2016/2/8

ダセイデカイテル  
mr.x☆(元顕)氏が紹介してくれた元壮年部長の記事にはけっこう驚いた。わたくしの知らないことが記されていたからだ。

ところが平成14年、会員の葬儀に行って目の当たりにした導師本尊は、かつて私が見た導師本尊とは全く違い、会館や自宅に安置された本尊と全く同じ相貌の、第55世日布上人が書写された御本尊を複製した本尊だったのです。

そうだったのか、知らなかった。

幸か不幸か、わたくしが顕正会の葬儀を経験したのは一度だけである。それも二十年以上前のことだ。もちろん当時のわたくしは、今のほどの問題意識もなければ、さしたる教養もない、一介の末端会員に過ぎなかった。ゆえに御本尊の相貌についてもほとんど知識がなく、当時の顕正寺御住職が用意された御本尊についても、紙質の変色具合から、ずいぶん古そうだなあ、と思った程度のことである。かろうじて憶えているのは、妙縁寺云々との脇書きだった。

当然、御遺命守護の経緯は知っていたので、この御本尊も松本尊能化が浅井先生に託した御本尊の一つなのだろうと、漠然と思っていた。

その後、わたくしは組織を離れてしまったので、顕正会の葬儀に呼ばれる機会もなくなった。ネット上の情報によれば、顕正会が御本尊を勝手に複製しているであろうことが言われていたが、それはもっぱら日寛上人ないし日布上人の御本尊についてだった。ゆえに葬儀用の御本尊についてはまったく知らなかったのである。

さらに後年、是正協議会から質問書が出された。それに答えるつもりだったのか、浅井先生はある時の総幹部会で顕正会所有の御本尊について言及したことがあった。その時、ようやくにして日布上人の御形木導師本尊の存在を知ったわけだが、しかし、実物を見たわけではない。

ゆえに今回の元壮年部長の証言にはけっこう驚かされたわけである。

かくも大事の御本尊を、勝手に複製コピーして偽造・偽装する、などということは、堕地獄必定の恐るべき大謗法であります。

当然である。

ちなみに沖浦氏はこれに噛みついているが、さしあたって言えることは日蓮正宗ないし顕正会においては上掲の考え方で一致しているということである。ゆえに浅井先生も複製であるとは口が裂けても言わない、いや、言えないのである。あくまで妙縁寺所蔵の御本尊を譲り受けたのだと、この一点張りをするしかないのである。

なお、参考までに一沢入道女房御書の末文を紹介しておこう。

又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず。

これが御本尊の複製コピーと何の関係があるのかと思う人がいれば、その人は物の道理がわからないだけの話である。大聖人の御本尊には判形が認められている。ようは勝手に複製するな、不許複製ということなのである。たぶん法律的にはすでに著作権が切れていて、誰が複製しようが問題ないのだろうけれども、それは世法上の話である。仏法上は自ずと異なる。

当然、これ以降の話は日蓮正宗の内部規定と言われればそれまでなのかもしれないが、少なくとも顕正会はその内部規定に従ってきたわけである。ゆえに浅井先生としては、これ以上のことは何も言えないのだ。

今さら言えない、という意味もあるだろう。今までウソをついてきたことになるからだ。

「一生成仏こそ大事」の指導を支えに
 成仏だけを願い母を看取れた有難さ

母の良き臨終の相にただ感泣!


葬儀関連ということで、顕正新聞第1365号から婦人部蕨支区総班長の記事を紹介しよう。ともかく最近の顕正新聞は臨終の話題が必ず出てくる。顕正会員の高齢化を物語るものだろう。それと新規の入信者も若者よりも高齢の人のほうが多いようなので、なおさら臨終ないし葬儀の話題が増える道理である。

体重は二六キロと衰弱して・・・

これは凄いことだ。いわゆる臨終の相の一つとして、軽くなることが挙げられるけれども、甚だ失礼ながらもこれでは軽くて当然である。

それはともかく、わたくしが当該記事でもっとも注目したのは別の部分である。

 意義重大な最終法戦の最中ではありましたが・・・

 また最終日までの貴重な時間を安心して母に付き添うことができたことも、組織の温かな異体同心の支えがあればこそと、感謝の思いは言葉に尽くせません。


成果至上主義の顕正会にしては、ずいぶん寛容ではないかと思う。いや、違う。顕正会も捨てたもんじゃない、優先順位をちゃんと弁えている、ということなのだろう。しょせん最終日などは便宜的に定めたものであって、それが絶対的なものであるはずがない。そんなものに振り回されて近親者の大事な臨終を蔑ろにするようなことがあれば、それこそ本末転倒だろう。当然とは言え、そうした筋目をしっかりと弁えているところが素晴らしいと思った次第である。

隣の女子部76区班長の記事も八十二歳の組長の臨終について伝えているわけだが、登壇者の写真を見ると、三十代ないし四十代だろうか、そうした比較的に若い女子部員が高齢の部員を擁しているという図が、けっこう多くなったように思う。隣の記事は自分の母親だから当然のことをしているわけだが、こちらはもともと赤の他人である。それを親身になって看取るという行為は実に尊く素晴らしいことだ。

そういう記事にイチャモンをつけるのも心苦しいが、わたくしが注目したのは次のくだりである。

 あるとき携帯電話の料金が払えず困っていると、玄関先に置いた山菜や頂き物の里芋を見かけた近所の人が「どうしても譲ってほしい」と数万円で買ってくれるという不思議な功徳も頂き・・・

オイオイ、本当かよ、と言いたいところだ。

さすがにあり得ない話だと思う。しかも数万円という表記が疑問である。これが実話であれば、もっと具体的に三万円だとか四万円だとか書かれて当然のはずだ。いずれにしても山菜と里芋を万単位で買う人はなかなかいないだろう。

今日はこんなところだ。

2016/2/10  3:05

沖浦殿 

ちょっと気になったのですが、

>所が法主達は戒壇本尊を書写しておりません。
>讃文が異なりますし、滅度後も10年の開きがあります。

是ってどういう事ですか?すいません、あまり詳しくなくて。
滅度後?

要は、歴代御法主が書写されてきた本尊とは、大御本尊ではない、という事ですか?
だとしますと、一体、どの御本尊を書写されてきたのでしょうか?

2016/2/10  3:01

其の萌芽はもっと前からあって、

https://www.youtube.com/watch?v=4YWVFYr9Pys&list=PLKUnAuLQ6a_uGpVZYCJr2yJMyFRi
8G9dR&index=113
正本堂落慶式

の演説で既に、民衆が主役、僧侶不要といったような事をスピーチしています。公の席
で堂々と発言されたにも関わらず、宗門から何も文句が来なかったのだから、まあその
与同ぶりがいかに凄いものであったかも判ります。

そうした池田氏の思想に従属して書かれたとしか思えないのが「本門事の戒壇の本義」
で、大聖人の仏法は為政者の占有物ではないとか、国教化は平和憲法に反するとか、こ
れからは民衆の時代だとか色々と書いてあります。

>破門した時点で、宗門の負け戦です。

確かにそうかも知れませんね。カノッサの屈辱に非常によく似ています。
日達上人の絶縁宣言に驚き、お詫び登山をしたのですが、是がカノッサの屈辱と符合しま
す。心中では復讐を誓っていたという点も似ています。正に面従腹背で、「必ず五年から
十年の間に、今私がやってきたかわかる時が来る。その時は、坊主ども全員に頭を下げさ
せてやる」と側近にもらしたとか。内部でも「長期的に見れば、(宗門と)うまくわかれ
る以外にないと思う」という報告書がまとめられていました。そしていよいよ日顕上人の
時に、破門騒動になりました。
カノッサの屈辱に於いても、ハインリヒ四世は、一度は懺悔するものの内心は瞋恚であ
り、最終的にはローマ法宝と敵対します。国王が法王の権威にもはや従わなくなった時代
に突入した訳です。
日達、日顕上人がグレゴリウス七世(権威の象徴)で、池田会長がハインリヒ四世(世俗
権力者)。顕正会は差し詰めルター(教義原理主義者)といったところでしょうか。「95
箇条の論題」のようなものを本山に送りつけました。

2016/2/10  2:40

沖浦殿

>そういう内部でのごたごたは起こりません。
>既に日蓮正宗に寛師教学へ未練のある人は、宗門へ行っております。
>破門から四半世紀、既に創価学会員の中からは日蓮正宗の幻影は消滅済みなんです。

まあ確かに、そういう人は学会にはいないかも知れませんね。今回の会則変更や御観念
文の変更にも、主だった反対は生じなかったようですし。徐々に徐々に脱正宗化を図っ
ているので、蛙の生煮えではありませんが、段々と慣らされて行くのでしょう。宗門が
法主教と化したのと同じ構図です。

>多少の声は上がるでしょうが、勢力をなす所までには育ちません。
>誰も相手にしませんので。

かわいそうなのは、一生懸命教学を勉強し、教学部で頑張ってきた古参の人達でしょ
う。言われるままに教学を学んだら、後で梯子を外された…。とはいえ、創価の公式見
解や教学試験はやはり正宗教学なのではないでしょうかね。まあ、あまりその辺の道理
を重んじる人はいないのかも知れませんね。どうも見ていると、道理よりも組織や池田
会長を重んじる人の方が多いようです。まあ、此の点も現在宗門にて同じで、道理より
も法主や組織が重んじられているようです。

>この時のために、池田先生が祈られ戦われ、破門を勝ち取ったのです。

まあ確かにそうかも知れませんね。池田氏はやはり自分の王国を作りたかったみたいで
す。そういう時、一々苦言を呈してくる上の存在がいると目障りでしようがない。宗門
の古い体質も、結局彼の気質には合わなかったのでしょう。表層的に見ればご都合主義
的に見えますが、内部では結構前から、「信教の自由」「僧侶不要」「民衆主役」とい
った考えが好きだったのではないかと思われます。国立戒壇否定も、詰まりは国家主義
が嫌いだったからというのもあるかと。戦後憲法や当時隆興した左翼思想が好きだった
のでしょう。「真言亡国、法を下げるだけでしょう」といった発言もあります。

2016/2/9  7:40

投稿者:大沢克日子
>大聖人にはそういう思想はございません。
全ての御本尊は御書と同じで一閻浮提総与です。

◆沖浦氏の本尊観:だれが本尊を作ってもよく、何を拝むかは選択の問題だ。

本尊は本来一閻浮提総与だから、大聖人であろうと、日蓮正宗御本尊だろうと、創価学会、顕正会、日蓮宗であろうと、真筆・書写、模写・コピー…等にかかわらず、本尊の形態であれば功徳がある。なぜならば、我々一切衆生は本仏であり、本尊は功徳を引き出す道具だから。だけど、俺は創価学会員だから、創価学会の指定する本尊を拝む。

◆沖浦氏の功徳観:どんな宗教でも怨嫉さえなければ功徳がある。怨嫉のない題目なら最高だけどね。

怨嫉があれば題目は功徳を失い、怨嫉がなければどんな宗教でも功徳がある。怨嫉がない題目なら最高だし、俺は学会員だから、題目を唱える。

いままでの沖浦氏のコメントから、彼の本尊観、功徳観を要約すると上記のようになると思います。

日蓮正宗の御本尊だけが特別じゃない、これは創価学会、顕正会ともにベクトルは合っていると思いますし、沖浦説もその方向でしょう。ですが、沖浦説の内容を見ていく時に創価学会員(顕正会員)のどれだけの人が沖浦説(中身)に賛成するのでしょう?

私は沖浦説は結構特異な内容だと思いますし、何人もの人が「沖浦教ではないか?」と指摘する所以だと思います。

2016/2/9  7:00

投稿者:沖浦克治
勝さん、おはようございます。

 そういう内部でのごたごたは起こりません。
 既に日蓮正宗に寛師教学へ未練のある人は、宗門へ行っております。

 破門から四半世紀、既に創価学会員の中からは日蓮正宗の幻影は消滅済みなんです。

 多少の声は上がるでしょうが、勢力をなす所までには育ちません。
 誰も相手にしませんので。

 この時のために、池田先生が祈られ戦われ、破門を勝ち取ったのです。

 破門した時点で、宗門の負け戦です。

2016/2/9  6:36

沖浦殿 ご返信ありがとうございます

>先ず創価学会hが御書全集を発刊し直すと思います。 それは近い将来でしょう
が、寛師教学から来ている、現在の大聖人本仏を見直した後だろうと思えます。
>それと、教義変更はそれをもって終了し、世界民衆救済への大哲学としても大聖人
仏法の理論的確率が終了致します。

では、やはり其の時に一大闘諍が起きる、という事なのでしょうね。
創価学会でも今尚、正宗教学を引き継ぐ人々、「いずれ大石寺に正しい信心が戻れ
ば、晴れて大石寺に戻れる」と考えている人々、教学部の人々と、世界広布の為には
正宗教学と完全に決別すべきだと考えている人々の間に、深刻な対立が生じ、創価は
どちらかの道をはっきりと決めねばならぬ時が出来しますでしょう。

其の時、負けた方は勝った方に従うのか、或いは大々的に分裂するのか、或いは正宗
教学を擲つ事を拒否する人々だけ創価から抜けて宗門に下る事になるのか、それは私
には全く判りませんが…

2016/2/9  6:29

投稿者:沖浦克治
 例を挙げておきましょうね・・・・

 日蓮正宗の方々は、

 戒壇本尊だけが本物で、これにつながる書写本尊でないと偽だ。

 概ねがこういうご主張です。
 所が法主達は戒壇本尊を書写しておりません。

 讃文が異なりますし、滅度後も10年の開きがあります。

 これは何方でも確認できる簡単なことですが、それについて納得が出来る説明をされた方はおられません。

 こういう自己矛盾からキチンと解決しないなら、とてものこと他宗の本尊に文句は言えませんよ。

 

2016/2/9  6:25

投稿者:沖浦克治
 皆様方おはようございます。

>かくも大事の御本尊を、勝手に複製コピーして偽造・偽装する、などということは、堕地獄必定の恐るべき大謗法であります。

 尤もらしい理屈ですが、どうしようもない欠陥がございます。

 日蓮正宗と言う宗派の方がしばしばこういう駄論を書かれます。
 然しながら、ご自分の宗派がそういう出鱈目コピーを繰り返していることには触れません。

 書写の資格を他宗に問うには、最初に御本尊書写の資格を御図顕なさった大聖人のご発言に基づいて提示する必要があります。

 違反を問うには法律をキチンと提示する。

 世の道理です。
 所がこれまで私が対談した日蓮正宗の方々で、この資格を御書に基づいて提示されたお方は皆無です。

 御法主上人猊下様の権能が〜〜〜!!

 こんなの無意味な内部規定です。
 少し冷静に御書学ばないとドンドン大聖人から外れますよ。

2016/2/9  6:08

投稿者:沖浦克治
勝さん、大沢さん、おはようございます。

 スレッドが改まっていますのでこちらに書きます。

 先ず創価学会hが御書全集を発刊し直すと思います。 それは近い将来でしょうが、寛師教学から来ている、現在の大聖人本仏を見直した後だろうと思えます。

 それと、教義変更はそれをもって終了し、世界民衆救済への大哲学としても大聖人仏法の理論的確率が終了致します。

 寛師教学など微塵も引きずっていては、世界の民は救えません。
 日蓮正宗が反面教師です。

2016/2/8  21:39

投稿者:沖浦克治
 北村栄治さんからお聞きした話です。
 
 「自分はボリュームには自信があった。
 ある時アメリカへ行った時、世界的なクラリネット奏者のいるクラシックのオーケストラを聞きに行った。
 一番前に座って聞いていたが、その世界的に有名な奏者のボリュウムがしょぼい事にバカらしくなって、演奏中なのに席を立って出て行った。
 会場の後ろのドアへ向かって歩いていると、クラリネットの音が全く小さくならないで自分について来た。
 おかしいな、こんなに離れているのに最前列と同じボリュームで聞こえている。
 不思議に思って、会場のあちらこちらに移動して見ると、何処にいても全く同じ音量で聞こえている。
 これは一体どういう事なんだ。
 自分がやってきたボリュームとは全く異次元の世界だ。
 自分の未熟さを思い知らされて愕然とした。
 帰国して、直ぐクラシックの先生に教えを請った。
 最初は拒否された。
 その先生は、
 私は貴方にあこがれてクラリネットをやった。
 貴方を教えるなんてとんでもない。
 それを頼み込んで教わった。 
 最初にシューベルトを教わった。
 自分が吹くと先生が言った。
 シューベルトと言うのは森があってその前に小川が流れていて、森の中から小川を超えて爽やかな風が吹いてくるような音楽です。
 貴方の音はそうではなく、森の前に立ちはだかっている。
 そこから必死で努力をして、自分は凄く上手くなったしまだまだ上手くなっている最中です。」

 世界のトップと言われている北村栄治さんのお話は、物凄く説得力がありました。
 今でも、私の努力のばねになっています。
 

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