2015/12/12

シハスノブロガア  
なぜか前回のコメント欄に前々回の拙稿に対応すると思しきコメントが寄せられている。しかも一週間近く経って、にわかに噴出した格好だ。わたくしの得意(?)とする時間差攻撃を逆用したものだろうか?

現在の宗門はデタラメな戒壇論を唱えている。

確かにこう言われれば黙っていられないのが人情であるし、ましてや破邪顕正の精神をお持ちの法華講員ならば反論して当然である。

では、わたくしからの再反論を申し上げよう。

戒壇の大御本尊まします処はいつでもどこでも事の戒壇である、ということを、平成新編日蓮大聖人御書を使って論証せよ。

これがわたくしからの反論である。まず、それが可能かどうかが第一関門である。もし可能だとしても、そこには第二の関門がある。ようは説明能力の問題だ。

わかり切ったことだが、御書には戒壇の大御本尊という語句は存在しない。事の戒壇もしかりである。ということは、そっくりそのままの御指南は存在しないということだ。
では、どうやって論証するのか、ということになる。その方法論が難しい。失礼ながら頭の悪い人には無理である。
また、当然のことながら、御書に詳しくないといけない。いわゆる教学力などと呼ばれるものがあるけれども、これとて教科書を学んだだけの優等生的教学力では通用しない。

とりあえず、ここまでにしておこう。

さて、いったい誰がこの大変な作業に挑まれるであろうか? これはいわば日蓮正宗全僧俗への挑戦である。いや、挑発と書くべきか?

http://white.ap.teacup.com/ganko/120.html

実はもう十年も経つわけだが、拙ブログではかなり早い時期から戒壇論について、あれこれと書いてきた。リンク先が一例である。お読みになればわかるだろう。当時は宗門に対してわりと譲歩的な意見を書いていた。それは今もそれほど変わらないつもりだ。

では、なぜに宗門の戒壇論をデタラメ呼ばわりするのか?

話は物凄く簡単である。結局のところ、やっていることは浅井先生の過去の発言をあげつらって、いわばアゲアシ取りをしているだけだからである。また、たまには歴代上人の御指南を引き合いに出したりもしているが、では、根本の御書に遡って論じたらどうなるかということに関しては、からっきしダメなのである。

これでは沖浦氏からヨコヤリが入るのも当然だ。

とは言え、沖浦氏も相当にデタラメである。

 事と義〜〜??

 ナイナイ絶対に無い!
 戒壇とは一大秘法の当体である私共の住所です。


そんなことが御書のどこに説かれているのだろうか?

 御書にキチンと書いてあるのですよ。

 『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居身土色心倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、』
 (当体義抄)


ここでも説明能力が問われるのだ。当体義抄は難しい御書である。ゆえにわたくしにはさっぱりわからない。けれども沖浦氏はわかっているのだろう。ならばわからない人のために平易に説明するべきである。

其の人の所住の処は常寂光土なり・・・

わたくしの想像ではこの部分が関係しているのだろうと思われる。だが、ご覧のごとく、どこにも戒壇などとは書かれていない。常寂光土=戒壇と言いたいのだろうか?

日霑上人
『未だ広布の時至らず事相の戒壇建立なしといえども此の道場即ち是れ事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして』


これは図らずもmr.x☆(元顕)氏が紹介下さったものである。不勉強のわたくしはこうした歴代上人の御指南をほとんど存じ上げないが、ともかくここでの文意は戒壇の大御本尊まします処は事の戒壇であり真の霊山であり事の寂光土なのだと仰せられているわけである。

これを沖浦氏は悪用しているのだろう。いや、悪意はないのかもしれない。ようするに気がついていないだけなのだ。すなわち自説が日蓮正宗の教義に引きずられていることをである。

当体義抄の前掲御文には戒壇などと一言も書かれていない。ゆえに普通に読む限りは、そこが戒壇に当るかどうかはわからないのだ。ところが日蓮正宗の先師上人たちは、ご覧のごとく戒壇と寂光土をイコールと見做している。よって日蓮正宗の信徒はその深い道理を知らなくても、戒壇の大御本尊まします処は寂光土なのだと理解するわけだ。これを逆に辿ると、当体義抄の常寂光土云々には戒壇の意が含まれているのだろうことが、おぼろげながら理解できるのである。

おそらくはこれが平均的な思考プロセスであろう。もし沖浦氏が同様の思考プロセスを経て、くだんのようなことを言っているのだとすれば、まさしく日蓮正宗の教義に影響されていることになる。

結論として、沖浦氏は日蓮正宗をボロクソに言っているわりには日蓮正宗の教義に影響を受けているという自家撞着に陥っている。なかなか気づき難い陥穽ではあるものの、実に滑稽である。

2015/12/13  10:39

投稿者:マイケル
連投、申し訳ございません。

>御指導を受けておられるところ
→ご指導を受けるところ

に、訂正させて頂きます。

2015/12/13  10:16

投稿者:マイケル
そもそも浅井先生自体も、所属寺院の御僧侶から、御指導を受けておられるところから
スタートしたのではないのですか?

2015/12/13  5:54

投稿者:沖浦克治
 おはようございます。

 昨夜、スタッフと生徒さん入れて9人でワイワイおでん。

 後4日(本当は3日)で70歳になる私の家に、沢山の人が集まって下さる。
 嬉しいですね。

 功徳だ〜〜!!

2015/12/13  2:33

投稿者:唯ちゃん
浅井氏は以前「最近のテレビ番組は下劣で、こんな番組を見ている輩が多いから私は日本の将来が心配だ」という主旨の発言を大会か幹部会で言ったが。浅井氏自身テレビのお笑い番組が大好きでいつもゲラゲラ笑って見ているらしい。もちろん丑寅勤行などするわけが無く。所詮その程度の品格のじーちゃんなんである。

2015/12/12  23:01

投稿者:himazin
三大秘法抄
『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可きものか。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。大梵天王、帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり。』

こうなった時が本門事の戒壇。

末法以前の戒壇は僧侶が戒律を護るべき御授戒の場所。

小乗教は上座部の原子仏教。出家した特別な人間が厳しい修行の上で仏になる。他人の為より自分のみの悟りの修行。

大乗教は仏教は出家者が厳しい修行をして悟りを開く特別なものではなく、在家や一般大衆でも他を救済する中で仏になれる大衆仏教。

鑑真は僧侶用の小乗の戒壇律を日本に持ち込んだ。

伝教大師は比叡山に大乗の戒壇を建立した。

末法は本未有善の三毒強情の衆生とゆう事で理性で決まりや戒律をたもてない衆生が多いので無戒律。
戒律を持てないから必要ない。

ただ本門の本尊を信じて本門の題目を唱えるところに防非止悪の心法と変わる。戒律も持たなくても善の心に変わる。
顕正会的に言えば、題目唱える対象の本門の本尊の戒壇の大御本尊が事の戒法の戒壇。

本門の本尊を信じて本門の題目を唱えるところが本門の戒壇となる。

『上一人より下万民にいたるまで日本国一時に信ずる事あるべし』

戒壇の大御本尊は
信徒にとっては事の戒法の戒壇。
三大秘法抄から見れば
国家的には今だ時は来ていないので義理の上での戒壇。

事義は御書にないんでしょ。
国立戒壇も御書に文字はない。
一念三千も法華経に文字はない。
十如是も法華経原本にはない。鳩摩羅什の後付でしょ。

事義とかもう面倒くさい。池田さんが昔余計な事したから乱れたね。



2015/12/12  21:26

投稿者:沖浦克治
戒壇本尊が特別な本尊だと言う事は、大聖人仏法にはありません。

 ましてや木に彫った曼荼羅が、大聖人そのものだなどと言う思想は外道の偶像崇拝です。

 そういう思想は仏法にはございません。

2015/12/12  20:46

投稿者:浅井
瑠璃堂はんとこの直近テープおこしと、脱顕日の浅い幻はんとこ時事顕正会がマジおもろかったおます。
リアル顕正会に近いおます。

新聞はヤラセおます。

2015/12/12  16:35

投稿者:マイケル
法門未熟な者ではありますが、私見を述べさせて頂きます。

御義口伝新編(1773頁)において、「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と仰せです。
個人的には、戒壇の大御本尊様が大聖人様の御当体そのものであるからこそ、

>戒壇の大御本尊まします処はいつでもどこでも事の戒壇

だと認識させて頂いております。

2015/12/12  15:03

投稿者:沖浦克治
 

 『日蓮之を勘う
問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり経に云く「所謂諸法・乃至・本末究竟等」云云、妙楽大師釈して云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如・十如は必ず十界・十界は必ず身土」と云云、天台云く「十如十界三千の諸法は今経の正体なるのみ」云云、南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや答う妙とは衆生妙なるが故に法とは即ち是れ衆生法なるが故に」云云、又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。』
 (当体義抄)

 最初の部分です。
 
 南無妙法蓮華経とは何か?

 十界の依正の当体が全てそれに当たる。

 すると、自分たちのような衆生であっても南無妙法蓮華経の当体(妙法の全体)なのか?
 
 勿論そうだ。
 南岳も妙楽もそう言っている。
 衆生が妙法そのものなのだ。

 以上ですが、非常に分かり易いですね。
 文永10年は佐渡始顕の本尊を図顕された年。 
 その重要な時に、大聖人は一切衆生こそが南無妙法蓮華経そのものだと仰せなんです。

 所がこの板でも書かれるように、

>ここにおいて事相において人本尊と顕れ
た。では法の本尊たる本門戒壇の大御本尊様は事相におい
て仏様である。つまり人本尊であられた大聖人様の御命は
そのまま本門戒壇の大御本尊様にまします。

 以上にような歪んだ教学となってしまいます。
 人本尊は大聖人を含む一切衆生です。
 引用した御書に、一切衆生が南無妙法蓮華経の当体だとあります。
 何故読めないのでしょうね?

 そして、法本尊は南無妙法蓮華経です。 
 戒壇本尊は無関係。
 ここが寛師の致命的ミスでした。
 習い損ない故です。

2015/12/12  14:53

投稿者:沖浦克治
巌虎さん、今日は。

 そうですか、では少しご説明させていただきます。

 『正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業苦の三道法身般若解脱の三徳と転じて三観三諦即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり、能居所居身土色心倶体倶用無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず、』
 (当体義抄)

 端的に言うなら、自行化他の唱題をする人は、その人がいる場所がそのままで仏の住所である。

 戒壇とは仏の住所です。
 ですので、その人のいる場所がそのままで本門の戒壇です。

 凄くシンプルなんですよ。
 でも、日蓮正宗は伝統的に御書に暗い宗派なので、この単純な表現すら読み取れません。

 ダメですね。
 スレッドを改めて少々ご説明致します。

 

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