2017/5/17
低迷期の独白
種々のコメントが寄せられている。その中から気になったものをいくつか拾っておこう。
須田さんは、御書を自分の都合のいい方面からしか拝せません。
これはお互いさまではあるまいか?
ともかく学者同士の論争ならば、我々のようなシモジモのズサンな議論とは訳が違うだろう。その意味で今後の推移を見守りたいと思う。
御宗門も同じじゃないんですか?
そしてこちらはまったくの別件である。ようするに顕正会には本尊複製疑惑があるわけだが、それは宗門も同じじゃないかというツッコミなのである。どのような意図でコメントしたのかがひじょうに気になるところだ。もし日蓮正宗批判のつもりならばおやめになったほうがよかろうと思う。わたくしの感触ではそういう人はロクな人生にならない。その意味であるが、これは宗門誹謗の罰である・・・などと言うつもりはまったくなくて、ようは時間のムダなのである。
つまり、わたくし自身の経験を言っているわけだ。
わたくしは十年以上もブログを続けている。しかし、結果的には時間の浪費に他ならないわけで、他にもっと有意義な過ごし方があったはずなのだ。
同様の意味で、法華講員だった人が離脱してから法華講のことをあれこれと書く、宗門のことを書く、当然ながら批判的なことを書くわけである。しかし、それは時間のムダであり、あまり有意義な人生とは言えないはずなのだ。
だったらオマエはさっさとブログをやめてしまえばいいではないか、と言いたい人もいるはずである。まったく反論の余地はないわけで、そう言われれば、確かにそうだと思う。
ただし、やりたいことをやる、というのも生き方の一つである。
つまり、客観的にはさして有意義な人生ではないにしても、本人がそれでいいと思っているのであれば、それはそれで一つの生き方なのである。わたくしはそのつもりで十数年にわたってブログを続けてきた。ただし、繰り返し言っておくが、決して有意義ではない。ゆえにこれを過大に評価するつもりはさらさらないのである。そんな自画自賛の自己評価に何の意味があるのか、何もありゃしない、というのが客観的な見方なのである。
話がかなり飛躍しているようだ。
宗門における本尊複製疑惑とは何を意味するのか、コメントを読む限りではわからない。そこで勝手に想像して書くわけだが、一つには戒壇の大御本尊の複製疑惑だろう。奉安堂に安置されているものは本物ではなく複製である、というウワサがある。もしそれが事実ならば、宗門が顕正会を責めるのはメクソハナクソだろう。しかし、そんなことはシモジモの法華講員が知る由もないことであり、確かめる術もないことである。ゆえにあくまでウワサのところで話が止まっているわけなのだろう。
そもそも熱心な法華講員がそのような疑いを持つことはないし、たとえ内心では思っていても恐れ多くて口には出せないのが普通だろう。逆に言えば、離脱者にはそうした足枷がないので、気楽に言えてしまうわけだ。
さらに深入りすると、戒壇の大御本尊の複製以前に、戒壇の大御本尊の真偽問題がある。これを言ったらそれこそ足掛け二十年とかの話ではなく、数百年来の疑惑ということになるのだ。
これまた法華講員にはベラボウに荷の重い話であり、逆に言えば離脱者だからこそ気軽に言及できる事案なのだろう。
そこで話が戻るのだ。
それを言ってどうするのかである。離脱者たちが正宗批判をする。その一つの事案として戒壇の大御本尊のことを云々する。先ほども言ったように、それが自分のやりたいことならば、それはそれで一つの生き方ではある。ただし、客観的には大したことではないのだ。ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎないわけであり、興味のない人から見れば、それがどうしたのか、というレベルの話なのである。
最初の学者同士の論争にしても同じである。学者だから多少は高尚な議論が行なわれているのかもしれないが、それとて興味のない人にとっては何の意味もない話なのである。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
難しい漢字が並んでいて書けと言われても書けない。しかし、今はありがたいことにわりと簡単に入力できてしまう。あまりにも有名な言葉なので、入力ソフトのほうで勝手に変換してくれるのだ。
意味は説明不要だろう。問題は誰が燕雀で誰が鴻鵠なのかである。
大聖人の御書にも類似の御表現がたくさんある。わかりやすい例は師子王と狐兎の比較だろう。あるいは日月と蛍火の譬えもわかりやすい。
ただし、これも自画自賛は無意味である。
いくら師子王だと嘯いたところで、客観的には狐兎に過ぎないとしたら、それこそ嘲笑の的だろう。わたくしの勝手なイメージを言わせてもらえば、燕雀安んぞ云々は自ら口にしてはいけないと思う。ようは心に思うべきなのである。あるいは助け舟で使うのが望ましい。
助け舟?
説明が難しいので困っているのだが、ようは自分で自分に当てはめて言うのではなく、励ましの意味で言ってあげるのが好ましい使い方だということである。
ある政治家が崇高な政治理念を持っていて、その実現の一歩として具体的な政策を立案した。ところが一人の賛同者もいなかった。なぜなんだ、これほど素晴らしい政策もあるまいと思うのだが、誰も賛成してくれない、君はどう思うかね? と秘書に尋ねるのだ。秘書いわく、先生、これはまさしく燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやではないですか、そこらの小者の政治家には理解できなくて当然なのですよ、先生は信念を曲げずに貫いて下さい、私はどこまでも先生について行きますから、と。
うまい例だったかどうかわからないが、ともかく自分で言っちゃったらオシマイのような気がするわけで、誰かに言ってもらったほうが具合がよさそうである。
安孫子師の自殺・・・
これについては前にも書いたが、その後、他の人の文章を読んだりしてさらに思いを深くしたところがあるので、少し書いておこうと思う。
すなわち樋田ビデオである。
氏は創価学会ないし顕正会への痛烈な批判を続けている。氏の作成したチラシには創価学会員には自殺者が多いという意味の記述がある。あるいは動画の中で、顕正会の幹部が自殺してしまったという話が出てくる。ところがここに来て日蓮正宗の僧侶が自殺してしまったわけである。もはやこれでは何も言えないはずであるが、いかがだろうか?
樋田氏は仏法世法の両面にわたって充実しているのだろう。それが自信たっぷりの物言いにもよくあらわれているように感じられる。そこがまた周囲の嫉み妬みを生むのだろう。
それはさておき、である。樋田氏は今回の一件について、どのように言及しているのだろうか?
まさか都合の悪いことには頬かむりをするみたいな、そんな姑息なことはしない人だとは思うのだが、何しろ氏の動画は膨大なので、どのような発言をしているのか、細かくは知らない。もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいものである。
須田さんは、御書を自分の都合のいい方面からしか拝せません。
これはお互いさまではあるまいか?
ともかく学者同士の論争ならば、我々のようなシモジモのズサンな議論とは訳が違うだろう。その意味で今後の推移を見守りたいと思う。
御宗門も同じじゃないんですか?
そしてこちらはまったくの別件である。ようするに顕正会には本尊複製疑惑があるわけだが、それは宗門も同じじゃないかというツッコミなのである。どのような意図でコメントしたのかがひじょうに気になるところだ。もし日蓮正宗批判のつもりならばおやめになったほうがよかろうと思う。わたくしの感触ではそういう人はロクな人生にならない。その意味であるが、これは宗門誹謗の罰である・・・などと言うつもりはまったくなくて、ようは時間のムダなのである。
つまり、わたくし自身の経験を言っているわけだ。
わたくしは十年以上もブログを続けている。しかし、結果的には時間の浪費に他ならないわけで、他にもっと有意義な過ごし方があったはずなのだ。
同様の意味で、法華講員だった人が離脱してから法華講のことをあれこれと書く、宗門のことを書く、当然ながら批判的なことを書くわけである。しかし、それは時間のムダであり、あまり有意義な人生とは言えないはずなのだ。
だったらオマエはさっさとブログをやめてしまえばいいではないか、と言いたい人もいるはずである。まったく反論の余地はないわけで、そう言われれば、確かにそうだと思う。
ただし、やりたいことをやる、というのも生き方の一つである。
つまり、客観的にはさして有意義な人生ではないにしても、本人がそれでいいと思っているのであれば、それはそれで一つの生き方なのである。わたくしはそのつもりで十数年にわたってブログを続けてきた。ただし、繰り返し言っておくが、決して有意義ではない。ゆえにこれを過大に評価するつもりはさらさらないのである。そんな自画自賛の自己評価に何の意味があるのか、何もありゃしない、というのが客観的な見方なのである。
話がかなり飛躍しているようだ。
宗門における本尊複製疑惑とは何を意味するのか、コメントを読む限りではわからない。そこで勝手に想像して書くわけだが、一つには戒壇の大御本尊の複製疑惑だろう。奉安堂に安置されているものは本物ではなく複製である、というウワサがある。もしそれが事実ならば、宗門が顕正会を責めるのはメクソハナクソだろう。しかし、そんなことはシモジモの法華講員が知る由もないことであり、確かめる術もないことである。ゆえにあくまでウワサのところで話が止まっているわけなのだろう。
そもそも熱心な法華講員がそのような疑いを持つことはないし、たとえ内心では思っていても恐れ多くて口には出せないのが普通だろう。逆に言えば、離脱者にはそうした足枷がないので、気楽に言えてしまうわけだ。
さらに深入りすると、戒壇の大御本尊の複製以前に、戒壇の大御本尊の真偽問題がある。これを言ったらそれこそ足掛け二十年とかの話ではなく、数百年来の疑惑ということになるのだ。
これまた法華講員にはベラボウに荷の重い話であり、逆に言えば離脱者だからこそ気軽に言及できる事案なのだろう。
そこで話が戻るのだ。
それを言ってどうするのかである。離脱者たちが正宗批判をする。その一つの事案として戒壇の大御本尊のことを云々する。先ほども言ったように、それが自分のやりたいことならば、それはそれで一つの生き方ではある。ただし、客観的には大したことではないのだ。ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎないわけであり、興味のない人から見れば、それがどうしたのか、というレベルの話なのである。
最初の学者同士の論争にしても同じである。学者だから多少は高尚な議論が行なわれているのかもしれないが、それとて興味のない人にとっては何の意味もない話なのである。
燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや
難しい漢字が並んでいて書けと言われても書けない。しかし、今はありがたいことにわりと簡単に入力できてしまう。あまりにも有名な言葉なので、入力ソフトのほうで勝手に変換してくれるのだ。
意味は説明不要だろう。問題は誰が燕雀で誰が鴻鵠なのかである。
大聖人の御書にも類似の御表現がたくさんある。わかりやすい例は師子王と狐兎の比較だろう。あるいは日月と蛍火の譬えもわかりやすい。
ただし、これも自画自賛は無意味である。
いくら師子王だと嘯いたところで、客観的には狐兎に過ぎないとしたら、それこそ嘲笑の的だろう。わたくしの勝手なイメージを言わせてもらえば、燕雀安んぞ云々は自ら口にしてはいけないと思う。ようは心に思うべきなのである。あるいは助け舟で使うのが望ましい。
助け舟?
説明が難しいので困っているのだが、ようは自分で自分に当てはめて言うのではなく、励ましの意味で言ってあげるのが好ましい使い方だということである。
ある政治家が崇高な政治理念を持っていて、その実現の一歩として具体的な政策を立案した。ところが一人の賛同者もいなかった。なぜなんだ、これほど素晴らしい政策もあるまいと思うのだが、誰も賛成してくれない、君はどう思うかね? と秘書に尋ねるのだ。秘書いわく、先生、これはまさしく燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやではないですか、そこらの小者の政治家には理解できなくて当然なのですよ、先生は信念を曲げずに貫いて下さい、私はどこまでも先生について行きますから、と。
うまい例だったかどうかわからないが、ともかく自分で言っちゃったらオシマイのような気がするわけで、誰かに言ってもらったほうが具合がよさそうである。
安孫子師の自殺・・・
これについては前にも書いたが、その後、他の人の文章を読んだりしてさらに思いを深くしたところがあるので、少し書いておこうと思う。
すなわち樋田ビデオである。
氏は創価学会ないし顕正会への痛烈な批判を続けている。氏の作成したチラシには創価学会員には自殺者が多いという意味の記述がある。あるいは動画の中で、顕正会の幹部が自殺してしまったという話が出てくる。ところがここに来て日蓮正宗の僧侶が自殺してしまったわけである。もはやこれでは何も言えないはずであるが、いかがだろうか?
樋田氏は仏法世法の両面にわたって充実しているのだろう。それが自信たっぷりの物言いにもよくあらわれているように感じられる。そこがまた周囲の嫉み妬みを生むのだろう。
それはさておき、である。樋田氏は今回の一件について、どのように言及しているのだろうか?
まさか都合の悪いことには頬かむりをするみたいな、そんな姑息なことはしない人だとは思うのだが、何しろ氏の動画は膨大なので、どのような発言をしているのか、細かくは知らない。もしご存知の人がいれば、ぜひともご教示願いたいものである。
2017/5/19 16:23
投稿者:沖浦克治
2017/5/19 12:07
投稿者:.
ストーカー????
己惚れるなよ。
ハエを叩きに来てるだけだ((´∀`))ケラケラ
己惚れるなよ。
ハエを叩きに来てるだけだ((´∀`))ケラケラ
2017/5/19 9:54
投稿者:沖浦克治
巌虎さん、おはようございます。
御書は拝する事が原則。
そして、拝し方は読む人の境涯に左右されます。
『方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、』
(曾谷入道殿御返事)
長文の引用となりました。
『仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり』
御書を大聖人の生き様の遺言の書と私は拝します。
日蓮と云う卓越した思想家であり実践家であられたお方の生き様。
御書を通じて日々学んでおります。
私には御書は学問ではありません。
生きて行くための指針です。
行者とはそう云う種類の人間だと信じておりますので。
御書は拝する事が原則。
そして、拝し方は読む人の境涯に左右されます。
『方便品の長行書進せ候先に進せ候し自我偈に相副て読みたまうべし、此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、』
(曾谷入道殿御返事)
長文の引用となりました。
『仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり』
御書を大聖人の生き様の遺言の書と私は拝します。
日蓮と云う卓越した思想家であり実践家であられたお方の生き様。
御書を通じて日々学んでおります。
私には御書は学問ではありません。
生きて行くための指針です。
行者とはそう云う種類の人間だと信じておりますので。
2017/5/19 9:17
投稿者:沖浦克治
ここにもストーカーがワイテル・・・・・
仕事ないのかな???
仕事ないのかな???
2017/5/19 8:32
投稿者:.
>師匠は池田先生ですが、その後は平等なんです。
魔無妙法蓮華経如来に優劣は無いんちゃうの?
それとも池田だけ特別か?
おっさんの本仏は池田でぇさくか?
魔無妙法蓮華経如来に優劣は無いんちゃうの?
それとも池田だけ特別か?
おっさんの本仏は池田でぇさくか?
2017/5/19 8:25
投稿者:.
>沖浦克治 :2017/05/18(木) 21:39:58 ID:GkHupZvE0
> 昨年12月初頭から悪戦苦闘しておりますが、既に交通費宿泊費などで60万円ほど使いました。
> 一昨日祈りました。
> 50万円入って来い!!
> 今日本当にあちらからやって来ました。
> 今恋女房、上機嫌で横でテレビ見てます。
> 創価の祈りって凄いです。
> 功徳〜〜〜!!!!
大町税務署の方たち見てますか〜〜〜〜
5月18日に50万円集金したそうですよ。
> 昨年12月初頭から悪戦苦闘しておりますが、既に交通費宿泊費などで60万円ほど使いました。
> 一昨日祈りました。
> 50万円入って来い!!
> 今日本当にあちらからやって来ました。
> 今恋女房、上機嫌で横でテレビ見てます。
> 創価の祈りって凄いです。
> 功徳〜〜〜!!!!
大町税務署の方たち見てますか〜〜〜〜
5月18日に50万円集金したそうですよ。
2017/5/19 8:22
投稿者:.
>沖浦克治 :2017/05/18(木) 21:39:58 ID:GkHupZvE0
> 昨年12月初頭から悪戦苦闘しておりますが、既に交通費宿泊費などで60万円ほど使いました。
> 一昨日祈りました。
> 50万円入って来い!!
> 今日本当にあちらからやって来ました。 > 今恋女房、上機嫌で横でテレビ見てます。
> 創価の祈りって凄いです。
> 功徳〜〜〜!!!!
10万円の赤字じゃんかwwww
> 昨年12月初頭から悪戦苦闘しておりますが、既に交通費宿泊費などで60万円ほど使いました。
> 一昨日祈りました。
> 50万円入って来い!!
> 今日本当にあちらからやって来ました。 > 今恋女房、上機嫌で横でテレビ見てます。
> 創価の祈りって凄いです。
> 功徳〜〜〜!!!!
10万円の赤字じゃんかwwww
2017/5/18 20:04
投稿者:マイケル
>日蓮正宗批判のつもりならばおやめになったほうがよかろうと思う。
そのつもりは毛頭ありません。
>ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎない
広宣流布を達成する為には、その辺をクリアにしなけ
れば、難しいのではないかと考えたからです。
そのつもりは毛頭ありません。
>ようするに世間を広く見た時には、しょせんは一宗派の問題に過ぎない
広宣流布を達成する為には、その辺をクリアにしなけ
れば、難しいのではないかと考えたからです。
2017/5/18 15:13
投稿者:.
>創価学会と云う所は幹部が上で会員が下と云う思想がないのです。
わかってないなぁ〜アホですね。
世間の信用度が違うという話ですわ。
アンタみたいな雑魚が須田さんの考えを否定する行為が
恥さらしだといっているんです。
弁えなさい。
わかってないなぁ〜アホですね。
世間の信用度が違うという話ですわ。
アンタみたいな雑魚が須田さんの考えを否定する行為が
恥さらしだといっているんです。
弁えなさい。
2017/5/18 14:14
投稿者:沖浦克治
須田さんは、
身延のご真筆に、私どもが拝む寛師書写のご本尊と同じ力用があるはずがない。
複雑な言い回しをされていますが、曼荼羅本尊に関してはこれが結論です。
そして、
他宗の信心に功徳を認めるなら。自分たちの信心の優位性が失われる。
そう云う事を云うのなら宗教全体を否定する事になり。
以前私どもは、
戒壇本尊のみに力用があり、たのご本尊はたとえご真筆であっても力用はない。
日蓮正宗は未だにこの教義を採用していますし、私どもも長い期間それでやってきました。
須田さんはそれを捨てることが出来ません。
宮田さんはさっさと捨て去られています。
私は以前から宮田さんとほぼ同じ考えです。
SGIは宮田さんとほぼ同じ思想です。
世界がSGIですので、近い将来創価学会の教義は宮田さんの方向へ進まざるを得ません。
須田さんは取り残されるでしょう。
身延のご真筆に、私どもが拝む寛師書写のご本尊と同じ力用があるはずがない。
複雑な言い回しをされていますが、曼荼羅本尊に関してはこれが結論です。
そして、
他宗の信心に功徳を認めるなら。自分たちの信心の優位性が失われる。
そう云う事を云うのなら宗教全体を否定する事になり。
以前私どもは、
戒壇本尊のみに力用があり、たのご本尊はたとえご真筆であっても力用はない。
日蓮正宗は未だにこの教義を採用していますし、私どもも長い期間それでやってきました。
須田さんはそれを捨てることが出来ません。
宮田さんはさっさと捨て去られています。
私は以前から宮田さんとほぼ同じ考えです。
SGIは宮田さんとほぼ同じ思想です。
世界がSGIですので、近い将来創価学会の教義は宮田さんの方向へ進まざるを得ません。
須田さんは取り残されるでしょう。
あれね、あなた・・・・・