2016/2/9

ダセイデツヅケル  
沖浦氏との議論は適当なところで切り上げるのが得策である。しかし、せっかくなので、もう少しだけ書いておこうかと思う。

 御本尊に在御版とあるので勝手に複製をするなと言う意味である。

 概ねそういうご意見ですね。
 ですが、この場合、では書写や複製の資格を御書に基づいて明確にする責任が生じます。

 この点は日蓮正宗で証明した人がおられません。


やや思いつきながらも今回初めて気がついたことを書いておくと、他門では在御判のところに自署名を入れるような習慣があるけれども、これは不許複製の掟を守らんがためなのかもしれない。つまり、自分たちには本尊書写の権限がない、だから書写ではなくオリジナルの本尊を書くしかない、それがすなわち自署名の本尊の意味なのかもしれない、ということだ。

逆に、これはもうずいぶん前に書いたことだが、日蓮在御判などという表記は空文に過ぎない、しかし、唯授一人の相承者が書くことによって、そこに効力が生じるのであろう、ということを以前に書いた。

まあ、しかし、これでは沖浦氏を納得させることは出来ない。

血脈の次第 日蓮日興

御法主上人の権能ということを御書をもって証明せよ。これが沖浦氏の要求である。

わたくしはまず身延相承書を挙げたいと思う。当然、沖浦氏は言うだろう。それはダメであると。どうやら最近の沖浦氏はこれを偽書と見なしているようである。だったら御書全集から削除せよ、話はそれからだ、と言いたい。

勝氏による今朝のコメント群の中にも、顔は東を向き足は西を向いている、というような言葉があったけれども、まさに今の創価学会のテイタラクをよくあらわしていると思う。支離滅裂なのだ。

ようは教義の改変を行なうにしても、そのやり方が実に中途半端なのである。

以前、創価学会で御書の全面的な見直しをするような話があった。けれども、その後の進捗状況は不明である。

その理由はけっこう簡単な話で、ようは御書の真偽問題を追求しだすとキリがないのだ。たとえば創価学会で重用している御義口伝をどうするかとか、生死一大事血脈抄など最蓮房関連の御書をどうするかなど、まるで整理がつかないのである。それこそゲリマンダー的に選択すれば、嘲笑の的になるだけである。当然、日蓮正宗から痛烈に批判されるだろうし、顕正会からもされるし、あるいは他門からも鼻でせせら笑われることになるかもしれない。しょせん創価学会はその程度なのだと。

この際、提案しておこう。創価学会は宗門復帰を目指すべきであると。これがいちばん整合性が高いはずなのだ。まあ、しかし、たぶん無理だろう。無理を承知で、提案だけはさせていただく。

又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。

本因妙抄である。こういう御文を出すと、逆にせせら笑われることになるのかもしれないが、少なくとも日蓮正宗系においては必須の文証である。創価学会版の御書全集にも載っているはずだ。ゆえに文句があるならば、まずは全集から削除しなければいけない。

宗祖御遷化記録

ヤブカラボウに思われるかもしれないが、それはそのとおりである。たぶん、これはあまり言われていないことだと思うので、わたくしが何を言わんとしているのか、おそらくは誰も見当がつかないだろう。

日興遺誡置文

余計にわけがわからないだろう。

まず宗祖御遷化記録と二箇相承が矛盾するとの指摘がある。ようするに本弟子六人を定めることと唯授一人の血脈相承が矛盾するというのだ。

確かにそのとおりではあるのだが、わたくしは次のくだりに注目した。

一、御所持仏教の事
   御遺言に云はく・・・


煩瑣になるので省略したが、内容としてはいわゆる随身仏と注法華経の扱いについての遺言である。

なんと大聖人の遺言はそれだけなのだ。

あれ? もっとも大事な御本尊についての遺言はどうしたのだろう?

このように考えると、唯授一人の血脈相承の存在が俄然クローズアップされてくるのではないかと思う。

此の血脈並びに本尊の大事は・・・

なるほど、本尊書写の権能は日興上人のみに御譲りあそばされたがゆえに、本弟子六人を制定する文書には出てこないのだ。

同様の視点で御遺誡二十六箇条を拝すると、これも御本尊についてはまったく記されていないことに気がつくことになる。その理由は明々白々だ。以下、御遺誡の前後に付された御言葉の一端を示しておく。

後学の為に・・・

後代の学侶・・・


日興上人の御遺誡は主には大衆に向けて定められたものなのである。一般僧侶という意味だ。ゆえに唯授一人の権能であるところの本尊書写についてはまったく規定がないのである。

近年以来日興所立の義を盗み取り己が義と為す輩出来する由緒条々の事。

最後に富士一跡門徒存知事を拝しておこう。

上掲は現代的に言えば、さながら知的所有権の問題である。当時はそうした概念が希薄だったのだろう。ゆえにパクリが横行していた。

一、五人一同に云はく、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべしとて既に立てたり・・・

 日興が云はく、聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり。


かくのごとく五老の多くは御本尊のことがわかっていなかった。まるでお話にならないレベルだ。こういう人たちにはパクられる心配はない。しかし、わかっていなくても真似事は出来る。それが最初のほうで触れた自著名の本尊だったり、あるいは次のような事例が相当するだろう。

一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賎する由諸方に其の聞こえ有り・・・

細かい点だが、諸方に其の聞こえ有り、というのがイミシンである。日興上人はそうした情報を耳にされていたものの、直接的には目撃していないと考えられる。さすがに唯授一人の権能まします日興上人の前では、そうした大それたことは誰も出来なかったのだろう。

2016/2/23  13:19

(続き)

にも関わらず、恐らく宗門の人が書いたと思われるこのウィキペディア記事には、

>徹夜で松本住職を軟禁したことは事実のようである。その結果、1974年12月25日
に擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)となった人物である。

と、さも無理やり妙信講に従わされたかのように印象操作がなされているのである
。もし暴力なり恫喝なりで無理やり従わされたのであれば、刑事事件であるし、擯
斥はおかしい。無茶な記事文であるし、亡くなった方の意志を冒涜している。それ
ともご高齢であったから、判断も満足にできなくなって騙されて妙信講についた、

とでも言うのであろうか。

第一、「軟禁」でさえ証拠はない。松本師が宗門や御遺命、妙信講の今後の事を憂
いて、浅井氏を呼び出し、今後の事についての相談が長時間に及んだだけなのかも
知れない。我々は何か今後の重要な事を語る時に、社長と専務でもよいし、夫婦で
もよいし、コーチと選手でもよいが、夕刻から談義が始まって、ついつい深夜にま
で話し込むような事はないだろうか?あらゆる話は2、3時間で終わるだろうか?

長時間の話は全て「軟禁」だろうか?

証拠もないのに「軟禁」だと決めつけ、妙信講側にたって幅広く活躍されたのに「
強制」であるかのように見せかけ、以て故人の意志を蔑ろにし、実に誑惑の記事文
である。

2016/2/23  13:17

【松本師に就いて】

>顕正寺「開基」とされる松本日仁(まつもとにちじ
ん)は、日蓮正宗妙縁寺の住職として、また、権僧正(ご
んそうじょう)の位にある高僧であったが、正本堂の定義
をめぐる論争で国立戒壇論堅持を主張する浅井甚兵衛・浅
井昭衛父子らに徹夜で軟禁されて、浅井親子の説得に応じ
る形となった。当時の様子について浅井昭衛は、総本山か
ら戻った松本から電話があり、妙縁寺を訪ねたと主張して
いるが、その時刻を夕方と言ってみたり、深夜と言ってみ
たり、一貫性を見ないが、徹夜で松本住職を軟禁したこと
は事実のようである。その結果、1974年12月25日に擯
斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放するこ
と)となった人物である。

…について、当方は以前、
「宗門とは、軟禁されたる人を擯斥破門にするようなところなのか?」という事を
書いた。きっと反論があるだろうと思っての事である。然るに…

この事に就き、誰からも反論がないのでセルフで答えておくと、実は「軟禁された
から擯斥」等という事ではなかったのである。上の記事をよく読むと「浅井親子の
説得に応じる形となった」とある。そう、軟禁どうのは一先ず置くとして、最終的
には松本師が自らご自身の意志で妙信講に賛同して下さったのである。仮に単に軟
禁で無理やり…という事であれば、翌日には翻意されていてもおかしくない(無理
やり連れてこられた人が入信勤行の翌日退転するように)。第一、浅井氏との話が
長くなった時点で帰るように促し、帰らないようであれば警察を呼ぶ、という話も
なっていた筈である。然るに事実はそうではない。翌日どころか亡くなるまで、松
本師は妙信講を支持して下さっていたのである。積極的に妙信講側にたって活動を
され、亦、妙信講側代表として宗門への交渉も行って下さった。そういう事情があ
るからこそ擯斥処分ともなったのである。

2016/2/19  0:51

チキンジョージ殿 最後です

無論、逆に「そうか祈りは絶対に叶うのか」と断定的に捉えてしまうのも早計で危
険だとも想いますが。

何故ならば、熱原の三烈士は何もされたくて処刑された訳ではないでしょうし、大
聖人も祈りが必ず叶うならば一瞬にして広布を達成するという祈りをされたでしょ
うし、現在に於いても、宗門、創価、顕正会、正信会の何れかが正しいのであれば
、其れ以外の他の教団は瞬時に瓦解、崩壊していてもおかしくないかと思われます
。亦、法華の行者が祈れば、手の平に置いた硬貨が空中に浮いたり、交通事故で死
んだ息子が蘇ったり、一億円の宝くじが当たったり、怨嫉が完全消滅していてもお
かしくない筈です。

だから、上の日寛上人と大聖人の御金言は、慎重に捉えねばならないかとは思いま
すが、やはり「祈りは叶う」を完全否定してしまうのは、其れは其れで問題ではな
いかと思われます。更に、もっと看過できないのが以下で…

>死後の生命の存在。
>物語としての因果論。

>ここから脱却しない限り、21世紀の宗教たり得ない。これらは既に科学領域で完

全に否定されているのだ。
と「脱却しない限り」とありますが、死後の生命の存在や因果律を否定してしまっ
ては、もはや其れは仏法ではありません。
この斧節氏は創価学会員であると思われ、氏の言葉を紹介するチキンジョージ殿も
同じく創価学会員だとお見受けしますが、現在の創価の教義は一体、どうなってい
るのでしょうか?

2016/2/19  0:50

チキンジョージ殿 続きです

問題はここからです。
気持ちの話であれば、先述の通り何教でも実害が実益(幸福感)に勝っていれば良
いのですが、仏法という視点からすれば、謗法は来世を狂わせます(狂わせるどこ
ろか…)。

さて、次の問題ですが、大聖人の仏法を前提して以下を考察しますと、斧節氏の発
言には問題があります。

>祈りは絶対にかなう。

然るに、日寛上人のお言葉に以下のようなものがあるのですよ。

「ゆえに暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶わ
ざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来らざるは無く、理として顕われ
ざるは無きなり」

是を其の侭拝すれば、「祈りは絶対にかなう」になるかと想われます。故に、是を
安易に否定できないように想うのです。亦、大聖人も、祈祷抄にて、

「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はあり
とも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」

と仰せであります。
是も其の侭解釈すると、法華経の行者の祈りは絶対にかなう、という事になるかと
思われます。

2016/2/19  0:43

チキンジョージ殿 こんばんは (連投、申し訳ない)

>祈りがかなうメカニズムは既に脳科学の世界で証明されている。祈りという集中
行為によって、他の情報が色褪せてしまうのだ。このため脳には都合のいい情報だ
けが引っ掛かるようになる。

>もちろん大乗仏教的発想で、宗教効用論(プラシーボ効果)で乗り切る手もある
。意外と知られていないが薬という薬には全てプラシーボ効果がある。このため高
額な薬ほど効き目があることが判明している。

…まあ思い込みでも何でも、それで「救われた」という気持ちになり、幸福を感じ
たり(是は重要です)、実際に何かに対する成功率が上がるのならば、其れは其れ
で大変おめでたい事ではないかとは思うのですが。
まあ然るに、負の効果として宗教戦争をしたり、こっちは正しい仏法やっているか
ら全て正しいんだと横柄になったり、自己批判ができなくなったり、「自分は最近
活動していないから罰が出そう」と気に病んでいるせいで実際に事故ったり、うつ
状態になるのでしたら問題ですし、やめた方が良いかも知れませんが。

此処までは正法以外の宗教一般の話。
謗法である、という事を除けば創価もキリスト教も天理教も浄土真宗も、人々に幸
福をもたらしている以上は無下にはできません(対価として理性的な判断を少々失
いますが)。

2016/2/17  12:03

沖浦殿の教義に就いて 【諸法実相】(最後)

>実相は必ず諸法とあるでしょう。これが仏法の極意です。
>生活から離れた何処かに、素晴らしい法があるのではないのです。

我々の命の全て、所作全て、乃至諸物(非情)の動きに因として仏法(諸法)が貫
かれている…是は確かな事ですが、だからといって我々の所作が仏道修行と言える
訳でもありませんし、一般書が仏道書だと言える訳でもありません。

例えて言いましょう。万有引力や熱力学は我々全て、乃至諸物を貫いています。ジ
ャンプすれば必ず後に下へ落下します。亦、我々も微弱ながらも他の物体を引き寄
せています(引力を持っています)。我々の体温も全て熱力学の法則通りになって
いて、或いはエネルギー保存の法則にも忠実です。当に、我々の生命活動、日常の
所作全てが万有引力や熱力学等の下にあるといっても過言ではないでしょう。寝て
いても走っていても万有引力に支配され、風呂に入っても汗をかいても熱力学に支
配されています。
其れはそうなのですが、だからといって寝ていたり走ったり、或いは風呂に入った
り汗をかいても、其れを「物理学の勉強」だとは謂いませんし、物理学を解明する
にも至りません。解明に至れないだけでなく、当然、寝ていたり汗をかいたりして
いるだけでは、科学の応用もできません。即ち科学技術を開発する事もできない訳
です。

仏法も同じです。我々は生死輪廻を繰り返し、罪障や福運のシステムの中に居て、
仏法の系に含まれています。我々は知るも知らぬも仏法の支配下にある訳です。
其れはそうなのですが、だからといってただ為されるがまま幸不幸や輪廻転生を繰
り返すのは仏道修行とは謂いませんし、仏法を識る事にもなりません。
仏法を知るにしても、成仏に至るにしても、自身が仏法の支配下にあるというだけ
では駄目なのです。仏道修行とは科学技術のようなものです。科学を解明したり理
解した智慧ある人が其れを応用して技術を確立したように、仏法を解明したり理解
した智慧ある人(即ち仏)が其れを応用して成仏技術を確立されました。この技術
を使用しない限り、一切衆生は単に仏法の支配下にあるだけで(諸法の当体の一部
であるだけで)、成仏などはできないのです。技術使用とは具体的に言えば勤行と
折伏です。

2016/2/16  23:53

沖浦殿の教義に就いて 【諸法実相】(続き)

この世の全てを仏法は貫いている。或いは、この世の全ての自然法則は仏法に通じ
ている(仏法の一部である)。是は確かな事です。だから、物理学も仏法の一部で
はありましょう。然るに、成仏の為の法則は物理学では解き明かされていません。
だから物理学を頑張っても「如来秘密神通力」は得られない訳です。

仏法は諸法全てを含んでいて、中でも成仏の為の仏法は秘密にして寿量品に説かれ
ている…この辺りは天台大師も知っていた事ですが、是でもまだ「秘密神通力」は
得られません。理の仏法とは、「秘密神通力」とは何物なるかを概観として説いた
だけのものであって、中身そのものではないのです。そして、大聖人(というか其
の本地)の事の仏法こそは妙法蓮華経であり、一念三千を一切衆生にも実現させる
ものです。ようやく「秘密神通力」を我々は得られるという訳です。本来、我々に
も仏性が備わっていて、我々の一念にも三千世界が含まれている訳ですが、実現し
ていないのです。

故に、沖浦殿が挙げられた御文の締め括りには、
「三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し障り無く 開悟す可し」
…と仏道修行を指南されている訳です。「スキーでも可」とは書かれてありません。

亦、大聖人の仏法以外の教えは、其れが成仏に関するものであれば、完全に間違い
である事は、
「若し之に違わば三世の諸仏に背き奉る大罪の人なり 天魔外道なり 永く仏法に
背くが故に」
に明らかです。当然、真言の教義でもオウムの教義でも、其れを説いたり信じたり
するのは仏法的に言えば「大罪」となる訳です。「あらゆる経書は正しい」という
事にはならないのです。

2016/2/16  23:31

沖浦殿の教義に就いて 【諸法実相】

>是の故に心外無別法と云う此れを一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり 
>一切法とは諸法、仏法とは実装。先ずこれをキチンと把握しておきましょう。

さて、この「一切法」や「諸法」ですが、是は国法(国の法律)ではないのは勿論
の事、儒学書などの外典の事でもなく、その他誰の命令、教義、学者の説の事でも
ありません。釈迦に説法かも知れませんが、一応、述べさせて戴きますと、この「
諸法」とは宇宙を貫く法則全般の事です。熱力学だとか相対性理論だとか万有引力
といったものと似ています。それらの総合。或いは、思考の客体である宇宙全体の
事も指します。森羅万象。

実相とは、ありのまま、という意味で、延いては「ありのままを見つめる智慧」、
即ち如来の悟った智慧の事で、仰るように仏法の事です。換言すれば「妙法蓮華経
」。仏(報身、即ち御本仏)の智慧は完全ですから、この世を貫く一切の法則と仏
の智慧とは等しい訳です。仏の智慧は宇宙の全てを対象にし、網羅し、包み込んで
いる訳です。妙法蓮華経という仏の智慧の中に、十界全てが含まれていて、十如是
も具足し、三世界も含まれています。即ち、仏の智慧は一念三千である訳です。仏
の智慧の中には当然、地獄界についての事も含まれています。故に仏は思い出すよ
うに、簡単に地獄の苦しさを頭に生じさせる事もできるでしょうし、瞬時に南極の
寒さもサハラ砂漠の暑さも観(感)じる事ができるでしょう。
宇宙の事を法界と謂いますが、詰まり法則が通じる世界の事を指します。そう、全
宇宙に仏の見出したる法が通じる故に、全宇宙の事を法界とも謂う訳です。

仏の智慧は宇宙法界全体(境)と完全に一致したもので漏らす部分がない故に、
「境智冥合」とも「諸法=実相」とも言う訳です。詰まり「仏の智慧=宇宙内の全
て」という事になります。

諸法実相とは、宇宙全体を仏の智慧(仏法)が対象としている、或いは宇宙全体の
全ての法則の総合が仏の智慧(仏法)と同じである、という意味であって、料理法
だとかスキーだとかが仏法と同じである、という訳ではありません。
スキーをどんなにしていても、成仏の事には関係ないのです。

2016/2/16  23:27

沖浦殿の教義に就いて 【神通の力】

私は先に「沖浦殿の考えは間違っています(趣意)」といった事を述べましたが、
幾らそう吠えていても、論拠を述べないのであれば只の空論です。
其処で、以下に私がそう考えたところの根拠をお述べ致しましょう。

>神通之力とは我等衆生の作作発発と振舞う処を神通と云うなり

確かに、一切の人の行いは神通の力であると説かれています。思えば、我々がこう
して生命活動をしているのも不思議と言えば不思議な話で、そういう意味からは「
神通力」だと言う事もできましょう。あらゆる事(諸法)は仏法に従って生じ、動
いているのだとすれば、諸所の人の言動も全て神通です。

然るに、神通の力には総別の二つの義(意味)があります。係る御文には続きがあ
ります。

「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成
仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり」

詰まり、神通之力とは「あらゆる行(総)」と「成仏の為の行(別)」の二つがあ
る、という訳です。後者は「『如来秘密』神通之力」と形容が増えています。形容
が増えているという事は語句定義の条件を増やしているという事ですから、集合は
自ずと小さくなります。換言すれば「別」。
例えて言いますと、「学生(一般)」が総であり、「本校の」という条件を加えた
る「本校の学生」が別だという事です。

あらゆる人が仏(の素質)を持っているが(総)、末法にあっては(今も末法です
)大聖人の眷属だけが事の仏になれる訳です(別)。是と同じように、あらゆる行
いは神通力ですが(総)、如来秘密神通力は「日蓮等の類」の成仏行、即ち御題目
を唱える仏道の行だけを指すのです(別)。
作作発発にも種類があって、一切の言動もあれば、その中に成仏に関する作作発発
(言動)もある訳です。

2016/2/16  17:23

御観念文に就いて続き

他方、鎌倉時代に現れになり、御書の著者でもある凡夫体としての日蓮大聖人とは
、御本仏の応身になります。化身とも謂ったりもするでしょうが。この応身如来の
大聖人に対する御観念文は、法身如来である大御本尊への御観念文の次に来ます。
そこで私が疑問に思うのは、大御本尊への御観念文にある「久遠元初自受用報身如
来の御当体」や「人法体一」という部分です。大御本尊や妙法蓮華経は法身如来(
1)の事であり、次の大聖人は応身如来(2)の事です。そして、法身と応身とを
兼ねた存在の事を報身如来(3)、乃至、人法体一(3)という訳です。御本仏は
(1)と(2)を兼ねた存在である(3)なのです。故に報身如来とも謂うし、三
身如来とも謂う訳です。
何が疑問かと謂いますと、(1)に対する御観念文に(2)まで含んだ(3)に対
する言及も含まれている事です。然るに、戒壇の大御本尊は生身の人間、凡夫体と
しての大聖人ではありませんから、是はややおかしな事ではあります。

とはいえ「報身如来」ではなく「報身如来の当体(実体)」とあるので、是が即ち
妙法蓮華経の事だと言えましょうから、問題ないのかも知れません。然るにやはり
「人法体一(一箇)」の部分は、生身の身体を持つ鎌倉時代に御入滅された僧侶で
ある日蓮上人を含んでしまっている訳ですから、やはり大御本尊や法則そのものを
言い表すには不向きなのではないかと思われます。

もう一つ、是はもっと根源的な疑問ですが、「自受用報身如来」と大聖人を伝統的
に表していますが、私はむしろ「他受用報身如来」の方を強調した方が良いのでは
ないかと考えています。

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