2017/12/24

ナガスギ  
何やらコメントを読んでいると、マイケル氏が創価学会に入会しそうな雰囲気が漂っている。実に複雑な心境であるが、こればかりは本人の自由なので、これ以上の言及は控えたいと思う。

また、罰が出て喜ぶ云々について、罰で苦しんでいる人を救うのが宗教だという、きわめて常識的なコメントが寄せられた。これはまったくその通りであり、これには顕正会員たちも異論はないはずなのである。
ところが顕正新聞を読んでいると、相手に罰の現証が出たことを喜んでいるようなフシがあるので、拙ブログではそれを繰り返し指摘してきたわけである。
もっともこの喜ぶという精神構造について考えると、あるいは罰によって気がつくチャンスを得た、つまりは顕正会に入信するキッカケを得た、往いては幸せになるためのスタートラインに立てた、というような意味合いから喜んでいるのだとすれば、それほどおかしなことではないのだろう。
相手の不幸を見て喜ぶのは、ひじょうにおかしなことというか、仮に本心がそうだとしてもそれを表に出すのはきわめて幼稚なことである。

いずれにしても顕正会員は世の中のあらゆる事象を仏法で説明しようとするので、その最終形としては自ずと功徳と罰の二分法にならざるを得ないのだろうと思う。また、こうした思考自体がすでにして顕正会の活動にのめり込むための装置となっていて、何か悪いことがあれば罰だと解釈してもっと頑張って活動しないといけないと思い込むわけだし、良いことがあればあったでよりいっそう信心に励むことになる。さらに付け加えれば、ここに魔障という概念が組み込まれることもあるが、これもまた功徳と罰の応用に他ならない。二分法では単純すぎるので、少し複雑化しただけの話である。

しかし、ここまで書くと、オマエは大聖人の仏法を否定しているのか、というような反論が寄せられるかもしれない。

これについて釈明しておくと、表面的なことで功徳だとか罰だとか騒ぐな、というのが第一点である。浅薄なる功徳論・罰論、あるいは幼稚な功徳論・罰論と言ってもいいと思うが、そういうものはもはや現代人には通用しなくなってきているのだと思わないといけないだろう。ともかく功徳も罰も否定はしないが、それはもっと深い次元で捉えなければいけないことだと思う。もちろん答えとしては不十分である。ようはわたくし自身、よくわかっていないのが本当のところであり、今後の課題である。

もう一つ言っておくと、わたくし自身は日蓮正宗系無所属信徒という立場である。そこから見えるものは、教団ごとの自己都合解釈である。唯一の例外が沖浦氏であって、氏の場合はどこの教団に属していようが功徳はあると言っている。しかも日蓮正宗系に限らず、どこでもいいのである。さらには日蓮系に限らず、他の宗派でもいいのである。さらには仏教系に限らず、他の宗教にも功徳があると言っている。
しかし、今言ったように、これは例外中の例外であって、日蓮正宗系は他宗教に不寛容というのが一般的な認識であり、事実、そうなのだと思う。その最右翼が顕正会であるが、宗門も創価学会も五十歩百歩である。
たとえば樋田昌志氏がわかりやすい。氏の作るパンフレットには顕正会員や創価学会員の罰に苦しむ様子がよく表現されている。確か美大出身のはずで、あのエゲツナイほどデフォルメの効いたイラストは本人によるものなのだろうと思われる。
創価学会系ですぐに思い浮かぶのはフェイクである。これはもう謀略情報紙だけのことはあって、実にエゲツナイ。
顕正会は拙ブログで常々紹介している記事の数々を見ればよくわかるだろう。また、顕正会の内部にいた人であれば、いわゆる口コミ指導としてエゲツナイことがたくさん語られていることはよく承知しているはずである。

ここで思い切り上から目線で言わせてもらえば、もしかしたら日蓮正宗系のすべての教団が罰を受けているのではないか、ということになる。ようするに大聖人の立場からすれば、お前たちはいったい何をやっているのか、皆で力を合わせて広宣流布を目指さなければダメではないか、というふうに思っていらっしゃるかもしれないのだ。現状、各教団が信徒の獲得合戦をやっていて、日蓮正宗系の中で行ったり来たりしている人がいるけれども、それでは何の進歩もないだろう。なぜ大同団結を目指さないのか、なぜ大連立の発想が生まれないのか、むしろそこが日蓮正宗系の未熟なところである。

あるいは今のところ、ぜんぶを取りまとめるほどの実力を備えた大人物が存在しないということなのかもしれない。その意味でも日目上人の御出現が待たれるところなのだろう。

しかし、こんなテイタラクだから顕正新聞が溜まる一方なのだ。もちろん、これはわたくしの話である。そこで今日はもう少し頑張って、第1423号の残りを取り上げてみよう。

「三桁の供養をすれば四桁の功徳がある」

これは平成二十一年入会の男性婦人部員である。かなり時間が経っているけれども、なぜか男子部に移籍せずにいる。それはともかく彼は創価学会員時代に上掲のようなことを言われたそうである。これは凄い話だ。顕正会では上限があって、ようは一桁の供養しかできない。いちおう建前上はそのようになっている。ところが創価学会ではご覧のごとくなのだそうである。

しかし、これは話半分ということなのだろう。実際、そのような話があるのかもしれないが、あくまで話であって事実ではない。

以前、ネット上で創価学会の古参幹部の指導テープを聞いたことがある。確か戸田会長の側に仕えていた女性幹部である。彼女はそこで百万円供養しろとハッパを掛けていた。しかし、その場の雰囲気はひじょうに明るくて、彼女が百万円と言った直後に大爆笑が巻き起こるのである。それを聴いたわたくしの印象では、百万円は冗談なのだろうと思えた。もちろんお金持ちの人は百万円の供養をするのかもしれないが、それが創価学会における供養の相場というわけではなくて、無い人からむしり取るような、そういうエゲツナイことはしていないのだろうと思えたわけである。

それはさておき、次のくだりが疑問だった。

 私は中学生のころから母に連れられて学会の会合に参加しており、昭和五十二年には当時勤務していた東京の病院の同僚から折伏を受け、何の抵抗もなく池袋の常在寺で御授戒を受けました。

なぜに母親は彼を入信させなかったのかである。

 また創価班の御奉公ができることを誇りに思い、寝る間も惜しんで都内の会館や正本堂の衛護、少等部の指導に熱を入れ・・・

少等部は小等部の誤記か、もしくは創価学会特有の表現なのかもしれないが、ここで前掲の疑問が鮮明になるはずである。中学生の頃から云々である。当然、中等部があるはずだから、そうなると彼の母親がなぜに彼を入信させなかったのか、まるで理由がわからないのである。

つまり、こういう記事を載せるから創作だとかヤラセだとか言われてしまうわけなのだろう。編集部はそこをよく考えるべきである。

話は後半に移る。

広布以前に、何度も御開扉を重ねてきた恐れ多さに・・・

そんなにおかしな文章ではないのだが、顕正会員的な思考からすると何か悪いことをしてきたようなイメージになるので、そこが問題である。さらに問題は次のくだりだ。もはや彼が顕正会に染まっていることは一目瞭然であるが、話が支離滅裂に感じられるのも事実である。

 「本音を言うと戒壇の大御本尊様にお値いしたい。もう学会の言うことは信じられない。もう学会の言うことは聞かない!」

近所の創価学会員の発言だそうである。わたくしならば、だったら宗門に行くべきですね、と応えるところである。これで支離滅裂の意味がよくわかっただろう。

もう一つ、女子部第四十三区総班長の記事から、総班員のセリフを紹介しておきたい。

「顕正会は仏壇を買わせたりしないから良いね」

これは創価学会との比較である。単純に言うと、本尊の下付があるかないかの話なのだろう。創価学会では入信者に本尊を下付する。すると必然的に仏壇が必要になる。顕正会の場合はそれがないという話なのだ。

しかし、ここが顕正会の定着率の悪さの一端でもあるわけで、実は本部首脳もそれを理解しているフシがあるのだ。ゆえにかなり以前の話ではあるものの、経机の推進が行なわれたことがある。しかし、これはかなり中途半端というか、傍目にはケッタイな風景に映るかもしれない。その意味では失敗だったのだろう。そこで今、わたくし自身はその実態をほとんど知らないけれども、自宅拠点の名目で本尊の下付が行なわれているらしいのだ。もちろん入信早々のわけのわからない人に本尊を押し付けるようなことはしない。この点はしっかりと守られているとは思うが・・・

2017/12/30  7:37

投稿者:マイケル
>日蓮正宗系無所属信徒という立場

実際に、功徳を頂いた!って感じた事はありますか?

師弟は勿論、指導教師がいないという立場になると
思うんですが・・・。

2017/12/30  6:52

投稿者:(笑)
15年で二組(笑)

2017/12/30  6:36

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、おはようございます。

 今年もあと二日ですね。

 このところ毎日来客があります。

 今日はゲレンデでお二組と待ち合わせていて、ワックスのことやチュンナップを説明致します。

 お二組共フェイスブックでお近づきいただいた方々です。
 嬉しいです。

 実名ネットを15年少しやってきて時代は実名主流のネットになっています。

 私のその努力がドンドン開花して来ました。
 嬉しいです。

 功徳〜〜!!

2017/12/28  21:36

投稿者:おー!
掲示板は閑古鳥が鳴いていて、フェイスブックもいいね激減。
そしてこのブログも卒業ですか。
やった〜〜!
素敵!

2017/12/28  21:07

投稿者:マイケル
>少し説明致します。

その程度の事は、皆さんググッて調べますから説明は不要です。

このブログからも、卒業されるとの事。
お疲れ様でした。

2017/12/28  19:37

投稿者:マイケル
長者窮子の譬え(ちょうじゃぐうじのたとえ)

https://k-dic.sokanet.jp/長者窮子の譬え%EF%BC%88ちょうじゃぐうじのたとえ%EF%BC%89/

全然違ってますけど(笑)

2017/12/28  19:10

投稿者:沖浦克治
 少し説明致します。

 長者の息子は家出してさ迷って20年。

 自分が何処の誰であるかも忘れています。
 生活が苦しくて実家に何となく戻ってきます。

 これは、一切衆生が命の底で南無妙法蓮華経を求めていることを示唆しています。

 長者の姿を見て逃げる。

 最初は反対するのとおなじです。
 反対するが説得されて仕事にありつく。
 
 肥の処理とか掃除とかですが、普通の倍もらえるので大喜びする。

 小さい功徳でも嬉しい状態です。
 ですが、この小さい功徳が出ないなら、先には進めません。
 ここをキチンと押えないと、功徳のことはわかりません。

 池田先生が言われました。

 『小さい子供の悩みは、お菓子が食べたいようにチいい悩みです。
 お菓子を手に入れると解決します。
 悩みのサイズと満足の大きさは同じなんです。』
 皆様方もドンドン悩んで祈って、ドンドン大きな悩みで祈れるようにおなりなさい。』(主意)

 最後には長者の一切の財産が、本来自分のものであることが分かります。
 これは、

 駄目だ駄目だと思っていた自分が、本来は久遠からの南無妙法蓮華経如来であって、大聖人と寸分たがわない仏であることを悟ることです。

 ですが、最初の小さく独から入らない限り、この境地には到達致しません。

 だから、顕益が凄く大切です。
 顕益なくして絶対に冥益は手に入りません。
 

2017/12/28  18:59

投稿者:沖浦克治
 その姿に落胆した長者は、その男を目を覚まさせて解き放ち、自由にさせるように命じました。
 男はホッとして、出て行きました。

 長者は息子のことが忘れられず、使いを遣わしてこう話させます。
 『いい仕事があるけどやらないか。仕事は便所掃除やゴミ掃除だが他より倍の手当てが出るぞ』
 この話に飛びついた男は、長者の家に住み込みで下働きをはじめます。

 長者は自らも下働きに身をやつし、男と一緒に仕事をし、さまざまな話をしながらまじめに働き続けるように諭します。

 そしてしばらくして、男がきちんと仕事ができるようになると、長者のすべての財産を保管してある蔵の管理をまかせ出し入れも管理させるようにしました。

 男は長者の財産すべてを把握し、理解しましたがあくまでもそれは長者のものであり、自分には関係のないものだと思っています。

 さらに時がたち、長者は男の心から卑屈さもなくなり、自分の寿命も残り少ないことを知って、多くの人を招き、さらに男も呼んでこのように宣言します。

 『この子は実は私の子供です。20数年も前に離れ離れになっていましたが、この地で再会したのです。私の財産はすべてこの子のものなのです。』と!

 男は驚くと共に、長者が時間をかけて自らの心を整え、すべての財産を譲り渡そうと常に願っていてくれた事に気づき、心に大歓喜をおこして父親に感謝するのです。

2017/12/28  18:57

投稿者:沖浦克治
 長者窮子の例えです。

 幼い頃に父親のもとから家出して、20数年もあちこちをさまよいながら貧しい暮らしをしてきた男がいました。

 父親は我が子を捜し求めていましたが、遂に見つからずある町にとどまって生活し、そこで長者となり、豊かな生活を送っていました。

 しかし、その長者の心の中から幼いころに別れた息子のことが離れることはありませんでした。

 息子は日々の生活の糧を得るためにあちこちをさまよい続けましたが、いつのまにか父である長者が暮らす町へと足が向いていました。

 息子はその町に入ると、長者の家で生活の糧を得ようと様子を見に行きました。
 ところが陰から長者の様子を窺うと、あまりにも高貴であり自分とはかけ離れた様子に驚いてしまい、『ここは私のような者がくるところではない、もう少し身近なところで稼ごう。ぐずぐずしていると無理やり捕まえられて強制的に働かされるかもしれない。』と逃げ出そうとします。

 長者はその男の姿を見ると、一目で家出した息子であることに気づきました。
 そして使いのものにその男を連れてくるように命じます。
 ところが男の方は、捕まえに来たと思い込み、驚きのあまり気絶してしまいました。

2017/12/28  18:53

投稿者:沖浦克治
 巌虎さん、

>功徳も罰も否定はしないが、それはもっと深い次元で捉えなければいけないことだと思う。

 功徳と罰ですが、大聖人仏法では、

 『大菩薩能く受用す譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」』
 (真言見聞)

 とあるように、固定されたものではなく、罰を因として功徳を出すことが出来ると説かれます。

 当然この反対の現証も同じだけあって、功徳を受けて慢心しそれを因として罰を出すこともあります。
 本因妙の怖さですね。

 本因妙だから素晴らしいのではなく、因を本として祈って闘って功徳を出し、成仏(人間革命、宿命転換)を勝ち取る。
 
 これが素晴らしいのです。
 反対に、罰に沈んで不幸な人生となる可能性もあります。

 罰即功徳と言いますが、当然、功徳即罰もあり得ます。

 功徳にも浅い深いがあって、長者窮子の例えに明らかです。
 長くなりますので、コメントを改めます。

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