2006/1/5

大石記の解釈をめぐって  
汝に教えておこう。日時上人の『大石記』には、
仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念仏など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり(富要初版十一巻一五五頁)
と述べられている。この仰せは日興上人が日常の御冗談として「もし私が耄碌して念仏を唱えるようなことがあれば用いてはいけない」と示されたものである。この仰せのように、貫首の己義とは、念仏などの邪義を唱えるなどという万々が一の状況を示されたものと拝すべきである。


ここに「万々が一」とある。これは日興遺誡置文の末文にある「万年救護の為に・・・」に通ずるのではないかと思う。ゆえに滅多には起きないが稀には起こり得ることを想定して「時の貫首たりと雖も」云々と仰せられたと考えるのが自然であって、これを一往のこと、仮定の話などとして、絶対に起こり得ないとするのはさすがに無理があると思う。先生の指摘するごとく、それこそ「無用の贅言(ぜいげん)」になってしまうだろう。

そもそも、ここで「汝に教えておこう」などと、もったいぶって大石記を引用する意味がわからない。
現在は閲覧不能になっているが、法太郎氏のサイトではこの大石記を日時上人ではなく他師のものだという説があることを紹介しているし、慧命では「転写に転写を重ねた価値の低い史料」とまで書いているのである。

■『大石記』(『問答ダイジェストVol.2』慧妙編集室)

この辺の不統一をどのように考えればいいのだろうか?

どうやら宗創問題が始まった頃、創価学会側はこの大石記の当該御文を使って日顕上人を攻撃していたようなのである。
つまり、この流れで考えると、都合の悪い資料についてはその価値を認めない、場合によっては偽書・偽作とまで決めつけてしまうということではあるまいか? 大坊棟札がその好例かもしれない。しかし、そんなことをしていたら、いずれ大石寺にはひとつとして本物がなくなってしまう・・・わたくしが何を言わんとしているかは語らずともわかることだろう。

日精上人の例でもそうだが、邪義破折班は相当の野心家であって、従来の説をひっくり返す意気込みが感じられる。都合が悪いからフタをするというのではなく、それにあえてぶつかっていく姿勢は立派なものだと思う。
しかし、ここでの大石記の引用はどうだろう、やはりわたくしには牽強付会ぎみの運びになっているように感じられて仕方がないのである。

地涌の第276号

これが当該御文の拝し方ではほぼ正論だと思う。
それにしてもこれはひじょうに興味深い資料である。以下、引用する。

譲状や法の付嘱などがあっても、謗法があればそれらは無意味であると、日時上人は話されているのである。日顕上人についても同じことがいえる。謗法を犯した日顕上人は、すでに法主としての資格を失っているのだ。

この頃はまだ日顕上人とお呼びしていたのだ。
しかもである。「譲状や法の付嘱などがあっても」云々と、ようするに御相承を認めた上で論じているのである。

ここに創価学会の変節が明らかではないか。

邪義破折班は無理な解釈をするのではなく、こうした変節を責めるにとどめるべきだと思う。それでじゅうぶんなのである。

2006/1/5  16:38

投稿者:あいり
明けましておめでとう♪v(*'-^*)ゞ^;*・'゜☆ブイ☆
* ゚ー゚)オジャマデス
色んなトコ見てたら飛んできました( ^▽^)
ブログ読ませてもらったので
記念“〆(^∇゜*)カキコ♪残していきま〜す♪
良かったら私のブログも
遊びに来てね(*´▽`)人
来てくれたらお茶でも ( ^-^)o旦~~ どぞ ♪ します(笑)
また遊びに来ますね♪

http://loveypopangel.blog2.petitmall.jp/

コメントを書く

名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ