2016/2/5

シブシブナガラモ  
浅井先生のご構想なるものは、記念碑のことかもしれない。わたくしがわりと鮮明に憶えているのは、竜の口の記念碑建立である。これは何年前になるのだろうか? かれこれ二十年、いや、それ以上前のことかもしれない。将来、竜の口に記念碑を建立する旨、何かの折に言っていたはずである。

佐渡においても同様の構想があったのかもしれない。ゆえに、宗門に先を越されたことを恨みに思って、あのような悪態を吐いたのかもしれない。

しかし、そんなことを宗門と競い合ってどうするつもりなのかと思う。

さて、顕正新聞第1365号の話題に入ろう。一面の上段では登用試験の受験者数が過去最高だったことを報じ、下段では成人式のことが報じられている。

まず試験会場のことから・・・

・・・雪に見舞われた東北の会場でも冷房を入れたり、また冷房が効かず窓を開けた会場まであった。

凄い話だ。

次は成人式の様子だが・・・

 定刻を繰り上げた午後〇時五〇分、浅井理事長の唱導で勤行が開始された。

・・・かくて午後三時四〇分、成人式の一切は終了した。


長いよ。長過ぎる。

さらに、この後に記念写真の撮影が行なわれたというから、トータルの時間はベラボウである。その上、感激冷めやらぬ新成人はその後も時の経つのを忘れて語り合っていた、と報じているから、本人たちは長いと感じていないのだろう。

思えば、わたくしがまだ集会等に参加していた頃、拍手の長さに辟易して担当の幹部にその旨を告げたことがある。すると、その答えがこうだった。オマエは信心がないから長く感じるんだ。

なるほど、である。

もう二度と顕正会の集会には行けそうにない。今ならもっと長く感じるだろう。もはや耐えられない。想像するだけでも卒倒しそうになる。

浅井理事長の祝辞からいくつか拾ってみよう。

 先ほどからの熱烈なる登壇をお聞きして、言葉にならぬ大感激であります。

お聞きして・・・

これが印象的だった。理事長が新成人たちの登壇に対して敬意を払っている。この辺のニュアンスが微妙で、わたくし自身の言語感覚からしても判断に迷うところである。

 先生は、戒壇の大御本尊様への参詣を妨害されてより五十年――。

この数字がわからなかった。あたかも五十年間、御開扉を受けていないようにも聞こえる。しかし、それは事実誤認である。昭和四十五年にも御開扉を受けているからだ。ゆえに御開扉の意味であれば、四十数年のはずである。

もっとも大雑把な意味では四十数年も五十年も大差はない。

おそらくは試練と忍従の歴史の記述に拠ったのだろう。

 かくて昭和四十年より、妙信講の総本山御登山の道は全く塞がれた。しかし講中を代表して、年に一度は大聖人様に御挨拶申し上げねば申しわけない。これより、毎年十二月二十八日に、父と二人で奉安殿前の石畳に座し、戒壇の大御本尊を遥拝申し上げることが年中行事となり、今日まで続いているのである。

再び理事長の祝辞に戻ろう。次はやや問題である。

毎年、歳の暮れには一度も欠かすことなく、顕正会を代表して富士大石寺のそば近くまで詣でられ、寒風の中、大地に座して、顕正会の一年の前進を戒壇の大御本尊様にご奉告されております。

ちなみに、前号にも副総男子部長の言葉として、次のようなものが残っている。

・・・いまなお、毎年の暮れには大石寺近くに赴かれ、冷たく固い大地に座し遥拝申し上げられていること、熱涙を抑え難く、

ある人物の目撃談によれば、浅井先生一行は折りたたみイスを使って遥拝をしているらしいのだ。別にそれが悪いわけではない。ただし、もしそれが事実であれば、文章も変えなくてはいけない。上掲のような言い回しでは、明らかにニュアンスが違ってしまうからである。イスに座るのと大地に座するのとでは、まるで意味合いが違う。つまり、登壇者たちは話を美化し過ぎていることになるのだ。

そこまでして先生を偉く見せたいのだろうか? それってけっこうムナシイことではないのだろうか?

新成人の登壇にも問題発言がある。

私自身、日目上人のお姿と、日目上人の御跡を慕い戦われる浅井先生のお姿が重なり・・・

やはり出たか・・・

今シーズンはもう出ないと思っていたが、出てしまった。いわゆる目師再誕論的な発言である。

もちろん、本人にはそうした意図はないのだろうと思う。ただし、ここで考えておくべきことがある。広宣流布甚だ近しということであり、その時には日目上人がお出ましになるということである。もし彼が本気で広宣流布の近きことを確信し、かつまた目師の出現を確信しているのであれば、それは誰なのか、である。現状では浅井先生以上の存在はあり得ない。何しろ時の猊下すら眼中にないのだから、今の浅井先生を遥かに凌駕するような存在が出現するとは考えられない。すると、結局は消去法で浅井先生しかいない、日目上人の再誕は浅井先生以外には考えられない、ということにならざるを得ないのではないだろうか?

わたくしにはそうとしか考えられない。

ただし、広宣流布がまだ先のことだとすれば、話は違ってくる。不謹慎ながら先生の寿命にも自ずと限界があるわけで、もうそうなれば先生が目師の再誕だとする説は時間と共に自然消滅することになる。

その上で、先生と目師の姿が重なって見えることの意味を考えれば、まさに最後の最後まで戦い続ける姿勢、不撓不屈の精神こそがそれなのだろうということになる。まあ、これはこれで立派なことである。

 私は婦人部組長である母の縁で晴れて顕正会に入信して・・・

成人代表の共通項を挙げると、母親の縁で入信したことだろう。それも平会員ないし組長という役職的には低い人たちが彼らの母親なのである。

前にも書いたことだが、これは顕正会の潜在力を意味しているのだと思う。婦人部ないし女子部の、わりと地味な人たちの子女が今こうして成人年齢に達して、次代の顕正会を背負おうとしているのだ。地味な人たちと書いたのは、役職的な意味もそうだが、わたくしの立場で言えばまさに顕正新聞に載らないような人たちのことを意味するのである。つまり、顕正新聞を読んでいるだけではわからない、そういう底辺の人たちがどれほどの信心を保っているのか、これは完全に未知数なわけで、あるいは本部首脳にしてもよくわかっていないのかもしれないのだ。

そういうところから新しい人材が出てくる。次から次へと出てくる。

ただし、こうした新成人たちがいつまで頑張ってくれるかは、やはり未知数であり、きわめて不安定ということも事実である。

ネット上に元顕正会員を名乗っている人が何人いるか知らないが、彼らの経験談が物を言うのだ。二十歳をスタート地点として、いつまで頑張れたか、それぞれに聞いてみるがいい。平均すれば十年前後で失速することになるのではないか? 顕正会から完全に離れるのがいつになるかはそれぞれだが、あまりにも戦いが激し過ぎるので大抵が十年で限界を迎えることになる。その後は惰性でダラダラと続ける人もいるし、さっさと足を洗う人もいる。

そのダラダラと続けている人たちの子女が大化けして、次代の顕正会を担うのである。今の顕正会はこの繰り返しで少しずつ微増しているのかもしれない。しかし、このサイクルでは微増はしても激増はあり得ない。

ちなみに教学試験では受験者数を発表するものの、成人式では参加人数の詳細が不明である。たぶん毎年そうなのだろう。これが何を意味するのかは一考の余地があると思う。

少子化の影響は顕正会の成人式にも反映されるのかもしれない。

つまり、婦人部員ないし女子部員の子供たちも、少子化の波で年々少なくなっている。ゆえに、過去最高を至上とする顕正会にとっては、参加人数を発表することが憚られる。

しかし、これは考えが足りない。つまり、頭の悪い人の考えだ。

今、婦人部ないし女子部と書いたが、男子部も入れてよいだろう。ようは成人全般が対象となるのだ。それから少子化は事実であり、顕正会も例外ではないだろう。
ただし、顕正会は拡大路線を採っているのだ。つまり、新たな成人会員が続々と入ってくるのだ。その子女が新成人を迎えるとすれば、単純に少子化だけの問題として片付けるわけには行かない。
しかもである。顕正会は高校生以上に入信資格がある。ゆえに、くだんの子女たちは高校入学と同時に顕正会員となるケースが多い。となれば、おわかりだろう。そこで同級生たちを折伏して大量入信を実現すれば何の問題もないのである。

以上、少子化だろうが何だろうが、毎年の成人式で過去最高の結集を実現することは、いちおう理論上は可能なのである。けれども参加人数は公表していない。たぶん出来ない事情があるのだろう。

わたくしの思うに、やはり若い人たちが入信し難い時代状況になりつつあって、かつまた入信してもすぐにやめてしまうか、もしくはデタラメな折伏によって形だけ入信勤行を行ない、それっきり、というケースがたくさんあるのだろう。いわゆる二世会員の潜在力がどれくらいのものかは未知数であって、顕正会がこれからも伸びていくのを完全否定することは出来ないが、しかし、デタラメな折伏によって表面上の数だけを伸ばしてきたという側面は否定できないわけで、それが顕正会の崩壊につながりかねないという、潜在的危険性もまた事実であろうと思う。

しかし、面倒臭い文章だ。

2016/2/18  1:31

投稿者:mr.x☆(元顕)
x殿に代わって

本来ならば、x殿に対する沖浦殿からのご質問であったの
ですから、x殿が解決すべき問題か
とも思い、触れなかったのですが、x殿が雲隠れしてしま
ったので、及ばず乍も私が代わり
に…

なる。どうもです。さらに付け加えるならば頼基陳情に
も、

剰へ起請に及ぶべき由仰せを蒙むるの条存外に歎き入て
候、 頼基・不法時病にて起請を書き候程ならば君忽に
 法華経の御罰を蒙らせ給うべし、 良観房が讒訴に依り
て釈迦如来の御使・ 日蓮聖人を流罪し奉りしかば聖人の
申し給いしが如く百日が内に 合戦出来して若干の武者滅
亡せし中に、 名越の公達横死にあはせ給いぬ、是れ偏に
良観房が失ひ奉りたるに候はずや、 今又・竜象・良観が
心に用意せさせ給いて頼基に起請を書かしめ御座さば君又
其の罪に当らせ給はざるべしや、 此くの如き道理を知ら
ざる故か、 又君をあだし奉らむと思う故か、頼基に事を
寄せて大事を出さむと・たばかり候・人等・御尋ねあつて
召し合わせらるべく候、恐惶謹言。
      建治三年丁丑六月二十五日         
 四条中務尉頼基・請文

2016/2/17  16:40

(つづき)

但し、信心浅い人や他宗の人にあからさまにそのように言うと、不信を起こしたり怨嫉の
元になり、「なんだ日蓮とかいう坊主は、自分の事を菩薩だとか言っている。このような
不埒な者は殺してしまえ!」という事にもなり兼ねません。時は鎌倉時代ですから。外国
の事ですが古代イスラエルで「我は神の子なり」と言ったイエスは処刑されました。現代
でもイスラム諸国で「我は預言者なり」とでも言えば刑罰、迫害の対象となりましょう。
大聖人は故に、あくまで経文を根本とし、釈尊を立てる形でのみ外部へは弘法、法論なさ
いました。それでさえ数々の法難のもとになりました。天台大師や空海は身分が高く、朝
廷公認であったので、自身の説を唱えたりしても責められませんでしたが、大聖人は一介
の漁村の子でしたので、なかなかどうして。まして、自身の事を菩薩だ仏だ言おうものな
らば…。故に、この御文の結語として、

「一見の後・秘して他見有る可からず口外も詮無し」

ともされている訳です。念仏、禅、真言等の謗法者の揶揄の対象、怨嫉の原因、乃至、信
心初めの人の疑心、退転の原因ともなってしまうからです。更に、正法を聞いたにも関わ
らず、是を誹謗したり信じない者は、中有どころか地獄へ堕ちてしまう訳ですから、無闇
に普通の人には信じがたい話をするべきでもないと判断されたのです。話すには順序、機
根がある、と。毎時作是念…速成就仏身です。「日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあ
らざれども」もそうした文脈で捉えられるのではないでしょうか。

>なのに、大聖人だけが末法の御本仏と言うのは無理がありますよ。

以前、お示ししたように「日蓮等の類」や「我等凡夫」は本仏であるとあります。更に別
して「異の苦を受けるは日蓮一人」ともあります。是等が其の証左となりましょう。

2016/2/17  16:38

x殿に代わって

本来ならば、x殿に対する沖浦殿からのご質問であったのですから、x殿が解決すべき問題か
とも思い、触れなかったのですが、x殿が雲隠れしてしまったので、及ばず乍も私が代わり
に…

>日蓮は其の人にも非ず、又御使ひにもあらざれども、先づ序分にあらあら弘め候なり。
 (曽谷殿御返事)
>貴方がご引用された御文です。
>大聖人は自ら、上行菩薩でもその使いでもないと仰せです。

確かに、多くの手紙には「私は上行菩薩その人ではないが」と断り書きがなされています。然
るに、是はと思われた機根のある弟子檀那に宛てられた重書には、ご自身が釈尊より直接に付
嘱を受けてきた事を示されています。例えば「三大秘法抄」の末尾には、

「此の三大秘法は二千余年の当初 地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相
承せしなり、今日蓮が所行は 霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三
大事なり」

と書かれています。地湧の上首とは上行菩薩以外には考えられません。

2016/2/12  6:54

沖浦殿 (続きです)

>理屈を正しく知る必要がないと御書に書かれてあります。
>ですので、貴方のご指摘は御書に照らすと間違っています。

いえ、私も理屈を細部まで知らねば成仏の功徳はないと考えている訳ではありませ
ん。無論、御本尊を何かの付け足しのように例えば浄土宗や真言宗などの他宗の人
が考え、阿弥陀如来像や大日如来像、十字架などと並べて祈っても功徳はありませ
んし、御題目を日本語の罵倒の言葉だと外国の人が勘違いをして唱えたり、喩え文
字曼荼羅に向かっていても念仏や祝詞を唱えていては功徳はありませんが。故に、
最低限の知識こそは必要です。

沖浦殿のコメントを見ていて、「大御本尊は後世作の贋作」だというご見解かなと
思いましたので、それですと宗創和合時代に創価の人が熱心に大御本尊に御内拝を
しては功徳を得て来たとする沖浦殿のご見解と矛盾するのではないかと考えただけ
です。

ところで、大御本尊が贋作でない以上は、正宗でも正しい功徳が頂けるという事か
と思われますので、沖浦殿視点から言っても、正宗は邪教ではない、という事にな
りませんか?

2016/2/12  6:53

沖浦殿 お世話になります、ご返答、ありがとうございます。

>ダメだとは一度も書いたことがございません。
>戒壇本尊は紛れなく大聖人御図顕の御本尊です。

是は、弘安二年に御図顕され摸刻された、というご見解でよろしいでしょうか。

>直筆か?
>書写か?
>書写なら在家によるか?
>あるいは出家によるか?
>これらは戒壇本尊の力用には無縁の些事にすぎません。
>戒壇本尊を捨て去るとは、本懐としての戒壇本尊を捨て、他の御本尊と全く差別
なく力用があることを認めるとの意味です。

なるほど、委細了解しました。沖浦殿の教義に対する一つの大きな疑問も氷解致し
ました。つまり、貴殿のお考えでは、御本尊とは一定の様式(相貌)が整っていれ
ば、其れは正しい御本尊である、という事ですね。

正宗が大御本尊を信じているのが邪義なのではなく、大御本尊につながっていなけ
れば他の御本尊には功徳がないとするのが邪義だという事だと理解しました。

私も、大御本尊根本、並びに書写等の権限は誰にでも割る訳ではないと考えている
という違いはあっても、遥拝、御形木、御真筆、御書写、摸刻御本尊に功徳にして
違いはないと考えております。其れが正規の御本尊ならば、後は信行の問題です。

2016/2/11  14:23

投稿者:mr.x☆(元顕)
マサル氏に追加です

>又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば
成仏思ひもよらず。輪廻
生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に
下種せし今日の声聞は、
全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。

別付属は顕正会にはないですよね。

2016/2/11  14:16

投稿者:mr.x☆(元顕)
>そのようにして、それでも師匠と呼べるでしょうや。浅
井氏、他全顕正会員、並び
に一切衆生は、心服随従すべきでしょうや?

時間ないんで簡潔に。結論でいうと、しなければいいんじ
ゃないですか?自分の意思で信を取るところに全てが通じ
ていくわけですから。信じれないならそれまででしょ
う。何も成じないですよ。大聖人様のおおせを自分の都合
よくえり好みして教えているような増上慢は所詮、その程
度の弱い信心だった。という事でしかないでしょう。三大
謗法も青年僧侶に完膚なきまでに破折され樋田さんに偽本
尊の事を呵責されても反論もできず。会員が逮捕されては
不当逮捕であると言いながらその証明も世間に対してでき
ていない。これで一国を諌暁するとか。唯一正しいと
か。笑えないですよ。まあ自分の人生なんで、マサル氏も
好きに生きたらいいと思いますよ

2016/2/11  9:47

x殿 (続きです)

亦、x殿が引用なさった御文にも、「但し師なりとも誤ある者をば捨つべし。又捨
てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり」とあるではないですか。仏
法の道理から外れている人師は捨てねばならないのです。是が却って「根源の師」
に適う事となります。

「末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那を
へつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ」
ともありますね。

前法主の日顕師は、「国立戒壇論の誤り」や「本門事の戒壇の本義」などを著して
仏法の道理を知っているようには思えません。更に、所化に対して暴力的に接し、
常に癇癪を起こし喚き散らし、威張っており、法主絶対論とも言えるような高慢ち
きな文章を顕正会や正信会等に送りつけていて我慢に著しています。更に一頃は檀
那、即ち池田氏に是以上ないくらいの諂いを見せ、諂うは修羅の御金言通り後に醜
い争いへと発展しました。創価に諂うあまり「Gは話しにならない」などと師をい
やしみ、亦、大聖人のお言葉に逆らい、亦、日淳上人の「国教えお目指すべき」の
お言葉にも逆らっています。口では大聖人、並びに日興上人以下歴代先師の仰せの
侭に、とどんなに述べても、信行が伴っていないのであれば、それは師敵対です。

明らかに以前邪義を唱えていたにも関わらず、其れを創価や妙信講のせいにして、
自らは殆ど懺悔もせず、むしろ歴史を変えようと躍起になっています。正直の人と
は思えません。亦、歩いて行ける距離の境内でも超高級車に乗って移動し、普段は
しばしば豪遊し、都内には豪邸があるなど、凡そ少欲知足の人とも思われません。

そのようにして、それでも師匠と呼べるでしょうや。浅井氏、他全顕正会員、並び
に一切衆生は、心服随従すべきでしょうや?

2016/2/11  9:39

x殿 こんにちは

>総別の二義が満足しないと成仏なしと大聖人様は曽谷殿御返事において
(中略)
>又是には総別の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻
生死のもとゐたらん。例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の声聞は、
全く弥陀・薬師に遇ひて成仏せず。

相変わらずx殿は引用御文のどこがどういう理由で論拠となるのか示して下さらな
いから、いまいち分かりにくいですね。浅井会長が本源の師を間違えている(乃至
忘れてしまっている)、という御主張なのだろうと勘案致しまするが、浅井会長は
一時も大聖人(寿量品の教主釈尊)を忘れた事などありません。亦、阿弥陀仏だと
か薬師如来だとかを拝んだ事もありません。引用間違えでは…?

御法主上人に逆らっている事を以て「根源の師を忘れている」と考えておられるの
かも知れませんが、浅井氏は別に日如上人や日顕上人に仏法を習った訳ではありま
せん。何より、歴代御法主上人は「根源の師」ではありません。根源の師と言えば
、大聖人お一人です。この点を取り違えてはいけません。

2016/2/10  17:28

投稿者:唯ちゃん
隣県の大会に何ぞいったら お昼前に出発して 帰宅は翌朝未明という事もあって 帰りの事が憂鬱でその時はJ衛氏が来たが 話は頭に入らない。そうでなくもJ衛氏の話はつまらないのだが。確かパイプ椅子の片付けもやらされた覚えがあるが、儲かってるのだからアルバイトを雇えば?幹部会の片付などどうしてんだろうか?

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ