2005/12/27

「砕破す」ついにネット公開す  
なかなか公開されないので何か都合の悪いことでもあるのだろうかと勘ぐっていたが、ようやく「自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の最後に申すべき事≠砕破す」がネット公開された。

執筆者名義は毎度のことながら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班。そして日蓮正宗宗務院監修となっている。
これはすごい。今までは単なるネット上の怪文書と同列・・・とまではいかないにしても、巌虎独白と大差ない・・・とまではいかなくても、どなたが書いたものかはっきりしない意味では同一視されても仕方がないところがあったと思う。
しかし、今度は宗務院のお墨付きであるから、まことに正々堂々たるものである。

そもそもわたくしは浅井先生の「最後に申すべき事」をまだ読んでいなかった。顕正会員のクセにこの本を持っていないのである。そのうちどこかのサイトが全文アップするだろうと期待していたところ、案の定というべきか、邪義破折班のサイトにおいて参考資料として掲示されたのである。

参考資料<浅井昭衛の駄文『「最後に申すべき事」』全文>

駄文は余計なお世話であろう。
それはともかくわたくしの感想であるが、身びいきを承知でいえば浅井先生の「最後に申すべき事」はよく書けていると思う。もっとも、こんな感想では顕正会員からぶっ飛ばされそうである。先生に対してよく書けているとは何たる言い草か、と言われれば弁解の余地はない。まあ、しかし、ぜんぜんダメである、というよりはマシであろう。当ブログではけっこう先生に批判的なことを書いているので、今回の感想は良心的ではないかと自分では思っている。

先生の文章は読みやすいと思う。
一方の邪義破折班の文章は読みにくい。長ったらしくていけない。読んでいて疲れてくる。
しかし、それは文章のうまいヘタの問題だから、本当は除外しないといけない。内容的にどうかが重要なのであるが、先生の文章では相手の言葉を要約して「取意」のかたちで引用することが多い。これを突っ込まれるとひじょうにつらいところがある。つまり、破折班ではそんなことは言っていない、書いていないというのである。結局、先生のその要約はスリカエであるとか改変であるとか言われてしまうのである。これはつらい。
なぜならば、先生の文章が読みやすいのはこの要約にあるからなのだ。

今日は朝から先生の「申すべき事」を読み、続いて破折班の「砕破す」を読んだのだが、さすがに途中で疲れてきてイヤになってきた。それは分量の問題もあるが、やはり文章が読みにくいからだと思う。
いずれにしても文章のうまいヘタは抜きにして内容を吟味しないといけない。
これは追々やっていこうと思う。

先生の文章で誤字がいくつかあった。
わたくしは日顕上人の御許に送付された原文を知る由もないし、先に書いたごとく顕正会版の本も持っていない。よって、これは破折班の入力ミスかもしれないが、いちおう気がついたところを指摘しておこう。

 だから、虫払法会の説法を細井管長の信念にもとずく「御本意」のごとくいうのも、訓諭が「僧俗一同を慰撫教導するため」に出されたというのも、またこの意を体して汝が「国立戒壇諭の誤りについて」を書いたというのも、すべては真っ赤な嘘である。


ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には
 「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
と記され、この相伝にもとずいて第二十六世・日寛上人は
 「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されている。



 汝は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を抹殺するための正本堂に長きにわたって居え奉ったが、これはどの不敬冒涜があろうか。


もとずく、もとずいて、これはど・・・完全主義の浅井先生がこのような間違いをするとは思われない。

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