2016/2/19

カツパツナロンギ  
引き続き一月度総幹部会の記事を見て行こう。まずは城衛だ。

・・・なかには全盲の人が介添えを伴って受験したり、百一歳の方の受験もありました。

教学試験についての報告である。全盲の人が受験したという話は以前にもあった。具体的にどうやるかはわからない。そしてもう一つの百一歳の受験者は確かに凄いことだ。もし可能ならば総幹部会で登壇するとインパクトがあるだろう。しかし、年齢が年齢だから決して無理をしてはいけない。

第八男子部長の活動報告では、創価学会の三世会員の発言が紹介されている。

今年は大きな出来事が起こって学会が分裂・崩壊するかもしれない。

ずいぶんイミシンな発言である。さて、いったい何が起こるのだろうか?

次に、昨年の一月に女子部の紹介で入会したという壮年が、登用試験を受験した旨の報告をしている。その中に気になる一節があったので紹介しておこう。

世間のような篩にかけるための試験ではなく・・・

いやいや、違うだろう。篩に掛けるという意味では、顕正会の教学試験のほうが、よほど当てはまる話だ。ようするに合格率の低さである。当該号には五級試験の合格者が掲載されているけれども、こんなに少ないのかと驚いたものである。この件は後日、詳しく書くつもりだ。

今回の拙ブログは話の内容を問わず、目についた記事を順番に紹介している。男子部第二十隊支隊副長の記事では、次のくだりが注目である。

いったい先生とはいかなる御方なのかと、低頭のほかはありませんでした。

ようするに日達上人に直接面談して論破したことを言っているわけだが、まあ、論破そのものはもうずっと以前から主張し続けていることなので、顕正会の主義主張ということでいいだろう。しかし、彼が細井日達と呼び捨てにすることは聞き捨てならない。猊下を呼び捨てにして、それに対比する形で「いったい先生とはいかなる御方なのか」などと言うに及んでは、オマエこそ、いったい何者なのだ、と言いたいところである。

一言で片付けるならば、ブンザイを弁えていない、ということである。ただし、これは彼に責任があるのではない。そのように仕向けているのは誰かという話なのだ。つまりは浅井先生ないし本部首脳の責任である。そろそろバカな教育はやめたまえと言っておこう。

婦人部横浜支区総班長は一昨年の一月に創価学会から入会してきた。おお、これはけっこうな出世頭ではないか、と思った。丸二年で総班長だからである。

 なかでも昭和四十七年九月、正本堂落成を眼前にしての法論は、先生お一人に対し学会側は三名、その後方には盗聴集団・・・

しかし、こういう人は顕正会の過去を知らないので、ある意味では虚飾の歴史を学ばされて鵜呑みにしてしまうという危険性がある。特に最近は、先生お一人、というフレーズが強調される傾向にあって、わたくしにはそれがやや疑問なのである。当時の浅井先生は妙信講の大幹部ではあったのだろうけれども、年齢的な意味でも先輩たちがたくさんいただろうし、また、男子部の精鋭部隊もいたわけである。そして当時の講頭はいわゆる顧問先生だった。顧問先生? たぶん彼女あたりはピンと来ないかもしれないが、今の顕正会でもそれなりに古い人たちには通じるはずである。つまり、創価学会の首脳や宗門の高僧たちと対峙していたのは、浅井先生一人ではなかった。そこには講頭先生もいらしたのである。

そうした事実をすべて消去してしまって、先生一人だけを強調することに、わたくしは作為的なものを感じずにはいられないのだ。今の顕正会の方針は浅井先生を独立教団の教祖に仕立て上げることなのだと・・・

先日、学会員を折伏した際に、本門の本尊、開して六義の人本尊を「御本仏日蓮大聖人」ではなく「池田大作」にしていると聞き、ただただ驚愕しました。

これはさすがにあり得ないと思うのだが、事実はどうなのだろうか?

少なくとも創価学会の公式見解としてはあり得ないだろう。こんなことをあからさまに言えば、宗門あたりから徹底的に破折されることになる。また、創価学会員たちにしても、ある程度の教学力があれば、こんな馬鹿な話が通用しないことは百も承知のはずである。

葬儀場社員も良相に感激し入信

婦人部中央支区総班副長の体験発表だ。父親の臨終ないし葬儀についての話題であるが、ご覧のごとく葬儀場の人が入信したという。入信者いわく、

「これまで色々な葬儀を担当してきたが、顕正会の葬儀は、いつも感激が満ちていて温かく、心打たれていました」

少し前にも同様の記事を紹介したと思うが、もしこれが事実ならば大変なことである。葬儀場の人が次々に入信するような現象が起これば、これはもうタダゴトではないだろう。今後、顕正会員が激増することになるかもしれない。

顕正新聞の傾向を見るに、最近は臨終の話題が多く感じられる。世の中の高齢化を反映して、顕正会にも高齢化の波が押し寄せているのだろう。そして顕正会で亡くなる人がその他に比して良相ばかりだとすれば、自ずと葬儀の専門家たちもその事実に気がつくことになる。そうした彼らが、亡くなった人の良相と顕正会の葬儀のあり方に感動して、次々に入信を願い出るような現象が全国的に起これば、もう広宣流布は確実である。

しかし、これはあくまで理屈の上の話である。さしあたっては、その手の人物が総幹部会で登壇することだろう。記事にウソがあるとは言わないが、現時点ではただ入信しただけの話なのである。入信しただけの話ならば、すでに百八十万人近くが入信しているからである。そして実態はご存知のごとくだ。

もう一人、男子部第八十二隊組長の記事を詳しく紹介するつもりだったが、くたびれたので簡単に触れて終わりにしたい。

 このたびの父の臨終を通し改めて、大聖人様、そして浅井先生の強きご一念により、父を成仏へと導いて頂けたこと・・・

これはこれは・・・

大聖人は当然のことだが、顕正会の場合、成仏するためには浅井先生の介在が必要のようである。なるほど、いったい先生とはいかなる御方なのかと、どうやらくだんの支隊副長が言っていることもツジツマが合っているようである。

2016/3/1  1:13

沖浦殿 続きです

>法の正邪を明らかにすることが布教に結びつかない証拠がございます。

>戒壇本尊本懐論などは邪義です。
>何故なら御書には一言もございませんし、弘安二年十月十二日に、大聖人が講師
に出された、伯耆殿御返事にその記載は欠片もございません。

この御手紙以外の御手紙でお示しになったかも知れません。大聖人の書かれた全て
の御文が完全に現在に残っている訳ではありません。亦、秘密の法門である故、御
手紙で明かすべきではないとお考えになったかも知れません。第一、この御手紙は
「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか」から始まり極めて不自然です。指示語である
「此の」が指し示す文が前に無いのです。となれば、思うに、この現存している御
文は断片であって、本来の御手紙はもっと長く、現存しているものは前半が失われ
てしまったものなのかも知れません(是ばかりは原本を見てみないと何とも言えま
せんが)。

>更には、道師の書いた三師御伝土代には否定の傍証が書かれていて、充分に信頼
出来ます。

すいません、「三師御伝土代」のどの辺りが大御本尊否定の傍証となるのでしょう
か。当方が誤解しない為にも、その当該箇所を引用して戴けないでしょうか。

2016/2/24  21:59

大沢殿 続きです

>導師としてお越しの御僧侶も遺族を含め背景というか状況を事前にお聞きになっ
て、未入信の参列者や信仰に反対していた遺族などがいる時には折伏も含めた内容
のお言葉をおっしゃったりします。

其れは重要な事ですね。一般的なの葬儀では其れがありません。葬儀の為にのみ呼
ばれて行く他宗の僧侶方は、あまり布教という観念がないのでしょう。

>確かに同信の信者による葬儀も素晴らしく思えるかもしれませんが、猛烈に反対
していた親族が、日蓮正宗の葬儀に参列して偏見が解けて、残された遺族の信仰に
次第に反対しなくなり、その親族が最初の折伏から何十年も経て入信したというよ
うな事が起こるのです。

>そういう意味で、葬儀は折伏の意義も含み、亡くなった方の最後の折伏ともいえ
るのです。もちろん亡くなった方の功徳が積まれることになります。

>顕正会員の気持ちもわからなくはありませんが、世間一般の邪宗の人々が折伏対
象者なのですから、その人たちとの接点を絶ってどうする、と思います。

いえいえ、顕正会の葬儀の考え方も大沢殿の言われている精神と何ら違うところは
ありませんよ。私が強調したかったのは導師も亡くなった方も同信の仲間、という
事であって、未入信の人を葬儀から締め出すと説明したかった訳ではありません。

但し顕正会の葬儀への対応にも問題がありまして、其れは他宗の葬儀には参列しな
い、という事です。どのレベルからの指導なのか分かりませんが、とにかく顕正会
では他宗の葬儀に出る事は良しとされないのです。
然るに、其の結果、親族の方との深刻な対立やトラブルを招く事にもなりましょう
し、亡くなった方の為に御題目を唱えてあげる人もいない、という事態になってし
まいます(まあ別の場所で御題目を送るでしょうが)。他宗の葬儀となった場合は
、トラブルを起こさず、亡くなった方の御遺骸に向かって御題目を唱えましょう。
心こそ大事に候らへ。委細なき也。(他宗の本尊に向かってしないように、注意)

2016/2/24  21:50

大沢殿 こんばんは

>いつもメールありがとうございます。メールの返信は後ほどさせていただきます
が、今回はこちらのコメントについて:

いえいえいつも滞りがちですみません。大抵は私が出すメールの方が多くなるので
すが、大沢殿には負けました。まあ気長にお待ち戴ければ、必ず全て返信します。

>顕正会の葬儀の場合は、信心のない人は訪れません。同じ組織の人は勿論、葬儀を
執り行う儀礼室や典礼院の人も顕正会員です。
普段は信心の事等気にかけない遺族や、葬儀の時だけ現れる僧侶が行う葬儀に比し
て、普段の信心の総仕上げとしてなされる葬儀は雰囲気が違うのは当然の事です。

→実は日蓮正宗の葬儀は折伏の意義もあるんですよ。ですから一般世間の葬儀と同
様、未入信の遺族、一般参列者も普通にいます。

→もとより最も大切なのは亡くなった方の成仏ですが、葬儀の場が亡くなった同志
の今生における最後の折伏の場ともいえます。

失礼、私の書き方がまずかったようです。信心のない人は訪れません、は語弊があ
りましたね。言いたかったのは、主に信心のある人で執り行われる、という事です
。導師も駆け付けた同組織の人も、そして亡くなった方ご自身も同じ信心をしてい
た人達です。感動的になる筈ですよ。
勿論、遺族でも信心していない人、信心に反対の人も居るでしょうし、弔問のお客
さんには信心していない人の方が多い事が殆どでしょう。葬儀社の人もそうです。
顕正会の葬儀には勿論、信心していない人も参加します。そして、勿論、葬儀が折
伏の場ともなるのです。

その結果、本記事にあるように葬儀社の人が入信したりもする訳です。

2016/2/23  19:08

沖浦殿…

>功徳を書かなくて良いネットもあります。

>主義主張を戦わす場合は裁判みたいなものです。
>どちらの論が整合性があるかだけの判断になります。

そうですよね。功徳を書かなくて良いネットもありますよね。まさしく。
私は以前、政治経済に関するMLにて、色々と論を戦わせましたが(顕正会員としてではあり
ませんが。そちらは実名です)、整合性の判断や真実追及にはルールを決めての論議がかな
り有効である、という事が実体験により感得できました。

>所が、化他行をするためには功徳を語ることが不可欠です。
>法論で広宣流布は出来ません。

いや、ここが少々沖浦殿の考えと違うところです。
確かに、無宗教人の多い昨今では法論は広布に貢献しません。然るに、少なくとも世界の何
億と存在する仏教徒に対しては、この法論(どちらが仏教として正しいか)は非常に大きな
意義を持つ事だろうと思います。勿論、正邪だけでは多くの人を動かす事はできませんが、
其れでも正邪は非常に重要な帰伏ポイントとなるかと思われます。人は理屈を追い求めるも
のでもありますので、単に「こっちの水は甘いよ」だけでは、今一人を動かす力に欠けるよ
うに思われます。まあ、人といっても様々なタイプがあって、理論先行の人もいれば、功徳
しか見ない人も居るでしょうが。
亦、仮に仏教徒ではなく、一般人を功徳で人を集めたとしても、単に功徳だけの話ならば、
其の人の友人が他の宗教でもっと幸福になった、という事を聞き及べば簡単に心がフラフラ
と流れて行ってしまう事もあろうかと思われます。やはり三証揃った教えの方が人を引き寄
せ、繋ぎ止める力に富んでいると言えるでしょう。

仮に、正宗の法主なり浅井会長なりが、あちらこちらの宗派宗教のトップに論議対決を挑ん
で、あらゆる他宗他教のトップが、或いは様々に言い訳をしては逃げ、或いは根幹的な矛盾
や間違いを突かれ木っ端微塵に粉砕されたのであれば、一躍有名になり、恐らく正宗宗門や
正宗顕正会への入信者はもっとずっと増えるものと思われます。少なくとも邪教への執着を
持つ人は結構減るのではないでしょうか。
伝教大師は帝の前で奈良六宗を破析され、朝廷に認められ天台宗を日本に根付かせました。
大聖人も、如何に公場法論に重きを置かれた事か…

2016/2/23  18:45

沖浦殿 こんばんは

お答えどうもありがとうございます。

>先ず、仏を覚知された人は御本尊の有無には無関係に唱題して良いでしょう。
>あくまでも御本尊は助縁です。

>その上で、如何に自身が仏だと覚知していても、布教のためには御本尊が必要です。
>武器ですからね。
>ですので、自身が御本尊へ向かって唱題して見せないと人は同じく唱えません。

この二つの関係がちょっと判らないのですが、仮に御本尊が助縁であって、必須ではな
いという事であるならば、どうして広布に置いては必須という事になるのでしょうか。

確かに大聖人の仏道修行は自行化他の両方を車の両輪のように行うべきものではありま
すが、基本的に自行も化他も其の本質には違いがない筈です。自身も行う修行を、他人
にも勧める、是が大聖人の仏法かと存じます。

2016/2/23  17:37

沖浦殿 こんばんは

>樋田さんとの法論は私と息子の大勝利でした。
>でもね、その後樋田さんとは友人となりました。

???
是は何かの冗談ですよね?或いは皮肉か何かか…
「友人」とは樋田氏の事ではなくて、他の法華講員の事ですよね?

上のような書き方では、まるで沖浦殿が樋田氏と本当に友達になったかのように読めてしま
い、誤解の元になるので、ご注意申し上げました。他意は一切ございません。この諫暁の
程、宜しくお納め下されば…

2016/2/23  7:53

投稿者:大沢克日子
>そして、他人の功徳を否定する場合、自身が功徳と言うものがどういうものかを具体的に説明せねばなりません。
>んっ?さんや、阿部日さんに見られる発言にはこの具体論が皆無です。
>私が活動家ではないと言う。
>それでは、活動家の定義を提示して下さいと問うと、一切の提示はありません。
>頭破七分ですね。

沖浦氏もんっ?氏も阿部日氏も創価学会員なんですよね?
創価学会の正邪は脇に置くとして、功徳に満ち溢れて人間革命を果たし南無妙法蓮華経如来で御本尊は道具と言っている沖浦氏が、同信の徒を功徳が書けないとか他宗の人間に比べて劣る(別の日のコメント)とネットで言っていること自体、全然ダメですね。

本当に仏法の功徳を実感して、創価仏法により「人間革命」を果たすと確信している人間だったら、(仏法の功徳を実感すればするほど)同信の徒にそんなことは言わなくなるものです。何故なら、今欠点があっても正法修行によりその人の仏界は開いていき、成仏に至る訳です。本当に功徳を実感しているのなら、同信の仲間の成仏を思い↑↑のようなコメントはしないものです。

仮に相手が沖浦氏のことを何か言っていたとしても、そんな発言をしている事自体全然ダメ。

沖浦氏が仏道修行の功徳に恵まれていないと指摘する一因です。
仏法を自己正当化の道具にしているに過ぎない証拠です。

まあ、重量挙げは努力して頑張っているようですが。

マイナス9,999,999点ですね。
全然ダメです。
功徳なんてトンデモない。

2016/2/23  5:54

投稿者:沖浦克治
功徳を書かなくて良いネットもあります。

 主義主張を戦わす場合は裁判みたいなものです。
 どちらの論が整合性があるかだけの判断になります。

 所が、化他行をするためには功徳を語ることが不可欠です。
 法論で広宣流布は出来ません。

 そして、他人の功徳を否定する場合、自身が功徳と言うものがどういうものかを具体的に説明せねばなりません。

 んっ?さんや、阿部日さんに見られる発言にはこの具体論が皆無です。

 私が活動家ではないと言う。
 それでは、活動家の定義を提示して下さいと問うと、一切の提示はありません。

 頭破七分ですね。
 会議で誰かが意見を言う。
 それに対して、

 それは会議の趣旨と異なる。

 こういう事を言う人は会議の趣旨を熟知していなければなりません。
 同じ理屈です。

 お前は活動家ではない。

 こう断言する人は、活動家の定義を熟知している必要があります。 
 これが世間の道理です。

 大沢さんなどは、私の功徳を否定されます。
 奈良は、日蓮正宗の提示する具体的な功徳とはどういうもので、自身が生活上これこれこのように顕現している。

 こういう提示が必要なんです。
 それは皆無。
 只々他宗の方の功徳を否定することだけが、自分たちの宗派の正当性の主張なんです。
 
 樋田さんたちに見られますね、この傾向性は。
 日蓮正宗はだからダメなんですよ。

2016/2/23  5:44

投稿者:沖浦克治
 勝さん、おはようございます。

 先ず、仏を覚知された人は御本尊の有無には無関係に唱題して良いでしょう。
 あくまでも御本尊は助縁です。

 その上で、如何に自身が仏だと覚知していても、布教のためには御本尊が必要です。
 武器ですからね。

 ですので、自身が御本尊へ向かって唱題して見せないと人は同じく唱えません。

 自身のためだけの仏道と。化他行は異なります。
 大聖人は自行化他。
 ですので、双方が必要になります。

 御本尊は方便なのですよ。

2016/2/22  23:54

沖浦殿

>功徳が書けないネットは、虚しいですね。

まあ私にも功徳と言えそうなものは無くはないのですが、恥ずかしいのでプライベートな
事は書きたくない、という理由であまり書きません。一つ書くとすれば…いや、これは
追々、後に亦、書きましょう。

>ですが、創価以外の方はご自由です。
>創価の本来の姿は、自身の功徳の実証を持って他人を教化することです。

なるほど、創価学会員に限っては、という事なのですね。

顕正会の場合は、三証揃えて折伏するように言われます。
但し、私は一般的な幸不幸は、かなり慎重に考えねばならないと考えています。顕正会内
だけの情報に接していますと、何かまるで顕正会員にだけ幸福(功徳)が現出しているよ
うな錯覚を抱きますが、広く世を見ると、法華講の人も功徳体験を集会とかで語っている
ようですし、創価でも色々と体験発表がなされているようです。亦、他の宗教団体でも
「守られている」「幸福になった」という話が聞かれます。第一、一切幸福になれないの
であれば、他教にせよ他宗にせよ異流儀(宗門、学会)にせよ、誰もそこに所属し続けよ
うとは思わないでしょうからね。何かしら功徳めいたものがある筈です。更に言えば、無
宗教の人にも成功の話、幸運の話は聞かれます。
では、地球で唯一大聖人の御遺命を精神を正しく守っている弊会だけに幸福話が聞かれ
る、という訳でもないのは、どうした事でしょうか?宗門の教義でも正しいとでもいうの
でしょうか?御遺命や法門を守るのも正しく、曲げるのも正しい?果たしてそんな事があ
るのでしょうか。

さて、御書には「正邪の判断は経文を先とすべし(趣意)」との御指南が多々あります。
何故ならば、世には魔の通力というものもあれば、前世等の福運というものもあるからで
す。
そこで私は法論、折伏に於いては文証、理証を先としております。

(但し、そもそも仏教や大聖人自体を信じない人…鎌倉時代と違って最近では是が主流で
すが…を折伏、説得するには、幾ら経文、御書を出しても無意味だという事は当然理解し
ていて、戸田氏の方針にも理があるとは思います。難しい問題ですね)

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