまでになってしまった。

わたくしはこれに断固反対を唱える。いかなる事情があろうとも、呼び捨てにするべきではなかった。顕正会が今もなお、日達上人・日顕上人と呼び続けていたら、どれほどよかったかと思う。少なくとも細井管長・阿部管長と呼び続けるべきだった。それがギリギリの最低ラインだった。

顕正新聞第1358号は十月度総幹部会の記事を中心に組まれている。逮捕事件直後の総幹部会でもあるし、幻の総支隊長の脱会を機に脱会ブームが起こりつつある中での総幹部会でもある。ゆえに浅井先生の発言が注目されるところだが、逮捕ないし家宅捜索については完全黙秘を貫いている。そしてもう一つの大量脱会のほうは、きわめて婉曲に宗門批判をすることで対応しているようにも感じられた。ようは顕正会を脱会し宗門へ帰伏する流れを抑えるために、日達上人の御遷化をあげつらっているのである。

細井日達の罰を見よ

この小見出しに続いて、日達上人の御遷化の様子をかなり詳細に書いている。重要な部分ではあるが、あまりにも恐れ多いので省略しよう。しかし、誰もが思うはずだ。ずいぶん詳しいではないかと。まるでその場に立ち会っていたかのような書きっぷりである。

ようは誰かの受け売りなのである。どこかから仕入れたネタを使い回しているに過ぎない。

細井管長、急死

今度は折伏理論書改訂版である。ご覧のような見出しがあって、以下、三行目から次のような記述がある。

 この抗争に性心を労した細井管長は、病を得て総本山近くのフジヤマ病院に入院した。しかしほどなく回復し、明日は退院≠ニいう昭和五十四年七月二十二日午前五時、突如として激甚の発作に襲われ、急死を遂げてしまった。

本当は二つの文章を並べて比較しないといけない。しかし、先ほども書いたように十月度総幹部会での浅井発言はあまりにも恐れ多く憚りがあるので、ここには掲げない。

結論は、言っていることがかなり違っている、ということだ。

浅井先生の自語相違は枚挙に暇がない。ゆえに上述の一件もそのうちの一つに過ぎないのかもしれない。しかし、事が事だけに許し難いのだ。ようするに死者への冒涜である。

記述に一貫性があればまだしもである。言っていることがコロコロ変わるのは問題である。しかも言っていることが変わっても結論はいつも同じなのである。御遺命に背いた罰であると。浅井先生はそれさえ言えれば満足なのである。

折伏理論書改訂版の言わんとしていることをまとめてみよう。

入院した、しかしほどなく回復した、ゆえに明日はいよいよ退院ということになった、ところが突如として容体が急変し、激甚の発作に襲われ、急死してしまった。

元気になったので退院しましょうと言っている矢先に急死を遂げてしまったことの衝撃を強調しているわけである。それが御遺命違背の罰なのだと。

しかし、巷間ではこれとは別の情報が出回っている。ようするに病状が思わしくないので聖路加病院に転院するという話なのだ。もしこれが事実だとすれば、浅井先生は大間違いを犯したことになる。つまり、「明日は退院」ではなく、「明日は転院」ということになるのだ。

さて、この部分、今般の基礎教学書ではどのように記述されているのだろうか?

当然のことながら、わたくしもそうだし浅井先生も同じである。病院にいて、一部始終を見ていたわけではない。ゆえに、巷に出回っている情報を自分なりに咀嚼して、書いているに過ぎないのだ。それが浅井先生の場合、かなり恣意的な書き方になってしまっていることは否めない。そこが断じて許せないところなのである。

毒を食らわば皿まで

わたくしはこの言葉を浅井先生から教わった。確かに妙信講解散処分前後の事情を考えると、宗門側にそうしたイヤラシサがあったのは事実だろう。大事の前の小事ではないが、妙信講さえいなくなれば丸く収まるという、高度な政治的判断のような発想があったのは事実だろう。浅井先生の立場になってみれば、それは堪らないことだったろう。これも事実である。

しかし、時を経て、状況が変化したのも事実だ。

上掲の毒を食らわば云々は、今となっては浅井先生にこそ当てはまる言葉なのではないかと、そう思えて仕方がないのである。

2015/12/7  12:44

投稿者:大沢克日子
マイケルさん、こんにちは。

戸田先生のおっしゃる通りです。
やっぱり凄い方ですね。

私たちは短期的・目先にとらわれていとも簡単に批判してしまいますが、やはり御宗門が七百余年法統を嗣がれていることは凄いことだと思います。

硬直しすぎて全く柔軟性がなくても衰退してしまうし、その時の都合で適当な事をすると現創価学会や顕正会のようになってしまう。

宗教の核の部分を保ちながら数多の困難を乗り越えておられる御宗門が今後も永く法を嗣がれていくことを私は確信しています。

2015/12/7  9:15

投稿者:マイケル
大沢さん、おはようございます。
多忙な中、ご回答を頂戴致しまして有難うございました。

確か戸田先生は、初めに言っている事と後から言う事が違うのは邪宗教である
という指導をなされていたと思います。

独一本門の終始一貫性を保っているのは、やはり御宗門以外ありませんね。

2015/12/6  18:17

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん今晩は。

 浅井さんはかなり良い所まで行っておられたのですね。

>大聖人まします処は義において本門の戒壇・・・

 これは今少し深く思索しているなら正解にたどり着けたと思えます。
 ここがわかるなら、戒壇本尊本懐など言う偶像崇拝には行かなかたったでしょう。
 勿体ない・・・

 御本尊は御書にあります。

 『第廿五 建立御本尊等の事
 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。』
 (御義口伝巻下)

 御義口伝を認めない人のために、今一つ引用しておきましょう。

 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、』
 (阿仏房御書)

 ですので、自行化他の唱題をする人の入り場所がそのままで本門の戒壇なのです。
 
 『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居身土色心倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、』
 (当体義抄)

 チャンと書いてあります。
 日蓮正宗が、御書に目を背けていることが一目瞭然ですね。

2015/12/6  12:24

投稿者:通りすがり
戒壇本尊ましますところは、広宣流布の観点から見れば現在は義やろ。
広宣流布の時は事やろ。

本尊として見れば戒壇本尊は現在は事、歴代猊下書写本尊は義とゆう事でないの?

日達さんや日顕さんにも問題あるにしろ、猊下の発言を切り分にして意図的に会員に悪く見せているのはちょっといただけないな〜と思います。

権力的宗教はしょーもないと思いだした今日このごろです。

2015/12/6  12:17

投稿者:現場
なぜ時の御法主猊下を呼び捨てにしたのか。。
未だに理解に苦しむところです。

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